第三十四話
——ヒュラテス治水院・夜半。
水文の静脈をなぞるように、霊波の記録が天井まで広がる観測室の一角。
水を、国を治めるその長官、ミシェル・カルネは、新たに届いた報告を黙して見下ろしていた。几帳面に撫で付けられた、長い白髪の一房が、顔の前に垂れ下がる。
「——アドラスが退いた理由が、ようやく腑に落ちたな」
彼の前に立つのは、最古参の観測士。
眉間に皺を寄せ、手元の巻紙を指でなぞる。
「霊力測定によると、現地には三つの異なる波長が重なっていました。ひとつは……“水”、高濃度かつ流動的、反応形式から見て『式号詠唱』を使用」
ミシェルは結論を、知っている。この地に数百年続く、とある一族の末裔。観測士はそれを知らずか、淡々と続ける。
「該当する人物は、おそらく——パレア・ブラックブリッグでしょう」
カルネは椅子の背にもたれたまま、薄く口元を歪めた。
「だが、問題は残るふたつだ」
彼の視線が、巻紙に刻まれた創霊力の歪みに向かう。
ひとつは、極めて不安定な電磁波形。もうひとつは、大きく測定を振り切るほどの、凄まじい力。
「……雷と、もうひとつはそのあまりの大きさによる測定不能……氷だな」
ヒュラテスの人間でそれを知らぬものは、中枢まで届く『灼域』の熱気に当てられて昏倒したか、怯えて布団に頭を隠したもの以外にいるまい。
国すら潰さんとする規模の、氷塊。
カルネは手元の水盤をひと撫でする。
その表面に、黒く渦巻く“空白”が、ほんの一瞬だけ映ったように思えた。
「アドラスを退けたのは三人。そのうち一人は、式号と水文を操る“あの女”……。ならば、残る二人のうち、雷を放った者は若い男」
静かに、だが確信を持って言い切る。
その直感には、過去幾度もの分析と実戦経験が裏打ちされていた。
「……そして、もう一人の女は——」
その瞬間、扉が激しく叩かれた。ひとりの吏官が、青ざめた顔で駆け込む。
「長官、先ほどの封印区域より、新たに強烈な波動!」
夜の治水院に声が反響する。
「水文霊盤が、記録不能なほどの力を示しました……!」
部下の手には、焦げ跡のような痕を残す観測札。
ミシェルは無言でそれを受け取った。
「……あれが動いた、か」
水獣、ウ=クァリス。
かつてパレアの祖先が神と共に創り、そして封じたとされる存在。今、その眠りから再び目覚めようとしている。
そしてその“鍵”をこじ開けたのは、明らかに、パレアだけではない。
「……彼らは災害ではない。予測不能な異物であり、同時に——」
彼は観測札を水盤に沈める。
重く沈んだ札が、波紋一つ生まずに消えた。
「——戦略的変数」
カルネは、静かに立ち上がった。
瞳に宿るのは恐怖でも怒りでもない。ただ、制御への意志。
「すべての流れが乱れる前に治める。“治水”とは、そういう仕事だ。」
そう言い残すと、治水院の壁と同じどこまでも白い長官服を翻し、扉の向こうの闇に消えていった。




