第三十八話
視界が白に満たされる。空気の質感が変わる。地に立つ感覚も、声の届く距離も、すべてがあやふやになっていった。
そして次の瞬間、彼の足元が“消えた”。
ふわりと、宙に浮いたような感覚があった。
落ちるでもなく、登るでもなく——ただ、“運ばれている”。
※
何秒か、何分か、はたまた何年も後か。時間感覚の曖昧な白い霧の中で、ひとつだけ、輪郭を持った風景が滲み始める。
それは、覚えている。いや、忘れかけていた光景だった。
——ダインの暮らしていた、クランヌ村の小川のほとり。
焚き火が燃えていた。
空は濃い藍色で、星がいくつか瞬いている。夏の終わり。風が少しだけ湿っていた。
その焚き火の向かい側に——
リンがいた。
「ねえ、もし私が神様だったらさ——」
いつもの、ちょっとふざけたような口調。でも、その声には確かな温度があった。
ダインは言葉を返せない。ただ、見ていた。あの夜のまま、風景の中の“自分”が何を思っていたのかを、もう一度なぞるように。
「ダインのこと、絶対に選ぶと思うよ」
火がぱちりと音を立てる。リンは笑っていない。ただ、まっすぐに言った。
「だってダインって、ぜんぶ自分で背負おうとするでしょ? 誰にも見せないで。怒られないように、ちゃんとしようとしてさ」
焚き火の光が、揺れる。ダインの影が細くなった。
「でも私、知ってるよ。ほんとはすごく、さみしがりで、不安で——でも、誰かを守りたいって思ってる人なんだって」
“記憶の中の自分”が、言葉を返した。
「……リン。もし、僕が“違う”って言われたら、どうする?」
その問いに、リンは少しだけ黙って、それから言った。
「私が一緒にいるよ」
夜の静けさの中、リンの声だけが響く。
「どんな神様でも、どんな儀でも、そんなの関係ない。私は、ダインが“ダインでいてくれる”なら、それでいいんだよ」
風が、焚き火の煙を運んでいく。
霧がゆっくりと、記憶を閉じようとする。
けれど、ダインはその言葉に、しがみつくように立ち尽くしていた。
「……僕は、守れなかった。リンを……日常を……」
呟きが、霧に吸い込まれて消える。
そのときだった。
耳元で、別の声がした。
低く、穏やかで、どこか“底”の方から響いてくるような声。聞いたことのある、柔らかい声。
——痛みを、流れに還せ。
ダインの視界に、漆黒の波が広がった。
深奥から、光とは逆の力が、静かに、けれど確かに“近づいて”くる。
リンの姿が、霧の向こうに溶けていく。
「ねえ、もし私が神様だったらさ——」
もう一度、声が響いた。
ダインは目を開けた。
世界が、変貌する。




