目覚め
真逆。
まさか。
そんな。
緩やかに風が吹いて、艶やかな黒髪をさらっていった。同じ色をした柔らかな睫毛が恥ずかしげに震えたのが分かった。優しい曲線を描いた頬は淡く色付いていて、少し薄めの唇は可愛らしい花びらで彩られたようだった。
ああ。
駄目だ。
どう足掻いても同じ結論にしかならない。
誰か嘘だと言ってくれ。
こんなことにならないように、気を付けていたのに。
自分がいかに無力なのかを思い知らせるように、心臓が激しく脈打っている。抗うことは出来そうにない。往生際が悪い、と自分でも思う。
だが、仕方ないだろう。
なぜって、それは。
それは、だって。
──その時、弾けるように高らかな声が脳裏に響いた。
『無駄な抵抗はやめることね!』
うるさい、こちとら初恋なんだよ!
【さかさまさか】
「……なんてこった」
パンナコッタ。ふざけている場合ではないのだが、ふざけなければ正気を保てそうにない。
目が覚めたら、こどもになっていた。
「どこの漫画だよ」
口から紡がれる耳慣れない幼い声。鏡には、声と相応の年頃であろう少年の姿。年の頃は小学生になるかどうかに見受けられた。
部屋には大人もゆうに眠れそうな大きなベッドやこれまた大きな本棚が壁一面に誂えてあった。小物さえも高そうで思わず身震いをした。正直な感想は「こどもの部屋じゃねえな」だ。
住み慣れたアパートの一室でないことはすぐに分かった。分からないわけがないとも言う。
一番の問題は、やはり今の姿だ。自分の幼少期とは似ても似つかない。
「待て待て、まったく知らない子なんだが? そもそもこどもの知り合いなんていないけど。というか、オレの体は? どうなってるんだよ」
頭を抱えて唸るが、今の状況となった原因らしきものの心当たりはなかった。代わりに思い出したのは、最後の記憶だ。
神代七緒。三十歳。
最後の日、誕生日を迎えた午前〇時ぴったりに、年の離れた姉と彼女の夫から祝いのメッセージが来たのだ。二人とも律儀に別々でくれることが、とても嬉しくてくすぐったかった。
返事を打っていたのは、コンビニの中だった。住んでいるアパートから徒歩五分で着く距離だった。いくら近くとも真夜中に行くなんて不用心だと分かっていたが、無性に肉まんが食べたくなくなったのだ。ケーキではなく。
目的の肉まんを買った時にスマートフォンの振動で気が付き、そのまま店内で返事を送ったのだ。
「送った、よな」
送ったメッセージが出た画面を確かに覚えている。
(でも)
文面が思い出せない。
普通の状況なら見返すなりできるのに、今は確かめようがない。頭では分かっていても、ポケットがあった辺りを手で探ってしまう。当然見つかるはずもなかった。
もどかしさが心を揺さぶった。
呼吸が浅くなってきて、両手で胸元を握り締める。
視界に入ったその手が、幼くて。
息が。
視界が。
ぼやけて。
『不安になった時こそ、まず深呼吸よ!』
弾ける声に、息を吹き返した。
吐いて、吸って。
また吐いて、吸って。
何度も、ゆっくりと呼吸を繰り返していく。
「……姉ちゃん」
涙で滲んだ視界を閉じて、七緒は縋るように姉を呼んだ。また声が聞きたかった。
七緒にとって年の離れた姉は親代わりでもあった。物心ついた時には親がいなかったのだ。彼女にとって、小さな弟と生きていくのはどれほど大変だっただろう。今でも七緒は頭が下がる思いだ。
姉はいつも笑顔だった。
颯爽とした質でいて、誰かの話は最後までしっかりと聞いて率直な物言いをしていた。勢いが良すぎると苦手に思う人も少なからずいたようだが、対人の距離感を計ることが上手かったので、最終的には仲良くなってしまうような人だった。
『出来た人』とはこういう人なんだろうな、と七緒は成長するにつれ良く思ったものだった。
でもそれ以前に、姉はいっとう大事な人だ。
「不安になった時こそ、まずは深呼吸」
だから。
「落ち着いたなら、情報収集だ」
七緒はいつも、姉に恥じない人間でありたいのだ。
「よく見てみれば、この子イケメンだな」
こどもの場合はイケショタと言うのだったか。
七緒は鏡の中の少年──おそらく今の七緒自身と向き合っていた。幼さばかりに気をとられていたが、改めて見るとなかなかの美少年である。
目は大きく可愛らしい。しかし、眉の形と合わせて見れば理知的に感じられる。綺麗な二重まぶたで、瞳の色は蜂蜜色。こども特有の柔らかさは見て取れるが整った輪郭で、少し厚めの柔らかそうな唇。短めに整えられた髪は黒に見える深い群青色だ。手足はすらっとしていて、このまま成長すれば端正な顔立ちの美丈夫となるだろう。
元の世界で七緒は、特筆すべきところのない平凡な容姿だった。身長も日本人男性の平均くらいで、体型は少しふくよか。奥二重で切れ長の目をしていた。髪や目は一般的な日本人の黒髪に焦茶の瞳だった。
「もし世界が違うって言われても納得するなぁ」
どう見ても漫画的配色、と呟いた。
容姿の次に服を見てみたが、これも外国映画とかで見る昔のパジャマらしいことしか思い当たらなかった。肌触りが驚くほど良い。絶対高いやつ。
「んん、次は部屋の探索か?」
捜し物は不得手なので思わず唸ったところへノック音がして、つい「はい」と返してしまった。
(あっ)
「待っ」
「失礼します」
部屋に入ってきたのは、中年の女性だった。
深い紅樺色の巻き毛を編み曲げ、薄藤色の瞳はやや小さめだ。顔の輪郭はふっくらと弧を描いていて、体型も同様にふくよかであった。
真白いエプロンの下には、丈が長い常磐色のワンピースを着ていた。
(メイドさんだ!)
古風な、映画とかで見るメイドさんっぽい、と七緒は思った。
女性は七緒──否、少年を見て感極まったように「坊ちゃま」と瞳を潤ませた。
「ぬか喜びしてはならないと思っていましたが、本当にお目覚めとは……キラセラ様に感謝を!」
「キラセラ様?」
聞き慣れない名前に首を傾げると、女性が信じられないものを見たような顔をした。
「坊ちゃまも毎朝キラセラ様にお祈りしていたでしょう? ええ、ええ、マーナは分かっております」
何をだよ、とは声に出さなかった。それよりも助かったのは、この女性──マーナの名前が分かったことだった。坊ちゃまと呼ぶからには、少年とはおそらく主従関係なのだろうことも。
「お誕生日から七日間も目が覚めず、きっと混乱してらっしゃるのでしょう」
「七日も眠ってたの?」
「……いいえ。眠っていたのではなく、生死の境をさ迷っていたのです」
苦しげにマーナは言って、潤ませていた瞳から涙を一つ落とした。慌てて指先で拭う仕草が痛々しかった。
そう感じるのは、きっと。
(オレはマーナさんの言う「坊ちゃま」じゃないんだ)
七緒が少年になってしまっていることは、七緒のせいではないと考えている。それは揺らがない。七緒だって大切な人たちと引き離されてしまったのだ。
マーナが言うように少年の今までがあって出来上がった状況ならば、少年は七緒と同じく三十歳を迎えた七緒になっているのではないだろうか。
誕生日に何らかの理由で死にかけた七緒が、七日後に目を覚ますと幼いこどもの言動をする。そのうえ、別名を言った場合に姉たちはどうするのだろうか。何を思うのだろうか。
そして七緒は今、どうすべきなのだろうか。
(よし)
記憶喪失ってことにしよう。知ってるふりは絶対無理だから。
一人頷いた七緒の耳に、マーサの声がふいに入り込んできた。
「少し顔が良くて金持ちだからと坊ちゃまを扱き下ろすだけでなくお命を狙うとは、ガデマの性悪男が調子に乗って!」
末代まで呪ってやる、と怒りもあらわに言い捨てた。
「あの、マーサさ」
「坊ちゃま!」
「ハイ」
こわい。
「遅くなりましたが、お医者様をお呼びします」
「ハイ」
好きにしてくれ。
「坊ちゃまが目覚めたからにはあの男の好きにはさせません。そうですよね」
「ハイ」
その男が誰だか知らないが。
「良いですか、よくお聞きください」
「ハイ」
何を言われるのか想像もつかない。
「今の時代は内面が肝心です」
「ハイ」
どこの世界でも似たような話あるんだな。
「坊ちゃまのお優しく気高い志に惹かれる人がきっと現れます」
「……はい」
良い子、なんだろうか。そうか。
「シェナ坊ちゃま」
「はい」
シェナ君っていうのか。
「ご自分の姿に気落ちしている暇はありませんよ」
「はい?」
自分の姿に気落ち?
「外見に気を遣うのは当然ですが、それで全てが決まるわけではありません」
「……はあ」
つまり、何が言いたいんだ。
「ガデマの性悪男を懲らしめてやりましょう! 坊ちゃまがおっしゃっていたように、容姿に恵まれたとは言いがたくとも確かに勝ち目はあります!」
「は?」
シェナ少年めちゃくちゃイケメンなんだが。