わたしの髪の毛と、あなたの笑顔
女子高生と不審者と犯罪者の、恋の話。
夕日に照らされた住宅街で、わたしは今日も髪を切った。無造作に掴み、隣に立つ男に束のまま渡す。男は小さく笑って、その束を紐で縛り、カバンの中に入れた。気味悪い、気持ち悪い男だと思う。わたしは、毎日ちょっとずつ短くなっている髪の毛を触って、小さく笑った。
わたしは、ゆつという名前の高校生だ。小さい頃から、髪を切る時間が嫌いで、ずっと伸ばしている。量も多い上に長いから、圧迫感が凄いとよく言われるが、そんなのどうでもいい。真っ黒な髪の毛はそろそろ、尻に到達しようとしている。
「ゆつ、いい加減そろそろ髪の毛切りなよ」
「面倒くさいから切らない。何かあったら切るよ」
「いつかラプンツェルになるよ?」
「いいじゃんラプンツェル。美人で可愛いし」
「そういう意味じゃないの!」
わたしの友達の佐藤は、ミディアムボブの非常に健康そうな髪の長さをしている。可愛らしい声と顔、髪型に良く似合う赤いカチューシャをしている。彼女のような髪型に憧れたこともあるが、伸びたときの手入れが面倒そうなのでやめた。
せめて縛ればいいのだろうけれど、縛るのも面倒だ。櫛で梳くので精一杯。美容関係に興味はない。高校生にもなるのに、わたしは化粧関係に1個も手を付けていない。ハンドクリームやリップすらも持っていない始末だ。たまにハンカチティッシュも忘れる。
手も唇も乾燥しないし、トイレや手洗いになんて行かないし、鼻水もなかなか出ない。花粉症を患っているわけでもないから、春にティッシュ箱を持って来ている人を見ると思わず同情してしまう。
「ね、佐藤って花粉症だよね?」
「え?うん、そうだよ?」
「辛い?」
「めっちゃ辛いよ⁉ゆつには分かんないんだろうけどさぁ」
「うん、ごめん、分かんない」
「あー、いいなー、ゆつは」
鼻をズビズビすすりながら、佐藤は自分の席へ帰っていった。わたしはバサリと垂らしている髪の毛をいじいじする。多分、周りの人から「可愛くない」とか「伸ばす意味が分からない」とか「切ればいいのに」とか思われているんだろうけれど、単に面倒くさいだけなのだ。多分、仲間はかなりいると思う。
わたしは、早くHRが終わるのを切実に願いながら、足で通学バッグを小さく蹴飛ばす。一番年下だからって先輩たちに先輩面されるのがどうも気に食わない。中学時代から先輩後輩とは付き合わずともここまでやって来れたわたしは、高校でも先輩たちと関わる気はない。
「ゆつ、帰る?」
佐藤が、通学バッグを背負いながらこちらに歩み寄ってくる。バッグの横で、お揃いのキーホルダーが揺れている。佐藤と一緒に一回だけ遊んだ時に買ったものだ。佐藤がピンク、わたしが青。わざわざ2色のバリエーションしかないキーホルダーを選んで買ったのは記憶に新しい。
佐藤とお揃いに出来たのが嬉しくて、「生涯お揃いはこれだけにしよ」とか「お揃い可能人物は佐藤だけにしよ」とか思ったのも覚えている。わたしは佐藤に心を許しているから、お揃いにしてくれたことだけで心がはちきれそうだった。
「う~ん。帰る~」
「眠そうじゃん?」
「眠くないの?あ、そっか、佐藤はさっき寝てたもんね」
「授業は催眠術だよー」
止まらない欠伸を隠しもせずに、わたしたちは昇降口へ向かう。ローファーをポイッと取り出して、さっさと足を入れ、わたしは佐藤も待たずに歩き出した。
「あっ、ゆつ!」
ドンッと大きな衝撃で、眠気が吹っ飛ぶ。先輩とは関わらないと断言はしたものの、ぶつかって睨まれでもしたらそれはまた別だ。急いで謝罪の言葉を繋ぐ。
「あの、すみません、ホント。わたしの不注意です、前とか見ないで歩いてたから……」
「あぁ、構いませんよ」
ぴくっとわたしの耳が動く。ねっとりとした、とはまたちょっと違う、低く穏やかでちょっと薄気味悪い声が降ってきた。後輩に敬語?同級生でも使う??それに、「構わない」って何?大人?仕事?
それに、そんなのどうでもいい。わたしの大好きな声だ。絶対に聞いたことがないのに、泣きたくなるような声だ。永遠に聞いていたいような、麻薬みたいな声。無いと死んじゃいそうな声。
後ろの方で、佐藤が「ゆつのバカ~……!」と呟いているのが聞こえる。人にぶつかるのはそんなに駄目なことだろうか。謝ったしいいだろう。ちゃんとイケボなのだが背筋を這うような声の持ち主の顔も何も見ずに、わたしはそそくさと昇降口を出ようとした。
「それでは……」
「……え?あ、あ、ちょっと待ってください!」
「ぅおわ⁈」
片手を掴まれて勢いよく引っ張られたわたしの体勢がぐにゃりと崩れる。危うく転びそうになりながら、相手の姿を初めて捉えて立ち上がる。相手は、明るい茶色のロングコートにボサボサの髪、冴えない分厚い眼鏡に黒のロングブーツを履いていた。
「……へ?」
「あ、すみません、ごめんなさい、あの、すみません……!」
「え?あ、大丈夫です、よ?」
思わず倒れかけたわたしは、相手の胸元に飛び込んだような形で一命をとりとめた。視界の端に映る佐藤は、靴を持ったまま口をポカンと開けていた。
「あの僕、川獅と言います。あの、ちょっと、お話を聞きたくて……」
社会人にしては妙に口下手に見える彼は、わたしの腕を掴んで離さないまま、わたしの瞳を一生懸命に見て話しかけてきた。
「え、あの、ちょっと腕痛いです……」
「え?あ、あ、ごめんなさい、すみません!」
「ああ、大丈夫ですけど……」
ペースが乱れるなんてもんじゃない。相手のペースも自分のペースももう分からん。かき乱される人だ。川獅、だなんてなかなか見ない名字を持つ彼は、佐藤には目も向けず、わたしだけに真摯に話しかけてくる。
正直、めっちゃ怖い。どこの誰だか知らない人に腕を掴まれ、頼れるのは非力な佐藤のみ。大声が出せる訳でもないし、今日はまだ部活もないから校庭に人はいない。確実に先生でも学校関係者でも生徒でもない。もしかしたらOBだろうか。でも、何故OBが新入生の、しかもわたしだけに執着する?
それに、この川獅さんがわたしに執着するメリットは何だろう。お話を聞きたいだなんて低レベルなお誘い文句があってたまるか。
確かに声はすっごく良い。わたしに向けられる声が全てこの声だったら良いのにというレベルで、川獅さんの声が大好きだ。でも、川獅さんの良い所は声くらいしかない。他は怪しい。気味悪い。これからの人生、川獅さんの声以上に好きな声には出会えないだろうけど、不審者ならば話は別だ。
「すみませんけど、わたしこれから用事があるんです。行こ」
「え?あ、分かった」
わたしが佐藤の名前を呼ばずに手だけ差し伸べると、佐藤は戸惑いながらもわたしに着いて来てくれた。当たり障りない誘い文句には当たり障りない断り文句でケリを付ける。学校や親に報告した方が良いのだろうが、面倒くさい上に厄介事に繋がりそうなので、佐藤にも口止めしておこう。
わたしが佐藤の腕を掴んで自転車置き場に向かおうとしたら、後ろから声がまた響いて来た。素っ頓狂というか、緊張しすぎて裏返った声というか、とてつもなくダサい声だ。でもいい声だ。
「あのっ!」
「??」
頭の上に疑問符を浮かべて恐る恐る振り返ると、告白間際の女の子みたいな表情とポーズをした川獅さんがいた。目を開けてわたしの存在を捕らえると、パヤッと笑って走って近づいて来る。それが思ったよりも可愛らしくて、バカじゃないのかと自分を心の中で殴り倒す。
「あの、ち、違うんです。僕、そういう、危ない人みたいなこと出来る人間じゃないですし……」
「あー……えっと、誰なんですか?」
「え?だからあの、僕川獅ですって、さっき……」
「んぅー、そうじゃなくって」
とにかく早く話を終わらせたくて、少し会話をすれば気も済むだろうと考えたわたしは、佐藤の手を離して川獅さんと向き合った。
「え?え、ゆ――」
「先行ってて良いよ。別にすぐだし。ですよね?」
「あ、はい、もちろんです!お友達さんは、あの、全然いいです。大丈夫です」
確実にこの人コミュ障だ、と心配になりながら、わたしは塀の後ろにずれる。このままだと確実に生徒や先生の目につくし、ただ単に邪魔になる。佐藤は、ゆっくりとわたしの様子を伺いながら自転車置き場に向かって行った。
「あの、何されてる方なんですか?」
「えっと僕、あの、無職でして……」
ニートだなんてますます怪しい。わたしの心境を察したかのように、川獅さんは慌てて胸の前で両手を振る。
「ち、違います、あの、あいえ、違くはないです、僕はちゃんと無職です。でも、行動力もそんなないですし、怪しくないです……」
なんて怪しいんだ、と思いながら、わたしは一歩下がる。もうプンプンする。ヤバい人の臭いが。でも、怪しい人が「怪しくない」とは言わない。まず、「怪しい」という単語を使わない。……何なんだこの人?凄く変な気分になる。
それに、行動力は十分にあると思う。むしろ、行動力がありすぎる。行動力の塊だ。何故、行動力皆無のニートが高校昇降口前で突っ立って待機できる?
「あの、帰っていいですか」
「あだ、駄目です!僕、駄目です僕!」
「はい?」
「あ、ごめんなさいすいません、違うんです、あの、僕は大丈夫なんですけど、あの、ちょっと駄目です」
言語が通じない。わたしが話したいこととこの人が訴えかけてきていることがもう交わらない。理解できない。
わたしはいい加減イライラが溜まってきて、思わずため息をついた。せっかく不審者に時間を割いているのに、挙動不審だったらただの面倒な人で終わりだ。不審者だったら挙動不審なのが当たり前だろうが、わざわざ名乗る不審者がいるだろうか。どこのポジションの人なのか、いまいち把握できない。
そんなわたしをよそに、川獅さんは一人指をもじもじさせて、「あの、あの……」と呟いている。
「なんです?あの結局、何の用なんです?話って何ですか?」
川獅さんは、やっと聞いてくれた!と言わんばかりの顔で、ずずいとわたしに迫ってきた。再び、あの可愛らしい笑顔で。
「え?」
「あの、ですね」
彼は言った。
毎日、髪の毛をくださいと。
「え~~っ⁉キ、キモ!!え、えっ、それでどうしたの、ゆつ?」
「……OKした」
「ハァッ⁉ダメでしょ、そういうのは!ダメなやつじゃん!」
「だって佐藤も親も切れってうるさいし、欲しい人がいるなら需要あるじゃん」
翌日の朝、わたしは佐藤に絡まれていた。というか、昨日のことを全て吐かされた。自分でも馬鹿な判断だった自覚はあるため、佐藤に何も言い返せない。
「約束、どこにしたの?」
「近くの公園」
「よく見る事件現場ランキング第2位くらいのところ!ダメ!約束ぶっちしな!」
「え~?」
「え~ってゆつ、アンタあの不審者に惹かれてんの⁉」
「え、違うよね⁉」
佐藤のビックリ発言で思わず逆ギレみたいになってしまった。流石にその誤解は受けたくない。わたしだってしたくてした約束ではないのだ。単に鬱陶しかっただけ。毎日川獅さんと会うと思うと確かに億劫だし、断った方が面倒にならなかった自覚はあるが、もうしてしまったのだ。
でもぶっちは……川獅さんが悲しむ。彼が悲しむ顔は見たくない。昨日よく顔を見たら、なかなかに綺麗な顔立ちをしている。あの人は感情を素直に表す人だ。何故だか、怖いし気味悪いし気持ち悪い要求もするのに、悲しませたくなかった。あの美しい声が悲しみを帯びるのは、それはとても勿体ないし、何よりわたしが嫌だ。絶対に後悔する。
「何その疑問形……もうゆつの好きにしたら?わたしは身を引く」
「川獅さん、佐藤には興味なさそうだったもんね」
「確かにアンタの方がお胸でっかいけどね!!うるさい!!」
女は怖い。胸が大きいやつには最初から微妙な嫌悪感があるらしい。確かに佐藤は胸の上で野菜を切ったりできるレベルの胸だから、そりゃあ佐藤も嫉妬はするだろうけど……わたしだって別に大きくない。
「じゃあね、ゆつ。ホントに、携帯だけは外しちゃダメ。いい?あ、一緒に行こっか?」
「朝、身を引くって言ってなかったっけ」
「あ~ん、確かに怖い目にあうのはヤだけど、ゆつが殺されるのはもっとヤだよって!」
「大丈夫、川獅さんに多分人殺しは出来ないから」
「えぇ?何それ?んむぅ、じゃ……また明日ね?明日学校来てよね?」
「あーうん来る来る。またね」
放課後、いまにも泣きそうな佐藤と別れたわたしは、急ぎ足で通学バッグ片手に近所の公園へと歩みを進める。そこで川獅さんが1人寂しく待っていると思うと、何故か足が速くなる。
「あ、いた……」
公園の入り口で、ぴしっと立っている背の高い男性が見えた。目元の辺りが反射して光っている。川獅さんの眼鏡のせいだろう。
「川獅さん」
「えっ⁉だ、誰ですか!すみません!って、あ、来てくれたんですか……」
「あ、そんなに驚きますか?来ましたよ」
「わぁっ、有難いなぁ、ちょっとずつで構いません」
川獅さんの顔が、昨日話を催促した時のようにふんわりと明るくなる。その瞬間を見るのが何だか申し訳ない気もするが、それよりも川獅さんの話す内容に一瞬付いて行けなくなった。
「え、脈絡の欠片もありませんね」
「あ、すみません、ごめんなさい、僕、お話お喋り全般苦手で……」
「大体察しは付いてます、大丈夫。髪ですよね?」
わたしは、通学バッグをパカリと開いて、鈍く光る銀色の鋏を取り出した。軽く手慣らしで、チャキチャキと鳴らしてみる。そこで、ちと思いついた。冗談のつもりで、ほいっと川獅さんの方に鋏をチャキッとしてみる。
「ひゃ⁉ご、ごっごっごめんなさいっ!あああ~、すみません……!」
「あっは、そんなビビりますか?冗談に決まってるでしょ」
「え?あ、冗談?び、ビックリした、僕のこと、殺そうと、僕、どこで何やったかなって、あー、良かった……」
「あっは……じゃ、髪切りますね」
「あっ、は、はいっ!」
何気なくわたしが言うと、川獅さんはキラキラした瞳でわたしの髪の先端を見つめた。え?と軽く戸惑いながらも、わたしは勢いよく髪の下の辺りを切った。いや、量が多すぎて、「ジャキ、ジャキ、ジャキ」くらいで切り終わったが、それはこの際無視だ。
「えーと、これで良いですか?はい」
「わあぁぁ……あ、有難うございます、僕、僕、ああぁあぁ……」
恋するような、見惚れるような視線を、切られたわたしの髪の毛が受けている。川獅さんはよく分からない趣味とフェチをお持ち。脳のメモに書き込んだ。これを毎日か、と思うと少し億劫ではあるが、この可愛らしい川獅さんの笑顔&弾むような妖艶ボイスと引き換えだ。わたしの髪の毛如きで喜んでくれるなら、いくらでもあげようと思えた。
正直、川獅さんはヤバい人だ。わたしもヤバい人だ。ヤバい人の笑顔のために髪の毛を切るなんて馬鹿らしすぎる。明日からもっと、切る長さが短くなる気がする。わたしの髪の毛が短くなれば、川獅さんはターゲットチェンジをする。ゆっくりゆっくりじっくりじっくり短く切れば、川獅さんはターゲットチェンジが出来ない。
何を考えているんだわたしは。ニートでロングヘアフェチで怪しすぎる不審者・川獅さんのために、わざわざ髪の毛を毎日切るなんて、バカにも程がある。自分でも、自分が理解できない。
――あ、理解出来た。
川獅さんはわたしを知らぬ間に誘惑していたのだ。どこかで惹かれていたのだ。佐藤の読みは当たった。いつの間にかわたしは、こういう気持ち悪い人に、惹かれていたのだ。
「……ええぇぇ⁉え、嫌だ嫌だ!もっとイケメンで金持ちで、エリートな職に就いてる男がいい!何で⁉何でよゆつ!何でこの人なの⁉え⁉」
「え?ゆつさん、どうしました?」
「え?あ、ううん、何でもない」
ハッとわたしは我に返った。薄気味悪くも落ち着く川獅さんの低音ボイスは、確かにわたしの好みだ。川獅さんに髪の毛を渡し続けて、そろそろ一ヶ月になる。私の髪の毛は、背中辺りまでに減少した。高校から一人暮らしを始めて本当に良かった。親にバレたら川獅さんは一発で警察送りだ。だって不審者だもの。
「じゃ、切るね」
「はい、お願いします」
相変わらず期待の籠った目でこちらを見てくる。川獅さんは可愛い。……この人に出会ってから、わたしはおかしい。この人の何が可愛いんだろう。川獅さんは怖い人だ。そこに惹かれているのだろうか?いやいや、まだ、まだ惹かれてないから。大丈夫。うちのクラスにはちゃんとイケメンが1人いるもんね。大丈夫、わたしはあの子が好きなんだよ。多分。
「あの、ゆつさん、髪の毛……?」
「あ、ごめんね、切る切る」
いつも通り、体の前に髪の毛を垂らして、ジャクジャクと切っていく。この切っているときの音が、案外好きだ。
「僕、このジャクって音、好きです」
「え、ホント?わたしも好きだよ」
「そうなんですか?それじゃ、お揃いですね!」
川獅さんが、可愛くて明るい、パヤリとした笑顔をまた浮かべる。心臓が上下に回りながら動く。わたしは、とりあえずツッコんでおこうと、髪の毛を手渡しながら言う。
「……そういうの、お揃いとは言わないと思うけど」
「え、そうなんですか?」
「そうだよ」
川獅さんの手が、わたしの手に微かに当たる。ちょっと何やってるの、と言う気も暇も隙も余裕もなく、川獅さんが静かに言葉を零す。
「また1つ、勉強になりました」
「来年社会人になったら、ちゃんと人付き合い出来る?」
「えぇっと……僕、来年に就職できるかな?」
「えぇ⁉もう、ちゃんとしてよ?」
「あ、はい、ゆつさんに言われたら、それは頑張るしかないです」
何なんだこの誘惑。いや、これは惚れさせに来ているのか?……やめやめ。川獅さんについて考えたらキリがない。あの日、高校の昇降口にいたときからこの人はおかしかったのだ。
「あの、ゆつさん。僕の家に来ませんか」
「はぁえっ⁉い、いい家⁉」
回想にふけるわたしを、この人はいつもいきなり強引に力強く、そして静かに現実に引き戻してくる。そして、その人の唇から紡がれる言葉は、いつも突拍子もなくて脈絡がない。
川獅さんは、今自分が口にした言葉の意味に気付いたらしく、赤面しながら慌てて弁解を始める。
「あ、あっ、あっ、すみません、あぁーっ、ごめんなさい、僕、ああ、僕、ごめんなさい、そういう、あの、えっと……」
「ハァ……勿論行くよ。行く行く」
「え⁉く、来るんですか?」
「え?だって、川獅さんが来なって」
「あ、あのはい、えぇ、それはそうなんですけど、あの、僕自身、何でそんな、そんな凄いことになったのか……」
正直、心が浮き立つ自分がいた。川獅さんの背中を、思い切って押してみる。
「え?」
「ほら、早く行こ」
「あ、あの、はい、うん。あ違う、はい、はい。行きます。行きましょう」
相変わらずこの人はコミュ障だし、言葉も拙くて会話なんてほとんどできないけれど、でも可愛い。触ってしまった。自分から、川獅さんに。赤い顔を隠したくて、わたしはそっと後ろを向きながら笑った。笑ってしまった。何に笑ったんだ……。もう、駄目だ。
「こ、ここです」
川獅さんの家は、ボロボロアパートの3階、畳の一室だった。電気代を滞納しているらしい。何故それをわたしに言ったのだろう。流石にわたしのお小遣いで川獅さんを生かす気はない。多分、会話したかったのだろう。逆に気まずくなるのが分からずに、何か言ったのだろう。可愛い。
「あの、ここに、ゆつさんの髪の毛……」
「え!飾ってんの⁉」
「あ、はい、あ、すみません、あの、ごめんなさい、どうしたらいいですか……?」
「んぅ、ま、良いんだけどね。へー、飾ってんだ」
川獅さんの部屋の左奥に、わたしの髪の毛コレクションがあった。めちゃくちゃにキモいし、嫌だ。だが、そんな嫌悪感を見破れないのか、川獅さんはコーヒーの準備を始めた。
「あの、川獅さん。座るよ?」
「え、あ、すみません、どうぞ」
「うん」
川獅さんが常日頃使っているであろう座布団に腰掛ける。幻だと思うが、微かに温もりを感じた気がした。思ったよりも部屋は整然と片付いており、男らしさを感じられなかった。川獅さんの生活リズムを感じない。それに、川獅さんの部屋に入ってもドキドキはなかった。それがとんでもなく嬉しい。
「あの、ゆつさん。コーヒーです」
「あ、ありがと」
正直ブラックコーヒーは苦手だが、川獅さんの淹れたコーヒーなら躊躇なく飲む。ちょっと吹き出しかけたけど。美味しくは、なかったけど。川獅さん、どうやら淹れるのが下手らしい。可愛い。
「そ。部屋行ったの。へー」
「あれ?佐藤、興味消えた?」
「ん?もうどうでもいいよ。好きにしなね」
「ん?佐藤?」
何だか佐藤が冷たい。やきもちか?お前も川獅さんレベルで可愛いな、と言おうとしたら、佐藤が思いっきりため息をついてわたしを小さく睨んだ。
「ゆつは少し人を疑え。バカなんだから」
「佐藤より頭いいけど?」
「静かにしなさい」
相変わらず佐藤とは会話が弾む。というより、会話のテンポが良い。川獅さんとは大違いだ。川獅さんと話していると、絶対にリズムが崩れる。話したいことを話せない。自分が話すタイミングで彼も話し出す。でも何だか、同じ時に口を開こうって思ったんだ、と思うと、どこか嬉しくなって体がHOTになる。ダメだ、おかしい。
「今日もどうせ行くんでしょ?」
「うん、もちろん行くよ?」
わたしが律義に佐藤の質問に答えてやると、佐藤はわたしの机のふちに腰掛けたままぷいっと後ろを見た。顔を覗き込もうとすると、佐藤は言葉を発した。
「アイツのせいでわたしがゆつと帰れなくなったこともちゃんと覚えててよ。それにわたしまだゆつの部屋とか……あーもう馬鹿!お前はすぐそうやって人を傷つけてさ、でも、あーっ!わたしトイレ!」
あれ?佐藤って川獅さん系のコミュ障だっけ?わたしの知り合いってコミュ障多め?え?あれ??で、何で逃げ場がトイレなの?
最近、佐藤がたまに悲しそうな表情をする。
「ん」
「有難うございます」
「んー」
川獅さんの瞳が好きだ。わたしの髪の毛を見ているときの瞳が綺麗だなと思う。たまに、髪の毛に嫉妬しそうになる。危ない。
――自分でも、分かりつつある。……嘘だ。もう分かってる。わたしは、川獅さんが好きになっちゃったんだ。危ないもクソもない。わたしは川獅さんに惚れてしまった。うわあぁぁ……。
でも、一緒にいても緊張しないし、ドキドキも胸の高鳴りもない。ただ、あー、好きだな、で終わりだ。いきなり高校にやって来て長い髪の女子高生から毎日髪を貰う川獅さんと、そんな不審者に惚れた癖に恋っぽい症状も何もない大人の俯瞰的な恋愛をしているようなわたし。もうどっちも狂っているんだと思う。
「あ……ゆつさんの髪の毛、短くなりましたね」
「ひゃああ。気付いちゃったか。……短くなったでしょお?川獅さんと会ったときは、ここくらいまであったのにね」
「……はい」
突然わたしの弱みに話を振って来たくせに、自分で表情を暗くしている川獅さんが淹れてくれたお茶を、コクリと飲む。川獅さんは、お茶を淹れるのが上手くなってきた。
「あでも、僕は、そのあの、ゆつさんの髪の毛の匂い、とかあの、好きですよ」
「……は?」
何だよそれ、みたいな、すごく感じの悪い「は?」が出てしまった。違う、気持ち悪いとか、いや気持ち悪いけど、無理無理ー、みたいな「は?」じゃないんだよ、と思いながら川獅さんに視線を移すと、彼は真っ赤な顔で首を左右に振っていた。
「あーあああ、ごっめんなさいすみません、違うんですっ、僕はあの、ですね、えっと、ちょっと僕もちょっとよく分からないのですが、あのゆつさん、が、何だか悲しそうで、あの、何か褒めようって、あ、上から目線ですみません、違うんです上から目線じゃなくて、……あの、元気出してほしいなって思って、間違って匂いとかそんな、あの気持ち悪い褒め方しちゃって、あの違うんです!僕あの――」
「川獅さん、良いよ、わたし別に、気分を害してないから。むしろちょっと嬉しかったからさ。でもわたし以外には言っちゃ駄目よ?」
川獅さんの対処を、静かに行う。ゆっくりとしっかりと、言葉を選んで紡いでいけば、川獅さんは落ち着いてくれる。わたわたしている川獅さんも可愛いっちゃ可愛いのだが、話せないのは困るし、川獅さんがパニックになる。
「何のシャンプー使ってるか教えてあげるよ。だから川獅さんもそれ使いなよ、ね?」
「いやでも僕、お金なくて……」
「あー……来年、入社して、自分のお金でシャンプー買いな。ほら、わたしとお揃いのシャンプーっていうのを目標に、一緒に就活しよ?」
川獅さんを下に見て自分を立たせようと、アイデンティティを川獅さんの保護者(仮)的なポジションにしている自分が今嫌いだ。川獅さんの瞳が自分に向いた瞬間、何とも言えない満足感に襲われて、悦に浸ってしまう。
「あ……そういうのを、お揃いって言うんですね」
「え?あ、ああ。うん、そうだよ。ふふ、お揃い、良いでしょ?」
はい、良いです、と川獅さんは笑いながら言った。彼の甘く爽やかな笑顔と、蜂蜜のような声が微妙に合っていなくて変な気分になるが、それよりも胸の辺りがあったかくなった。川獅さんが愛おしかった。
「あの」
「ん?」
冬を感じ始めた頃、わたしと川獅さんはショッピングに来ていた。お揃いのマフラーを買おうと提案したのだが、初めてのお揃いはシャンプーにしますと言われたので、今日はわたしの分のマフラーを買う。
後ろを振り返ると、神妙な顔をした川獅さんが突っ立っていた。物色中のマフラーを手にしたまま、わたしは川獅さんの瞳を見ようとする。初めて会った日のように、告白寸前の少女のような顔をした川獅さんが、やっと顔をあげてくれた。
「カフェに立ち寄って、お話しても良いですか」
「うん、良いよ。何かあるの……って、今聞いちゃ駄目よね。買って来る」
「あ、はい、いってらっしゃい」
バイト代を叩いて買うマフラーだ。少なくとも、すぐにボロボロになるのは避けて欲しい。わざと、赤と水色の2色しかないマフラーを買った。わたしが赤を買ったから、川獅さんは水色だ。将来の妄想をしてニヤニヤしかける心を抑え、わたしは店の前で待つ川獅さんの下へ向かった。
「ただいま。あそこのカフェでいい?」
「はい。あの……僕の今までのこと、お話しようかなって」
ひゅっと息を呑んだ。元々、微かではない興味はあった。わざわざカフェでこんなときに離そうとするのだから、軽い話ではないのだろう。わたしは、決心するように強く頷いて、カフェへと足を進めた。
「僕には、姉と兄と妹がいて……」
カフェのドアを開けるなり、川獅さんが口を開いた。これでは川獅さんがただの不審者になる。慌てて川獅さんの口を止めて、わたしはすぐさまコーヒーを頼む。
「ブラックコーヒーを2つ、お願いします」
「畏まりましたー」
奥の方の席を選んで座ると、川獅さんは向き合って座ってくれた。ああいうことは入るなり言うことじゃないでしょ、と視線で送ると、川獅さんは反省したように小さく頭を下げた。自分の過去というのは、コーヒーを何口か飲んだ後、ゆっくりとこっそりと話し出すものなのだ。これがいわゆる「お約束」である。
「お待たせいたしましたー」
可愛らしい店員さんが、テーブルに2つのコーヒーカップを置いてくれる。川獅さんのコーヒーの方が美味しい。
「え、えぇっと……。僕には、兄と姉と妹がいて、あと母と父がいて……ある日の夜に、みんな死んだんです」
「……か、く……」
予想外の話に、喉が変な声を上げた。苦しんでいるような声とは裏腹に、わたしの表情は真顔だ。そんなに優しい顔をして語る話ではないよ、川獅さん。命は確かに軽いけど、でも、でも、こんなお洒落なカフェで、わたしに話す内容なのかな。
「その日のことはあまりよく覚えてません。昔のことですから。でも、女の人だった。5つの命を取り去るほどの力と強さがあった人でした。黒いコートとぶかぶかの白いマスクをしていました。ぴったりとしたズボンで、こんなことを言うのはあれだけど、綺麗だった。父は木工系の職に就いていましたので、その父に敵う力の持ち主でした」
川獅さんが饒舌だった。まるでその日を焦がれるように。家族が消えたその日をもう一度求めるかのように。彼は狂っていた。確かに狂っていた。今までそれを忘れていた。
「僕は叔父に引き取られました。よくある話なのですけれど、別に歓待はされていなかったと思います。叔父の家は、叔父と叔母、息子さんが2人と娘さんが1人、僕、6人家族になってしまって。元々あまりお金が無さそうな家族でした。口減らしをしたかったでしょうに、僕が来てしまったのですから、それはそれは嫌だったでしょうね」
柔らかし日差しと彼の微笑みが不気味になる、なんてそんな感情は持たなかった。ありふれた話だった。一家虐殺事件を珍しいとは思わなかった。親戚に引き取られた人なんてよく知っている。
「ある日の夜、再会できたんです。あの格好の良い女性と。あの人は人を殺すことになれていた。僕だけがまた助かった。また会いに来てくれたと思った。叔父たちの返り血をお互いに浴びたまま、何秒か見つめ合ったときのことを覚えています。僕のことが好きで、追って来てくれたのかなって。それがとても嬉しくて、思わず彼女に手を差し伸べました」
川獅さんの瞼は、いつの間にか閉ざされていた。その時のことを思い出すかのように、両手を上にあげていた。この席が死角で良かった、なんて、雰囲気にそぐわないことを考えていた。
「彼女は、体を屈めて僕の頭を撫でてくれました。そのとき、コートからぱらっと、髪の毛が落ちて来たんです。彼女はそっとコートに髪の毛を仕舞いこんで。その仕草が僕を虜にしたんです。あの人は、少しだけ笑ってどこかへ行った。あの時から僕は彼女に会えていません。……あの仕草とか、血とか、持っていた鈍器も髪の毛も、妖艶な声も、僕忘れられなくて。僕は、親族を殺したあの人に恋をしてしまったんです」
何とも辛い話だった。わたしからしてみれば、その人が嫌いだ。川獅さんの心を奪った人がいると分かっただけで、もう死にたくなる。こんなことで?馬鹿じゃないの?今川獅さんが話したいのは。そういうことじゃないのに。
複雑に絡んだ自己中心的な感情を全く出さないわたしの無表情を見て、川獅さんはぐっと唇を噛んだ。
「何で自分でも、ゆつさんに話したいと思ったのか分からないんです。でも、何だか罪悪感で……。彼女の長い黒い髪の毛が、貴女に似ていて、仕草や笑い方の1つ1つが、どこかあの人の面影を感じさせるって、ただそれだけで。背格好も、ゆつさんと同じくらいで。僕、多分ゆつさんを利用してあの人とならどう過ごすかなって、そういう妄想をしてて、それで……そうなんです」
「……そっか。で、髪の毛頂戴って?わたしには興味もなかったんだ?」
「ゆつさんに興味は、ありました、あの人に似ているゆつさんがどんな人なのかなって、わざと自分を幻滅させようとしたり、それが興味に繋がるのか分かりませんが」
わたしにとっての川獅さんが、川獅さんにとっての彼女なのだろう。お互いに、不審者に惚れた不審者なのだ。
川獅さんは確かに、その人が好きなのだろう。わたしも確かに、川獅さんが好きだ。犯罪者を好きになるってそれはきっと、不審者を好きになるよりずっと辛いはずだ。それも、自分にとって身近であった人を殺した人。
「命は軽いと思うんです。命は重くない。その命を取り去った彼女は確かに悪いことをしたけれど、でも、そんなことより、美しかった。……ゆつさんを美しいと思った。彼女のような美しさがあった。でも、ゆつさんはあの人のように人を殺さないでしょう?だから……僕はやっぱり、あの人じゃないと駄目だって気付いたっていうか……すみません。こんな話」
「……ううん、つまらなくなかったから。安心していいから。……逮捕されちゃったの?その人」
誰かの好きな人について聞くなんてデリケートなこと、普段の自分ならできるはずがないのに、どうしても興味が湧いて仕方がない。好きでも何でもないのに……わたしに会ったときの川獅さんも、こんな気持ちだったのかな。
「彼女は……分かりません。その頃からずっと1人だったので、ニュースも何も知らなくて……。だから、彼女が逮捕されているのかまだ逃げ続けているのか、僕を追って来てくれているのか、まだ生きているのか、もう死んでしまったのか、何も」
好きな人のことが何も分からないとか、辛すぎる。故人に恋をしたり、手の届かない人に恋をしたり、この世にいない人に恋をしたり、それと同じくらい辛いと思う。自分はその人のことを知っているのに、その人は自分を知らない。何も出来ることがない。
「探すなんて、出来ないもんね」
「……はい」
意地悪がしたくなった。それも、唐突に。わたしは小さくパンと手を打って、笑顔で川獅さんを見た。彼のきょとんとした目は、暗く沈んでいる。彼の感じる罪悪感は、確かに分かる。勝手に誰かと交ぜて誰かを評価する、わたしもよくやることだった。
「じゃあさ、川獅さん、警察になってさ、その人を捜査って目的で探すんだよ!で、誰よりも最初に見つけてさ、こうすんの」
首をこてんと傾けた川獅さんの右手首を右手で掴んで、ぐいっと引き寄せる。
「わっ」
「ひひ。……やっと見つけた。僕を奪った人。……」
わたしは、彼のかさつく頬にそっとキスをした。もちろん優しく軽く。唇は、まだ早いでしょ?お揃いがもっと増えてからがいいな。
わたしが川獅さんの手を離して元の席に戻れば、彼の顔はタコよりも赤く染まっていた。眼鏡がずれているので、ちょっと微調整してあげる。
「何よぉ、変なことしたみたいじゃーん、出会ってまだ1年じゃないけどさ、半年は経ってるんだしさ、わたしは川獅さんが好きなんだしさ、良いじゃん。駄目なの?」
――駄目だろ。
心の声が冷たい。奥底の暖かい所がぽこっと抜け落ちた気がした。川獅さんは俯いて、コーヒーをぐぐっと飲み干した。わたしも真似して、コーヒーカップを空にした。
帰路がどうしようもなく気まずいけれど、わたしには気にせず歩いて行く。川獅さんが話してくれたことは本当に素直に嬉しかったし、嘘はつきたくないから言うけれど、確かに悔しかった。一日にこんなに沢山の感情を与えてくれた川獅さんが、わたしは本当に好きなんだなって、改めて自覚できた。
「……ごめんなさい。ゆつさん。すみませんでした。そんな……僕は、そんな……でもこの右頬は宝物にします」
川獅さんが、わたしの一歩後ろでしきりに謝っている。これは、本当にやめて欲しい。わたしは別に川獅さんを怒っていないし、本当に過去を話してくれて嬉しかったから。それに、その女性が死んだって逮捕されたって、川獅さんの恋は簡単に終わらないことも、推測できるから。
「いいよ。全部。川獅さんの恋は川獅さんの恋じゃん。とても応援は出来ないけどさ、知れてよかったよ。ってか、わたしに話してくれてありがと。そんな信用されてると思わなかった」
「信用……僕は罪悪感で……」
だから、前にも言ったでしょう?わたしは、悲しさを瞳に浮かべる貴方が好きじゃないの。蜂蜜が瓶から零れ出て固まったみたいな声、聞きたくないの。
わたしは、つま先立ちになって川獅さんの頭をこつんと叩いた。
「それでもさ、信じてないと無理だから。ありがとねって、うん。川獅さんはわたしの髪の毛を見て落ち着けばいいよ。でも、わたしはゆつだから。それ、忘れないでよ。わたしはその人じゃないから。わたしっていう個体だから。ね?だから、これからは、わたしを見て下さい。ゆつを見て下さい。そんだけ。じゃねー」
わたしは、スタスタと自分の家に帰る。ドキドキも緊張も、そんな感情のかけらもなかったからだろうか。失恋の涙は出なかった。
「――ぅ――っぁ――!!」
声にならない叫びが酷く惨めで、明日のわたしが楽しみだった。今日の話を聞いて落ちぶれることはまずない。泣いて悔やんで、自分のダメなところで明日への階段を作る。そうすれば成長できるって、誰かが言ってた。
これは、失恋の涙じゃない。駄目なわたしが嫌いすぎて出た涙だった。だってわたしは、こんな人間がいたら付き合いたくない。だから、自分の思う完璧に近づこう。これも成長の一部だ。
――もういっそこんなわたし、いなくなればいいのに。
川獅さんが好きだーっ。
消えちゃえばいいのに。
もう、誰もわたしのこと見てないと思うよ。
あ、駄目だ。こういうこと考えるのも駄目だ。
会いたいよ川獅さん。
自分だけは自分を見てる。
自分が死ぬ様を喜んで貪り食うよ。
川獅さんがいないわたしとか、もう想像できないからさ。
わたしダメだ。
ダメなわたしを、いい感じに見てよ、川獅さん。
勝手に恋愛対象にしてさ、全部好きって思ってよ。
川獅さんが好きなわたしが嫌い?
川獅さんが好きって、嫌なことでダメなことなの……?
川獅さぁん……っ。
「で?卒業式に来てくれて嬉しかったって、そんだけ?」
「そんだけ。悪い?」
「悪い」
「何で!」
「わたしはソイツが嫌いなの」
わたしと佐藤の進学先は、勿論バラバラだ。抱き合って泣いた。でも、いつでも繋がれるんだけどね、明日繋がろ、とか言って、花束で乾杯をしてみたりした。卒業式は、思ったより楽しかった。
今日は佐藤と繋がる約束をした卒業式の1日後だ。わたしの川獅さんトークは止まらない。卒業式に綺麗なスーツを着て、珍しく髪を整えて、コンタクトレンズでやって来てくれた川獅さん。相変わらずわたしは、彼が好きみたいだ。
「しばらく会ってなかったじゃん、まだ好きなの」
「好きだよっ!……川獅さん、ホントに警察になっちゃった。で、稼いだお金でシャンプーもマフラーも買ってくれた。お揃いは色違いとか違うんでしょう?って言ってさ、同じ色のマフラー買うからさ、あ、そっか、とか思っちゃった」
「……え?お揃い?だってゆつ、わたし以外とお揃いは――っ、何でもないわ。ね、今度買い物行こ。お揃い買おうよ」
「ごめん、もうわたしのお揃いは川獅さんになっちゃった。色違いじゃ駄目?」
「あー、そ、いいよ、色違いでも。まぁね」
佐藤の声が震えている。体調が悪いのかな、と思って聞こうと思ったら、携帯がブララララと鳴りだした。着信先は川獅さんだ。佐藤に断って、わたしは通話に出る。
『ご卒業おめでとうございます。ゆつさん』
「ありがと、川獅さん。でも川獅さんもすごいよ。警察でしょ?」
『あの日、ゆつさんに言われたので、頑張りました』
「うん……そっか。で?何かあったの?」
電話の向こうから感じる川獅さんの息遣いが、少し乱れた。どうしたのだろう、と思い「川獅さん?」と問いかけると、心なしか明るい声が聞こえてきた。
『あの……僕が好きな人が、ぅぅぅ……生きて、ました』
ひゅっと息を呑んだ。川獅さんが笑うのも、そりゃ当たり前だ。彼の笑顔が見たい。彼の蜂蜜の声が、とろみを帯びている。
「えっ⁉ま、マジ⁉やっばいじゃん、何それ!すごっ!奇跡⁉ふぇー!」
『あ、あの、ゆつさんに知らせようか迷ったのですが……言いたくて……すみません、僕のエゴで……』
「あー、わたしは確かにまだ川獅さんを好きだけどさ、もういいよ。ハハ。何で分かったの?」
『朝起きて新聞受けをチェックしたら、紙が。パソコンに打って送ります』
川獅さんはブチッと電話を切った。身勝手な電話の切り方も彼らしい。別に好きではないけれど。パソコンの前に戻って、佐藤と通話を再開する。その流れで、メールボックスをチェックした。
「なんて?」
「好きな人から置手紙が来たんだってさ」
「……嬉しくないじゃん」
「嬉しくない」
「……うん、そうだよね」
受信トレイを見ると、もう既に川獅さんからメールが来ていた。それを佐藤にも分かるように、口で読み上げる。なんだかんだ言って佐藤も、川獅さんに興味はあるみたいだから。
「えーっと、『川獅露。』えっと、つゆって書いてあきらって読むみたい。『近々会いに行く。死ぬ覚悟はいらない。』だってさ」
「……ゆつ、ホントに悔しくないの?」
「え?悔しくないとか言ったっけ?」
「ごめんって。でも……川獅さんに会いに行けばいいじゃん」
「あー……そうね、でもそれだとこの通話を切ることになるけど、いいの?」
わたしの心を占めるのは、「川獅さんの名前も知らなかったんだ」というただそれだけだった。どうしようもなく川獅さんに会いたいのも本当だ。アパートは知っているのだから、行けばいい。
佐藤は小さく笑って、「いいよ」と呟いた。ありがとうしか言えない。佐藤には感謝しかない。いつもいつも心配してくれて、こんなバカを見捨てないでくれた。
「じゃ、ちょっと通話切っといてくれると助かる」
「はいはい。じゃね」
「うん」
わたしがパソコンから離れると、はぁっとため息が聞こえてきた。微かに呟いた佐藤の言葉が、いそいそと靴を履くわたしに届くはずもなかった。
「何で許しちゃうかなー、ダメなわたし。そろそろ消えなよ……」
「川獅さん!」
「ゆつさん⁉」
ボロボロアパートの一室で、川獅さんは1人コーヒーをクピッと飲んでいた。合い鍵なんてないから、わざわざインターフォンを押さなければならない。ドアから顔を出した川獅さんを押しのけて、わたしは自分の定位置に座る。
「あの、何で……」
「好きだからに決まってんじゃん」
「はへ?あの、とりあえず僕、コーヒー淹れますね」
「あー、いいよいいよ、これだけ終わったらすぐ帰るから」
「?」
座った意味なかったな、と思いながら、わたしは苦笑交じりに立ちあがる。中途半端に浮いた川獅さんの手を握って、わたしはつま先立ちをする。
「あ、の、ゆつさん――」
「うっせバーカ、わたしに興味持ってくれなかった川獅さんのくせに」
はぷっと勢いよく近づいて、すぐに離れた。そんなに長くやる必要はない。彼の記憶に嫌なダメなわたしでも、強引な本当のわたしを焼き付けたかった。
「大好きだよ!バイバイ!」
「あ、あっ、ゆっゆつさん、あの――」
川獅さんの顔も声も聞かずに、わたしはバンッとアパートのドアを閉めて、全速力で自分の家へ戻った。途中、川獅さんが追ってきてくれないのが、本当に本当に悔しくて仕方なかった。
「……これで、あの人に渡せるのは、左頬だけだ……。僕は、何を考えてるんだろう……僕は、ゆつさんが……」
好きだったなんて言えない。好きではなかったから。
でも、友達ではなかった。ドキドキ胸は高鳴ったのに。
彼女らしくなく強引に重ねられた部分をそっと手でなぞってみる。何も、ない。
「――1度くらい、貴女の笑い声を聞きたいというのは、我儘でしょうね」
「川獅さんに、笑ってほしかったなぁ……。わたしの髪の毛、もう、ベリーショートなんだもんなぁっ……っ」
彼は、髪の毛を渡せば喜んでくれた。それは、あの女性の髪の毛じゃない。確かに、“わたしのもの”だった。でもそれは、“わたし”じゃなかった。
「わたしを、見てほしかったなぁ……っ……」
短くなった髪の毛は、失恋にピッタリな気がした。
恋は盲目。