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冥闇不道のアポストル  作者: 茅井 祐世
第三章 水都を灼く
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第二十五話

——大気が、揺らいだ。


 カーター・アウグストは、水路沿いの険しい斜面の上に立っていた。眼下に広がるヒュラテスの外郭都市。その向こう、遠浅の湖に、ほんのかすかに立ち上る“陽炎の柱”。


「……来た、のか」


 つぶやく声が乾いていた。

 それが何を意味するのか、彼は痛いほど理解していた。


 アドラス・ロスヴァルト。


 聖炎の中でも“灼域”と恐れられる、制御の外にある男。彼が動く時、それは「敵を焼き尽くす」ではなく、「地形ごと塗り替える」ことを意味する。


「追跡じゃない……これは……」


 掃討。手の中の槍が、じりじりと熱を持ちはじめていた。創霊力(アフレイタス)に敏感なそれが、遠くの熱量に呼応する。


 思わず汗をぬぐった手が、すでにぬめっている。温度ではない、感覚の異常。


「あの少女と、ダインはまだ、国の中か……」


 あのときの氷。

 あのときの雷。

 カーターは向かい合ったわずかな時間を、度もその光景を反芻していた。


 どちらも——「秩序の枠組み」から外れた力だった。


 けれど今、自分の前に現れようとしている“灼域”は、秩序の中にあるはずの力の、理すら巻き込んで暴走する姿だった。


 カーターは背後の部隊に命じる。


「全隊、即時撤退準備。監視線を維持しながら、ヒュラテスへの進行は中止する」


「し、しかし!聖炎本部からの命は、“確保および殲滅”と……!」


「どこから聞きつけたのか。これは“指揮系統の外”から来た存在だ。お前たちは、巻き込まれるな」


 彼は槍の柄を強く握りしめる。

 熱に包まれつつある空を見上げながら、呟いた。


「英雄を目指したつもりが……ただの、報せの犬かよ、俺は」


 遠雷のように、熱が大地を鳴らす。


 ヒュラテスの湖の水面が、まだ見ぬ到来を予感して、かすかに揺れる。湖の向こう、乾いた風が吹いた。


 カーターの視線の先——

 ヒュラテスの外縁、かつて水と緑に覆われていたはずの土地に、黒く焦げた地面が現れていた。


 それは“足跡”だった。


 進軍したわけではない。ただ、歩いたのだ。


 だが、土は焼け、木々は蒸発し、空気すらも形を変えていた。


「……あれが、アドラスの——」


 言い終えるよりも先に、カーターの脳裏に“灼熱の残像”が流れ込んでくる。


 ——燃えていた。

 身体そのものが、武器だった。


 鎧を纏ってなお、常に火を噴き続ける男。

 その足元から噴き上がる熱気は、まるで「大地が灼けて怒っている」かのようだった。


           ※


 アドラス・ロスヴァルトは、重い足音を刻みながら歩いていた。

 その背には何の旗もなく、ただ“熱”があった。


 「……ようやく、風が湿ってきたか」


 低く、擦れるような声。

 マグマが喉を通るようなその声の中に、奇妙な喜びが滲んでいた。


 「水の都とはよく言ったものだ」


 握っていた大剣が、熱に耐えきれずに微かに“泣いた”。鉄が悲鳴を上げている。だが、アドラスは意にも介さない。


 「雷と氷の逸材がいる」とトゥガが言った。


 「ならば灼こう」と答えた。


 それだけだった。


 彼にとって、戦いとは「証明」ではない。

 残らないことこそが、“力の証”なのだ。風が、灼熱の鼓動を運んでいく。


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