第三十二話
灼熱の霧が、ゆっくりと晴れていく。
濃い水蒸気の幕を貫いて、ひとつの影が立ち尽くしていた。
アドラス・ロスヴァルト。
燃え残る戦場の只中に、変わらずそびえる巨躯。その左半身の鎧は、深く砕け、裂け、黒く焦げていた。
露出した皮膚には、複雑な火傷と冷気による裂傷が重なっている。蒸気が肌を這い、血と汗の境界が溶けかけていた。
彼は、その場で動かず、目だけを落とした。
地に転がるのは、自らの鎧の破片。
鍛え抜かれた鋼鉄に幾重もの加護と熱封の術式を重ねた、灼域の“殻”。
それが、砕かれていた。
「……割れたか」
呟いた声には驚きも怒りもなかった。
むしろ、ひどく落ち着いていた。感情というより、“確認”のような響きだった。
息が少しだけ荒い。
だが、それは痛みではなく、久々に心が熱を帯びていた証だった。
「届いた」
戦場で、これほどはっきりとした“接触”を受けたのは、いつ以来だろうか。
斬撃でもなく、衝撃でもなく、術式でもない。意志がぶつかってきた。
氷の女が放った最後の一撃。
あれは、止めるための技だった。
殺すでも、逃げるでもなく——「終わらせに来た」のだ。
「……面白ぇ」
ぽつりと漏れた声に、苦笑が混じる。
頬を引き攣らせるような笑みではない。
何かを見届けた者だけが浮かべる、静かな笑み。
足元に、砕けた氷の欠片が広がっている。
周囲には、まだ霧のような冷気が漂い、焼けた街の傷跡を薄く覆っていた。
あれほどの熱を放っていた自分の灼域が、今やかろうじて保たれている程度。
“このまま続ければ、確実に勝てる”
それは事実だった。
創霊力も体力も、まだ底には程遠いない。剣もある。相手の術者たちは限界寸前。あの少女ももう一撃は撃てないだろう。
だが、アドラスはその場に踏み止まらなかった。
背中を向けた。
——なぜか。
それは、“勝てる”からこそだった。
このまま勝ってしまえば、次はない。
少年はまだ未熟。
水遣いの女は、まだ全力の構築を見せていないだろう。
氷の娘だけが、今、ようやく届いた。
ならば、ここで焼き切るのは、もったいない。
戦士としての直感が、そう告げていた。
「次だ。次が見てぇ」
思考は静かだった。燃えるのは内側だけ。
焦りもない。むしろ、久しく味わえなかった愉悦すらあった。
破れた鎧の下、肩の筋肉がぴくりと震える。
痛みはある。重みもある。だが、それが心地よかった。
「……あの氷、次に見たらどうなる?」
あの連携が、さらに磨かれたら。
あの雷が、“閃き”ではなく“一撃”となる日が来たら。
水の術者が、完全に場を制圧してきたら——。
その時が、本番だ。
アドラスはゆっくりと、焼けた地を歩き出す。
風が吹いていた。灼熱のあとの静かな風。
その風が、遠く、街の中心から“別の脈動”を運んできていることに——彼は気づかなかった。
地面が、ほんの少しだけ鳴っていた。
水が流れ込んでいた。
けれど、アドラスの熱はその気配に反応しなかった。
それは、“静かすぎた”のだ。
彼のような“灼き尽くす者”の感覚では、捉えられない静けさ。
流れ、巡り、秘められた胎動。
それは、彼にとって“存在しないもの”と同じだった。
アドラスは、振り返らずに歩き続けた。
背中に、もう戦意はない。
だが、彼の中にある熱は冷めやらなかった。
「次で終わらせてやるよ」
誰に言うでもなく、誰に届くでもなく。
ただ、風に混じる熱の中へと、言葉が溶けていった。
こうして、戦士は去った。
——何かを目覚めさせたことに、気づかぬまま。




