第三十三話
ヒュラテスの片隅、水脈に隠された庵——詠泉は、静けさと流れが交差する、異質な空間だった。
戦いの熱は冷め切った。水が絶え間なく流れ、夜の空に陰りはなかった。
庵には、三人の影。戦を終えた者たちの、言葉少なな静寂が横たわっていた。
パレア・ブラックブリッグは、庵の奥の水盤に手を浸している。揺れる水面の奥には、過ぎた時と、聞こえなかった声の残響が眠っていた。
「……聞いたことはないのだよ。神の声を」
ぽつりと、誰にともなく彼女は語る。その声は、月の光に溶けるようにして静かだった。
「選ばれた家系に生まれた。アポストルの名を継ぐべく、教えられ、鍛えられ、信じた。けれど、神は私を見なかった。私には、何も語らなかった」
水面がひとつ、泡を弾く。ルリムが奥で眠っている。その横で、ダインが膝を抱えて座っていた。彼はまだ眠らず、パレアの言葉を静かに聞いていた。
「それでも私は、水に祈った。何度も。やがて、声の代わりにこの身に残ったのは、術だった。式号と、流れの理。それを神の祝福と呼ぶには、少しばかり、さびしいだろう?」
パレアは微笑んだ。それは、長く抱いた祈りを抱き締めてきた者だけが浮かべる、優しい諦念だった。
「けれど、それでも構わなかった。私は神の代弁者にはなれずとも、水と共に在ることを選んだ。……私の信仰は、きっと声ではなく、かたちなのだろう」
水盤から立ち上がった彼女は、そっと掌を前に差し出す。
「式号十五番——【痛みを濯ぐ、癒しと綴る】」
傷はまだ新しく、熱を帯びていた。アドラスの残した灼痕。しかしその上に滑った水は、まるで夢のように、痛みを和らげていく。
「……ありがとう」
ダインの小さな声に、パレアはふっと目を細めた。
「礼は無用。これは神意ではなく、私の意志だよ。
私は祝福された者ではなく、ただ“流れに触れられた者”にすぎない。だがそれで十分だ。私が癒すべき者の前に、水がある限り」
「あの、パレア」
ダインが尋ねる。
「神の代弁者ってなんなの?」
ルリムはすでに横になり、薄く寝息を立てていた。彼女は言葉では多くを語らないが、安堵はその寝顔ににじんでいた。
「君は知らないのね。神は創霊力を私たちに授ける存在。この世に直接関わることを許されない、高次の存在。属性の全てに神はおわし、その意思を受け取るのが代弁者さ。」
パレアは再び水盤に向き直る。月光の中、水が淡く揺れていた。
「強い創霊力を持ち、さまざまな姿をした神と言葉を交わすことを許された、時代に唯一の人間。」
かつて神が語るはずだった声の代わりに、彼女は今日も、流れの気配に耳を澄ます。
「神よ。私は、まだあなたを憎んではいない」
それは祈りではなく、ひとりの人間の呟きだった。
夜は深く、そして静かだった。




