夜 with liquor
ふられてから始まる、「僕」と「酒女」、そして「わたし」のストーリー。
深夜2時、全ての時計が狂いながら回り始める――。
※加筆修正致しました。
※another storyも投稿予定です。(時期未定)
ふられた。
アパートの階段をあがって、301のドアを開ける。どうせ、今日もカギは空いているのであろう。僕の予想通り、軽快にカチャリと音を立ててドアは開く。
「ハァ……お願いですから、カギだけは閉めて下さいよ」
靴を適当に脱いで、自室に戻るためにリビングのドアを押す。そこには、波打つウェーブに浮いた天使の輪っかを光らせる色っぽい女性がいた。
「おぉ、びしょぬれじゃねぇか。早く着替えて来いよ」
「あの、ここ、一応僕の家なんですけど……」
「あ、お前雨で涙流したふりすんじゃねぇぞ?分かっかんな?」
「はいはい、ウォッカなんて僕買ってました?」
「あたしの自費~」
左右にばさりと髪を垂らし、男のように寝そべっているのは、通称「酒女」と呼ばれている女性……だそうだ。大きなウォッカのびんや十何本もの缶ビールが、大きさに似合わぬ使い古したコンビニ袋に入れられている。
その女性――みさきさんは、一見危ないものに見える度数90を超えるほどの液体を、薄めもせずにそのまま口にぶっこんでいる。これが、ウォッカという酒だ。
「着替えたらウォッカやろうぜ」
「嫌ですよ。せめて、純米吟醸酒で」
「仕方ねぇなぁ、どこだ?」
「探さなくていいですから!足とか色々ぶつけて転びますよ!そこで寝ながら飲んでて下さい。……てかもう今日のお酒は終わりです!!沢山飲んだでしょう」
「お、悲しさが溶けてきていやがるぜ」
ハッと息を呑んだ。その勢いでむせながら、みさきさんを凝視する。彼女はニッと笑って、ウォッカと缶ビールを両手に持った。コーヒーとカフェオレ色のマットの上でぐるりと腰を回し、胡坐を掻く。
「好きな娘コにでも振られたか?」
みさきさんがウォッカをあおると非常に酒臭い。僕は、寒いと嫌がるみさきさんを無視して窓を開けた。
「……みさきさん、何で分かったんですか」
「んー、あれだ。女の勘。あいや、乙女の勘」
「女はともかく、どこからどう見ても乙女ではないでしょう。酒女の勘じゃないんですか」
びちゃびちゃの私服を洗濯機に放り込んで、僕はふわふわのタオルを首に巻き、冷蔵庫から純米吟醸酒を取り出した。おちょこは何故かみさきさんに奪われている。幸いなことに、ビールジョッキがあったのでそれに酒を注ぐ。みさきさんが「缶には口付けタイプ」で助かった。
「誰に振られた?」
「……浜中春香。同学年の普通の子ですよ」
「ってこたぁ大学1年のチビか。浜中春香、ね……。お前を振るなんて勿体ねぇ女だよ」
「?」
「ハッ!お前はなかなか酒に付き合える。少なくとも、あたしの中じゃイチバンだ!」
「春香さんはお酒飲みませんよ!」
みさきさんは、グイッとウォッカを飲み干して、横になった。よく見ると、彼女の左手の中には僕の家の合カギがあった。不思議と、渡さなければ良かったという気持ちは湧かなかった。
僕は、純米吟醸酒をぐぐいと飲んで、クッションを引き寄せ抱きしめた。
「駄目です、みさきさん。今日は僕、何だかお酒に弱い……」
「……大分、メンタルもやられてるみたいだしな。そういう日こそ、飲め。酒を」
そう言ってみさきさんは、酔ってきた僕の前まで、自分のウォッカのびんを押し出してきた。頭が回らない。僕は、びんのふちを眺めて、よく観察する。
「何してんだよ」
「みさきさんの口づけ跡を探してるんですよ」
「……?お前、それは浜中春香の方が良いだろ。まだ待っとけよ」
「いいんですよ、今夜は。ちょっと色気とかが欲しいんです。僕も酔いが回って来ましたし、ほら、みさきさんだってちょっと酔い始めてる」
あたしの酔いは関係ねぇだろ、とみさきさんは言うが、酔っていない普通の人がこんなことを許すはずがない。目を凝らしても、なかなか跡は見つからなかった。
「よし、もう、こうして飲めば、絶対に当たりはある」
僕はびんをひしっと掴み、細い注ぎ口を全部口の中に突っ込む。目の前に座るみさきさんは、無表情で明後日の方向を見つつ、缶ビールを開けていた。
途端、口の中に強烈なアルコールがどぱっと入って来た。正直、とてつもなくとんでもなく不味い。だが、このウォッカという名のアルコールを、僕は無理をしてでも飲みたかった。
大きめの一口をごきゅりと飲み込むと、思わず倒れたくなるような吐き気が僕に覆い被さってきた。
「あー、流石に90のウォッカはお前でも無理だったか。よし、あたしの膝を貸してやろう」
ふらつく頭を押さえながら前を見ると、みさきさんが星座をして自分の太腿を叩いていた。
「……ハ?いや、みさきさんがそんなこと――」
「いんだよ。だって、色気が欲しんだろ?好きでもねぇただの女の膝なら、貸してやるよ」
男のロマンの詰まった台詞で、僕は覚醒したかのように高速ハイハイで直行した。みさきさんの太腿に、バタッと倒れ込む。太腿は柔らかく迎え入れてくれ、甘い匂いとアルコール臭が同時に襲ってくる。
僕のびちゃびちゃの頭を冷えた手でそっと撫でてくれたみさきさんに感謝しつつ、僕は目を閉じる。
「びしょびしょだな……。よし、もうここで寝ちまいな。あたしはいてやっから」
「……カギ、閉めて、くだ、……さ……」
「わぁったよ。……おやすみ」
------------------
ハッと目を覚ますと、そこにはみさきさんがいた。
「みさきさん……?」
「おはよう。目ぇ覚めたか。今は4時半だな」
明け方じゃないですか!と僕は飛び起きて、用意しておいた洋服を取りに自室へと向かう。と、突然ぐいっと足が引っ張られた。
「ぅわわっ⁉」
あっけなく倒れた僕は、精一杯の恨みを込めてスウェットの裾を掴みニヤニヤしているみさきさんを睨む。
「大学には連絡しといた。今日は休め」
「ハ……?」
「あたしもここにいてやろう。二日酔いにしてやる」
「嫌に決まってるじゃないですか」
「そうか、お前は浜中春香に酔わせて欲しいのか」
「……あの人はお酒、飲めませんよ……」
「?……ふふ」
床にみっともなく転がったまま、僕はみさきさんに丁寧に対応していく。みさきさんは更にニヤッと笑って、僕のスウェットを持っていない空いた手で何かを掴んで持ち上げた。何だか先程の会話から、嬉しそうにしている。
だが、僕の小さな喜びも、みさきさんの手に収まる袋を見た瞬間しゅぼんと萎んだ。
「それ僕の……」
「そうだ。ポテチだ。これ喰らいながら、何か見て何かゲームして、飽きたら寝ようぜ」
……何だかもう単位とかどうでも良くなってきた。一瞬萎んだ喜びが、今度は悦びとなってもうっと膨らんでくる。
僕はのっそりと起き上がって、冷蔵庫の隣にあるプチ倉庫を開け、テーブルにありったけのスナック菓子をぶちまけた。珍しくみさきさんが少し驚いているのが、何だか誇らしかった。
「そうですね。パァッとやりましょう」
みさきさんは、気分良さそうに片膝を立ててだるそうに腕を乗せ、「ゲーム機持って来い」と言った。
「もう全部、終わったんだからな」
その言葉は、缶ビールを開けた音で、プシュッと紛れて掻き消えた。
-------------------
「じゃあ俺、もう行くわ」
「ねぇっ!りょーちゃん!」
「またのお越しをお待ちしております……」
やけに静かで落ち着いた店員の声が、酷く耳障りだった。たった今、このクラシック&アンティーク調のカフェで、わたしは1年付き合った彼氏に振られたのだ。深夜2時、9回目の別れだ。
「もぉ~、こんなことなら昼間のあの子にOK出しときゃ良かったよぉ~……。そうだ。あの子の連絡先、渡されてたっけ。電話して今すぐOKしちゃお~」
わたしは、テーブルの上のラスクを口に突っ込んだ後、店を出た。元カレが払っているのをチラッと見ておいた。最後までイイ男であった。
「記念すべき10人目の子の座はあの子にあげよ~。りょーちゃんみたいに貢げないならソッコーばいば~い♪ってことで。あれ?あの子の名前って何だっけ?りょーちゃんの本名って何だろ?……まぁいーや!公衆電話はっと……」
運良く近くにあった公衆電話に駆け込み、ポケットの中から大量のメモを取り出す。その中から彼のものだけを取り出すのは難関だと思われたが、彼のメモだけは何故か真っ白のルーズリーフだったことを思い出し、すぐさまかき分ける。
「普通、ピンクとかクローバーとか、もっと女の子っぽいのでしょ?何よ白のルーズリーフって。芸なさすぎ。……まぁいーや!この中だったら一番この子が甘そうだし、金持ってそうだもんね。あ、みっけ~。えと……『清楚な春香』?めんどくさ……」
この時ばかりは「まぁいーや!」とは言わない。正直、『清楚な春香』が一番面倒なのだ。咳払いをして声を整えると、『清楚な春香』の声に変えた。メモを見ながら慣れた手つきでサラサラッと電話番号を入力する。
コールが続く。わたしが少し苛立ってきたとき、ガチャリと音がした。
「あっ、深夜に突然ごめんね?ふぅ、はぁ……」
さも、今急いで駆け込んで来たかのように、息切れを演出する。これには何個もの効果がある。男の誘惑とか、名前を呼ばずに続けざまに言ってもバレないようにとか……だが、全ては後回しである。
「実は、昼間の時のアレなんだけど、今更、遅いかな?あのね、わたし、OKしよ――」
「よう、浜中春香」
……は?と思った瞬間に、口から漏れ出ていた。電話の相手は、カッカッカと笑って、艶めく声で言葉を続けた。
「コイツなら、今あたしの太腿の上で幸せそうに眠ってやらぁ。来たらどうだよ、春香」
「……酷い。わたしに告白しておいて、彼女さんがいたんだね。もうOKなんて言わないよって、伝えておいて下さい」
素の声から『清楚な春香』の声に即座に切り替えて、わたしはどこかで聞いたことのあるような声の主に告げる。大学の先輩だろうか。まぁいい。別に、こちらを被害者として振舞えば良いだけだ。
そんなわたしの、受話器を置く手を止めたのは、次の女の一声だった。
「あたしは少し嬉しかったぜ。『春香さんはお酒飲みませんよ!』から、『……あの人はお酒、飲めませんよ……』に変わったんだもんな。……アイツ、あたしが好きになっちまったね。そんな目をしてる。すまないな、春香」
「何よ、その話」
何だかもう面倒くさくなってきて、素の声に戻す。相手は特にびっくりする様子もなく、淡々とわたしに質問を重ねた。
「春香、お前、コイツの趣味知ってるか?好きな酒は?好きなファッションは?お気に入りの髪型は?最近の過ごし方は?まず、本名は?」
「……貴女、一体誰?どういうつもり?わたしのことを知ってるの?」
質問を躱して、逆に質問で返した。特に悪いとは思っていないが、向こうも想定内だったようだ。何だか怖い。清楚の仮面を脱ぎ捨てず、ずっと被りながら保身していれば良かったと思わせる女だった。この女と同居するあの子も、今となっては対象外であった。
電話の向こうから、妖艶な呟きが聞こえてくる。今度は色っぽくふふっと笑った女が、猫のように目を細めるのが分かった気がした。
「もう男遊びはやめろよ。春香。な?お前にだって良い男が現れるんだから、イイ男探しとかいう黒歴史創作はそろそろ、な」
「……?」
「春香のイイ男探しが町中だったから良かったものの、今度はあたしにも関係のある男に手が回ってきた。こうしちゃあいらんねぇ。あたしが迷惑を被ることは極力避けたいんでね」
「え……」
寒い。深夜に雨の中、暖房もない公衆電話の中で話しているからだろうか。いや違う。これは、この鳥肌は、全部、この女が作った空気だ。
女は、嘲笑した。
「もう、あんな過去を作るのは御免だよ。お前みたいに幸せにのんびり生きてみたかったぜ」
「っ⁉もしかして、貴女……」
女――否、みさきがニヤッと、わたしの瞼の裏で嫌らしく笑う。
「よ」
「我が妹よ」