悪魔(デビル)の嘘
随分と賑やかなパーティーだ。
「随分と賑やかなパーティーだね」
「は、貴女もそう思ってたとはね」
右隣で女にしては高い身長の女がシャンパンを口にした。ワイングラスの中に少しだけ残っていた赤ワインを飲み干す。初対面のくせに、やけに親しそうに話しかけてくる。スーツの後ろを少しだけ整えておいた。
「へぇ、何それ。おめかしなわけ?」
「おめかし?違和感を正すのはおめかしか?」
「なぁんだ、アタシの美貌に惚れたのかと」
「良く言う」
デイビッドは、ワインのお替わりをと足を動かす。ワイングラスが空というのは、どうにも落ち着かない。
正直、美しくないとは言い切れない。女は、真紅のワンピースドレスにベルトを巻き、茶色の胸下丈のベストを着ていた。優雅で上品なワンピースドレスと凛々しく格好の良いベストが合うし、ベルトのせいでそのバディラインがよく見える。
同じ真紅のお洒落なハイヒールと茶色のショートの髪はデイビッドをそそる。パーティーなのだからとはしゃいで乗せられても良いのだが、デイビッドは今夜は踊りたくなかった。
「どこに行くわけ?」
後ろから、妙に魅力的な女の声が聞こえる。もしや着いて来たのか。何故自分に?と思いながらデイビッドは振り返る。興味津々とでも言うかのような女の瞳に魅せられそうになりながら、フッと笑って右手のグラスを人差し指と中指で揺らして見せる。
「赤ワインの追加さ」
「優雅に気取っちゃって」
「貴女に言われたくはない」
立ち止まっていた足を前に出し、ワインマスターという名札を付けた若いソムリエにグラスを預ける。
「3杯目、スイーツを食べる予定はない。どれが良い?」
「では……こちらではどうです」
「それを貰う」
ワインマスターから受け取ったグラスを女の前に持ち出し、「毒見でもするか?」と問えば、女は鼻で笑って、「死にたくないんでね」と変な断り方をした。
「毒が入っている確証でもあるのか」
「ないね。その前に、アタシワインは嫌いなんだ」
「ここの前で言うか?」
視界の端で、ワインマスターが深いそうな顔をしたのが見えた。面倒事に巻き込まれるのは御免だ。デイビッドが女を諫めると、女は軽快に乾いた笑みを漏らした。
「カハッ、悪いねBoy。次来るときには飲めるようになっとくよ」
ハラリと女がワインマスターに手を振って、ふいっと男のワイングラスを奪う。
「何する気だ?」
「邪魔者は置いとくの」
「は?何の邪魔なんだ」
「ダンス」
デイビッドが思い切り顔をしかめた瞬間、女はにやっと笑って側にあったテーブルにコトンとグラスを置いた。
「アタシと踊る気、ない?」
女は、思ったよりも踊るのが上手かった。デイビッドのカクカクとした踊りの方が随分と滑稽に見える。しかめ面を崩さないデイビッドの足を、女は遠慮なく踏んづけて来た。
「何の真似だ、女?」
「何その呼び方。アタシ、アンリール」
「は、随分と女らしい名前だ」
「馬鹿にしてないで踊りなよ、遅れて恥かくのはアンタだよ」
皮肉を言えば足元がおぼつかない。両方のことを一度に行うのは慣れているはずなのに、踊りなんて洒落たものはどうにも出来ない。自分の姿を見てカラカラ笑うアンリールの赤と茶色の瞳を力強く睨み、デイビッドはアンリールを本気でエスコートし始める。
「へぇ、本気でやれば出来んじゃん」
「しぃっ、喋るな。喋るとほら……出来なくなる」
「アハッ、アンタ面白いね。名前は?」
「デイビッド」
「男らしいガタイにピッタリじゃん?」
「喧嘩を、売って……いるのか」
「カハッ、よろよろじゃん、可愛い」
女であるアンリールに可愛いと言われたのが悔しくて、「女が言うな」と言えば、アンリールは「男と女の区別とか嫌いなんだけど」と吐き捨てた。どうやらデリケートな部分らしい。デイビッドは心に性別の話題はNGと刻んだ。
アンリールは案外踊りが上手かった。肩について外にはねる髪の毛がユラユラ揺れて、ボディはしなやかに曲がる。ハイヒールでもステップは軽快で、踊りを楽しんでいるようだった。
「っと」
デイビッドにはアンリールの様子を見ている暇はない。よそ見をしたり何かを考えるとヘマをする。ここに来た用件だけを考えて、アンリールをエスコートする。
「デイビッド、終わりだよ。お疲れさん、ダンス下手にしてはよくやった方だと思うけど?」
「どうも癪だな、次に貴女と踊る時にはもっと上達して貴女をからかってみようか」
「へぇ~、そんなにやれる自身でもあるわけ?言っとくけど、あんなダンスで全力とか無理無理。アタシ、もっと上手いから。見ときな、ヤバそうなヤツと見本見せたげる」
これでアンリールの束縛から解放される。見ているふりをして人混みに紛れ、仕事をしよう。デイビッドは、テーブルの上に置いてあったワインを手に取って、アンリールに軽く手を振った。
「見ておこうかな。次に貴女をからかうために」
「はーっ、嫌味なヤツだね、アンタ。そんなんじゃ嫌われるよ。ま、良いけど。ハイ、Boy?アタシが相手するよ」
言葉遣いや物言いは乱暴なのに、一挙一動や本番は上品で優雅なアンリールに、デイビッドは微かに惹かれていた。あんな人は今までに出会ったことがほぼ無い。ずっと昔に恋焦がれ、めでたく結ばれかけた相手も、アンリールのように愉快で素敵な人だった。
と言っても、デイビッドはアンリールのことなど何も知らないし、仕事を全うするためにパーティーに参加しているのだ。アンリールはきっと暇潰し程度で来ているのだろうが、デイビッドにとってはこのパーティーは仕事の現場なのだ。
「……からかっているのか、ワインマスター。この不味い酒は何だ」
ワインマスターから見て死角になる位置で、デイビッドは顔をしかめてワインを飲み干した。大広間の出入り口に人気が消えたタイミングを見計らって、デイビッドはクスと笑った。
「申し訳ないよ、アンリール。貴女の踊りはまたいつか、この瞳に収めよう」
空のグラスを持ったまま、デイビッドはそっとパーティー会場である大広間を出る。彼女の踊りに興味がないわけではないし、むしろ見てみたいのだが、仕事と我欲は別である。
パーティー会場から外れた場所にある、仕度室の一室を覗く。デイビッドの元の衣装が置かれている専用の部屋だ。VIPなんて洒落た立場ではないし、ただの参加者だが、何と言ってもこのパーティー、格のお高いお貴族なんかが来るようなパーティーだ。参加者1人1人に個室が与えられるのは当たり前なのである。
「後は……これだけか」
壁に立てかけてあった仕事道具を手に取って、デイビッドは部屋を出る。仕事道具は、現場に置いておく。茂みの中は、案外バレないものだ。部屋の前に戻って来て、地味なシャツとズボンに付いた少しの埃を払う。
「ソムリエの会場入り口は……あそこか」
廊下を左に曲がってしばらく歩くと、右側に金のプレートが上に付けられた、少し重苦しいドアが見えてきた。そこを少しだけ開けて、「ワインマスター」と呼びかける。
「は?あ、なっ、貴方は先程、3杯目のお客様――」
「困るねマスター、呼び方がいけ好かねぇぜ。アンタは俺の時代にはいなかったな。随分と時間が経っちまったもんよ」
少しだけ言葉遣いを荒くしておく。そうすれば、先程の態度は表向きであったかと、自分に対する態度が本当だと誰もが錯覚してしまうものだ。
それに引っ掛かったのか、ワインマスターは訝し気な顔から笑顔へと表情を変えた。
「先達でございましたか。ぺアドロ、少しだけ変わって頂けますか?私はこの方と少々お話が」
乗せられやすくも話が通じるタイプのようで、ワインマスターは側で待機していたソムリエに声をかける。ぺアドロと呼ばれた彼は、デイビッドを一瞥し、丁寧に会釈をすると、ワインマスターの代わりにワインボトルの前に立った。
「何かお話がお有りなのでしょう?こちらでお待ち下さい、すぐに戻ります」
微かに開けていたドアの隙間から、ワインマスターは滑り込むように身体を入れて来た。どうやら着替えてくれるようで、どうにも親切なマスターだ。元々デイビッドはこんなところで働いたこともないし、働きたくもない。
すっとぼけた顔を作って、デイビッドはワインマスターに尋ねる。
「ほぅ、丁寧なこっちゃ。着替えてくれんのかい?それならそれでいいぜ。あ、同僚とかにゃ秘密にしてくれよ?さっきの、ペドロとか言うやつにもな」
「あぁ、ぺアドロでございますか?彼とはプライベートでの付き合いもございません、心配は無用ですよ」
あくまでも先輩で客という立場のデイビッドに、何か訳アリでこのパーティーに侵入してきたのだと完全に思い込んでくれたようだ。少しばかり悪い笑みをして、彼は支度部屋へと戻っていった。
デイビッドは、ふぅと息を吐いて、壁にもたれかかる。仕事とはいえ、演技をするのは疲れる。そもそも、デイビッドは演技が上手い方ではないのだ。演技をするよりも、カーニバルを開催する方が性に合う。
「お待たせ致しました、参りましょうか。人のいないところへご案内致しましょう」
黒塗りのドアを開けて、ワインマスターが顔を出す。シンプルだが目に優しい赤のチョッキと白のシャツだ。何とも言えない組み合わせに顔をしかめてしまった。
「?どうか、されましたか?」
「え?あ、おぅ。敬語とかいらねんだよな、ほら、お前も俺と同じくラフで良いぜ。俺ももう、ここの従業員じゃねぇ。名前は?」
何とか誤魔化すと、彼は人の良さそうな笑みを浮かべて頭を掻いた。
「あぁ、なるほど。オレはレバン。2年前からワインマスターに就任したんだ。アンタは?」
よくもさっきは不味い酒を寄越したな、レバン、と内心唾を吐き捨てながら、デイビッドは適当な名前を考える。
「俺ぁマルクス。ワインマスターにゃなったこたぁねぇよ?先達だからってアドバイスを求めんのはなしだぜ」
「はは、分かったよマルクス。でも、好きなワインくらいは教えてくれたっていいだろ?」
「え?」
びっくりだ。つい素が出てしまった。ソムリエの会話でこれが初対面の会話の話題の定番というわけでもなかろう。当たり障りないワインの回答なんてあるか?とデイビッドは頭を回す。
「あー、お前が注いでくれた2杯目だよ。名前なんて言わなくても分かるだろ、ワインマスター?」
軽く煽る感じで答えれば、向こうも何も言えやしないだろう。ここでヘマをして気まずくなる方が、カーニバルは盛り上がらない。尤も、レバンは先程からの会話から、こういうことには予想通りの回答をしてくれるのだから、デイビッドが不安がる必要もない。
レバンは、柔らかい笑顔で「あれか!へぇ、マルクスは『ガルビター』みたいなのが好きなのかと思ったぜ」と言っている。何だその酒。カッコつけか?
「あー、『ガルビター』なー……たまにはああいうのも良いが、俺ぁアレに惚れてんだよ」
「女性が好む酒なのに、そんな体つきでも舌は女よりなんだね、マルクス。オレは『リューク』以外考えられないや」
「おぉ『リューク』か!俺、それこの間薦められて飲んだぜ!あれぁ美味かった!」
これくらいでいいだろう。レバンにとっては好印象だし、こんなことしなくてもデイビッドの話術とレバンの純粋さならサクサク進むはずだ。
レバンはデイビッドの一言に興奮して、1人で語っている。デイビッドは苦笑して、レバンの肩をつついた。
「ん?マルクス?あ、ごめんオレ、『リューク』のことになるととまんねぇの。で……何か、あるんだろ?オレに出来ることなら、出来る限りやってみるよ。これからもマルクスとは、酒の話をしたい。事が終わったら、番号を交換してくれよ」
「いいぜ。が、事が終わるまでに逝っちまわなかったらな?」
デイビッドが声を潜めてレバンを叩くと、レバンはニヤリとした顔をいきなり歪めて顔色を悪くした。
「あぁー大丈夫だぜ兄弟。人殺しとか物騒なモンは、お前にさせる気ねぇからな」
「そうか……なぁ、早く教えてくれねぇか?」
「あぁいいぜ。……場所を変えるまでもないな。俺の想定してた場所に行っても良いか?」
「おぅ」
レバンは怪しむこともなくデイビッドに着いて来る。従順な子犬が懸命に逆らうように泣き喚いて、自分を恐怖の対象として見てくる瞳は、何度見ても飽きない。その瞳を、今見に行く。
デイビッドには、自分が狂っていて、サイコパスだという自覚があった。それがあるだけまだマシだ。
「レバン、今からちょっと変な要求をするぜ」
「ん?あぁ、良いけど」
死角になりやすい小さな小さな庭園の外れにやって来た。緑以外の色がないような場所に、柵のように植えられた茂みが盛り上がっている部分を確認して、デイビッドは地面を指さした。
「ここに寝っ転がってくれねぇか」
「……?マルクス……?」
状況確認に忙しかったデイビッドがなかなか寝転がらないレバンの方をふいっと見ると、彼の顔は微かに上気していた。その理由に気付くのに3秒を要したデイビッドは、思わず「ぶははっ」と吹き出してしまった。
「なっ、何を考えてるんだか知らねぇが……そんなことをするために来たんじゃねぇと思うぜ?」
「えっ……だって、事が終わるまでにいくな、とか、死角で寝転がれ、とか……」
「は、ははは……!冗談きちぃぜ、レバン。俺ぁお前と遊ぶ暇はねぇの。早く付き合ってくんね?」
「あ、おぅ……」
誤解を解いた後で、デイビッドは心の中で呟く。「逝くな」とは言っていない、と。
レバンが大人しく草原に背中を沈めた後、デイビッドはゆっくりとレバンに馬乗りになった。レバンの顔が、再び赤に染まっていく。
「マ、マルクス……!」
「うるせぇレバン。そういう年頃かは知らねぇが、俺の目的は全然違う。ちょっと黙ってろ」
「は、は……」
随分といやらしい男だ。薄い金髪の髪の毛が、すっと額から流れるのは確かにとてもそそられるが、デイビッドの心を揺さぶることはない。
仕事をしよう。
「レバン、いいか、声を出すなよ」
「え?マルクス、アンタは何をする気なんだ?」
「すぐに分かるさ」
キャラを脱ぎ捨てて、マルクスからデイビッドに戻ると、茂みの中を手でガサガサ探る。冷たい金属に指先が触れ、デイビッドは酷薄な笑みを浮かべながらそれを取り出す。
「私は善意の協力者だ。出来るだけ痛みや苦しみの中で死んで欲しくない、なんて綺麗事を実行する力を得た者だよ。運命を早める代わりに、痛覚のないままに逝かせてあげよう」
「は……何の話なんだよ、マルクス……」
「ほぅ、貴方はそれほど怖がらない人種か。つまらないな、もっと怯えた目の方が私は好きなのだが。まぁ構わないとも。仕事を全うすれば、もう何もなかったことに出来るのだからな」
不気味なものを見る目でこちらを見てくるレバンの首元に、両手の爪を押し付ける。爪痕が付いたら構わない。レバンはもう、この草原から動けない。
不気味な目より、怖い目の方がそそられるものだが、レバンの瞳は宿す光を変えてくれない。そりゃあそうだろう。直前まで、荒々しい台詞を吐きながらニカニカ笑っていた先達が、突然豹変して、「私」とか「貴方」なんて呼び出して。
「マルクス、アンタは何なんだよ、オレを離せよ!」
「ふむ、貴方が騒ぐのは一向に構わない。女の場合だと五月蠅いが、それほど響かない目立たぬ声の叫びならば、逆に愉しい。そのままでいてくれ、レバン。あぁ、残念だが、私はマルクスではないね」
「マ、マルクス……?」
茂みから取り出したソレを、レバンの首元に触れさせる。身体は動かない癖に目玉は動くようで、レバンは自分の首から生えるようにそそり立つ金属の物体を、恐れの眼球で見てくる。非常に満足だ。
「私は、悪魔だ」
ズシャア、と綺麗な音と共に、レバンの身体が2つに割れた。デイビッドでなくても、その音だけ聞けば「綺麗」と感じること間違いない。ただ、先ほどまでレバンだった物体を見て綺麗だと言えるのはなかなかいないだろう。
悪魔の殺しは痛覚が存在しないが、死体が無残になる。本来ならば、もう少し時間が経ってから他殺や自殺などで命を落とす予定だった人間を、悪魔は少し早めに殺してあげるのだ。それも、感覚がない状態で。とても親切なことをしているのだ。最期の時間を1分ほど短くされただけで怒る人間だといるはずもない。
デイビッドのポケットの中から、機械音が鳴る。ブルブルと振動する子機を取り出して、デイビッドは耳に当てる。
「幹部、ワインマスター、終了しました」
『お疲れ様、マルクス?』
「はぁ……見ていたのなら電話をする必要などないでしょうに。それに私はマルクスではなくて――」
『悪魔、だったか?』
「幹部……」
デイビッドの上司は、からかうように笑った後、それにしても、と話を続けた。
『お前は本当に楽しそうに仕事をするな、デイビッド。つまらなくはないか?』
「唯一楽しくない点としては、断末魔が聞こえない点でしょうかね」
『ハッ、高望みがすぎる、デイビッド。それはプライベートで頼むぜ』
「出来るとお思いか。それに……幹部がワインマスターの名前を教えてくれなかったせいで、少し手こずりました」
『その嘘は本当につまらんな!何が手こずっただ!あんなにスムーズにやったくせに、何を抜かすか。それに、レバンだ、なんて言うのもつまらんだろ?しっかしレバン、何を勘違いしたのやら……!お前に寝転がれと言われたときのレバンの脳内を見てみたいくらいだ。この堅物がそんなことに興味があるとでも思ったのか!』
「それは私も驚きましたよ。そういう年頃なのでしょうね。私だって想像もしませんでしたから。それでは、そろそろパーティーと後処理に戻ります。これでは血の匂いが辺りに響きますから」
『分かったよ。しばらくしたらまた仕事を頼む。良いタイミングで戻って来いよ』
「分かりました」
子機を再びポケットに突っ込んで、デイビッドはレバンの死体を悪魔の手法で処理した。絵本なんかでデビルくんとデビルちゃんがよく持っている大きなフォークのような武器と、鎌に似た武器を合体させたような槍を手に、デイビッドは自室へと歩みを進める。
「何やってんの?デイビッド」
「アイリーン……」
テラスに出るために作られたであろう石の道をツカツカ歩いていると、右側に立ち並ぶ石柱に寄り掛かった彼女と目が合った。何かを企んでいるような顔の彼女に、冷や汗が湧く。が、彼女は突然顔を怒りに染めた。
「は?アンリール!ふざけてんの?」
「あ、あぁ、アンリールか。悪いな」
これで誤魔化せるかと思ったら、アンリールは変わらぬ表情のままデイビッドを覗き込んでくる。迷惑だ、と顔に書いたら、それも無視して言葉を放ってくる。
「あのね!せっかく本気で踊ってやったのに、アンタいないんだもん!それに、ワイングラスもないし!どこに行ったかと思ったら、こんなとこまで来たの!?」
「あぁ、悪いな。少しばかり用事がな……」
「何があったわけ!?言ってみなよ、今のアタシは怒ってるよ」
「私事だ、アンリール嬢のお耳に入れることではないさ」
「またカッコつけてるわけ?カッコよくないよ」
アンリールと共に、パーティー会場へと戻っていく。良かった。仕事を見られたわけではないようだ。アンリールに見られたら、何か常人とは違う反応をされそうで怖い。
「あぁ、そうそう。さっき人殺ししてたけど、何かあったわけ?私怨か何か?」
「んぐっ!」
「は?大丈夫?人殺しでメンタルやられたわけ?どんだけ弱いの?なら殺さなきゃいいのに。あんなに楽しそうだったのに、時間が経てばすぐ吐くようなカワイ子ちゃんなわけ?やっぱりアンタ、カッコよくないよ」
思わずむせた。そりゃあそうだろう。上手く回避できたと思ったのに、何とでもないかのようにアンリールは自分に話しかけてくる。それに、踊りの方が重要だったらしく、それほど人殺しに興味を持っていないようだった。
「自分が殺されるかもしれない、なんて考えないのか?」
「え?アタシが?ハハ、何その冗談、面白くないんだけど。アタシが殺されるわけないじゃん。馬鹿なの?」
「は、ハァ……?」
理解が及ぶ範囲ではなくなってしまった。アンリールは、デイビッドの知る時空を生きていない。アンリールは、自分自身の世界を蹂躙しまくった人間だ。
「ほら、また見本見せたげるからさ、今度は人殺しに行かないでちゃんと見てなよね」
「ぁあ」
声が掠れて、いつものように返事しようとしても出来ない。これが人間の普通、なんてことはないはずだ。それに、今まで人間に仕事を見られたこともない。誤魔化し方も取り繕い方も知らない。こんな時こそ、沢山の経験を積んできたようには見えないけれど苦労人の幹部から電話がかかってきて欲しい。
デイビッドは、大広間に入る直前でアンリールに声をかけた。もういっそ、開き直ってしまおうか。
「アンリール。私はこれを……片付けに行く。先に行っていてくれ」
「あぁ、それね。早くした方が良いんじゃない?踊らずに待ってたげる」
デイビッドが槍をフラフラ揺らして見せると、アンリールは無表情のまま大広間へ行ってしまった。理解が速いのは有難いが、ちゃんと理解しているのかも怪しい。それに、今ここで槍を持っているのも不審人物だし、アンリールはデイビッドが人を殺したのを見ていた。
もしかして、パーティーの主催者に何か言われるのだろうか。そしたらこれから先、仕事が難しくなる。頭の中でちらつく危険を感じ取ったデイビッドは、急いで自室に戻って槍を立てかけ、アンリールの踊りを見に行った。
「アンリール!」
「デイビッド?あ、来たね。よし。Boy、上手いエスコート、期待してるよ」
大広間の開けたところで、アンリールは既に良い相手を見つけて踊ろうとしていた。相手の男にウィンクをしている。可哀そうに、あんな狂人のウィンクで赤面してしまって。少なくともその女は、人殺しを見ても何の感情も湧かないような狂人だ。
仕方なくデイビッドは、前の方へと歩みを進めて、アンリールが一番良く見える位置を陣取った。
「見てな、デイビッド。ダンスってのはね、こうやんの!」
アンリールがそう言った瞬間、曲が流れ始めた。アンリールのイメージとは正反対の、優美で静かな曲だ。が、アンリールはその曲に一瞬で順応した。あのやかましく口の悪い、軽い印象とは打って変わって、小さな頃から踊りの練習をしてきた令嬢のようにゆるりゆるりと身体を動かして踊っていく。アンリールの活発なショートカットも、逆にそそられる。バディラインに沿わせたワンピースドレスとボーイッシュなベストとベルトが、お忍びでパーティーに来てみたお嬢様風でとても華やかに見える。
相手の男も男だった。あのアンリールと引けを取らない踊りの上手さで、アンリールの邪魔にならないようにエスコートしつつも、自分も映えるような動きを分かっている。
正直、デイビッドは見惚れてしまった。2人が踊っている間、一歩も動けなかった。同時に、男の動きをよく見た。一度分かったことはいつまでも忘れない自信がある。あの動きを習得してしまえば、ある程度の応用には対応できるはずだ。また、パーティーの中での仕事があった際に役立つかもしれない。
「デイビッド!よし、ちゃんと見てたね。どうだった?」
「あの男はイケメンだな」
「そういう趣味でもあるわけ?」
アンリールは、踊りが終わってすぐにデイビッドのところへやって来た。相手をしてくれた男に礼は言ったのだろうか。いや、言っていなかった。デイビッドがふざけてみると、アンリールは下から睨むように見て来た。何でアタシを見てなかったんだ、という目だ。
「ハッ、あったらどうする?」
「あってもなくても、とりあえず躍らせる」
「は?」
アンリールがデイビッドの左手をガシッと掴んで会場の中央へ連れ出した。踊りが終わってすぐなので、勿論2人に注目が集まる。
「お、おい!アンリール!」
「何?ほら、次はアンタと踊るよ。エスコートしてみてよ、デイビッド?」
「無理だ!」
「さっき見てたでしょ。盗んでやるって目、してたけど?」
「な……」
アンリールのペースに巻き込まれている。どうにかして自分のペースに戻さねば。適当にあしらってからかって、そう、それが自分のやりやすい形。これでは真逆の立場だ。
「ま、待てアンリール。流石にすぐには疲れるだろう。少し休めばどうだ?」
「息切れしてないことにも気付かないわけ?アンタ、モテないよ」
「私は好かれることに喜びを見出していないんだ!別に好かれなくても構わないから、私は遠慮したい」
「駄目に決まってるでしょ。踊るよ、デイビッド」
美人のアンリールに強情に誘われては仕方がない。デイビッドは深いため息をついて頷いた。流石に1回で盗めるわけもない。それに、アンリールの息切れがないことに驚いた。男でも先ほどの踊りの後息切れをしていたのに、女のアンリールが平然としているなど……。
デイビッドとアンリールは、会場の中央で手を取り合った。それに釣られるかのように、周りからわらわらと男女が出てくる。
「この中央で踊ったら、恥をかかないだろうか……」
意外と中央というのは周りから見えるもので、中央を陣取った者がその踊りの主役になる節がある。何となく目立つのだ。先ほどのアンリールたちの踊りが注目を集めすぎただけで、普通はもっと中央に視線が集まる。
「ハァ、そんなに自信がないわけ?大丈夫だと思うけどね。アタシも支えたげるし」
「どうやってだ」
「エスコートされる側だってエスコートできんの」
どういうことだと思いながら、デイビッドは流れ始めた曲に体を乗せる。多少はぎこちないが、前にアンリールと踊った男までは行かないが柔らかい動きを出来ているのではなかろうか。
「良い感じだよ、デイビッド。へぇ、見てれば出来るタイプなわけ?羨ましいよ」
「これで出来ているというのなら、素直に受け取っても構わないがな」
「それじゃあ受け取れないみたいだね」
「それはそれで何とも言えない」
「カハッ、何それ、可愛い」
何故踊るとアンリールに必ず「可愛い」と言われるのだろうか。モヤモヤを抱える暇もなく、デイビッドはゆっくりとアンリールをエスコートしていく。テンポの遅い曲で良かった。デイビッドは徐々に心を落ち着かせながら、アンリールに踊りの主軸を任せる。
「へぇ、アタシが頑張っちゃっていいわけ?」
「好きにしてくれ」
「何その言葉、ホントに好きにしちゃうけど、大丈夫?」
「着いて行けるくらいならば、大丈夫だ」
「なら好きになんて出来るわけないじゃん、馬鹿なの?」
とは言いつつ、アンリールは上手く踊りを引っ張ってくれた。エスコートがしやすいのなんのって。空いた隙間に足か手か身体を滑り込ませればいいだけの話だ。アンリールが引き立つように身体をくねらせて、柔らかく動く……。それだけで踊りは終わった。
「お疲れさん、デイビッド。呑み込みが早いなんてもんじゃないね、アンタ。素質があるかは知らないけど、良い感じじゃん?」
「お褒めに預かり光栄だ。それより……あぁ……とにかく、内密で頼む。パーティーの主催者だけには漏らしてくれるな」
「は?何を?あ、人を殺したこと?そんなに知られたくないわけ?ま、良いけど。ねぇ、人殺しよりダンスのこと考えてよ。自分ではどう?上手く踊れたわけ?」
アンリールはとことん人殺しに興味がない。今自分が踊った相手がつい先ほど人を殺していたのだと分かっても、恐怖の一片さえも見せやしない。
悪魔の自分がただの人間に怯えている。いつかは彼女も自分の殺す対象になるかもしれないのだ。怖がっていては駄目だ、デイビッド。自分に言い聞かせる言葉も震えそうになりながら、デイビッドは再びワインコーナーへと足を向ける。
「上手く踊れた方だろうな。確実に、今までで一番の出来ではあっただろう」
「へぇ、満足度は高めなわけ?それならアタシが頑張った甲斐もあるよ。よし、これなら少しはモテるかもね、デイビッド」
「だから、私は好かれることに喜びを見出してなどいない!」
「何、そんな怒ること?そんなに好かれたくないわけ?頭堅いなんてもんじゃないね」
不機嫌そうに吐き捨てながら、アンリールはデイビッドに着いて来る。何故この女は永遠に自分に付きまとうのだろうか。
ワインマスターの代わりにソムリエとして立っている、確か……ぺアドロに声をかける。先ほどは簡単にだがぐしゃりと髪を崩していたし、スーツの着こなし方も適当にしていた。声音だって変えていたから、ワインマスターの先達だと気付くことはないだろう。
「ソムリエ、このワインを頼む」
「畏まりました」
もう誰かにワインの選択を任せることはしない。自分の舌に合うワインは自分で選ぶ。やはり信頼できるのは自分しかいない。ついさっきのお客が選んだワインは、本当に、本当に酷かった。
「どうぞ」
「あぁ」
硬貨を何枚かガラスの上にばら撒いて、デイビッドはワインを一口煽る。あぁ、求めていた味だ。やはり、自分の目に狂いはない。
ふとアンリールを見ると、つまらなそうな顔でケーキコーナーを見ている。
「……食べたいのか?」
「この瞳が食べたい以外の何を物語ってるっていうの?」
ハァとため息を吐いて、デイビッドはポケットの中の効果の枚数を数える。振り返ってアンリールに、好きなものを選べと言った。アンリールは、見たこともない可愛らしい笑顔でケーキコーナーに走って行った。
やっと年相応な、いや、年より若いくらいの表情が見れた。心のどこかで達成感を得ている自分を殴りながら、デイビッドは自分もゆっくりとケーキコーナーに足を進める。途中、何とも美味しそうなチョコレートブラウニーを見つけたので、1つだけ貰っておいた。非常に美味かった。
「あ、デイビッド!アタシはこれだよ、頼んだ」
「は!?」
想定外だ。想定内の1つ先だった。デイビッドは、多くても皿1枚だと仮定していたのだが、アンリールはそれを越すほどにケーキを要求していた。
アンリールは、自分の腹を叩いた後、ゆっくりとさする。
「だってアタシ、アンタのためにめちゃくちゃ踊ったし?そりゃあアタシだって疲れるわけ。ほら、早く」
「な、だ、アンリール、これは流石に……」
「あのねぇ!アンタだよ、アタシを好きにさせたのは!責任取って全部寄越しな!」
仕方ない。確かに、自分の踊りを少し上手くさせてくれたのはアンリールだ。仕事を見られたのも彼女なのだが……それはアンリールにとってさほど重大ではないようなので、黙秘を命じれば大丈夫だろう。そっと硬貨をガラスの上に置いて、アンリールにフォークを差し出す。
ニヤリと笑ったアンリールは、ガッとフォークを受け取ってガツガツとケーキを食べだす。行儀のひとかけらもない。お嬢様ではないのだろうか?このパーティーに出席できる者なのだから、なかなかの行儀作法と金と権力はあるはずなのだが……。
「あ、デイビッド。これ。アンタのために取っておいたから、1個食べても良いよ」
「ほぅ?貴女にしては珍しい。頂こうか。……と言っても、これは自腹なんだ、アンリール。余計なことをしてくれるな」
「ハハッ!良いね、その顔。面白いよ!ほら、食べなって。何、食べさせて欲しいわけ?」
「何を抜かすか!自分で食べられる!赤子ではないんだぞ!って……これか?」
コクリと頷くアンリールの指先には、つい先ほど頂いたブラウニーが鎮座している。確かに美味かったし、満足感も得られた。が、別にデイビッドは甘いものが好きではないし、こってりとした重みのあるチョコレートはもう十分なのだ。
かといって、アンリールに譲れば「何?アンタ甘い物無理なわけ?そのガタイで貧弱とか、モテないよ」と言われつつ、デイビッドの金で買ったブラウニーをさも自分の物かのように食べられて……。
「遠慮なく頂こう!」
「うわ、何?さっきから百面相とか、謎の沈黙とか、いきなりの大声とか。トチ狂ったわけ?」
「私とて、貴女が狂っているようで怖い」
「は?何で。ブラウニーを取っておくのが狂ってるわけ?ホントに分かんない」
「違う!ブラウニーは関係ない!」
口から噴き出た唾をグッと拭って、デイビッドは行儀悪くブラウニーをつまんで口に入れた。相変わらず甘いが美味い。
「へぇ、美味しそうな顔するじゃん」
「……何だ?美味そうな顔をすることがそれほど面白いか」
ニヤニヤ顔のアンリールを睨むと、彼女はプッと吹き出してブラウニーを口に入れたまま喋る。
「違うに決まってんじゃん」
それは少々酷くはなかろうか。抗議しようと開きかけたデイビッドの唇に、アンリールの左の人差し指がそっと当てられる。
アンリールは、やけに彼女に似合う妖艶な笑みを浮かべてデイビッドにそっと顔を近づけてふふっと笑みを漏らした。
「その顔、モテるよ」
何、だって……?なっ、なっ……!
口のへの字に曲げて、デイビッドはずんずんと奥へ突き進む。何だ!「その顔、モテるよ」と言った時の彼女のあのそそる表情は!自制のためにぐるぐると歩き回る。周囲の視線を受けても構わない。あの表情を忘れろ。
「デイビッド?ホントにトチ狂ったわけ?理解できないし着いて行けないんだけど。アンタの世界はどこなわけ?段々怖くなってきたんだけど。やっぱり、人を殺して精神が――」
「アンリィィール!……私は狂ってなどいない。あ、いや、確かに狂ってはいるのだが、そういう方面の狂い方ではない。安心してくれたまえ」
「は?自分で自分狂ってますって言ってくるヤツに対して、安心とかいう感情、抱けるとでも思ってるわけ?」
相変わらず辛辣な物言いのアンリールの声が、妙に落ち着く。デイビッドは頭を振って、口の中に残るチョコレートの甘みを飲み込む。もっとビターなのが好みだ。
「では、アンリール嬢。私はそろそろお暇しよう」
「デイビッド?もう行くわけ?アンタの行動、意味不明だから。理由とか説明して出てって」
「アンリール……」
更に自分がアンリールのあの表情を求めてしまう前に、パーティーから逃げ出そうと考えたデイビッドのスーツの端を、アンリールがギュイッと握って来た。手を払うことも出来ずに立ち止まり、眉間に中指を置いて頭を左右に振る。
「仕事が終わったからだ。アンリールも見たのだろう?私にはまだ仕事が待っているんだ。パーティーは十分楽しんだし、優雅な雰囲気にも貴女とのお喋りにも非常に満足した。もうここで私がすることはないさ。もう楽しみ尽くした。それに私は……また別の『愉しみ』をしに行かなければならない」
「へぇ……アタシとの会話も、アタシとのダンスも、アタシと食べたケーキも、何もかもに満足ってわけ?」
「あぁ、そうだとも。私をこんなにも満足感で満たしてくれて有難いさ、アンリール。ただ、私の仕事については、くれぐれも内密に。頼んでも良いか、アンリール?」
ニヤニヤと楽しくなさそうな表情を掻き消すかのように笑うアンリールの右手をそっと掴み、手の甲に口づけする。これでもう別れだと伝えられただろうか。
デイビッドはパーティーも踊りも誰かとの会話も好きではない。それに、アンリールと居るとまたあの表情が見たくて見たくて、もう一度ブラウニーを彼女の前でこれ見よがしに食べて見せるかもしれない。そんな馬鹿な真似などできるはずもない。ここに居続ける理由もない。パーティーよりカーニバルの方が好きなのだ。
そんなデイビッドの瞳をまっすぐにアンリールは見つめてくる。彼女の世界に落ちてしまいそうな眼力に射止められ、デイビッドは動けなかった。
「……ならもっとアタシと話したって、良くない?」
「……は?」
「このパーティー会場、何個か中庭があんの。そこで少し語り合おうよ。思えばアタシたち、お互いの名前しか知らないんだよね。だからちょっぴり、交流を深めようってわけ。どう?」
この状態で交流など深められるか!と抗議をしたかったのだが、彼女に魅せられつつあるデイビッドは首を横に振ることなど出来なかった。
「……分かった。ただ、ブラウニーと案内だけは忘れてくれるな」
「はいはい、分かった」
「私はデイビッド。見ての通り……悪魔だ。と言っても、私たちは善意の協力者だ。自殺、あるいは他殺により間もなく死を迎える人間を、痛みを要さずに殺す仕事をしている。余命は長くて5分程縮まるが、人間側からしたらそのようなデメリットなど大きなメリットに掻き消――」
「はいはい、そこは分かったから。悪魔は決して悪い仕事をしてるわけじゃないって話ね?そこの説明省いて、次」
アンリールに案内された中庭は、先ほどレバンを殺した死角から一番遠い中庭だった。緑に囲まれて少し古びた白いテーブルと椅子が置いてある。椅子は2つなので、デイビッドとアンリール以外に人が来ても会話には交じれない。デイビッドにとっては最高の場所だった。
テーブルの上には、綺麗な色の紅茶と2本のフォーク、そして何個ものブラウニーが置かれている。デイビッドは先ほどから会話の合間合間にブラウニーを口にしているのだが、アンリールは興味なさそうに紅茶を啜るばかりだった。おかげでデイビッドの腹は膨れてばかりである。好きな紅茶だから飲みたいが、ブラウニーを食べ続ける。ふと、アンリールと目が合う。まずそうな顔で永遠に紅茶を啜っているアイリーンが、口をへの字にしてデイビッドを見ている。何故好きでない紅茶を飲み続けているのだろうか、と思っていると、アイリーンは深いため息をついて「続き」と催促してくる。
「あー……年齢は途方もない。そろそろ500くらいではなかろうか?正直覚えてなどいない。……他に何を話せばいいのだろうか?」
「は?名前と年齢しかプロフィールに書いてないわけ!?もっとあるでしょ、結婚相手とか、交際相手とか、片思いの相手とか……」
「恋愛に興味などさらさらない!」
「何それ、つまんなすぎ」
女は本当に誰かの恋愛が好きだな、と思いながらデイビッドは自分の頭を掻く。
「昔、結婚直前まで進んだ相手はいた」
「えっ!それ、ホントに言ってんの?冗談?嘘?」
「それほどまでに、私には魅力がないか」
「アンタに魅力があったらアタシなんて今頃どうなってるか」
「喧嘩を売っているのか?」
頬を赤らめながらアンリールの相手をするのは非常に疲れる。デイビッドの心の心臓が持ちそうにない。グッと口を固めてアンリールを見ると、彼女は紅茶に手を伸ばしながらデイビッドを凝視していた。
「……何だ」
「誰?名前は?どんな人?」
「ハァ……。名前はアイリーン、同じ悪魔だった。が、彼女は私とタイプが真逆で、人を殺す度に泣いていた。私が仕事を何度変わったか……」
「へぇ……アイリーン、か。デイビッド、さっきアンタ、アタシのことアイリーンって……呼ばなかった?」
「ア、アンリール……」
そこを突かれると弱いのだ。デイビッドがしどろもどりになりながら誤魔化す材料を探していると、アイリーンは少しだけ笑った。いつもの乾いた元気な笑い声ではない、切なく掠れた笑い声だった。
「似てるんだ?」
「……似ている」
「へぇ……」
気まずいを通り越して、開き直りたくなってきた。本当は自分は今、目の前の貴女が気になってしょうがないのだと言ってしまいたかった。言えるならば、とっくの昔に言っていただろう。
アイリーンは、未だにデイビッドの婚約相手なのだ。今ここでアンリールへの微かな甘い想いを吐露したならば、これは浮気でも不倫でもある。言えるわけがなかった。
「じゃあアンタ、アタシのこと好き?」
「ハ、アンリール、あな――」
「錯覚で見間違えるほど、アタシはアイリーンってのに似てるんでしょ?ならアタシのことも好きってわけ?」
「アンリール、興味半分で人の婚約者に深入りをしないで頂きたい。アイリーンはまだ、私の婚約相手だ」
俯いたまま言い切ると、アンリールはぶすっとした顔で紅茶をぐいっと煽った。淑女らしからぬ行動だが、責めるのも違う気がして、デイビッドは口を噤んだ。
「……悪いね。ちょっと気になったんだ。……ねぇデイビッド、今アタシが、アイリーンはどこにいるのって言ったら、それは深入りになるわけ?」
「……アイリーンのことなど知らない」
「……は?」
アンリールの瞳に宿る光の色と強さが変わった。何を思っているのか全く読み取れないが、常人でないほどに強い力を秘めた何かを宿していた。
「アイリーンは消えた。……彼女の代わりに仕事をした日、ちょうどその日に、幹部が部下の仕事を見られるシステムが開発されて、試験的にアイリーンの仕事を見たそうだ。そこで仕事をしていたのは、私。アイリーンは後ろでただ私の仕事ぶりと音を聞かぬように待機していただけだった。翌日、彼女の元に届けが来たそうだ。彼女は、悪魔として生きていけなくなった。彼女は、人間になった。……アンリール!もしかして貴女、アイリ――」
「違うよ」
一縷の望みに縋りつくことも許されなかった。もし彼女がアイリーンであったならば、デイビッドは嘘偽りなく彼女への愛を述べることが出来ただろう。が、この想いの苦しみでさえも、本人に言うことが許されないのであれば……。
アンリールは、心底寂しそうに微笑んだ。見たことがない笑顔に、鳩尾が冷たく痛く握られる。
「アタシは悪くないけど……悪いね。アンタが期待するような、人殺しが怖いアイリーンじゃないよ、アタシは。アタシはアンリールだよ。それも……」
悲しい淋しい微笑みのまま、彼女は言い放った。デイビッドの頭がトチ狂うかのようなことを。デイビッドの頭が貫かれるようなことを。
「人殺しが大好きな、悪魔だよ」
アンリールは、悪魔の中でも上層部の悪魔だ。デイビッドのような下層部の悪魔のことなど知らない、裕福貴族の娘だ。アンリールにも仕事がある。それは、このパーティー会場のソムリエ、ぺアドロを殺す仕事。
正直、その仕事が自分に回ってきたのが嬉しかった。ソムリエが両親をワインで毒殺したせいで、アンリールはワインが嫌いになった。ソムリエというだけで、アンリールにとっては敵に当たるのだ。それに、久しぶりにブラッディカーニバルの主催が許されたということだ。これは好きにやれる機会ではないか。
いざパーティー会場に来てみれば、悪魔臭がプンプンする男がいた。キッチリスーツを着た彼の隣にそっと立つ。チラリとこちらを見たのが分かった。アンリールは少しだけ微笑んで、男に話しかけた。
「随分と賑やかなパーティーだね」
デイビッド、と名乗った男に着いて行った。彼も人を殺すのだろうか。それならば是非とも干渉させて欲しい。彼の演じるカーニバルはどのような味がするのか、非常に興味があった。だから、彼がワインコーナーに足を運んだ瞬間、顔が引きつった。
「どこに行くわけ?」
赤ワインなんて見たくもない。アンリールはソムリエと会話なんてしたくない。自分の殺す対象意外とは、接触したくなかった。なのに、デイビッドの視線に耐えきれずにワインマスターに自ら話しかけてしまった。
ガタイのいいデイビッドは、とにかくダンスが下手くそだった。苛めてやりたくなって、見てな、なんて言って適当な相手を探し始めた。きっとこのタイミングで殺しに行くのだろうと、アンリールは壁に向かって「ハイ、Boy?」なんて話しかけてデイビッドを横目で見ていた。想定通り、デイビッドはそっと周囲を伺って、大広間を出て行った。空のワイングラスをテーブルの上にコトリと置いて。不味そうに顔をしかめ、ワインマスターを睨みながら何かを呟いて。アンリールは勿論後をつけた。
荒々しい手口と手段だった。開催の仕方は自分の好きなように。演者も自分の脚本通りに動かしていた。不覚にも、あんなカーニバルを格好いいと思ってしまった。上司と会話するデイビッドも、どこか言葉遣いが不慣れな平凡な男を演じるデイビッドも、自分のやりたい放題にブラッディカーニバルを開催するデイビッドも、全てが愛おしく格好いいと思ってしまった。
だからこそ、「アイリーン……」と言われたときに、死ぬほど腹が立った。彼のカーニバルの輝きが一瞬消え失せた。
「は?アンリール!ふざけてんの?」
怒ってみれば、デイビッドは必死に誤魔化しながら謝ってくる。これで全てなかったことになれば良いな、なんて単純明快な思考を顔にそのまま貼り付けたような表情だった。
それとなく聞いてやったら、取り乱すレベルが高すぎてビックリした。それほど嫌なことだろうか。記憶を消せばいいのに、まぁアタシは悪魔だから出来ないけど、なんて思っていたらなるほど、記憶を消すのは身分の高い悪魔にしか許されていなかったのを思い出した。
改めて2回、ダンスを踊った。デイビッドの、一緒に踊った人間のステップを、いかにも盗もうとする瞳が印象的だった。悪魔が体力の限界で疲れる、なんてことはまずないから、普通にデイビッドを誘ったら、「少し休めばどうだ?」なんて下手くそな断り方をされた。それほどアンリールと踊りたくないのかと少しムッとして、無理矢理中央に引っ張ってやった。
アンリールも、デイビッドが懸命に自分をエスコートしてくれているのが流石に分かったので、アンリール側もデイビッドが動きやすいように逆エスコートをした。デイビッドは途端にダンスしやすくなったようで、足取りが軽かった。が、すぐに息を荒くし始めた。何故だ、と思ったら、そういえば疲れないのも上級悪魔の特徴だったのを思い出した。
とても美味しそうなブラウニーを見つけた。ケーキコーナーに行こうとデイビッドを見つめると、彼の懐と相談して渋々許してくれた。金なんて持っているわけがないから、デイビッドに頼むしかない。自分の笑顔が甘々になっていることにも気付いたが、そこは気付かなかったふりをした。
他人の奢りなので、好きなだけ皿に取った、なんて言えればいいのだが、多少の遠慮もあり皿1枚に留めた。それなのにデイビッドは、苦々しい顔と驚いた顔を同時にしつつ、ため息と共に買ってくれた。彼が先ほどチョコレートブラウニーを取って食べていたのを見たので、反応が見たくてブラウニーを何個か取って置いた。彼から漂う甘い匂いを無視して、彼にブラウニーを薦める。彼は、「先ほど食べたのだ」とは言わずに受け取ってくれた。何度食べても美味しいようで、満足そうな笑顔を浮かべていた。
ちょっと悪戯をしたくなった。アンリールを人間だと勘違いしているデイビッドを苛めたくなった。誘惑、なんて名前が付いているのかもしれない。デイビッドの顔を赤く染め上げてみたかった。
「その顔、モテるよ」
デイビッドは、面白いほどに素直な感情表現ができるヤツだった。顔にそのまま出てくる感情に、思わず笑みを零しそうになって、必死で耐える。平静を装って、「トチ狂ったわけ?」なんて聞いてみる。戸惑うデイビッドが可愛い。
「では、アンリール嬢。私はそろそろお暇しよう」
なんてキラキラ笑顔で放たれたときは、本当に失敗したと思った。デイビッドがこの会場から出て行ったら、また会える機会なんてないだろう。いや、アンリールが下に頼めばデイビッドの調査なんて簡単なのだが、権力や身分でデイビッドと親しくしたいわけではないのだ。
必死で彼のスーツを掴むと、彼は困ったような顔で見下ろす。死ぬ気で行ってほしくなくて、ニヤニヤ顔を維持するので精一杯だった。それを見透かしたかのように、デイビッドは手の甲に口づけをした。
馬鹿だと思った。手の甲へのキスで別れを表すということを知っているのは悪魔しかいない、ということを忘れているのだろうか。許さない、と思って、「……ならもっとアタシと話したって、良くない?」と言った。最後の手段に出た。前もって調べておいたぺアドロの殺害場所とは正反対の場所で、デイビッドと話したかった。
アイリーン、という名の、デイビッドの元カノの話を聞いた。アンリールに似ているのだそうだ。名前も、容姿も、性格も。そしてアンリールから見たら、種族も。
アイリーンは、悪魔から人間に落とされたそうだ。一度だけ下から聞いたことがある。下が愚痴を言っていたのを耳にしたのだ。ある悪魔がしょうもないことをやって、人間にされたのだ。その処理でこちらは大変だ。肩を持った悪魔も、その悪魔も、余計なことをしてくれたものだ。そう思うだろう、デイビッド。と、迷惑そうに部下に話していた。部下の受け答えからして、ソレが肩を持った悪魔だと分かった。それがデイビッドだった。
アンリールは覚えていた。デイビッドという名の、少年のことを。一度だけ、アンリールは、下級、中級、上級の悪魔が集まって行う会議に出席したことがある。紹介の仕方が、将来を担う優秀なお子、なんてものだったから、議長を蹴ってやろうかと思った。
下級代表が、確かデイビッドの父親だった。彼と自分の父親が話しており、父親が彼に無茶を言っているのが多少なりとも理解出来たアンリールは、そっと父親を諫めた。父親に代わって、きちんと彼と話をした。彼にデイビッドという名の息子がいることを知った。その頃のアンリールはまだ150歳だったから、デイビッドはたったの50歳だったのだろう。それにしては、ちゃんと礼儀のなった子供だった。
デイビッドの父親と仲良くなり、父親の反対を跳ね飛ばしてデイビッドと茶会をした。東屋の下で、緊張した面持ちで、デイビッド少年はじっとアンリールを待っていた。膝の上に綺麗に両手を置いて、ちょこんと白い椅子に座っている黒い衣装を身にまとうデイビッドは、恋愛対象にも入らないほどに小さくて可愛らしかった。
デイビッドの父親から、偽名を使っていただきたいと言われていたので、アンリールは偽名を考えた。が、アンリーレとかアンリーラとか、ロクな者が思いつかなかったので、「とある悪魔」とだけ名乗ることにした。そのときの会話は、よく覚えている。何年たっても、アンリールの喉に焼け付いたデイビッドとの会話は忘れられない。
デイビッドは、畏まった顔で「お、お名前は……」と聞いて来た。下手くそな偽名を使えば、理解不能と言わんばかりの表情でアンリールを見てきた。さりげなく茶菓子を進めてくるので、アンリールは遠慮なくクッキーなんかをつまんだ。紅茶はまずかったから飲まなかった。その紅茶を、美味しそうにデイビッドが飲むものだから、年下より好き嫌いが多いと思われそうで、茶菓子をほどほどに抑えて頑張って紅茶を飲んだ。
「貴女は、とてもお綺麗ですね」
この年でお世辞を言ってくるのかと、飲んでいた紅茶を吐き出すところだった。おべっかというものを、アンリールは死ぬほど嫌っている。デイビッドをキッと睨みそうになって、慌てて自重し、「どういう意味?お世辞なわけ?」と聞けば、デイビッドは必死で首を横に振る。感情を隠すのが下手だっただろうか。
「違います!その……お心が真っ直ぐで、1つの歪みもないように見受けられます、から」
「ハ……」
紅茶で苦しくなるほど喉を潤していたはずなのに、引きつって乾いた笑みが漏れた。デイビッドは、そのアンリールの小さな声に気が付かなかったのか、1人恥ずかしそうに手をもじもじさせている。アンリールは思い切って、「具体的に説明してみせてよ」なんて言った。デイビッドは戸惑ったように、「具体例で構いませんか?」と聞いて来たので、小さく頷く。
「先ほどからの会話で、貴女は感情を僕に全て吐露して下さるでしょう?言葉では語らずとも、表情でよく分かります。それに……お世辞が、お嫌いなのでしょう?嘘をつかずに、真っ直ぐに凛々しく、自分らしく、意思を曲げずに突っ走って生きていらしているようで、その……少し、羨ましいと、僕は思います」
誰かから羨ましいとか凛々しいとか、そんなこと言われたことがなかった。父はいつも厳しいし、母は頑張っても褒めずに次の課題を積み上げる。物事に飽きたり、嫌いになったりすればふいっと離れるのはそういう自分の習性だと思っていた。
デイビッドから、真正面から、素直に真っ直ぐに褒められて、デイビッドよりアンリールの方がよっぽど戸惑ったのを覚えている。上級らしく感情を表情に出さない練習をしてきたつもりだったのに、先ほどの「議長を蹴りたい」なんて感情も、顔に出ていたのだろうか。
あまりに恥ずかしくなって、思わずアンリールが両手で自分の頬を押しつぶすと、デイビッドは「僕はまだ子供ですし、このような尊重すべきでない言葉でお心を揺らされる必要はないと思いますよ。何せ、僕の主観は、まだまだ幼いですから」と言って苦笑した。
大人だ、と思った。親の影響か、智の影響かは知らないが、子供であるべき時に大人になってしまった子供なのだ、と思った。自分より大人な子供に出会ったことがなくて、根が真面目であったアンリールは非常に困惑した。デイビッドはそれを見て、「あ、ほら、また戸惑ってらっしゃる。すみません、僕が喋ると貴女は感情を乱されるようだ」なんて言ってすっと紅茶を取って飲み干す。お茶請けをつまんで、デイビッドはアンリールに微笑んだ。
「お顔に、我慢の色が濃いように見られます。お疲れなのでしょう。少しお休みになられてはどうです?」
「……デイビッドは、人の感情を読むのに長けてるわけ?」
最後の反抗を突き出せば、デイビッドは再び苦笑して、くしゃっと笑った。
「貴女が、感情を隠されるのに長けていらっしゃらないだけです」
嘘だ。デイビッドは大人だから。アンリールとて真面目な上級の子供だ。小さな頃から、ずっとずっと厳しい教育に耐えて合格を日々貰い続けていた。デイビッドに心を揺られて、アンリール自身の社交が下手くそなのではないかと思ってしまったが、デイビッドが大人すぎるだけだ。
アンリールは、東屋の白いテーブルに顔を伏せる。隣の椅子にカツンとデイビッドが座り、そっとアンリールの頭を撫でた。
「お疲れ様でした」
「……知ってた?アンタね、さっきから下級が上級にするべきじゃないことばっかりしてんだよ。とんでもなく無礼者だかんね」
「それはそれは、何とも申し訳ございません。お詫びと言っては何ですが、僕はこうして貴女の精神を癒すのに少し助力しましょう」
何となく憎たらしくて、胸に浮かぶ小さな尊敬と羨ましさと悔しさと疑問を押し潰して、アンリールは寝た。東屋の中は誰からも見えない。父親に見つかっても怒られないし、デイビッドならばうまくしてくれる。
自分より年下で下級の者にこれほど信頼を置いたのは、初めてだったかもしれない。
久しぶりに耳にしたデイビッドの声は、当然だが誰か分からないほどに低くなっており、受け答えが以前より雑になっていた。何年も経てばそりゃあ変わるだろうが、アンリールは少し、いやかなりショックだった。自分の知っているデイビッドでないデイビッドがそこにいる。彼には交際していた女性がいた。それだけで、複雑な感情になる。
声音が疲れており、頭を撫でて「お疲れ様」と言ってやろうか、なんて思ってみたが、デイビッドは幼い頃の思い出など何1つ覚えていないだろう、という結末に達した。そう思うたびに、自分との記憶はもうデイビッドに残ってはいないのだと思い知らされるようで、辛さと悲しみと悔しさがアンリールの中で湧いた。
いつか、デイビッドと2人きりで、また話をしたいと思った。彼の好きなまずい紅茶とお茶請けを用意して、東屋の下で語り合いたいと思った。
彼はどこまでも感情を隠すのが下手で、アンリールと話している時も、別の悪魔――人間の話で少し頬を赤らめている。が、アンリールと会話をする時も、僅かながらに頬を上気させる瞬間がある。先ほど誘惑をしてみた際なんかは、血の色のように頬を赤くしていた。
アンリールは演じた。演技に徹した。アイリーンの存在も、デイビッドの過去も、大体把握している。デイビッドがアイリーンと交際していたとは思わなかったが、アイリーンとの仲が十分に深かったことは分かっていた。
わざわざ自分から恋愛の話に持ちだして、わざと心に傷をつけるなんて馬鹿じゃないかと思ったが、何故だかそれをやらねば心が安心せず、落ち着きを取り戻せなかった。手段が荒っぽい自分に呆れて、アンリールは少し唇を噛んだ。
「もしかして貴女、アンリ――」
「違うよ」
イラっとした、とはちょっと違うかもしれない。アタシはアンタが愛してるアイリーンなんてのとは違う、もっと自分が確立した存在である、と言いたかった。アイリーンのことなど何も知らないに等しいのに、張り合いたくて、余裕の笑みを浮かべようと頑張った。が、引きつることも出来ずに、無表情でデイビッドに言い切ってしまった。
一縷の望みを本人に切り裂かれたデイビッドには申し訳ないが、アンリールはアイリーンではないのだ。それは仕方ない。
デイビッドの微笑みが悔しそうだった。悲しそうだった。淋しそうだった。どうにか救いの手を差し伸べたかった。これが救いになるのかは分からないし、むしろデイビッドを傷つけるかもしれないし、デイビッドの心を停止させるかもしれない。
でもアンリールは、大人の笑みを浮かべたまま言ってみせた。
「アタシはアンリールだよ。それも……人殺しが大好きな、悪魔だよ」
表情筋が固まる。動くことすらも許されない。彼女の微笑みに視線が固定される。身体の一部でさえも思い通りにならない。
人間だと信じて必死に誤魔化して、いつかは自分も彼女を殺すのかも、なんて考えていたのに……かつての恋人と同じ、悪魔……?
いくらなんでも、アイリーンに似すぎているだろう……。神を心から罵りたかった。これは確かに幸せだし、淡い色合いの恋心は愛らしい。が、これはちょっと皮肉が過ぎる。デイビッドの心を抉るために用意されたかのような恋だ。
「……アンリール」
「アタシの名前はアンリール、年齢はアンタより100くらい上。一応上級悪魔」
「上級悪魔!?」
「そ。あ、敬語とかやめてよね。……だから、アンタがアンタの婚約者の手助けをした話も、ちょっと聞いたことあるよ。アンタの声、前に一回だけ聞いたことがある。そのとき分かったね。コイツが手助けをしたんだって」
この状況で声が出る者などいるわけがなかろう。心が凍り付きそうだ。上級悪魔にはいつだってひれ伏すように習ってきたのだ。パクパクとせわしなく口を開け閉めして、最終的にデイビッドは唇を噛み締めた。
そんなデイビッドを見たアンリールは、ハハと笑って右の方をふいっと見た。そこには何もない。
「残念?……確かにアタシはアイリーンと同じ悪魔で、中も外も似てるかもしんないね。でもね、デイビッド。アタシは上級悪魔で、人殺しが好きだ。今回の仕事はソムリエを殺すものだからね、腕が鳴るよ。久々の仕事だ、精一杯楽しもうと思ってる。上級悪魔に仕事が回って来るなんてまずないからね、これはアンタの上司に感謝するべき案件だよ。殺す対象は……さっきアンタが殺したレバンの部下のソムリエ、ぺアドロ。さっきワイン、貰ってたでしょ」
「な、ア、仕事……。ペアドロ……?アンリールが人殺し……悪魔……人間じゃ、ない?」
「ハッ、今更何なわけ?アタシは悪魔だから、人間じゃないから。……だから、アンタの婚約者みたいに人間にはなってないよ。……アタシのカーニバル、見る?」
仮面の笑顔しか見えないアンリールの言葉に誘われるかのように、デイビッドは首を縦に振る。見よう、と小さくはなった言の葉を、アンリールはしっかり聞き取ったようで、よし、と呟いて席を立った。デイビッドもつられて椅子から腰を上げる。
「ぺアドロを殺しに……仕事をしに行こう」
鮮やかで、見事で、何とも彼女らしい開催の仕方だった。私怨でもあるのだろうか、惨殺な手つきを忘れることはないだろう。達成感と満足感、幸福感で満たされたアンリールの心に邪魔をする。
「アンリール、貴女主催のカーニバルは非常に素晴らしいな。私は思わず見惚れてしまったとも……あぁ、美しい、見事なカーニバルだった。私が今まで見たカーニバルの中でも随一で、群を抜く程の出来だったとも、あぁ」
何度も頷いて見せると、額から汗まで流したアンリールがパッと振り向く。嬉しそうに笑う彼女を見ると、こちらまで幸せになる。これは前、アイリーンを見たときにもあったものだ。
自分はもうアイリーンを愛していないのだろうか。もう自分は、アンリールに心奪われてしまったのだろうか。
悪魔と人間の恋は叶うことはない。悪魔と悪魔の恋ならば、勿論叶う。ただし、デイビッドとアンリールの場合、身分差を乗り越えなければならない。デイビッドは下級、アンリールは上級だ。
「ありがと、デイビッド。そう言ってもらえちゃあ頑張った甲斐もあるってもんだね。それに今回は、アタシもホント楽しかった。この仕事を引き受けて良かったよ。ちょっと待ってて、処理するから」
「あぁ。私も手伝おう。この周りに飛び散った血でも――」
「あ駄目!」
急速な停止に、伸びかけていた手を思わず引っ込める。驚いてアンリールを見ると、彼女は苦笑いと反笑いの混ざった笑みでこちらを見た。頭を掻く手はゆっくりとしている。
「その辺り、全部自分でやりたいから、さ。ごめんね。ありがと、感謝はしてるつもり」
「あぁ、舞台の片付けは開催者の責任だな。部外者で客の私が手を出す範囲ではない。すまなかった」
「良いから。ほら、癖でしょ?手伝ってた時の……」
何となく気落ちした声音のアンリールが、広範囲の処理を始める。下級のデイビッドには出来るはずもない技だ。あれを使えたらさぞ楽しかろうという方法で死体処理を終えたアンリールが、満足げにこちらを振り向く。
「分かってくれる人がいるのって良いね、デイビッド。ほら……悪魔ってさ、自分の本職を毛嫌いするのが多いじゃん?だから、共感してくれるのが周りにいなかった、っての?そういうのもあって……デイビッドは結構、アタシにとって特別な存在ってわけ」
デイビッドは先ほどの投げかけにも応えていないのに、アンリールは近づいてきて、デイビッドが真下を見てつむじが見れる辺りで止まって言葉を吐いた。その言葉があまりにも素直で、あまりにも彼女の感情をそのまま表したもので、感情を隠すのが下手だと言わんばかりにデイビッドを貶して来たアンリールの面影がなくて……デイビッドは拍子抜けした。
同時に、「特別な存在」という単語に打ち震えた。こんなの、アイリーンに言われたことがない。アンリールは、デイビッドの嬉しい個所を知りもしない癖に直感で当ててくる。
誘われるかのように、デイビッドの左手はアンリールの頭を撫でていた。長い睫毛がふるりと震えたのが分かった。
「何、やってるわけ?」
「分からないのか、貴女の頭を撫でているのだ」
「分かるっつーの。違うよ、何で、そんなことしちゃってんの」
「身分を弁える必要など、もうないだろう」
「ないけど……アンタには婚約者がいるんだよ。ふざけてんの?」
「大真面目な浮気だな?」
「……ホント論外。でも、モテるよ。アタシみたいのからはね」
睫毛よりも震えた彼女の声も好きだが、芯があって良く通る、自分を分かっているアンリールの声が聞きたくて、デイビッドは懸命にいつもの調子に戻す。アイリーンは変わらず、自分の脳味噌を邪魔する。が、デイビッドの脳内でそれより大きく蠢くのは、アンリールだった。
彼女の思ったよりも柔らかい肌に手を滑らせて、顎の辺りまで持って来る。そしてそっと引き寄せて、目を瞑る。そして――
「ちょ、っと待って」
「ハ、な、何だ。今が最高の機会だったろう」
「待って待って、それはまだ早いから」
「……貴女、実は意外と初心か?初心なのか?」
「は?良いからそういうの!ちょっと黙ってな!」
勢い良くデイビッドを怒鳴りつけた後、アンリールはデイビッドの顔から遠ざかって、舌をぬっと突き出した。
「アンリール?」
「何?アンタのためにやるんだからさ、そこで黙って待っててよ」
これでサービスシーンだ、とでも言うのだろうか。デイビッドも舐められたものだ。こんなもので満足できると思われてはたまらない。
が、アンリールはデイビッドの予想をはるかに上回った。やはりいつも彼女の行動は予想が出来ない。アンリールは、自分の右の人差し指を舌の先端にくっ付けて、湿ったソレをデイビッドの下唇に押し当て、するすると撫でたのだ。
「ア、ンリール」
「これで代わりになった?」
「……これはある意味、キスよりも濃厚ではなかろうか」
「は!?違うから!何それ!頭トチ狂ってんじゃないの!?濃厚とか、は!ないない!静かにして!」
「貴女は何を言っているのだ、貴女こそ静かにしてくれ。頭が狂っているのは貴女の方だろう」
頬を誰よりも真っ赤にして、アンリールは一人で大広間に戻っていく。デイビッドの下唇は、まだ少し濡れている。先を歩くアンリールが、不意にふらっと振り返った。
「ねぇ。今夜は踊り明かそうよ」
「ハァ?」
「駄目なわけ?アンタも上達したしさ、アタシと少しは釣り合うかもしれないじゃん」
「……仕方ない。余暇は十分にあるのだし、少しくらいならば良いか」
「やった!」
可愛らしく笑うアンリールにつられて、デイビッドも柔らかい笑みを零した。久しぶりに出た、心の笑いだった。それを見たアンリールが、デイビッドを指差してニヤッと笑った。
「自分で分かってるわけ?それ、モテすぎるよ」
他人からはどう思われても良い。何も貰わなくて良い。だから、貴女から。貴女からだけは、私に、愛を差し出して欲しい。
何とも自己満足の固まりで我儘な台詞だが、これは意外と、モテるのではないだろうか。
覚えている。嗚呼、覚えているとも。この世の全てを、あらゆるものを疑って来た者のみが、私の演技を見抜けただろう。
あの茶会で、アンリールは疲れていた。同時に、不満そうでもあった。私で力になれるのならば、という思いが半分、将来的に庇護下に入れないかと思って近寄ったのが半分。彼女がアンリール嬢だと、私はすぐに分かった。父親の焦った姿と傲慢なように見えて素直な性格に、ハッと目を引く容姿ですぐに分かった。
たったの50歳だったとは言え、私は甘やかされることなく育ってきた優秀な跡取りだった。これに関しては自負がある。早く人を殺してみたかった年頃だ。早く大人になりたかった。大人になりかけの癖に、思ったより感情が読み取りやすいアンリールに、正直驚いた。上級でもこの程度かと、少し見くびった。どうせ皆同じ悪魔なのだ。彼女の庇護下に入って、自分が果たして得をするだろうか。
こんなことを考えている間にも、彼女は辛そうになっていく。その原因が紅茶だとは気が付かなかった。きっと年上としての意地だったのだろうと、今ならば流石に察しが付く。自分の好きな味なのだが、と思いながら、無礼だと分かっていてもアンリールを慰めた。外を取り繕っていても、中はまだ子供だ。重圧をかけられた分を、少しでも癒されるのならば良いな、なんて久しぶりに素直な心が動いた。
アンリールの寝顔は綺麗だった。心と同じように無垢で、澄み切っているように見えた。デイビッドは、自分が腹黒い大人なんだ、と幼いながらに自覚にしていた。早く大人になりすぎたのだな、損をした、なんて思っていた。世間を見下して、アンリールのような上級・中級を見下して、皮肉れた青年に育って行った。
ついさっきの茶会でも、もちろん今までも、アンリールを揺さぶった。彼女のワイン嫌いも、彼女の過去も、仕事内容も、カーニバルの開催の仕方も、自分への尾行も、焦りも辛さも悔しさも、全て把握した上で行動を取った。彼女は私が好きだ。一方的に楽しむ恋の駆け引きも悪くはない。単純で簡単な彼女をころころ転がすのは、楽しかった。紅茶を飲んでほしそうに見てくるアンリールを無視して、ブラウニーを食べ続ける。別に美味しくもなんともない。あの顔が見たかったのが半分、お遊びが半分。
くだらないな、と思った。正面から、真正面から、裏から探るのではなく、表から勢いよく、彼女のように、そう、まるでアンリールのように、アンリールに想いを伝えるのが早いと分かっていた。彼女は私が好きだ。私も彼女を好いている。心から。そう、心から。私はアンリールが好きだ。初めて会った、あのときから。あの茶会から。
本当は、アイリーンとの婚約解消など、明日にでも出来る。だって、アイリーンは故人なのだから。
人間はいつか死ぬ。アイリーンもいつか死ぬ。仕事だった。恐怖に濡れた彼女の瞳は見慣れていた。この愛しい私の姫を、どのように躍らせようか真剣に悩んだ。……楽しかった。
アンリールを私の伴侶にしたかった。愛らしくて愛しくて、可愛らしくて美しくて、強がりで謎めいていて、それでいて単純で分かりやすくて簡単で、下級の癖に発達しすぎた自分と上級らしいアンリールは、中身も外見も合っているだろう。
身分差?知ったこっちゃない。乗り越えればよいのだろう。力ずくは好まない。頭脳戦なら任せていただきたい。本性なんて見せない。単純で簡単で分かりやすくて鈍感で、何も知らない分からない覚えていない美しく健気で不器用なデイビッドがいればそれで良い。アンリールはそれを求めている。その私に、愛を捧げてくれる。
貴女からだけは、私に、愛を差し出して欲しい。
何とも自己満足の固まりで我儘な台詞だ。が、私は撤回しない。“美しく素直な私”は撤回しない。
だって、その方がモテるのだろう?アンリール。
すべてを疑った人が、きっと真実を知る。
それは確かに、悲しいことでもありますね。