二人の水妖人《ビコナ》と薬師 ~来ぬ明日と、来る明日~
きらきらと水面が太陽の光を返している。
静かな飛び込み音と同時に波紋が広がり、まるで金剛石が散りばめられたようだ。
にぎやかな声が飛び交う中、水しぶきをあげることなく一つの小さな影が縫うように泳いでいく。大きな湖を囲むように並ぶ集落を横切り、広さのある川を上れば水底の石が大きくなりだした。
川の流れに心地よい抵抗を感じる。
揺れる白い袖口から伸びる手についた水かきで、ぐっと水を掴んで進む。
足にも同様の水かきがついていた。息継ぎの必要はなく、大きな岩を避け川魚たちを追い越していく。
やがて目印の岩を見つけた少女は水面から顔を出した。
顔にひっついた空色の髪を軽く払いつつ、木陰で寝転がっている目当ての人物を見つけて目くじらを立てる。
「やっぱりここにいた。ちょっとザエク、今日は原石取りの約束でしょ? サボらないでよ」
ザエクと呼ばれた少年は昼寝をしていたのか、高い声に跳ね起きると眠気に顔をしかめた。少女の存在に気付くと、罰が悪そうな顔をする。
「げ、アニーニャ……。いいじゃんか明日で。こんなに天気がいいんだから、仕事なんかすんのもったいないって」
目をこするザエクの手にも同じ水かきがあり、二の腕から首にかけて白い鱗があった。
眠そうな目を開けば、深い青色をした瞳の瞳孔が縦に長い。
着ているものは、袖のない太ももまで丈がある白い上衣で刺繍が施されていた。それを茶色の腰ひもで縛り、淡い緑色の裾が広がったズボンを履いている。
刺繍は住んでいる村ごとに紋様が異なり、白い上衣は子どもを意味した。成人を迎えても12,3歳の子供の姿であるビコナ族にとって、服や装飾品はその人を表す重要なものだ。
「出たよ、ザエクの明日病。そんなこと言ってたらすぐにおじいさんになるんだから」
子どもを叱るような口調のアニーニャは、動くそぶりをみせないザエクにしびれを切らして川岸に手を突くと陸に上がる。肩口まである藍色の髪を風になびかせくつろいでいる幼馴染は、言葉で乗せないと動いてくれないのだ。
簡単な風の属性操作で髪と服に風を送り込んで乾かし、彼の隣に座る。水と共に生きるビコナ族であっても、濡れた衣服や髪が体にへばりつくのは不快だ。
「アニーニャはせかせかしすぎなんだよ。今日やらなくても石は逃げたりしないって」
ザエクが隣のアニーニャに視線を向けると、自然と彼女の両耳についている翡翠のピアスが目に入る。それは宝飾を生業にすることを示しており、白い上衣を着ているうちから職を決めるのは珍しかった。
よほど好きか才能があるかであり、ほとんどの者は成人になって上衣の色が紺に変わってから職を決める。
「今日原石を取って磨きたいのよ。次に売り手たちが街に行くまでにたくさん装飾品として仕上げたいの」
自分の仕事にまっすぐ打ち込むア二ーニャに、辟易した顔になったザエクは胡坐をかいてその上に頬杖をつく。
「何生き急いでんのさ。まだ13だよ? 俺たちこの姿で250年くらい過ごすんだからさぁ、貴重な子供の時間を楽しもうよ。ほら、こうやってのんびり空を眺めてさ」
ザエクがついと空へ顔を上げると、吸い込まれるような青空が広がっている。風に流されて形を変える雲を眺めているだけで一日過ごせそうだ。
だが、アニーニャは空を一瞥しただけで、さして興味は惹かれない。
「嫌よ。私には夢があるの。腕を磨いて街に売りにいけるぐらい偉くなって、外に出るんだから。私は世界を見たいの。こんな狭い村の中で一生を終えるなんて我慢できないもの」
「……外なんて危ないのに、なんで出たがるかなぁ。去年、隣村のやつらが帰り道に魔物に襲われて全滅したってのに」
アニーニャに視線を戻したザエクは理解に苦しむと渋い顔だ。その話を聞いた時、ザエクは肝が冷えた。いつかその知らせの中に、アニーニャの名を聞く気がしたからだ。その時から手伝いに乗り気ではなくなった。
「それでも、この狭い水槽の中にずっといるなんて息が詰まるわ」
「すいそう……」
アニーニャは街へ売りに行く若手や時たま訪れる商人たちとよく話すからか、ザエクが知らない言葉や知識をたくさん知っていた。
その中にはここでの暮らしやビコナ族を馬鹿にしたようなものもあって、それを耳にするたびに外の苛烈さが伺えて不快さが滲む。
だが、アニーニャの目の輝きが消えることはなく、ザエクの視線を捉えて離さない。
今もアニーニャは未来を待ち望む眩しい瞳をザエクに向けている。
「だから、ザエクも協力してよ。ザエクは私より泳ぐのが得意で長く潜っていられるもの。私一人じゃいい石を見つけられないの」
頼られると胸がくすぐったくなって嫌とは言えない。結局は付き合うことになるのがいつものことだ。
「わかったよ……」
「じゃ、早く行きましょ。日が暮れてしまうわ」
アニーニャは勢いをつけて立ち上がり、ザエクに手を伸ばす。その手を取れば、ビコナ族特有の水かきと柔らかく滑らかな手のひらの感触。
それに胸のむずがゆさを感じながら、ザエクは彼女に続いて水に飛び込むのだった。
◆
ビコナ族が住む集落は大きな湖を囲むように形成され、東西南北で大まかに四つの村があった。北には大きな山があり、頂上付近は茶色い山肌が覗いている。
ザエクたちが住んでいる東の村に戻れば、一気に音が押し寄せてきた。遊ぶ子供たちの水しぶきとはしゃぎ声に、畑を耕している大人たちの談笑。家は水上にもあり、太い柱で支えられた板場に丸太と萱で建てられている。
歩けるようにそれぞれ木板を打ち付けた橋でつながっているため水中を移動する必要もない。板場で足を水に浸しながら服を縫っている人たちの賑やかな声が水中まで届いていた。
見慣れたいつもの景色。ザエクには落ち着くものだが、アニーニャにはうんざりするものだ。彼女は一度も水面に顔を出すことなく洞窟へと続く細い水路に入った。
「時間がないから、近道するよ」
「はーい」
ビコナ族は水中でも会話ができ、水を揺らすことで音を伝えている。
急ぐアニーニャは、それだけ伝えると奥へと進んでいく。水路の水はさらにひんやりとしていて、泳いで熱くなってきた体に心地よかった。
この水路は、大昔からあるらしく岩とはまた別の黒いゴツゴツしたものでできている。擦れ違える程度の広さであり、頼りになる灯りはほんのり光る水草だけだ。
ここを抜ければ広い空間に出るのだが、その前に堅牢な鉄格子の扉があった。
村の外にある罪人用の牢と似ているが、目的は全く異なる。この先は種族にとって大切な場所であるため、厳重に守られているのだ。
手先が器用なアニーニャが大きな錠前に左手を添えると、右手の人差し指を伸ばして水流を作り出し、鍵穴の中で動かす。水の操作を得意とするビコナ族だからできる技で、アニーニャが外から仕入れた言葉によるところのピッキングだ。水流を鍵にし、ものの十数秒で鍵が開いた。
この早さは器用なアニーニャだからであり、ザエクだと一分ほどかかる。
「わぉ、お前どろぼうになれるんじゃね?」
「うるさいわね」
そして、重い扉を開けて中に入り、しっかり鍵をかけてから二人は辺りを見回した。水底には青や黄色の水晶の結晶があり、水草の光を受けて輝く様はまるで宝石箱のようだ。
返された光で水中は極彩色に包まれており、いつ見てもため息が出るほど幻想的だった。
二人はそこにいる人たちを刺激しないように静かに水面から顔を出す。
ここはドーム状の100人が裕に過ごせるほど広い空間で、かがり火が焚かれていた。その近くに数人のビコナ族がいるのだが、背が高くしかも20歳ぐらいの外見をしている。
子供の姿のまま年を取らないビコナ族では珍しい成人型であり、彼らには種族のための重要な役割があった。それは種の母と父だ。
かがり火が照らす浅瀬には、小人のザエクたちが抱きかかえられるほどの卵が十数個並んでいる。半透明の膜の中では、拳大の命から間もなく生まれる命までがその時を待っていた。
ビコナ族の殖え方は特殊であり、小人の中から稀に成人となる男女が現れる。その者たちのみが生殖能力を持ち、女性が複数の男性と共に卵を産み孵すのだ。
生まれた赤子はしばらく安全な洞窟内の別室で小型のビコナ族に育てられ、やがて外の村へと出ていく。ビコナ族はそうして種を存続させてきた。
二人にとっては懐かしい場所であり、今も生みの親は次の卵の世話を続けている。しばらく見ていると視線に気付いたのか、その女性が微笑んで声をかけてくれた。
「あら、ザエクにアニーニャ。大きくなったわね。今何歳になったの?」
長い水色の髪を結い上げ、濃い緑色の上衣には金糸の刺繍が入っていた。細い首には小ぶりの真珠が連なっており、その数は産んだ卵の数を表している。その数が多いほど敬われるのだ。
「13歳よ。私は宝飾の仕事に就いたの」
自慢気に耳飾りを見せることからも、誇らしく思っていることが伝わる。
「同じく13だけど、何の仕事をするかは考え中」
「まぁ、もうそんな年になったの。二人も母と父になれるといいわね」
目を丸くして時の流れに驚いているのも無理はない。成人型のビコナはこの洞窟で物語の王族のように世話をされ、外に出ることはないからだ。
何不自由ないよう身の回りのことは全て小人のビコナが行っていた。
成人型となるのは大変な名誉であり、13を過ぎても成長する者が現れれば全村を挙げての祝い事となる。
この女性が最も若い母であり、新たな母の誕生は種族の待望であると長老たちはことあるごとに話していた。
二人は簡単に近況を話したあと、長居は迷惑と側付きたちの視線を感じそそくさと奥へ進んだ。その先に上流の川へと続く抜け道があるのだ。
そして十分洞窟から距離を取ったところで、アニーニャがため息をついた。息が水泡となって消えていく。
「あんな薄暗いところで一生卵を産み続けるなんて地獄だわ。見た? お母さんの真っ白な顔」
「う~ん。俺は憧れるけどなぁ。卵の世話だけしてれば、ゴロゴロし放題だし、村で一番おいしいものが食べられるしさぁ」
「怠け者のザエクにはぴったりね」
並んで泳ぐアニーニャに呆れ顔を向けられ、ザエクは「あ、いや」と気まずそうな顔になった。探るような視線を向けて、言葉を発する。
「その、憧れてるけどなりたいわけじゃなくて……。やっぱ、ただ種の存続のために働くだけで、好きになった人と一緒にいられるわけじゃないってのはさ」
水中なのに、頬が熱くなった気がした。アニーニャは一瞬虚を突かれた顔をしたが、小難しい表情になって「好きになった人」と呟く。
彼女が恋愛事を口にすることは珍しく、ザエクは続く言葉を緊張感のある面持ちで待った。
「他の種族だと、好きな人との間に赤ちゃんができるのよね。信じられないわ。増えすぎないのかしら」
出てきたのは色気のある話ではなく、虚しいようなほっとしたような気持ちのザエクだが、真面目な顔で話を続ける。
「……たしかに。あ、だからヒューラントはよく戦争して数を減らしているんじゃない?」
ヒューラントとはこの世界全体の6,7割を占める種族であり、いわゆる人間と呼ばれる者たちだった。数が多く、ビコナ族に比べれば短命で、すぐに増え国家を形成し滅んでいく。
村の大人たちの話でしか知らず、水かきがなくて水中で息ができないという知識ぐらいしかなかった。
そんなおしゃべりをしていると、流れが徐々に早くなり水温が上がってきた。水路に従い上昇していけば光が届き始める。
「着いた着いた」
岩に隠された水路から出れば澄んだ水の細い川で、さらに進むと深い小さな湖につながっている。このずっと下流にビコナ族が暮らす湖があるのだ。
ここは、そこから北にある山の中腹に当たる。普通の湖より深く、スプーンで抉ったような形をしていた。
「いい石はできているかしら」
深く潜れば徐々に枝を広げる木が見えてきた。原石は、果実のように木になるのだ。地上にある木と違うのは、幹や枝が茶色く透き通った水晶であることと葉に当たるものがないことで、どのように石が実っているのかは謎だ。
他種族であれば落ちた原石が下流へと流れ、小さく砕けて川底に沈んでいるものを拾うのだが、ビコナはこの深い水底で削れる前の大きなものを取ったり拾ったりできる。
「ん~。取れる大きさでついてるやつはなさそう。この前大雨があったから、けっこう落ちたかも」
原石は木から落ちるとそれ以上大きくならないため、取ることのできる大きさが厳しく決められていた。そのため実際は木から取るよりも落ちているものを拾う方が多いのだ。
「さすが目がいいわね。じゃ、早速探しましょ。できれば、柘榴石と金剛石があれば嬉しいわ」
「はーい、仰せのままに」
水底に転がっている原石はだいたい拳大のものが多く、普通の石とほとんど見分けがつかないが、二人は迷いなく選び取っていく。
目のいいザエクや石の知識と経験を磨いたアニーニャだからこそ、表面の色合いや形状でだいたい何の石かが分かるのだ。
二人は手分けして目当ての石や、上物の石をポケットから取り出した網に放り込んでいく。網は紐で腰に結ばれており、重くなってきたら風の属性操作で少し浮遊させて運ぶため、破れることにだけ注意しておけばいい。
そうして一時間ほどで網がいっぱいになり、アニーニャは満足そうに親指を立てた。
やっと労働から解放されたザエクは「休憩」と水面に浮かび上がる。手足の力を抜いてだらんと浮かべば視界一面に空が広がり、太陽はすでに沈みかけていた。
「ちょっとザエク、休んでいる暇なんてないわよ。もうすぐ日が暮れるから、急いで川を下らないと」
行きは近道を使わせてもらったが、さすがに何度もあそこを通るのは申し訳ない。日没までまだ時間はあるため、急げば明るいうちに村に帰れるだろう。
「え~。もう手足が疲れてだるいんだけど。俺の腰ひもを引っ張って泳いでよ」
完全に力を抜いたザエクは少しずつ流されている。アニーニャはだらけ切った幼馴染にため息を返した。
「わざと大きな岩に当ててやるわよ?」
「うわ、それは勘弁。てかさ、上流から村まで一気に移動できる乗り物があればよくね?」
ザエクは身を起こすと、立ち泳ぎをしながら視線を上流へと向ける。
川下りは楽ではあるのだが、勢いがつく分岩や岸との衝突に気を付けなくてはならない。実際、子どもたちが怪我をするのは上りより下りのほうが多かった。
「乗り物って、ヒューラントとかが使う船ってこと? あれ、動かすのに技術がいるって話だし、なによりビコナの名が泣くわよ」
アニーニャは自慢の水かきが付く手を見せつけるように握っては開く。話に聞く船と比べても、自分で泳いだ方が早い気がするのだ。
ザエクは正論を返されて憂鬱そうに視線を飛ばした。
「そうだけどさぁ、俺はもっとこう、楽さを求めてもいいと……って、何だ?」
ぼんやりと上流を眺めていたザエクは違和感に目を留める。水の合間に金色が見えた。自然の色とは違う人工物の盛り上がりに、ぞわりと胸が騒いだ。形から直感で何か分かる。
人だ。
「おいアニーニャ! 人だ! 人がひっかかってる!」
「え? どこ?」
ザエクはアニーニャに答えるより先に、足に力を入れて水を叩く。
滅多に出さない全速力で川を切るように上り、ゴツゴツとした岩に乗り上げている人と思われるものの近くで止まった。
村の誰かか、死体ではないかと恐る恐る顔を覗き込むと、ビコナ族ではなかった。
「え、それ……ヒューラント?」
追いついたアニーニャの顔は青ざめている。ザエクも恐ろしさを感じつつも、アニーニャの前で情けない姿は見せられないと首筋に手を当てた。顔は土気色だが目立った外傷はなく、弱いながらも脈はある。
「大丈夫だ生きてる! 俺は岸に引き上げて温めるから、アニーニャは村長に連絡して医者を連れて来て!」
村の近くで他種族が溺れることはごく稀にあることなので、対応は一族で共有されている。アニーニャは力強く頷くと、身を反転させて村へと向かう。おそらく近道を使うのだろう。
そしてザエクがヒューラントの男を川岸に移動させ体を乾かし、火を焚いて温めるなど応急処置をしていると、アニーニャと医者が到着し対応は大人へと引き継がれた。
だがそこで二人がさよならとはいかず、村に戻れば村長から事情聴取を受け、解放されたのは星が瞬くころだ。
素性のしれない他種族を村に入れることに抵抗感を示す者が多いため、ヒューラントは集落の外にある牢屋、といっても罪人用ではなく軽い懲罰や反省のための軟禁室として使われる部屋で休ませることになったらしい。
まだ意識は戻らないようで、目覚めて危険人物ではない場合二人にも連絡が来るようになっている。
「ひとまず疲れた……。明日は何もせず家でごろごろする」
「ほんとだねー。でも、助かったみたいで安心したわ」
二人は集落の中で一番大きな村長の家から続く木板の上を歩いている。どっと疲れが押し寄せてきており、夕食を食べていないお腹は鳴りっぱなしだ。
それでも、いいことをしたと満たされ、ザエクはそれをアニーニャとできたことが嬉しい。
「じゃ、また明日な」
「またね~」
二人は別れると別々の方角へと進む。成人するまで子供は男女に別れ、4,5人が共同で暮らしている。各家に未婚の者が世話役としてついて面倒を見ているのだ。
二人がそれぞれの家に帰れば、話を聞きたくてうずうずしている同年代の同居人に囲まれた。それを世話役がたしなめるのだが、世話役自身も意味ありげな視線を送っている。
そうなれば、なんとかありつけた夕食を食べながら、期待に応えるべく話し出すしかなかった。
◆
翌日から村は正体不明の男のことで持ち切りだったのだが、発見者である二人が呼ばれたのはそれから三日後のことだった。噂で目を覚ましたことと、下流に住む薬師らしいということだけは知っている。
二人は村長の使いとしてきた男に先導され、村はずれの牢屋目的の小屋に入る。長らく収監されている罪人はおらず、半ば躾の脅し文句に使われているところだ。
初めて入る小屋に好奇心を隠せない。詰め所の奥に続くドアを開けると左右に牢屋が並んでいて、二人はキョロキョロと視線を飛ばしていた。
湿っぽいカビた臭いから、長らく手入れがされていないことが分かる。木格子の中は石畳に藁が引かれているだけで、欠けた桶が転がっていた。
薄暗いためよく見えないが、石畳はところどころ黒ずんでいる気がして、背筋が寒くなってくる。
アニーニャとザエクは無意識に身を寄せ合い、使いの後ろをついて行った。通路の先に鍵がついたドアがあり、そこに例の男がいるらしい。男が三度ノックすると低い位置からノックが返り、鍵を開けて中に入る。
太陽の光が漏れ、二人はやや目を細めた。
「失礼します。二人を連れてまいりました」
使いに続いて入れば、手前の牢屋とは比べられないほどきれいな部屋があった。
普通の部屋と違うのは、ドアのすぐ脇に椅子に座った警備の男がいて、窓に木格子がはまっていることと外側からしか鍵が開かないことぐらいに見える。
二人の正面には簡素なベッドがあり、そこには助けた男が身を起こし、手前には村長が椅子に腰かけていた。
全員小人型のビコナなので背は低く子供の容姿なのだが、それぞれ役職を現わす服や装飾品を身にまとっている。その威圧感もあって、部屋を包む緊張感に二人は唾を飲み込む。
どう振舞えばいいのか分からない。
先に言葉を発したのは村長で、柔和な笑みを見せると二人の名を呼んだ。
「ザエク、アニーニャ。よく来てくれた。こちらの方がお礼を言いたいということでな」
村長の手招きで二人は近くに寄り、顔色がよくなっている男に視線を注いだ。見つけた時は旅装に近い山歩きに適した服だったが、今は質のいい襟ぐりの開いたシャツとズボンだけだ。
顔、首筋、手と視線が落ちて行き、思わずザエクが呟く。
「すげぇ、鱗も水かきも無い」
救助した時はそこに気付く余裕すらなかった。
「ちょっと失礼でしょ!?」
突然何を言い出すのかと目を丸くしたアニーニャがザエクの背を叩けば、ヒューラントの男は口元に手を当てて肩を震わせた。
そして笑ったことを「申し訳ない」と小さく謝罪してから、二人の顔を見ると頭を下げる。
「まずは礼が先でしたね。二人が私を見つけて助けてくれたと聞きました。本当にありがとうございました。私はクロード、下流の小屋に住んでいる薬師です」
頭の動きに合わせて肩口で切りそろえられた髪が流れ落ち、金細工のような輝きにアニーニャは目が奪われる。
頭が戻り再び視線があった瞳は柘榴石のような赤で、二人にヒューラントの一般的な顔立ちは分からないが、ビコナ族の美的感覚からすれば整っていると言えた。
年は読み取れないが、外見は成人型のビコナより少し上に見える。
呆けていたザエクだが、村長にわき腹をつつかれて我に返った。
「い、いえ! 当然のことをしただけなので!」
「私も大したことは!」
「何をおっしゃる。二人は命の恩人ですよ」
聞き心地のいい声で、物腰穏やかな口調は人を落ち着かせるものだ。包み込むような笑みに二人の肩の力も抜けて、つられるように微笑んだ。
そこからは二人も椅子に腰かけるように促され、簡単に男の話を聞くことになったのだった。それによると、クロードは半年ほど前にこの辺りはいい薬草が取れるからと移り住んできたらしい。
薬を作っては、時たま町に売りに行く他は薬草の採取や野菜と薬草の栽培をする生活を送っていたそうだ。
だが、あの日は山の近くなら珍しい薬草が見つかるかもと欲をかき、足を滑らせて川に落ちたらしい。気恥ずかしそうに笑うクロードは「もう行きません」と反省しているようで、その表情に子供っぽさが混じっていた。
外の世界に憧れを持つアニーニャは目を輝かせて聞き入り、時折質問する。それを横目にザエクは面白くなさそうな顔になっていた。
しかも、命を助けたからといってもまだ成人もしていない二人になぜこの話を聞かせているのかが分からない。
なんだか嫌な話の流れを感じていると、村長が「それで」と硬い声音に変えた。
「本題なのだが、クロード殿は優れた薬師で私たちでは作れない薬も作れるそうだ。そこで、定期的に取引をしようと考えていてな、二人にはその仲立ちをお願いしたい」
つまりは、村とクロードの間を行き来する運び屋をしてほしいということだ。
村は基本的に閉鎖的だが、時折訪れる商人と取引したり、町に装飾品を売りに行ったりはしている。だが薬の分野に長けた人はいないため、町にいっても適切な薬は買えなかった。
そもそもヒューラントを想定して作られている薬がビコナ族にどう作用するかも分からないのだ。その辺りも交流を進める中で明らかにしていきたいらしい。
薬のことに話が移ると、クロードは生き生きした顔で声を弾ませ言葉を引き継ぐ。
「私もビコナ族の方たちに協力できれば恩を返すことにもなりますし、薬学の探求につながりますから願ってもありません」
「もちろんやります! ね、ザエク!」
「え? あぁ……うん」
その話が出た時点でアニーニャの答えは決まっているようなもので、期待に彩られた笑顔を向けられたザエクは頷くしかない。一人で行かせるなど持ってのほかだし、別の人に代わられたくもない。
「では、よろしくお願いしますね」
差し出された草の色素が滲む手をアニーニャは素早く握り返し、脇でぼんやりしているザエクの手も引っ張って重ねた。
「おい……」
無理やり乗せられた手のひらには、ひやりとする滑らかなアニーニャの手と、温かく骨ばった男の手。上機嫌なアニーニャが面白くなくて、ザエクはその手にぐっと力を入れたのである。
◆
クロードは優秀な薬師だった。
最初の頃は村の人々も警戒心が勝り、仲介役の二人が運ぶ薬の量も多くなかった。それが、村で流行った病気に効く薬を調合したり、鱗の剥がれに特化した軟膏を作ったりするうちに、すっかり村の薬師として受け入れられたのだ。
月に一度だった取引が、三か月もする頃には月に二回となっていた。
それほどの頻度で会っていれば、嫌でも仲は深まっていく。薬を取りに来ただけで帰らせるのは申し訳ないと、毎度クロードは森の木の実で作った菓子とお茶を用意してもてなしてくれた。
茶会というらしく、村にはない洒落たものにザエクは鼻につく感じがしたが、外の文化に興味津々のアニーニャは食いついた。結局、ザエクもおいしいものは大好きなので、仕方なくつられたのである。
だが、この茶会が思いのほか面白い。
クロードの話は多岐に渡り、ヒューラントの国や町、そこで見られる他の種族などザエクでも興味深いものばかりだった。アニーニャは嬉々として好奇心を満たしていく。
そうやって時間を過ごすこともあれば、もてなされるだけでは悪いと、薬草採取や家の修繕などを手伝うこともあった。
そして、半年も過ぎると季節はすっかり移り替わり、木の葉が落ちた枝をすり抜ける風が冷たくなってきた。ビコナ族にとっては水中のほうが温かく、上がった瞬間の外気に震える季節だ。
村では冬を越すための備えが始まっている。それは、クロードの家でも同じようで、部屋の中には大量の薬草や木の実が乾燥させるために吊るされていた。
今日も三人はお茶をしており、四角い木製のテーブルの上にはお菓子と果物が皿に乗せられている。椅子は三つで、テーブルと合った大きさの椅子にクロードが、小さく高めの椅子にビコナの二人が座っている。
ヒューラントからすれば子供用の椅子だが、ビコナにはちょうどいい高さだ。
ザエクはベリーを齧りながら二人の話に耳を傾ける。
「クロード、あれから毎日温泉に入ってるの?」
「いや、さすがに毎日ではありませんが……二日に一度くらいは」
「ほぼ毎日じゃない。あれのどこがいいのかしら」
アニーニャとザエクの口調は砕けたものになっているが、クロードは今でも丁寧な口調を崩さなかった。当初はビコナ族の年齢が外見から区別できないクロードの自衛の策だったそうだが、二人が子供だと分かってからも慣れた話し方なのでと変えなかった。
「だよな。水は冷たくないと気持ち悪いし、あの辺りは臭い」
話題は一か月ほど前に見つけた温泉についてだ。この辺りの植生を地図に書き記す作業を手伝っている間のおしゃべりに、温かい水が沸く泉があることを話したのだ。その時のクロードは珍しい薬草を見つけた時より目を丸くして、喜びと期待を浮かべた顔で案内をせがんだ。
そして、小屋から東にあるその場所に着くなり、クロードはおもむろに手を突っ込んだ。
その温かさに子供のようにはしゃぎ、岩の上に座って素足をつける。それはビコナの二人からすれば奇行で引いてしまったのだが、クロードは自国の町には公衆浴場があるが蒸し風呂が一般的で、お湯に疲れるのは貴族や王族だけなのだと力説した。
しかも、自然の中の温泉という熱い水が出る泉は価値が高く、王族が占有していることもあるそうだ。
温泉の貴重さを説かれても理解できない二人は首を傾げ、一歩も温泉に近づこうとはしなかった。水面から湯気が出ている様子がなんとも気味が悪かったのだ。
クロードはその時の二人の様子を思い出し、残念そうにカップを机に戻す。
「温泉のよさが理解できないなんてもったいない。温泉はつかる薬でして、様々な効能が期待できるんですよ? 私なんて腰痛と肩こりがよくなったんですから」
「クロードってたまにジジくさいよな」
ザエクの軽口にクロードは目を剥いて「失礼な」と薬草採取と薬を煎じる大変さを説き始める。クロードは30代後半で、ビコナからすればまだまだ若いのだが、ヒューラントからすれば微妙なところなのか、彼は年寄り扱いされるのを嫌っていた。
クロードが小言に入りかけたので、アニーニャが助け船を出す。
「ヒューラントにはいいのかもしれないけど、私たちにはちょっとね……。なんか、あの中に入っていると茹でられた魚の気分になるんだもの」
好奇心旺盛のアニーニャはクロードがそこまで言うならと川で休むのと同じように、服を着たまま肩までつかってみたのだ。
みるみるうちに体が熱くなり、手足の水かきは薄桃色になって逆に血の気が引いた。頭がぼうっとしたため、すぐさま隣の川に飛び込んで冷やしたのだ。
「そうそう。絶対溶けるよな」
ザエクはこれ幸いとアニーニャの話に乗る。クロードもそれ以上ザエクを追及するつもりはないようだった。
そして話は先日クロードが招かれた村での祭りへと移った。収穫を祝うもので、それと同時に三組の婚姻の儀があったのだ。
「慣れたとは思ってましたが、子どもの姿なのに結婚式っていうのが不思議な感じでしたね」
「まぁ、大きくなるやつはそう出てこないからなぁ」
卵が産めるのは成人の個体のみだが、好きあった者と婚姻関係を結ぶのは誰でも可能だ。むしろ小人型のビコナのほうが自由に婚姻しているともいえる。
「素敵な式だったわよね。花嫁さんがつけていた冠もすごくよくて、いつかあれぐらいのを作れるようになりたいわ」
職人視点のアニーニャに、ザエクは「色気がないなぁ」と内心ぼやく。同年代の女の子たちが花嫁に憧れ、きゃいきゃいはしゃいでいたのとは大違いだ。
「おや、アニーニャはお嫁さんになりたくないんですか? 女の子はああいうのが好きだと思っていましたが」
ザエクの気持ちを代弁した言葉に、返答が気になって視線をアニーニャに向ける。彼女は木の実を口に放り込み、「ん~」と考え込んでいた。その表情にやきもきする。
「憧れないとは言わないけれど、成人もしていないのに結婚と言われてもねぇ。それに、私は仕事が一番だし、成人したら外の世界を見に行きたいもの」
「あぁ、ビコナは14で成人でしたね。そしたら、町に行かれるんですか?」
「そうよ。もうすぐ成人だから、今から頼み込んで行商のやり方を教えてもらっているの」
アニーニャの弾んだ明るい声とは対照的に、ザエクの心は暗く沈む。その気持ちが棘を含んだ声として出てしまった。
「外に出たっていいところだとは限らないだろ。クロードもこの脳内お花畑に外の危険さを言ってやってくれよ」
「もー! いつもそうやって水を差す! ザエクは水槽の中で泳いでいたらいいじゃない。私は外が見たいの!」
今までも何度か見た平行線のやり取りに、クロードは苦笑いを浮かべた。アニーニャの好奇心もザエクの男心も分かるからこそ、曖昧に笑ってお互いの意見に理解を示すことしかできないのだ。
そして話に一段落がついたところで、装飾品作りの仕事が山場を迎えているアニーニャは一足先に帰った。ザエクは力仕事要因として残り、冬ごもりの手伝いをすることになっている。
アニーニャを川辺で見送り、水中の影が遠くなるのを追っているザエクの目には恋の色。本人の前では見せない寂しげな表情に対し、クロードは前置きなく核心に触れた。
「それで? まだ告白しないんですか?」
「ひぇっ!? は? えぇ!??」
ザエクからすれば不意打ちもいいところで、なぜわかった、いつから、目的はと矢継ぎ早に疑問が浮かぶが何一つ言葉にならない。全速力で滝登りしたように心臓が早くなった。肌寒いはずなのに顔が熱くなって、今すぐ川に飛び込みたくなる。
慌てふためくザエクに、先程の意趣返しが成功したと子供じみた笑みを浮かべるクロードだ。
「バレていないと思っていたんですか? 無粋なことは言わない性分なのですが、今日は話題が話題でしたし、少々居たたまれなくなりまして」
ザエクは仲介役として来始めた頃、あからさまに牽制していた。それがアニーニャに一切伝わっていないところも不憫なのだが、クロードは早いうちからザエクの恋心を察していたのだ。だからこそ、全く進展のない状態がもどかしい。
「う、うるさい」
力のない絞り出した声で、ザエクは俯いて言葉を返す。
「まだ13だし、そういうのは早いと言うか。もっと大人になってから……」
歯切れの悪い返答に、クロードはため息をつきかけて止める。
何をうかうかしているのだとせっつきたくなるが、200年以上生きるビコナにすれば、13というのは幼子同然なのかもしれないと思い直したのだ。
それでも「明日、明日」と先延ばしが口癖のザエクに、クロードは年長者として口を開く。
その視線はまっすぐと、ザエクに注がれていた。
「今日と同じ明日が来るとは限りませんよ。日常が無くなるのはね、一瞬なんです」
やけに実感がこもった言葉に、ザエクは顔を上げる。
その目は真剣で、軽口を返すこともできなかった。
クロードが住んでいた町の話はよく話題に挙がっていたが、彼自身の話は少なかった。優秀な彼がただ薬学を深めるためだけにこの地まで来たと素直に受け止められるほど、ザエクは子どもではない。
ざわりと冷たい風が頬を撫でる。
「……わかってるよ。けど、勝ち目のない勝負に挑めるほど、俺は強くないからさ」
「まぁ、今告白しても望み薄ですものね。では、今日の作業をしながら経験豊富なお兄さんが色々と教えてあげましょう」
「えぇぇ……おじさんの恋愛話を聞いてもな」
「誰がおじさんですか! こう見えても何人もの女性に言い寄られていたんですからね!?」
語気を強めるあたりが怪しいが、クロードの顔は整っている部類に入るのであながち嘘ではないのかもしれない。いつもの調子に戻ったザエクは、にまりと口角を上げる。
「へ~。じゃ、教えてもらおうじゃないの」
そして、二人で作った高床式倉庫に保存食を運び入れる作業をしながら、クロードによる恋愛授業が始まるのであった。
◆
たまにしか会わない人のほうが、変化には気づきやすいという。その変化に最初に気付いたのはクロードだった。
「あれ、アニーニャ、大きくなりましたね」
寒さが深まり、湖に薄氷が張りだしたころだ。
冬越えの準備と装飾品作りで忙しく、一月ぶりに訪れたアニーニャに対してクロードは朗らかにそう声をかけた。並ぶようにして家に入ってきた彼女は、ザエクと比べて少し背が高くなっていた。
「へ?」
「大きくなった? こいつが?」
クロードにすれば「今日もいい天気だね」ぐらいの世間話だったが、それに対する二人の反応は大きかった。驚きと戸惑いを浮かべた二人は顔を見合わせる。
そう言われて初めてザエクはアニーニャの視線が少し高いことに、アニーニャは少し見下ろさなくてはいけないことに気付いたのだ。
言葉が詰まり、沈黙が下りる。
さぁと血の気が引き、心臓が嫌な音を刻みだした。暖炉にくべられた薪が爆ぜる音が、やけに大きく聞こえる。
ビコナ族は12,3歳から成長が止まる。二人はこの一年、体の成長を実感したことはなかった。それが意味することは一つしかない。成人型になる予兆だ。
「い、いや……」
アニーニャが抱きかかえていた籠が落ち、中に入っていた干し魚や果物が転がり出る。落下音は夢が砕け散る音。空いた手のひらを見つめるアニーニャの顔には絶望が張り付いている。
「うそ……」
気が遠くなるようだ。自分の体が突然得体のしれないものになったような感覚になる。
「え、どうしたんですか?」
その異様さに、クロードは何かまずいことを言ったのかと慌てた表情でザエクに助けを求めた。だが、ザエクも思ってもみなかった事態に心が追い付かず、説明の言葉も浮かんでこなかった。二人が何かを発するよりも、アニーニャが膝から崩れるほうが早かった。
「嫌! そんなの嫌!」
絹が裂かれるような悲痛な声を上げて床に膝をついたアニーニャの両脇に、二人は駆け寄り腰を落とす。
ザエクは小刻みに震えるアニーニャの背中をさすり、心配そうに顔を覗きこんだ。
不用意な一言で傷つけたと罪悪感が押し寄せているクロードは、アニーニャの左で頭を下げる。
「申し訳ありません、アニーニャ! 傷つけるつもりはなかったんです! きっと、君たちにとっては侮辱的なことだったんですね」
クロードはビコナ族と関わる中で、彼らの習慣や考えに理解を深めてきたと自負していた。だが何気ない一言が巻き起こした事態に、思い上がりをただただ恥じ反省するしかない。
クロードは怒りも誹りも受ける覚悟だったが、アニーニャは泣きそうな顔で首を懸命に横に振り、視線をザエクに向ける。代わりに説明してと。
その心が手に取るように分かるザエクは鉛を流し込まれたような心持ちで、貝のように閉じていた口を開いた。
「クロードが悪いわけじゃないんだ……。この年を過ぎて成長するのは、成人型になるってことで……。それは、栄誉なことなんだけど、アニーニャにとっては……」
説明を受けてもいまひとつ理解しきれていないクロードに、アニーニャが掠れた声で言葉を引き継ぐ。
「成人型になるとね、一生外に出られないの。……村で一番贅沢なものを食べて、身につけられるけど……外にだけは、出られないの」
消え入りそうな声で紡ぐ言葉は重く、彼女の夢を知るクロードの心に沈んでいく。来年は行商について行けるのだと未来に目を輝かせていた姿が脳裏に浮かぶ。
「そんな……完全に成人型になるまであと数年はあるでしょう? その間も無理なんですか?」
ビコナ族の成長速度はヒューラントと変わらないと聞く。それならば、少なく見てもあと7年ぐらいは猶予があるのではと希望を見つけようとあがくクロードに対し、アニーニャは静かに首を横に振った。
諦めが滲む動きにザエクは視線を落とし、重い息を吐く。
「無理なんだよ。成人型になるって分かった日から、一人の家になって護衛もつく。大事な村の宝だからな。欲しいものは村の人たちが全力で探してくれるけど……」
続く言葉は形にならない。この話は村の小人型の大人たちが何度も繰り返し話してくれたことだった。成人型になることの素晴らしさを説かれるたびに、二人は自分には関係ない夢物語だと笑い飛ばしていた。
それなのに。
アニーニャはぐっと唇を引き結ぶ。嵐の後の川のように感情の濁流が押し寄せてくる。堰き止めるのも限界で、一筋頬を伝えば我慢ができなかった。
「なんでっ、なんで……私なのよ」
涙を流し、しゃくりを上げる。耐えられず俯けば溢れた涙が木の床を濡らしていく。握った拳は固い。
「私、夢があるのに。外の世界、見たいのに。……ずっと、洞窟の中にいるなんて、死んでいるのと同じじゃない!」
悔しさ、絶望、諦め。様々な感情が入り混じった強い言葉だ。
それを受け止める二人は、ただその背中に手を添えることしかできない。何を言っても薄っぺらく、気休めにもならないと思ったからだ。
「それに、成人型だと長く生きられないのに!」
本当かとクロードが目を剥いてザエクに確認を取れば、ザエクは悲痛な表情で頷いた。成人型は生殖能力を有するが、寿命は小人型の半分ほどになる。だから、神や王族の如く扱われるのだ。
「嫌! 嫌よ……」
うわ言のようにそう呟いたのを最後に、アニーニャはただ涙を流すだけとなった。
どれぐらい時間が経っただろう。
長いようで短い時間が過ぎ、アニーニャが泣き疲れ落ち着いた時には三人は同じ結論に至る。
今日気づいたことは秘密にしようと。他の誰かに気付かれるまで隠し通そうと。
湖が凍り、さらにそれが溶ければ行商に行ける。せめて一度ぐらいはと祈るような気持ちで決めたのだ。
そこで、その日からアニーニャは他のビコナの子供と比べられないように一人で行動するようになった。薬の運搬もザエクのみが行って、極力部屋に籠って装飾品づくりをする。
だが、湖の氷が分厚くなり上に乗っても割れなくなった頃。世話役がアニーニャの成長に気付くや否や、成人型誕生の吉報が全村を駆け巡り盛大な宴が行われたのである。
成人型であることを示す金色の刺繍が美しい深緑の上衣を纏ったアニーニャ。その顔にあったのは、全てを諦め悟った仮面の笑顔だった。
それを遠くから眺めるザエクの胸がキシリと痛み、クロードの言葉が耳元に蘇る。今日と同じ明日が来るとは限らないと、寂しそうに吐き出した彼も同じ苦しみを味わったのだろうか。
ぼんやりと考えながら、ザエクは振舞われた祝いの酒に口を付ける。
周りの大人を陽気にさせるそれは、ただ苦いだけ。
その後悔の味を、舌に刻んだ。
◆
成人型の兆候が見られてから完全に成長し終えるまで7年ほどかかる。その間は集落で過ごす最後の時であり、雑用が免除され3,4人の付き人がつけられる。
いわゆる種の役目を果たすまでの猶予期間であり、何でも望むものが与えられた。村の外に出るという自由を除いて。
アニーニャが求めたのは二つ。
装飾品づくりの仕事を続けることと、そのための原石選びと行商をザエクに任せることだ。彼女の望みならばと、ザエクは迷うことなく引き受けた。彼女が欲する石を届け、行商隊と共に町に行き見聞きしたことを伝える。
その生活がもう三年続いている。
ザエクは成人し、紺色の上衣も身になじんでいた。右耳には宝飾を示す翡翠が、左耳には行商を示す黄色い石が嵌っている。このように身につけるものは変化しても、見た目は子供のままだ。
そして、変化は二人の関係にもあった。
原石の選び手、行商人としてアニーニャと関りを持ち続けているとはいえ、もう直接顔を合わすことはできない。言葉交わす短い時間でも付き人が一人は控えており、二人の間には薄い布がある。
ザエクは板間に、アニーニャは一段高くなった布の向こう側にいる。透けるほどの薄さなのでお互いに輪郭は分かるが、細かい表情は読み取れない。
それがさらに遠く感じさせた。
「じゃ、俺は一週間ぐらい町に行ってくる。前においしかったって言った果物とか菓子を買ってくるから」
「うん、ありがと。気を付けてね」
「……あぁ」
ザエクは腰を上げ、名残惜しそうに一瞥した。その視線が交わった気になったのを心の支えにする。口元がかすかに開いたがすぐに閉じられ、戸口から出た。
一緒に逃げよう。
その一言が言えない。
何度も、その言葉を口にしようとした。もしかしたら、彼女から言われるかもしれないと期待した夜もある。
だが、布越しに聞こえる声が、遠くから見える背の高くなった彼女の顔が、それを望んでいないように思えた。
だからザエクは、せめてアニーニャが喜ぶようにと好きそうなものを買い漁り、面白い話をする。アニーニャはお付きがいるためか、堪えるように小さく笑うようになった。
それでも、その笑い声が聞きたい。
ザエクはアニーニャの家から遠ざかると振り返った。水上に建つ、一人で暮らすには十分すぎるほど大きいそれがあの日見た牢屋に重なった。
「なんで、あいつなんだよ」
呟きは誰にも届かず空に消える。
腹立たしかった。皮肉のような運命が。
そして、何もできない自分自身が。
知らぬうちに拳を握りしめていたザエクだが、空気を震わす気配に感覚を研ぎ澄ませた。
山から微かな音が聞こえたと同時に、足元が小刻みに揺れる。家がきしむ音と人々の驚き声。それは大きいものではないが、揺れが収まると自然と安堵の息が出た。
地の震えはそれほど珍しくはない。数年に一度は大きいものが来るし、一年に何度かは小さい揺れがあった。しかし、最近は頻発しているため村中が不安に包まれている。
長老たちが集まって話し合っているが、ここに定住してからの伝承を全て受け継いで記憶している南の村長でも、揺れの原因が分からないらしい。
そして、遠目にアニーニャの家の周辺で騒ぎになっていないのを確認し、行商の準備をしようと成人してから住む自分の家へと歩き出した瞬間だった。
突如、鼓膜が破れるような爆音がした。
頭が真っ白になったところに横から衝撃を受け体が投げ出される。視界に映った赤いものに気を取られる間もなく、体が水面に叩きつけられた。
沈んだ体から息が白泡となって押し出され、混乱する頭は水中呼吸に切り替えらない。
溺れるように手足をばたつかせなんとか顔を水面に出せば、咳き込み涙が混じる視界に飛び込んで来たのはこの世の終わりだった。
あれは、山だったはずだ。
アニーニャと二人よく原石を取りにいった山。
だが、その見慣れた山頂からは黒い煙が立ち上り広がっている。そこから吹き出し、流れているように見えるのは赤い固まりだった。
何かが飛んできているのか、水しぶきがあちこちであがり、瞬く間に家から火の手が上がる。
熱気が押し寄せ、強烈な卵が腐ったような臭いに鼻がおかしくなりそうだ。
「山が火を噴いたぞー!」
「火事だ。逃げろ! 町へ!」
阿鼻叫喚。
子供の泣き声、助けを求める声、誰かが水に飛び込む音。
そのどれもが、爆音で鼓膜がおかしくなったのか遠く聞こえていた。目の前を流れていく異常な光景を受け止められないザエクは、突然ハッとしてある方向に顔を向ける。
「アニーニャ!」
村のどこからでも、彼女の家は分かる。
その家が燃えていた。
叫びだしたくなるのを押さえ、ザエクは全速力で泳ぐ。四方八方へ逃げようとする人たちにぶつかり、引っ掛かれたのか足に小さな痛みが走る。それでもお構いなく、ザエクはその人たちを押し避けて前に進んだ。
間に合ってくれと荒い息を吐きながら懸命に手足を動かした。心臓は嫌な早まり方をしている。
板場に手をかけて上がると、自分を水で覆ってから煙を吐き出している戸口に飛び込んだ。派手に燃えていたのは屋根だけだったようで、中はまだ無事だ。視界が悪い中薄布を引きちぎって彼女がいつも座っている位置に駆け寄れば、水球があった。その中にアニーニャがうずくまっている。
「アニーニャ!」
水を通したくぐもった声だったが、アニーニャは顔を上げてうっすらと目を開ける。
「ザエ……ク?」
アニーニャを守るように包んでいる水球に、なぜとザエクが周りに視線を飛ばすと足元に倒れている付き人がいた。助けなければと手を伸ばそうとした瞬間、屋根が焼け落ち火の粉が舞う。
残骸が二人に降りかかり、水の膜はすぐに蒸発した。
上がる火柱が部屋を照らせば、足下は赤く粘着質な光を返した。
その中心に倒れた付き人と抱えるほどの黒い石を見た途端、ザエクは思わず顔を背ける。
そしてアニーニャには見せまいと、心の中でお礼の言葉を呟きその手を強く引いて彼女を立たせた。
「逃げるぞ!」
すでに壁も燃え、戸口も崩れ落ちそうだ。ザエクは水を傘のように広げて身を守れるようにする。アニーニャの手は震えていて、勇気づけるように強く握り駆けだした。
彼女もつられるように足を動かし、外に出ればそこはまさに地獄だった。
「なに……これ」
空は一面黒く染まり、そこから灰が降ってきている。
石が飛んでくるのは治まったようだが、赤い固まりは山の裾まで下りて来ていた。ところどころ黒くなり澱んでいる。
肌を焦がすような熱気は、村が燃えているからか、山全体が燃えているからか。
木が爆ぜ倒れる音、ごうと熱風が押し寄せる音に、人々の悲鳴がかき消されていく。
村の人たちは町へと続く大きな川を下っていた。黒い人だかりとなっていて、なかなか進まない。湖に浮いている黒い影、崩れ落ちる家々、麻痺したはずの鼻に届く木と肉が焼ける臭い。
吐き気がした。
足を止めたアニーニャのすすにまみれた顔に涙が伝い、一筋の白を描く。
「なんで、こんなことに……」
「今は泣くな! 俺たちも早く逃げないと!」
「ほ、他の村の人は? それと、洞窟……卵も!」
その言葉に、ザエクは熱気に包まれているのに背筋が凍った。
頭一つ分高いアニーニャの顔を見つめる。変ったのは体だけではない。その考え方も以前彼女自身が嫌っていた洞窟の母と同じになっていた。
こんなものは、アニーニャではない。ザエクが好きで笑ってほしかったアニーニャではなかった。
「……逃げよう」
「え? うん、みんなは町に行ってるんだよね。なら私たちも」
人が集まっている川からそう判断したのか、急いで合流しようと一歩踏み出した彼女をザエクは引き留める。
動かないザエクに戸惑った表情を向けたアニーニャは、村の人たちと一緒に生き、自分の役目を果たすことを疑っていない。
ザエクは自分の怒りが今、村を飲み込んでいるような気がした。
「違う……アニーニャ。この村から逃げるんだ」
「へ?」
「二人でどっか別の場所で生きよう。ビコナ族がいないところで」
困惑が強いアニーニャは、上ずった声で言葉を返す。
「急に何言ってるのよ……。私は成人型としての役目が」
もう我慢ならなかった。ザエクは言葉を被せて叫ぶ。
「知るかよ、いい加減にしろよな。俺の前でいい子ぶるんじゃねぇよ。そんなんお前の望みじゃねぇだろ!」
一息で言い放ったザエクの言葉を受け、アニーニャは固まった。顔が引きつったまま渇いた笑い声が漏れる。
「そんな子供みたいなこと言ってられないの。こんな大変なことになったんだから、ちゃんとビコナ族のために役目を果たさないと」
「どうでもいい!」
刷り込まれた借り物の言葉をザエクは斬り捨てる。
「俺にとっちゃビコナなんてどうでもいいんだよ! お前が笑って幸せならいい。そんな本心隠して笑顔の仮面なんて付けてほしくない!」
「え……」
そう言われて、アニーニャはいつの間にか自分が微笑んでいたことに気付いた。掴まれていない手を頬に当てれば、口角は自然な上がり方をしている。自分を守る微笑。
「けど、成人型がどれくらい生き残ったのかも分からないのに、それじゃ滅びちゃう……」
「滅びればいいだろ。洞窟にいる成人型は生きてるかもしれねぇし、もしかしたらもうアニーニャだけかもしれない。でもな、ビコナの全てをお前が背負う必要はないんだよ。集落はここだけじゃない。俺はお前に好きに生きてほしい」
ザエクは行商で町に行くたびにビコナ族自体の話も集めていた。ヒューラント中心の町なので情報は少なかったが、それでも他に集落があることは分かったのだ。
ザエクは一つずつアニーニャがこの三年間教え込まれ、縋らざるを得なくなった一族の考えを剥がしていく。
アニーニャの涙に濡れた瞳が揺れた。唇が震え、声がかすれる。
「そんなの無理よ……。きっと見つかって連れ戻されるわ」
「こんなに混乱してるんだ。見つからなければ死んだと思うさ」
すでに二人の近くに人の気配はない。誰も他の人を気にする余裕などなく、安全な場所を求めて川を下っていた。一人として一族の宝である成人型の下に来ない現状に、ザエクは鼻で笑いたくなった。結局は種よりもわが身が大事なのだ。
「町とは反対の、クロードの方へ行こう。うまく逃げてるかも気になるし」
逃げ惑う人たちからアニーニャに顔を戻したザエクは瞠目した。顔をくしゃくしゃにして泣いていたからだ。あの日、成人型だと分かった時と同じ泣き顔だった。
「本当に、いいの? 逃げても、いい?」
「当たり前だろ。お前の人生は、お前だけのものなんだ。だからさ、一緒に見に行こうぜ、広い世界」
アニーニャは子どものように泣きじゃくり、何度も頷く。
「私も、ザエクと……一緒がいい。一緒に、いきたいっ」
腕で涙を拭ぐえば白い肌が見える。その表情から仮面は消えていて、ザエクはすすが付いた顔でにかっと笑った。
「もちろんだ。そうと決まれば全速力で行くから乗れ。ろくに泳いでないから足鈍ってるだろ」
ザエクはしゃがむと背中をアニーニャに向けた。
「うん、お願い!」
アニーニャは迷うことなくその首に腕を回してしがみついた。ザエクは湖に飛び込むと全速力で皆とは逆の方向に泳いでいく。水も熱くなっている気がした。
水中を漂っているものを避け、クロードの小屋へと続く川を下る。
「ザエク……ありがと」
一回り小さい背中を頼もしく感じたアニーニャは、耳元に顔を寄せる。
冷たい川の水のおかげで状況の整理がついてきた。落ち着いた心に先ほどのザエクの言葉が温かく染み渡る。
ザエクの返答はないが、聞こえているだろうとアニーニャは言葉を続ける。
「さっきは驚いてちゃんと言えなかったけど嬉しかったの。……私ね、本当は逃げ出したかった。でも、種の命運を握ってるんだって考えたら怖くなって」
「……それならよかった。俺の考え押し付けたのかなって少し不安になったから」
ザエクはそこそこの早さで泳いでいるのに息を乱すことなく言葉を返す。自分より大きいアニーニャが背にいるにも関わらず、彼女の体を何かにぶつけることはなかった。
見た目は変わっていないのに、身体能力と技術が上がっていて三年の重みがある。
「クロードのとこに着くぞ」
ザエクは徐々に減速し水面に顔を出した。まだここまで火は回ってきていないが、鼻が痛くなるような臭いが漂っている。
「ザエク、アニーニャ!」
陸に上がるよりも前に聞きなれた声が飛んできた。
弾かれるように声がした方を見れば、リュックを背負ったクロードが岸辺に立っている。その顔には焦りと安堵が混ざっており、二人に手を差し伸べてきた。
「よかった無事で」
「まだ逃げてなかったのかよ」
ザエクが先にクロードに引かれて陸に上がり、二人でアニーニャを引き上げた。
「二人が来るかと思いまして……」
クロードはアニーニャに視線を向けて一瞬言葉に詰まったが破顔する。
「また会えてよかったです。アニーニャ」
最後に会った時よりも身長はさらに伸び、顔立ちも大人っぽくなった。だがそれを口にはしない。
「クロードも元気そうでよかった」
クロードは川上、村の方へと顔を向け誰も来ないことを確認すると二人に視線を戻す。
「二人で逃げることにしたんですね」
その言葉がすぐに出てくるということは、想定済みだったのだろう。
「あぁ、村の連中は町に向かっているから、俺たちはひとまず反対方向に行こうかと」
「そうですか……なら、私に当てがあります。他国になりますがよろしいですか?」
ザエクとアニーニャは顔を見合わせると、力強く頷いた。
「村から出られるならどこでもいい」
「もともと国って言われてもよく分からないしね」
「では決まりですね。お二人の荷物も急ぎ詰めましたので、行きましょうか」
二人はクロードの用意のよさに驚きつつ、荷物を背負ってついて行く。
森を抜けたところに国境があるらしい。
ザエクとアニーニャは視線を絡めると、どちらからともなく手をつなぐ。それに気づいたクロードは目を瞬かせ口元を緩めた。
「やっと明日が来たんですね」
「うるせぇ」
ぶっきらぼうに返すザエクと、不思議そうな顔のアニーニャ。
三人の姿は深い森に消えて行った。
その後各地で二人の子連れの薬師が目撃される。
さらに数年後、とある国の町はずれに居を構える邸宅では、大きな池で遊ぶ二人の水妖人とそれを微笑ましく見守る人間の姿が見られるようになるのだった。