P-9
それから学校は冬休みに入った。今日は12月31日。そろそろNHKのテレビ番組『ゆく年くる年』で年明けを告げる除夜の鐘が鳴り響く時間だ。
あの後、飯田は僕たちを職員室に呼び出したことを忘れたのか何なのか、特に僕はお咎めをもらうことはなかった。
そして、僕と渡来は特に会話することもなく、いつも通り学校生活を送って、いつも通りクリスマスを一人で過ごして、いつも通り冬休みがやってきた。
だが、一つ違うことがあるとすれば、あの日以来、僕は思考の檻に囚われてしまったということだ。すなわち、僕の世界からこの世界を彩る音や色や輝き、その全てが抜け落ちてしまったのだ。
なぜ、渡来は飯田を好きになったのか。なぜ、渡来は僕ではなく飯田が好きなのか。なぜ、僕は渡来と話すことが出来なかったのか。
確かに、どの疑問もある程度見通しの付くものではあった。
例えば、彼女のあの日の言葉を頼りに考えると、飯田は渡来の知らない数学の世界を見せてくれたからであり、僕は渡来に彼女の知らない数学の世界を見せることができないからであり、僕はそんな現実を知っているからこそ、彼女に期待しても振られる結果が見え透いているから、渡来に話すことができなかったからである。
それでも、僕は四六時中、そんな答えの見え透いた疑問を頭に浮かべていた。
それは詰まるところ、僕は現実の答えを探していたのではなく、理想と一致しない現実の答えに納得できなかったのだろう。
そして、気が付けば、僕は不毛な思考のループを繰り返すアンドロイドになっていた。名称は適当にP-9と名付けることにした。特に深い意味はない。
P-9は思考した。恋愛というものはなんて不合理なものだろうかと。恋愛はいつ誰を好きになるかを選ばせてくれないし、それで好きになった相手に振られでもしたら、否応がなく引きずるじゃないかと。つまり、恋はその輝きよりも、哀しみの方が強いのだ。
P-9は学習した。誰かを好きになるってことは、コストパフォーマンスが悪いことなのだと。なぜなら、その人を好きな気持ちに比例して、いついかなるときも、その人のことで頭が一杯になるからだ。そして、それはいい妄想から悪い妄想まで、人間の心をドキドキ、ハラハラさせて、その想いが叶わないと分かったのであれば、世界から一気に色が抜け落ちてしまうからだ。したがって、人を好きになるってことはかなり面倒くさいこと。そう、P-9は恋愛に対して論理的に結論付けた。
P-9はそんな恋愛の不合理とコスパの悪さを嘆いていると、以前、渡来が純喫茶で呟いた言葉を想い返した。
あれは確かP-9が渡来に今後、飯田とどうしたいのか尋ねた時のことだ。彼女は寄りを戻したいと切実に呟いていた。それに対してP-9が飯田は結婚しているでしょと返すと、渡来は愛は法外なものだからと凛として答えたのだった。
要は、恋は合理的な法則に則ったものではなく、不合理な感情に則ったものということなのだろう。渡来の言葉を反芻していると、あの時の彼女の言葉の意味に気付かされた。
だが、それと同時に、それが一体、P-9の人生の何の足しにになるのだろうかと考えた。そんなことに気付いたところで、きっと渡来は飯田のことを未だに好きだし、何なら渡来は飯田と寄りを戻して2人仲良くイチャイチャイチャイチャイチャイチャとクリスマスを仲睦まじく過ごしたのかもしれない。あの日、授業中に飯田が僕たち2人の会話を目撃してヒステリックに激怒したのも今なら理解できた。恋は人を神経質にする。ダメだダメだ、僕はロボットのはずだ。こんなことを考えても何も分かるはずがないのだから、分かるはずのない答えを考えるのはやめよう。それが合理的な考え方というものじゃないか。P-9はそう自分に言い聞かせた。
そんなこんな真っ暗闇な自室でベッドに仰向けになりながら、憂鬱な思考のループに浸っていると、階下から年明けを告げる鐘の音が鳴り響いた。すると、明けましておめでとうという華やかな声の応酬と明るい笑い声が聞こえてきた。例によって、家族が一階のリビングで年明けを祝っているのだろう。今回はP-9は具合が悪いから部屋に籠ることにしたのだ。
ドシドシという元気よく階段を駆け上がる音が聞こえると、扉がトントンと軽くノックされた。すると、次の瞬間、P-9の母親が顔を出して、大丈夫?明けましておめでとう!とこれまた明るい声を一方的に投げかけてきた。P-9は白旗を振るようにぶらぶらと右手をあげて、愛想なく、明けましておめでとうと返すと、母は年越しそば用意しているからねと呟いてそっとドアを閉めた。
P-9は明けましての後、必ずしもおめでとうが続くわけではないことを初めて学習した。
そして、どうやら、P-9の心が年を越すにはまだ少し時間がかかりそうだった。