第三十六話
水面の底から這い上がる気配。
そして、その吐息のようなものが、そっと世界に触れはじめているのを。
霧が生まれ出る。
はじめは水盤の縁から、ごくわずかな白。
しかしそれは、まるで音もなく喉を鳴らすように、ひと息、またひと息と、底知れぬ場所から吐き出されていた。
パレアは一歩、後ろへ引いた。
視界を満たし始めるその霧は、ただの水蒸気ではなかった。
気温は変わらないのに、体温だけが奪われていく。
これは、空気の中に“水”がいるのではない。
“水”の中に、空気が取り残されているのだ。
息を吸うたび、肺が濡れる。
喉が冷える。
内臓の形が、霧の内側からなぞられているようだった。
床の上に、滲むような模様が広がっていく。
誰も踏んでいないはずの場所に、水の輪が残る。
だが、それは滴り落ちたものではなかった。“足跡”だった。
水は歩いていた。もう、とっくに。
——歩いていたのだ。
パレアは、言葉を失ったまま庵の戸口へと向かった。
柱が鳴る。木が湿気を吸い、きしむような音がする。
それすらも、生き物の関節のように感じられた。
神域が、満ちていく。
水が、空気の理を塗り替えながら、夜に“呼吸”していた。
そして——
霧の向こうで、水音が爆ぜた。
何かが、足元からせり上がるような感覚——それは実際に水が湧いたのではない。
空間そのものが、波打っていた。
「くっ……!」
パレアは庵の縁を飛び出し、外に広がる霧へと身を滑らせた。




