初恋
こちら、言葉の檻に閉じ込められたP-9、応答せよ、応答せよ・・・
僕はP-9。高校2年生だ。気が付いたら、僕は言葉の檻に閉じ込められてしまった。
理由は失恋。高校2年生の春、席替えで新しく隣の席になった渡来愛子さんに間接的に振られてしまったからだ。
渡来さんは地味だけど、温かみのある女性だ。果物に喩えると、みかんだろうか。みかんは有り触れているけど、人の心を和らげてくれる。
僕が渡来さんを好きになった理由は取り留めもない授業中の出来事から始まった。
将来、何の役に立つのかも分からない数式の羅列を唱える数学の教師の呪文を右から左に流して、窓から見える入道雲をボーと眺めていると、隣からトントンと肩を軽く叩かれた。
振り向くと、渡来さんが申し訳なさそうな表情を浮かべて、教科書を見せて欲しいと嘆願してきたのだ。
僕はどうせ教科書など読まないから、そのまま黙って渡してあげると、彼女はそれは出来ないとわんばかりに両手を左右にふるふると振った。
僕はどうしたものかと軽く頭を悩ませていると、数学の教師の飯田が僕たちが授業中であるにもかかわらず雑談をしていると思ったのだろう、あろうことか僕の名前を指名して、この黒板の例文を解いてみろとと宣戦布告して来たのだ。
勿論、教科書なんざ読んでない僕は最初から白旗の敗北宣言。すみません、分かりませんとぶっきらぼうに返事をすると、飯田はじゃあ授業中にひそひそと喋るな!!とヒステリックな罵声を僕たちに浴びせた。
たかだか例文の1問くらい生徒が解けなかったからって、まるで自分の教育的失敗を責められているような気分にでもなったのかしらと僕は飯田の神経質さに呆れていると、忽然と、渡来が立ち上がって、先生、すいません、私が教科書忘れたので借りようとしていただけなんですと喉から絞り出すような声をあげて僕を弁明してくれたのだ。
飯田は何を?と鬼の形相で僕たち2人を睨めつける否や、他の生徒の時間を奪っていると気づいたのか、2人とも、放課後、職員室へ来るようにと恨めし気に言い放った。
僕は内心、あー面倒臭いことに巻き込まれたなと気落ちして背もたれに軽くもたれかかっていると、渡来がそっとごめんねと書かれたノートの端切れを渡してきたので、その切れ端を受け取って数学の教科書に挟んで、そのまま彼女に渡してやった。
そうこう気だるげな気持ちで数学の教科書の代わりに週刊少年ジャンプを開いて、授業を真面目に受けている振りをしていると、気が付けば、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
飯田は次の授業までに今日の範囲の教科書の基本問題と応用問題をやってくるようにと授業を締めると、僕たちの方を軽く睨んでから教室をスタスタと立ち去った。
うっわーまだ根に持ってるよ飯田の奴と少々暗澹たる気持ちで沈んでいると、後ろの席で山田がお前のせいでいつもより宿題の範囲増えたじゃねーかよと少々耳の痛くなるクレームを飛ばしてきた。
知らねーよそんなんと多少の罪悪感を覚えつつ軽く反発すると、隣の席の渡来が顔色を真っ青にして下を俯きながら、先ほど貸した数学の教科書を黙って僕の机に置いた。
おい大丈夫かと軽く声を掛けてはみたものの、渡来はこの世の終わりかのようにずんと暗い強張った表情を浮かべているままだった。
と、とりあえず、一緒に飯田のところに謝りに行こうぜ、職員室は他の教員の目線がある手前、アイツもそんな怒ってこないってと励ますと、渡来は少し表情を和らげてこくんと頷いた。
ホームルームを終えると、キーンコーンカーンコーンと放課後を告げるチャイムが鳴った。
僕は山田に何か映画でも観に行こうぜと話しかけると、山田は、いやお前、放課後に飯田の下に来るように言われてただろと返された。
昼飯を食べて、体育の授業で身体を動かして残りの授業を消化した僕はすっかり飯田の件を忘れていたのだ。
そんなこんなで隣の席の渡来の方を振り向くと、渡来は既にいなかった。そして、教室の後ろの扉を眺めると、渡来がそそくさと鞄を肩からぶら下げて、廊下へと出ていこうとしているところだった。
急いで机の中の教科書を荷物に詰め込むと、僕は山田にやっぱ映画はまた今度なと声を掛けて、素早い足取りで渡来の下へと向かった。
渡来の隣に着いて、ごめんごめん、危うく忘れるところだったよと呟くと、渡来は行きたくないと涙混じりの声で呟いた。
僕は渡来の顔をそっと覗き込むと、彼女は顔面蒼白な表情を浮かべて、身体を小刻みに震わせていた。
えちょそんなに?とビックリしておどけた声をあげると、彼女はただ黙ってこくりと頷いた。
どうしたものかと頭をポリポリと掻いていると、そこで僕は名案を閃いたのだ。
行きたくないなら、行かなければいいじゃないか、そう僕は渡来に提案したのだ。
しかし、彼女はそれじゃあ後で怒られるよと震える子羊のようにか弱く瞳を揺らしていたので、
僕は飯田も今朝のことなんてどうせ覚えちゃいないよと返すと、それでもと彼女は首を横に振った。
じゃあこうしよう、もしも次の授業で飯田が何か文句を言ってきたら、職員室へ向かう途中に急に渡来の具合が悪くなったから、僕が看病していましたって僕が説明する、だから大丈夫だよ、と提案すると、渡来は少し迷った風な表情を浮かべた。
それなら駄目押しで、僕は保健室の先生と仲がいいから事情を話せば後で偽の診断書くらい書いてもらえるよと嘘を吐いた。
すると、交渉成立。初めて渡来は命を救われたかのように晴れやかな笑顔を浮かべた。
そして、僕はそんな彼女の笑顔に少し心を打たれたのか、柄にもなく、このままどっか一緒に遊びにいかないかといわゆるデートのお誘いをしたのだ。
彼女はえと素っ頓狂な声をあげると、少し考えた後、これまた黙ってこくりと頷いたのだった。