第四十話
霧は完全になくなった。音もなく、しかし確かに、空気の密度が変わっていた。
パレアが静かに息を呑む。ダインの隣で、雷の気配が細く震える。
空間の中心——そこに、“それ”はいた。
波打つような水の膜が重なり、流線形の巨躯が現れる。
霧と水が剥がれるたびに、その姿が露わになっていく。
それは鯨にも、蛇にも、猛禽類にも似ている。
けれど、そのどれでもない。
「……ウ=クァリス。はるか昔、水のアポストルと神が、“敵”を排除する機能として生み出したヒュラテスに遺した、水獣」
パレアが、その名を口にした。
それは御伽話に語られる存在。今それと対峙している。
ウ=クァリスの体表に、水が逆流する。
体表の紋様が一つ一つ、発光を始めた。
まるで、目覚めたばかりの意志が、自らの形を確かめるように。
「これが、完全な姿……!」
パレアが呟く。
ウ=クァリスの瞳が、動く。
ダインを——まっすぐに、見た。
怒りではない。
憎しみでもない。
ただ静かに、“排除するべき対象”を見定める眼差しだった。雷。闇。水ではない創霊力の持ち主を、ウ=クァリスは捕捉していた。
「……パレアさんを、こいつは襲わない。僕が一人で戦う」
ダインが言った。
彼の声に、恐れはなかった。
それでも、確かに緊張は走っていた。
パレアがすっと手を伸ばし、彼の肩に触れる。
「合わせて。水は流れ、雷は轟く。異なるはずのものが交わる時、世界は一瞬だけ、均衡を得るの」
左腕を掲げる。
術式が走る。水が空中に紋様を描き始める。
「断章一番——【水脈交わりて、雷を導け】!」
術式の中心から、渦のように雷の粒子が吸い寄せられ、ダインの創霊とパレアの水が、ひとつに重なる。
螺旋が生まれた。
空気が震え、地が鳴る。
ウ=クァリスの足元にあたる水面が隆起し——
それは、跳んだ。
水を蹴り、雷を裂き、大気を割って。
ウ=クァリスの巨体が、跳ねるようにして突進してきた。しなやかな筋肉と流線の鰭脚。音を置き去りにする速さ。その身にまとっていた霧が、爆ぜるように四方へ散る。
「来る!」
パレアが叫ぶより早く、神の獣が地を蹴った。
圧倒的な質量と速度。空間そのものが打ち据えられるような衝撃。
「ダイン、跳べ!」
その声に応じて、ダインが雷を纏って跳躍する。
刹那の間に、ウ=クァリスの前肢が庵を抉った。
水と土が巻き上がり、巨大な水柱となって宙へ突き上がる。
回避は成功——しかし次の一撃がすでに振りかぶられていた。
「動きが……速すぎる……!」
ただの獣じゃない。
その身に宿る“秩序”の意志が、動作一つ一つに「意味」を持たせている。
敵は、“守る”ために“殺す”ことを史上目的とした存在。
「だったら、こっちも——!」
雷が放たれる。
踏み込みとともに、足元から稲妻が弾ける。
一閃。
雷光が尾を引きながら、ウ=クァリスの右前肢に直撃。
だが、ひるまない。
衝撃を流す。
まるで水のように、力を分散させることで致命打を避けていた。
「……っ、効いてるのに……」
「通ってる。でも、足りない!」
パレアが術を重ねる。
雷の通り道を延ばすように、水が絡みつき、敵の“内側”へと侵入する。
——その瞬間、音もなく空気が破裂した。
ウ=クァリスの喉奥から放たれたのは、音波ではない。
“共鳴”だった。
空間そのものが押し潰されるような、無音の衝撃波。
ダインの足元が崩れる。
咄嗟に闇の盾を展開する。
だが、その盾ごと吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
背中から地に叩きつけられ、肺が悲鳴を上げる。
視界が揺れ、パレアの姿が遠ざかる。
そして、ウ=クァリスが跳躍した。
“落ちてくる”。
それはただの着地ではない。
質量と意思を込めた、“終わらせる”ための攻撃。
「式号十三番——【天を衝く、円環の逆転】!」
パレアが手を伸ばす。術式が展開される。
水の柱が空へ突き上がり、落下する神の巨体を逸らす。
だが、着地の衝撃は避けられない。
地が爆ぜる。
大気が砕ける。




