25歳
あれから18年後、当時16歳だった僕は34歳になった。
気付けば、僕は結婚して、娘を2人も預かって、会社でもちょっとだけ出世した。その代わりに、顔は老けて、そこそこ太って、おまけに妻とはあんまり上手くいっていないときたものだ。
僕と渡来は高校3年生の最後まで付き合って、その後、別れた。
理由は進路の違いだった。僕はそのまま大して勉強しなくても入れるような都内の中堅大学の文学部に進学する一方で、彼女は日本屈指の超難関大学の数学科に進学する為に浪人することにしたのだ。
そうして、お互いの人生の岐路が明確に異なることを理解した僕たちは卒業と同時に別れを告げることにした。それはお互いに好きだからこそいずれ離れてしまう結末がみえるのであれば、せめて自らの手で関係を別とうという幼いながらも賢明な大人としての決断だったと思う。まるでいつか観た恋愛映画のように。
しかし、25歳の時、高校の同窓会が開かれて、僕と渡来は再会した。
引っ込み思案な彼女の面影はとうに消え失せて、化粧もファッションも大人の気品を漂わせていて、最早、別人のように思えた。
渡来に僕と別れた後の話を聞くと、どうやら高校卒業後、奥さんと上手くいかずに離婚した飯田と寄りを戻したらしい。そして、飯田に付きっきりで面倒をみてもらったおかげもあって、彼女は念願の超難関大学に入学して、卒業後、そのまま大学院へと進み、航空宇宙工学の研究をしていたみたいだ。どうやら数学の研究で見つけた謎の定理や方程式は、航空宇宙工学の計算式で使われることがあるみたいで、元々、宇宙一般に興味があった彼女はその進路に向かうことを決意したのだ。その時、彼女は一次会終わりの二次会の席で興味深いことを教えてくれた。
「知ってる?ゲーデルの不完全性定理って?」
渡来はそう問いかけると、日本酒が注がれたおちょこを口に運んだ。あれから9年後、僕たちはお酒が飲める歳になったのだ。
周囲は二次会ということもあって、一次会で入ったお酒を加速させて、彼ら彼女らは大いに盛り上がっていた。
何だかんだ旧知の友人と再会すると、古い本能の習慣なのか、時間を共にした相手ゆえに自然と心を許してしまうものだ。
かくいう僕は当時、学校で心を開ける人間は山田と渡来の二人しかいなかった。その内、山田は23歳の頃、バイクの事故で死んでいた。一方で、渡来の友達は僕だけだった。
となると、必然的に僕らは二次会の席でも二人きりで話し合うことになった。
「知らない知らない。これ以上、俺に知的マウントは取らないでくれよ」
僕は何杯目か忘れたレモン酎ハイを口に運ぶと、冗談交じりに反発した。
「そんなんじゃないわよ。まあ物凄く簡単にいうと、数学の世界では、自らが自らの正しさを証明することが不可能なことがあるの」
「それが一体何だっていうんだい?」
「そうすると、この世の創造主である神は、自らが生み出した数学という世界で、自らが証明することが不可能なことを生み出してしまったということになるの」
「ほうほう、それで」
「だけど、神は全知全能な訳だから、自らが証明不可能なものがあったら、全知全能ではなくなる。それゆえに、矛盾するって訳。よって、神は存在しないの」
「ふーん。まあ、よくわからないけど、神は存在しないってことだ」
「そう。あの日、あなたと寺小屋の傍で見上げた星々の輝きも、今では科学の言葉ですべて説明ができるし、あの日、世界から取り残されそうになっていた私とあなたを次の年へと導いた神様も本当はいなかったってことなの」
僕はふふと鼻で笑うと、味噌の乗った皿にキュウリを付けて、呟いた。
「あの日、僕と君を次の年へ導いたのは神じゃなくて、仏じゃないか」
「もう、そういうことじゃないわよ。あなたって本当バカね」
渡来は呆れたように投げ返すと、僕たちは二次会終わりに、当時、お互い恥ずかしくて果たすことのできなかった情事に身を委ねて、別れた。