越境
「……」
俺はまだ生きていた。
あの時微かな意識の中、泥の中でひっくり返っている俺に唾を吐きかけ米兵達は帰って行った。
その米兵の捨て台詞はやはり何を言っているのか分からなかったが。
「……」
意識が切れた。
意識が断続的に戻ったり消えたり。その隙間を縫うように俺は吹き飛んだ脚の患部を兵の亡骸から拝借したベルトできつく縛った。しかし漏れ出るように血は流れている。当たり前だった。こんな手当てとも言えぬ処置では間も無く俺は絶命するだろう。
「……」
また事切れていた。
時間の感覚も失った。
幾日か経ち曇りの日はまだ良いが晴れの日などはじりじりと足の患部を焦がすように照り付ける。二日目には小さな蛆が沸いた。三日目には線状の虫がうじゃうじゃと俺の脚に固まり、それ以降となれば日本の便所で見かけるような大きな白いヤツまでもが這い回るようになっていた。
当然虱はずっと身体を這い回っておりむず痒い。
「……」
思い返すと、あの時の爆発は日本兵の手榴弾だったのだろう。自害用に懐に忍ばせている兵士が多数いるようだと聞いたことがあった。それを俺が踏み抜いたということだろう。
「……」
また消えていた意識を取り戻したとき。
幾つか気付いたことが、ある。
あの『白い粉』だ。あれは虱を取るため、それと疫病防止の石灰なのだろう。もう雨に流されてしまったがあれが俺の身体に付いていたころはコレほど虱はひどくなかった。それに死体を放置すれば途端に病気が蔓延する。そのための白い粉だった。
あと銃剣で突き刺して廻っていたのも……止めを刺す以外の意味はあったんだろうと思う。
『こうなる』のを防ぐため、だったんじゃないだろうか?
動けない状態でこの沼地に放置されるということが、死ぬより辛い時間を過ごすことになると知っていたのかも知れない。
「……」
繰り返す意識の明滅。
また時間が飛んでいた。
昼は只じりじりと身を日に焼かれ、夜はぶるぶると山冷えに身体を震わせる以外……もう何も出来ない。出血により力が入らず自害も出来ない。ゆるやかに俺はただぬかるみで腐って行くことしか出来ない。
「……」
また目覚める。死んでいないのが惜しい。繰り返しだ。
唯一の変化と言えば……遠くで響いてくる爆撃音くらいだろうか。
もはや俺とは関係の無い出来事のように、他人行儀なほどささやかに響くあの音。
「……」
ぼう、とした頭で思う。
たとえば今ここに前線を拡大しつつ行軍する日本陸軍が現れても……足の無い負傷兵を救護する余裕があるだろうか?いや、無理だ、有り得ない。止めを刺すことすら億劫だと、さっさと行ってしまうだろう。
「……」
幾度目かの覚醒。もう良く分からなくなっている。
息を止めれば死ねるんじゃないか、そう思いやってはみたがこれが中々に厳しい。意思でどうにかなるものでもないようだ。いつも気絶した後、しばらくして目を覚ましてしまう。
そしてまたズキズキと疼痛に耐える時間を過ごさなければならなかった。
「……」
また、起きる。
まだ死んでない。
何日経ったか分からないが……不意にまぶたが落ちそのまま意識を失うことが多くなる。
意識を保つのもママならない。生きているのが不思議だった。
雨の時に流れ着いた山蛭が体中に食いついていたが、払う力が残っていない。痛みで汗を掻きはするのでその汗を舐めてみるが塩味が全くない。トックートックーという泣き声が大きなトカゲだと分かったのは最近だ。あいつも蛭たちのように俺を喰うのだろう。
蝿が顔に止まっても、蟻が耳の中で這おうと動けなかった。
「……」
更に日は繰り返す。
死にたい。もう辛い。もういやだ。
何日経とうと何回絶望しようと終わらない。
悪い冗談のようだった。
なんだこれは?俺が何をした?叫びたいが叫ぶことさえ出来ない。声が出せない。
骨と皮だけの、まさに亡霊だ。俺はようやく呼び名にふさわしい風貌を手に入れた。
「……」
おかしかった。
まだ生きているのが。
笑える力が残っていないのが残念だ。
「……」
釣りがしたい。
どんぐり独楽を回したい。
和夫は元気だろうか?いくは嫁に行ったかな?
「……」
「……」
「……」
「……」
ふふっ。
加賀は
悠久の時間を飛び越えるそうだが、石の階段もそうなのだろうか?
溺れたカエルは相撲が強いと聞いたことがあるとかないとか、答えてくれないか若人よ!
「こっち!生存者が居ます!生きてます!」
極彩色のウシに飛び乗り三千世界を練り歩くのだ!
泣き達磨の天運に任せて力コブをみせつけようぞ!!
「おい!しっかりしろ!今運んで……こりゃひどいな、腐敗がこんなに」
はっはっは!!
そうでもなさそうな引き金をひきまくれ!
蓮の花からの進言に耳を貸すな!!
はっはっはっはっはっはっは!!!