第二十五話
——大気が、揺らいだ。
カーター・アウグストは、水路沿いの険しい斜面の上に立っていた。眼下に広がるヒュラテスの外郭都市。その向こう、遠浅の湖に、ほんのかすかに立ち上る“陽炎の柱”。
「……来た、のか」
つぶやく声が乾いていた。
それが何を意味するのか、彼は痛いほど理解していた。
アドラス・ロスヴァルト。
聖炎の中でも“灼域”と恐れられる、制御の外にある男。彼が動く時、それは「敵を焼き尽くす」ではなく、「地形ごと塗り替える」ことを意味する。
「追跡じゃない……これは……」
掃討。手の中の槍が、じりじりと熱を持ちはじめていた。創霊力に敏感なそれが、遠くの熱量に呼応する。
思わず汗をぬぐった手が、すでにぬめっている。温度ではない、感覚の異常。
「あの少女と、ダインはまだ、国の中か……」
あのときの氷。
あのときの雷。
カーターは向かい合ったわずかな時間を、度もその光景を反芻していた。
どちらも——「秩序の枠組み」から外れた力だった。
けれど今、自分の前に現れようとしている“灼域”は、秩序の中にあるはずの力の、理すら巻き込んで暴走する姿だった。
カーターは背後の部隊に命じる。
「全隊、即時撤退準備。監視線を維持しながら、ヒュラテスへの進行は中止する」
「し、しかし!聖炎本部からの命は、“確保および殲滅”と……!」
「どこから聞きつけたのか。これは“指揮系統の外”から来た存在だ。お前たちは、巻き込まれるな」
彼は槍の柄を強く握りしめる。
熱に包まれつつある空を見上げながら、呟いた。
「英雄を目指したつもりが……ただの、報せの犬かよ、俺は」
遠雷のように、熱が大地を鳴らす。
ヒュラテスの湖の水面が、まだ見ぬ到来を予感して、かすかに揺れる。湖の向こう、乾いた風が吹いた。
カーターの視線の先——
ヒュラテスの外縁、かつて水と緑に覆われていたはずの土地に、黒く焦げた地面が現れていた。
それは“足跡”だった。
進軍したわけではない。ただ、歩いたのだ。
だが、土は焼け、木々は蒸発し、空気すらも形を変えていた。
「……あれが、アドラスの——」
言い終えるよりも先に、カーターの脳裏に“灼熱の残像”が流れ込んでくる。
——燃えていた。
身体そのものが、武器だった。
鎧を纏ってなお、常に火を噴き続ける男。
その足元から噴き上がる熱気は、まるで「大地が灼けて怒っている」かのようだった。
※
アドラス・ロスヴァルトは、重い足音を刻みながら歩いていた。
その背には何の旗もなく、ただ“熱”があった。
「……ようやく、風が湿ってきたか」
低く、擦れるような声。
マグマが喉を通るようなその声の中に、奇妙な喜びが滲んでいた。
「水の都とはよく言ったものだ」
握っていた大剣が、熱に耐えきれずに微かに“泣いた”。鉄が悲鳴を上げている。だが、アドラスは意にも介さない。
「雷と氷の逸材がいる」とトゥガが言った。
「ならば灼こう」と答えた。
それだけだった。
彼にとって、戦いとは「証明」ではない。
残らないことこそが、“力の証”なのだ。風が、灼熱の鼓動を運んでいく。




