第三十七話
霧の向こうで、水音が爆ぜた。
何かが、足元からせり上がるような感覚――それは実際に水が湧いたのではない。
空間そのものが、波打っていた。
「くっ……!」
パレアは庵の縁を飛び出し、外に広がる霧へと身を滑らせた。
視界は白く、呼吸するだけで肺に湿気が溜まる。だが、それはただの水蒸気ではなかった。
“意思”があった。
生きている――この霧は、“何か”の一部なのだ。
その中で、パレアは両手を広げ、水の気配を一点に集める。
「式号十七番——【澱の目、開け】」
低く、柔らかな水音が弾け、霧がその中心から弾かれる。
その一瞬だけ、視界が晴れた。
そして、そこに“それ”はいた。
まだ完全な姿ではない。だが確かに、そこに存在している。
水と霧の奔流が重なり合い、空間の一点に密集している。巨大な鯨のような輪郭、魚のような鱗、そして龍のような気高さ。
けれどそのどれにも当てはまらない、“異質なもの”。
「……やっぱり、あなたは“神”の近くにいた」
パレアの目が細まる。
霧の渦が応えるように動いた。鋭い圧が走る。大気が揺れ、霧がうねる。
ウ=クァリスが“視た”のだ。
パレアを、そして庵の奥——雷を携えた少年を。
「来る……!」
水が先に動いた。
大地を這うようにして、冷たい奔流が一気に庵を目指して駆け上がる。
パレアは即座に両腕を交差させ、式号を重ねた。
「式号八番、二十一番——【波よ、選りて逸らせ、流れを堰き止める、逆巻く盾】!!」
霧が割れ、水と水が激突する。
庵を守る形で、青白い壁が立ち上がった。
けれどそれは、一瞬しか持たなかった。
盾の裏側から、霧が染み出すように侵食してくる。
「……“守り”の術が、通じない……?」
そのとき、扉が内側から開かれた。
「パレアさんっ!」
ダインが、庵の中から飛び出してきた。
彼の視界に飛び込んだのは、波打つ霧と、その中心にうごめく“巨大な影”。
脳が、本能的に理解する。
それは、“生きた水”だった。
そして、その水は——明確に、自分たちを“排除”しようとしている。
「——これが、封印されていた……!」
口にした瞬間、霧がざわりと揺れた。
応えたのだ。
“理解された”ことに、反応した。
パレアが叫ぶ。
「ダイン、下がって——それは、あなたじゃ止められない!」
だが、霧はもう止まっていなかった。
この“流れ”は、もう後戻りできない。
霧が、ダインを包んだ。
次の瞬間——
視界が白に染まる。
音が遠ざかる。重力が消える。
そして、足元が崩れ——
ダインは、“記憶の底”へと引き込まれていった。




