伊藤(仮名)
陸海軍人の少数は小規模な反乱を起こしては鎮圧される、そんな世相の繰り返しの中で亡霊と呼ばれた少尉の断罪が粛々と行われた。
あの日病院で語らった後、私たちが顔を合わせることは無かったので情報として入ってきただけである。当時の書記官によるメモや調書を眺めてみても、私個人の人脈から得た情報でさえ少尉の最期を連想させるものでは無かった。
「……」
世間は復員兵で溢れかえり物価の高騰やGHQの統治政策に翻弄される毎日の中で、不意に少尉のあの表情が脳裏に浮かぶ事がある。
ほとんど言いがかりの罪状を聞かされながら、少尉は何を思っていたのだろうか?
開襟組の冷徹な横暴だと憤る訳でもなかった。
自分に降りかかる不幸を嘆く訳でもなかった。
国に対する批判的な感情さえ全く窺い知れなかったのだ。
私は少尉に嘆いて欲しかったんだろうか?
それとも恨み言の一つでも聞きたかったんだろうか?
自分のしている事が、軍人として正しいのか間違っているのか。
理想に燃え必死に戦った軍人達を、わが身可愛さに断頭台に送るような非道が仕事だと言えるのか。
国民達でさえ、そうだ。
煽るだけ煽る新聞に、その記事を眺めながら一喜一憂する民衆。
負ければ敵国の元帥に感謝状まで送る者が後を絶たないこの民衆は、一体なんなんだ?
少尉達前線の軍人達が守ったものとは、守りたかったものとはなんなんだ?
「また少尉の資料を読んでいるのか?」
どの少尉かは言うまでも無い。
私が居る部屋の扉が静かに開き大柄な男の影が差す。
上司の新田だ。資料室の椅子に座り込み帰って来ず仕舞いの私の様子を見に来たのだろう。
頬杖を突いていた私に声を掛ける。
私たちの部署は一応軍属ではあるが、それぞれに階級は無い。名前さえ偽名だ。
ちなみに私はこの業務に就いてからは『伊藤』と名乗っている。あるいは少尉はその辺りの事情を知っていて私を『開襟組』と呼んだのだろうか?名など聞いても意味は無いと分かっていたのかも知れない。
「いや、あの少尉の事ですから。どこかでデカイ花火でも打ち上げてくれているんじゃないかと思いまして」
そんなことは起きない。幾人もの運命を終わらせた私が一番分かっていたはずなのに。
私の苦笑いを苦笑いで返しながら新田は呟いた。
「……寂しいな」
ポツリと。
不思議とこの感想が私の中でしっくり来た。
そうか。私は寂しかったのか。
置いていかれたと思った。
寂寥感に飲まれていた。
「いやですよ気持ち悪い。あ、聞きました新田さん?かのアメリカでは亡霊少尉と漢字で書かれたシャツが売っているそうですよ」
勝者側の余裕にも見え鼻持ちならないが、どうやら本当にやつらは着ているらしい。勇敢だった敵兵に対し敬う心、それに不死身の噂がキャラクタアとなったらしい。
もはやミッキーマウスのような扱いに少尉は靖国で苦虫を噛み潰しているだろう。
「ほらほら、まだまだ仕事残ってるよ。伊藤君には頑張ってもらわないとね」
「了解です。今日も引導持って病院めぐり、はりきって行ってきますね」
私の、日本の戦争はまだ終わらない。
さっさと逝ってしまった少尉に靖国で再会したとき、笑われないように働かなければ呆れられて仕舞うから。
私は油紙の束とおはぎを抱え部屋を後にする。
これからが私の戦争で、ここが私の最前線なのだと自分に言い聞かせながら。