第一話
「ハッ、ハアッ……。ハアッ、ハアッ」
——真っ赤だ。
歩き慣れた砂利道も、簡素な家々も。全てが初めからそうだったかのように真っ赤に燃え盛っていた。
視界は凄まじい勢いの煙と火の粉に覆われ、友の背中を追い続けるのがダインには精一杯だった。吸う息の喉を焦がすような熱さが、地獄のような悪夢を真実たらしめていた。
「ダイン! 絶対はぐれるなよ!!」
「わ、わかってる!」
夜空に届かんまでの炎が轟々と鳴り、それにかき消されることなく聞こえてくる悲鳴。蹴り出す足の一歩一歩が震え、つまずきそうになる。それでも、止まったらどうなるか。頭をよぎる最悪の結果だけがダインをひたすらに走らせていた。
なんで、なんでこんなことに……!
*
「ねえ、ダイン。起きてよ。覚醒の儀までもう時間ないよ。ねえ。ダイン——」
「……んー」
僕は体の揺れに目を覚ましたらしい。ベッドの横に付けられた窓からは柔らかな風が吹き込む。雲のない澄み渡る青い空を小鳥が歌い遊ぶ、気持ちの良い朝。しかし、横にはその髪と同じくらい顔を赤くして息を切らしている、落ち着かない様子のリンがいた。
「おはよう。リン」
うん。よく寝た。ゆっくりと伸びてあくびをする。対照的にリンはぺしぺしと腕をはたいて急かしてくる。
「のんびりしてる場合じゃないよ、あと15分で始まっちゃうよ!」
——えっ?
首をぐいと90度横に向け、リンの向こうにある掛け時計を見る。9時45分。聖杯の儀は10時から、絶対遅れるなと散々言われていたのに。よくよく見ればリンはシワのないシャツと明るい色のスカートで着飾っていて、キメていた。
やばい。
「なんでもっと早く起こしてくれなかったんだ!」
「何回も起こしたよ! 間に合うから、もうちょっとって言ったのダインじゃない!」
「ちゃんと目を覚まさなきゃ起きたって言わない!」
「じゃあ今度からもう起こさないっ!」
「ごめんそれだけは許して!」
ダインはベッドから跳ね起き、タンスに猛ダッシュ。無造作に突っ込まれている普段着を引っ張っては横に捨て、何とか一張羅を見つけ、ベッドの上に放り投げる。やばいやばいやばい。急いで来ているものを脱ぎベッドに投げる。リンはヤダ!と言って部屋の外へ飛び出した。
時計はあと10分のところを指している。走ってギリギリだ。15分前には来るようにって話だったけど今は間に合うかどうかってところだ。絶対怒られる。急いでジャケットを羽織って蹴破るように扉を開けた。部屋の前に待っていたリンはぴょんぴょんとその場で足踏みをしていた。
「ダイン、走るよ!」
「がってん!」
ダインは走るリンの背中を追うように勢いよく坂道を飛び出した。太陽の白い光はやっぱり暖かく、とても眩しくて、眼に映る全てが輝いているかのようにさえ思える。
「いっそげー!」
リンの高い声にダインは不思議と楽しくて、口に笑みを浮かべた。この先こんなことないってくらい、本気で走ってやる。ダインは思い切り土を蹴った。
*
「ダイン! こっちだ!」
気がつけば、村でも一際大きな白壁の屋敷が見えていた。村長の家だ。壁の至る所に焦げ付いた跡があるものの、火の手が回っていないようだった。家の人は急いで飛び出していったに違いない。木製の丁寧な作りの扉は開かれたままにされており、前を走る小さな背中はその屋敷の暗闇に吸い込まれるように消えていった。
「ザトス! 待って!」
ダインが慌てて駆け込むと勢いよく背後で勢いよく扉が締め切られた。振り返るとザトスが肩で激しく息をしながら扉にかんぬきをかけているところだった。
「何か……入り口を塞げるものを……」
ザトスは切れ切れに言葉を繋いだがそれでも強い意志が残っていることをダインは感じた。
屋敷は玄関から細長く廊下が続いていて、ふたりはそこに立っていた。外から差す炎の揺らめきが唯一の光源で、はっきりと中の様子を伺い知ることはできない。それでも荒らされた様子はなく、ヤツらが侵入していないだろうということは確かだった。
周りに人気がないのを確かめながらダインとザトスは入り口に近い部屋からソファを運び出し、扉に立てかける。ないよりマシな程度の心もとないバリケードだった。
「これで少しは時間を稼げればいいけど」
「早く隠れる場所を探すぞ。あんなの何人いたって勝てっこない。」
ザトスは暗い廊下をぐいぐいと進んでいく。先ほどまでの阿鼻叫喚とは打って変わって殆ど音はしなかった。まだこのあたりまでは来ていないのだろうか。恐る恐るダインもついていくと、突き当たりに下へ続く階段を見つけた。
「地下なら屋敷が燃えても火は回ってこないし、良いんじゃないか。行こうぜ」
「でも隠れてたら僕らしか助からないよ? 何か武器になるものを探さなきゃ」
返事の代わりにザトスは眉をひそめるがダインには見えなかった。壁に掛けられたランタンを手にとってザトスが火をつける。ちょうどその時、
「探せ!この辺りに隠れているはずだ!」
外から聞いたことのない大人の声と、ガチャガチャと鎧を鳴らす音が響く。追っ手であることに疑いようがなかった。
「ザトス、どうしよう!」
「とりあえず下に降りるぞ」
悩む素振りすら見せず、ザトスは階段を降りていく。ダインはついていくしかなかった。
*
「「すみません!遅くなりました!」」
村の中央の教会へ二人が駆け込むと、覚醒の儀はすでに始まっていて、トマス司祭が話しているところだった。沢山の大人の視線と、司祭の前に並ぶ子ども達の目線が一斉に自分達に向く。
「ダイン。扉を閉めなさい。話は後で聞きましょう」
トマス司祭は話の途中だったにもかかわらず、しわの刻まれた穏やかな顔で促す。「はい」とだけ言いそっと扉を閉め、ろうそくの小さな灯りを頼りに子どもたちの並ぶ列へ、ダインとリンはそそくさと加わった。咳払いをして、司祭は口を開く。
「では話を戻しましょう。聖杯の儀は人生でたった一度。16歳になった皆さんが経験する大事な儀式になります。聖杯に手をかざすことで、創霊力は示されます。これからの人生で創霊力は成長することはあれど、失うことなくあなた達の中にあり続けます。どんな結果だとしても、それと向き合うことを恐れないでください」
ゆっくりと話し合えると、司祭は金色に輝く小さなコップを白い布のかけられた机の上に置き、すぐ側の燭台の火を吹き消す。教会の明かりは通路に置かれたわずかなろうそくの火だけとなった。厳かな空気に言葉を発する者はなく、リンの唾を飲む音さえ聞こえてきた。
「まず、アンから来なさい」
茶色のおさげを揺らしながら、アンが前に出る。彼女は街の食事処の家の子だ。緊張でガチガチになっているさまを、両親が固唾を飲んで見守っている。
「それでは、手をかざして」
トマス司祭の声に、おずおずと手を前に出す。
*
階段を降りた先には部屋があり、物置になっていた。棚が天井まで伸び、理路整然と様々な物が詰め込まれているのがすぐにわかる。
「棚の裏に隠れてやり過ごすしかない」
ザトスは立ち並ぶ棚の中で一際小さいものを動かそうとしている。頭上から扉を開けようとする音が聞こえ、時間がないのは明白であり、ダインは言われるがままだった。棚を手前に引き出すと、扉が隠れていたことに気づく。
「これ、は…?」
それは1メートルほどの小さな石造りの扉で、棚に隠れていて見えないようになっていた。村長の家に隠し扉があるなんて、噂でも聞いたことがない。
「中に隠れられる空間があるならこっちのもんだ、開けてみよう」
「う、うん」
二人で扉を開いてみると、中は空洞になっており、人の背丈よりも高いトンネルが真っ直ぐに続いていた。中からは春とは思えないような冷たい風が流れてくる。
「これ、どこかに通じてるのかな。」
ザトスに声をかけたその時、玄関の扉が蹴破られ、大勢の人間が走り込んでくる音がする。
「ダインは先に入れ!俺はここを隠せるかやってみる!」
「そんな!僕も手伝うよ!」
「お前の方が足遅いだろ!すぐに追い付くから!」
ダインは戸惑いながらも、トンネルの中へ駆け込んでいった。友達より、自分を優先している自分の浅ましさが嫌で仕方ない。このトンネルの寒さのせいだったらよっぽど良いのに、体は違う理由でガタガタと震えるのをやめなかった。