第四十四話
朝の光がゆるやかに満ちていく。
パレアの頬を、そっと風が撫でた。それすらも、流れの一つとして、水のアポストルの誕生を祝福しているかのようであった。
静かに、水面が揺れる。
そして——そこに立っていた。
白銀の装束。青黒く光る目。長い白髪は綺麗に整えられていた。ヒュラテスを統べる治水院の長、ミシェル・カミネの姿がそこにあった。
「……ここに、いたか。パレア・ブラックブリッグ」
低く、けれど澱みのない声が降る。崩れた庵を一瞥し、静かに歩み寄ってくる。
ダインとルリムは、見慣れぬ人間に思わず身体を固くした。だがミシェルは彼らに目もくれず、ただパレアへと向き合った。
パレアは、膝をついたまま、かすかに笑った。
「……来てしまったのね。まだ、朝靄も晴れぬうちに」
「この国に神の獣が現れた。その兆しがあった時点で、動かぬ理由はない」
彼の背後には、複数の治水院兵の姿があった。青を基調としているが、炎をあしらった装飾が、グラヌスクの支配下であることを示している。だが、誰も武器を抜こうとはしていない。
「アドラス・ロスヴァルトの撤退、そして——ウ=クァリスの消失」
ミシェルの視線が、ようやくダインに向いた。
「この地に“雷”がいたことは……すでに察している」
ダインの喉が、ひとつ鳴った。パレアが庇うように立ち上がる。
「彼らは、“水”を護った。ヒュラテスを護ったのよ」
「……理解している。だが、それでこの出来事を帳消しにするわけにはいかぬ。グラヌスクが黙ってはいまい」
ミシェルの声音に、怒気はなかった。ただ、覚悟があった。
「パレア、君が彼らに与した理由は、すでに見届けた。……それに、君が“選ばれた”ことも」
パレアの瞳がわずかに見開かれた。
ミシェルは息を吐き、空を見上げる。雲が晴れ、朝日が差し込んでいた。
「この先、ヒュラテスは揺れる。……ここに残れば、グラヌスクから兵が雪崩れ込み、多くの血が流れることになるだろう。」
「……」
「私はグラヌスクの人間だ。」
ふ、と口端に微笑を浮かべる。
「しかし、同時にこの地に生まれ育ち、そしてこの地を治める者だ。諸君が何者であれ、結果としてこの国を守ってくれたことに、謝辞を述べよう」
ミシェルは背を向けた。
「昼に、定時報告がある。調査資料をまとめ、“雷”と“氷”について本国へ通達を行わねばならない。夜には先遣隊がこの地へ到着する。時間が惜しいというわけだ。話は以上」
兵たちも、それに続く。誰も剣を抜かぬまま、彼らは山を下っていった。
風が吹く。
パレアは、黙ってその背を見送っていた。そして、ぽつりと呟いた。
「——この国は、まだ、終わっていない」
白く輝く水面が、彼女の足元でさざめいた。
そしてダインもまた、その光に向き直る。
「行こう」
ルリムが、自嘲気味に笑う。
「困ったな、また、おぶってもらうことになりそうだ」
風が吹く方へ。水の流れの続く先へ。




