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冥闇不道のアポストル  作者: 茅井 祐世
第三章 水都を灼く
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第三十二話


 灼熱の霧が、ゆっくりと晴れていく。


 濃い水蒸気の幕を貫いて、ひとつの影が立ち尽くしていた。


 アドラス・ロスヴァルト。


 燃え残る戦場の只中に、変わらずそびえる巨躯。その左半身の鎧は、深く砕け、裂け、黒く焦げていた。


 露出した皮膚には、複雑な火傷と冷気による裂傷が重なっている。蒸気が肌を這い、血と汗の境界が溶けかけていた。


 彼は、その場で動かず、目だけを落とした。


 地に転がるのは、自らの鎧の破片。


 鍛え抜かれた鋼鉄に幾重もの加護と熱封の術式を重ねた、灼域の“殻”。


 それが、砕かれていた。


 「……割れたか」


 呟いた声には驚きも怒りもなかった。


 むしろ、ひどく落ち着いていた。感情というより、“確認”のような響きだった。


 息が少しだけ荒い。


 だが、それは痛みではなく、久々に心が熱を帯びていた証だった。




「届いた」


 戦場で、これほどはっきりとした“接触”を受けたのは、いつ以来だろうか。


 斬撃でもなく、衝撃でもなく、術式でもない。意志がぶつかってきた。


 氷の女が放った最後の一撃。


 あれは、止めるための技だった。


 殺すでも、逃げるでもなく——「終わらせに来た」のだ。


「……面白ぇ」


 ぽつりと漏れた声に、苦笑が混じる。


 頬を引き攣らせるような笑みではない。


 何かを見届けた者だけが浮かべる、静かな笑み。


 足元に、砕けた氷の欠片が広がっている。


 周囲には、まだ霧のような冷気が漂い、焼けた街の傷跡を薄く覆っていた。


 あれほどの熱を放っていた自分の灼域が、今やかろうじて保たれている程度。


 “このまま続ければ、確実に勝てる”


 それは事実だった。


 創霊力(アフレイタス)も体力も、まだ底には程遠いない。剣もある。相手の術者たちは限界寸前。あの少女ももう一撃は撃てないだろう。


 だが、アドラスはその場に踏み止まらなかった。


 背中を向けた。


 ——なぜか。


 それは、“勝てる”からこそだった。


 このまま勝ってしまえば、次はない。


 少年はまだ未熟。


 水遣いの女は、まだ全力の構築を見せていないだろう。


 氷の娘だけが、今、ようやく届いた。


 ならば、ここで焼き切るのは、もったいない。


 戦士としての直感が、そう告げていた。


「次だ。次が見てぇ」


 思考は静かだった。燃えるのは内側だけ。


 焦りもない。むしろ、久しく味わえなかった愉悦すらあった。


 破れた鎧の下、肩の筋肉がぴくりと震える。


 痛みはある。重みもある。だが、それが心地よかった。


「……あの氷、次に見たらどうなる?」


 あの連携が、さらに磨かれたら。


 あの雷が、“閃き”ではなく“一撃”となる日が来たら。


 水の術者が、完全に場を制圧してきたら——。


 その時が、本番だ。






 アドラスはゆっくりと、焼けた地を歩き出す。


 風が吹いていた。灼熱のあとの静かな風。


 その風が、遠く、街の中心から“別の脈動”を運んできていることに——彼は気づかなかった。


 地面が、ほんの少しだけ鳴っていた。


 水が流れ込んでいた。


 けれど、アドラスの熱はその気配に反応しなかった。


 それは、“静かすぎた”のだ。


 彼のような“灼き尽くす者”の感覚では、捉えられない静けさ。


 流れ、巡り、秘められた胎動。


 それは、彼にとって“存在しないもの”と同じだった。


 アドラスは、振り返らずに歩き続けた。


 背中に、もう戦意はない。


 だが、彼の中にある熱は冷めやらなかった。


「次で終わらせてやるよ」


 誰に言うでもなく、誰に届くでもなく。


 ただ、風に混じる熱の中へと、言葉が溶けていった。


 こうして、戦士は去った。


——何かを目覚めさせたことに、気づかぬまま。

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