34歳
それから9年後。34歳になった僕になら、あの頃、渡来が二次会の席で突然、僕に語りかけた言葉の数々が理解出来た。
16歳の頃、思考の檻に閉じ込められた僕は、18年の年月を経て、気が付いたら、社会の檻に閉じ込められていたのだ。
毎日毎日、通勤電車に揺られて、上司と部下の人間関係の調停に揉まれて、家に帰っては妻の小言を聞き流しながら、娘に今日は何をしたのかと彼女らの面倒をみる。
こんな星々の輝きも神も消え去った僕の人生に一体何の意味があるというのだろうか。
僕はマンションの一室の小さなベランダでビールを飲みながら、星々の輝きも疎らな夜空を見上げてそんな感慨に耽った。
「パパ、何してるの?」
すると、7歳の娘の朱莉が僕に話しかけてきた。
僕は右手で握っていた飲みかけのビール缶を地面に置くと、娘を抱きかかえて、一緒に真っ黒な空を見上げた。
「パパはね、今、お星さまをみていたんだ」
「えーでも、全然、見えないよ」
都会の夜空はビルやマンションの光によって、空が明るすぎて、星が見えなくなる。そんなことをあの二次会の席で、渡来に教えてもらったっけ。
そんな古い記憶を呼び戻していたら、気付くと、娘の頬がぽつりぽつりと濡れ始めた。最初は雨でも降っているのかなと思ったが、どうやら僕の頬を伝って涙が流れ落ちているようだった。
「パパ、なんで泣いているの?」
もう、あの日みた星々の輝きは、僕の世界から抜け落ちてしまっていた。
そして、気が付いたら、僕は一般的な世間の人々と同じように、大学に進学して、就職を果たして、結婚をして、消費するように残りの人生を過ごしていた。
たまにふと考えることがある。人類は戦争と革命の歴史を繰り返した結果、無駄に高い高層ビルに無駄に進歩した高度な文明を築き上げた。そうして人々が掴んだ幸せの形が広告付きコンテンツを消費するための小さなスマートフォンでしかないなんて、なんて皮肉なものだろうかと。きっと、人類はこれ以外の幸せの形があったのではないのだろうか。本当にこの世界の在り方が、最も幸せな世界の形なのだろうか。果たして、こんな在り来たりな人生に、こんな無駄に消費してばかりの世界に、一体、何の意味があるのだろうかって。
「パパはね。お星さまの見えないような、明るいけど真っ暗な世界の中で、お星さまの代わりに涙を輝かせているのよ」
後ろから、もう一人の娘の羅夢を寝かしつけて、お風呂に入っていた妻がタオルで濡れた髪の毛を乾かしながらベランダにやってきた。
最近は僕の仕事も忙しくて、休日に娘の面倒も見れず、デートすら行けない僕に不満たらたらの彼女であったが、今はその表情は穏やかだった。
「えーパパすごーい!神様みたーい!」
「もう寒いから、中に入りなさい」
僕は妻に娘を預けると、シャツの袖で涙を拭った。
妻は娘を部屋に入れると、僕の隣へそっと寄り添った。そして、地べたに置いてあった飲みかけのビール缶を拾い上げて、彼女は一口飲み込んだ。
「どうしたの、何かあったの」
「少し、懐かしい昔のことを思い出してさ」
「それはやけに明るい都会の光の中でも見えるような真っ白い月のようだった?」
「あぁ、ふと真夜中に空を見上げると、いつもそこにあるんだ」
妻は少し苦笑すると、僕にビール缶をそっと手渡して、軽くキスをした。
「まるでいつか観た恋愛映画の台詞のようね」
「はは、間違いない」
僕たちは窓を閉めて、部屋の中に入ると、電気を消して、お互い娘たちを抱き合って、いつも通り、床に就いた。
都会では今日も高層ビルやマンションが煌々と光を放っていて、星々は輝きを失っている。
だけど、それは決して絶望することではなかった。なぜなら、それは見方を変えると、僕たちがあの星々の代わりにこの地上を照らしているってだけのことだからだ。
それに、神はいなくても、僕も妻も最愛の娘たちもちゃんとここにいる。消費してばかりの世界で、この腕の温もりだけは確かだった。
僕にはもう、それだけでこの世界は十分だ。
そう思い直すと、P-9だった僕は電源ボタンをOFFにして、死んだようにぐっすりと深い眠りについたのだった。