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冥闇不道のアポストル  作者: 茅井 祐世
第三章 水都を灼く
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第二十六話

 異変が起きたのは——ほんの一瞬のことだった。


 それまで雪の夜のように澄んでいた空気が、さっと影が差したように変容する。そして突如、風のないはずの地下の水面が、激しく波立った。


 「……なんだ?」


 原因は、すぐにわかった。空気が“熱を孕んで”いた。ここは地の底、太陽など届くはずのない場所だ。けれど確かに、肌がじりじりと焼けるような感覚があった。


 ルリムは眉をひそめ、氷の創霊力(アフレイタス)が反射的に周囲の温度を下げる。

 でも、それでもなお、感じる。遠くで、巨大な心臓が脈打っているような熱の波を。


「ナヴィスさん……これって?」


 ダインの問いに、ナヴィスは水盆を見つめたまま答えなかった。いや、答えられなかったのかもしれない。


 その視線の先——水盆の水が、逆巻きはじめていたのだ。まるで、地下の水脈そのものが“怒っている”かのように。


 「これは……外から来ているものです。招かれざる何か、それもとてつもない力を持った何かが……この地に侵入してきました」


 ナヴィスの声は震えていた。

 今までの冷静沈着な様子とは違って、明らかな恐怖があった。ルリムが、水盆に目を凝らしながら小さくつぶやく。


「水が抗おうとしているね。まるでそれを知ってるみたいに」


 重圧はどんどんとその勢いを増す。まるで、この国そのものを揺るがすような存在。



 ——そのときだった。


 水盆の底が、“鳴いた”。

 音ではない。感覚だった。

 水の底から、何かが“目覚めかけて”いた。


 ナヴィスが叫ぶ。


「だめです! これは……このままだと、封印が——!」


 彼の言葉を最後まで聞くことはできなかった。

 鼓膜の内側を焼かれるような衝撃が、地下水路に響いたからだ。


 都市のどこか、遥か上方で、何かが砕けたような音がした。


 “それ”は来ていた。


 「……もう、ここにはいられません」


 ナヴィスが、かすかに震える声でそう言った。


 水盆の波は未だおさまらず、まるで何かが“上に向かって昇ろう”としているようだった。

 その中心にあるのは、名前すら持たぬ“静けさ”の奥。

 長い間、閉じ込められていた何か。


「……ここに何があるんですか?」


 ダインの問いに、ナヴィスは答えようとしなかった。けれどその沈黙が、何よりも雄弁だった。


 「なんとなく、わかるよ」


 ルリムが僕の隣で、低く言った。

 氷の気配をまとったその横顔は、どこか“戦う者”の顔をしていた。


 「ここには、“目覚めてはいけないもの”がある。……けど、それを目覚めさせるのは、きっとあの灼熱」


 彼女の瞳は、水盆の奥ではなく――もっと遠く、地上を見ていた。


 「トマス司祭は、もしかすると君に“見てほしかった”のかもしれないね。この国の、忘れてきた痛みを」


 ダインは息を吸い込んだ。熱と冷気が交錯するこの空間で、呼吸はやけに重く感じられた。


「行こう。上へ。……何が起きてるのか、この目で見ないと」


 ナヴィスはためらっていた。けれど、やがて意を決したように頷く。


「……北水門から抜けます。外の視線を避けて、市街地の上層へ出られるはず」


 足音が、水の上に重なる。

 ふと背後を振り返ると、水盆の揺れは嘘みたいに静まり返っていた。まるで、獣が飛びかかる刹那、獲物を見定めているかのように。


 ダインたちは、崩れゆく静寂を背に、地上への階段を駆け上がっていった。

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