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家斉君町に出る

家斉君町に出る


数日後、満を持して僕は浜御殿での遊興を行った。勿論、すり替わる影武者を用意してのことだ。その前に、神津が紹介する影武者に会った。よくもまあこれ程似た人間を見つけたものだと感心する。急場の誂えではなく、僕が、いや、家斉君が将軍になったとき、既に用意してあった者らしい。世間には自分に似た人間が3人はいるということだが、本当なんだ。もし、この者がそのまま将軍に居座ってしまったら、僕の帰る場所がないか。ふとそんな不安がよぎったが、ここは神津を信頼するしかないか。奥さんにも僕の計画は事前に伝えてあるし、積もる不安を無理やり振り払って、僕は神津が準備した猪牙舟に横たわった。船頭に扮した神津が僕に筵をかける。荷物を積みだすように見せかけるためだ。

無事に城外へ出た僕はすぐに武部と合流した。先日借りた武部の衣装を着ている。さしずめ若侍といったところか。

「さて、これからどうする?」

僕は早速聞いた。好奇心が抑えきれない。

「民らの事情を垣間見るのであれば、やはり日本橋辺りがよろしいかと存じます」

それには神津も頷いた。早変わりのように、神津も船頭のなりからもう武家の姿になっている。流石は隠密。

「それで? 我らの関係は? 年は離れているが、遊び仲間とするか」

それには武部が首を振った。

「それではご無礼な振舞いもあって、いささか恐縮致します。ここはやはり上様はお旗本の若様。我らはそれに仕える郎党が適当かと存じます」

神津も盛んに賛同の首を振る。

「わかった。で? 私の姓名は? そして、そなたらは?」

「私共はそのままに。町で見知った者に会わぬとも限りません」

「やつがれは世間との縁は絶っておりますゆえ心配には及びませぬが、武部殿の申された通り、このままでお願い申し上げます。上様にはしかとやつがれの名を覚えて頂くよい機会でございますゆえ」

「わかった。では、私だけだな……」

僕は考え込んだ。いざ偽名を付けるとなると、意外に思いつかない。いっそ、僕自身の名前でいくか。その方が咄嗟に呼ばれてもレスポンスいいし。

「では、私は篠崎。篠崎卓也と名乗ろう」

「篠崎……た、たくや?」

この時代には珍しい名前に武部は目を丸くした。

「そうだ。篠崎卓也だ」

なんだか自分の名前なのに久々に口にする。本当の自分に返った気分だ。ちょっと照れ臭い。

武部の話では、日本橋はこの時江戸随一の繁華街らしい。現代でも最近はコレドなんかの商業ビルが立ち並んで活況を呈しているが、それまでは嘗て街道の起点だったくらいしか僕の認識になかった。そして、武部が言った屋号に僕はあの有名な台詞を思い出した。「越後屋、そなたも悪よのう」

人の往来が頻繁だ。渋谷スクランブル程ではないにしろ、現代の日本橋以上かもしれない。江戸城にいると接触するのは武士ばかりで、こんなに町人の姿が多いのに驚く。目抜き通りというのか本通というのか、左右に時代劇に登場する大店がずらりと軒を連ねている。圧巻だ。この中に例の越後屋もあるのかな。

「如何なされまするか?」

武部が問いかけた。

「定信の推し進める倹約がどのような影響を及ぼしているか知りたい。確か、浮世絵や黄表紙といった物に統制をかけておるのだろう? それに芝居か」

「よくご存じであられます」

武部は感心した。読んだ小説から仕入れた情報だ。無論、上部しか知らないけど、ここは知ったかぶりでも通用しそうだ。何と言っても将軍は世間知らずが定番だからね。

「それでございましたら、この先の通油町へまいりましょう。上様、うほん」

武部は慌てて辺りを見回した。いつもの癖で僕をそう呼んでしまう。

「若様のお求めになる物を扱いおる店が並んでおります。鶴喜や蔦屋など」

「TSUTAYA? レンタルの?」

「れ、れん?」

「いやいや、こっちの話」

そうだ。蔦屋だ。TSUTAYAの創業者はこの蔦屋重三郎を手本に立ち上げたんだっけ。

武部の案内で行ったら、本屋が並んでいた。神田の前身だろうか。しかし、場所はちょっと違うような。

「こちらが蔦屋にございます」

中に入ると、本が処狭しと置かれている。上から吊るされているのは浮世絵だ。多くの客が立ち読みなのか物色していた。ここら辺の本や浮世絵を現代に持ち帰ったら、いったい幾らの値がつくのだろう。

「お武家様方。お探し物はなんでございましょう」

手もみしながら男が寄ってきた。番頭なのか? 侍だけに接客しなければと思ったのだろう。

「何か面白い物はないか」

武部が訊ねた。

「当家の若様がいたくご興味があらせられる。世の中の見聞にとお連れ申し上げた次第だ」

「へへ。然様なことで」

番頭はしばらく店内を見て回って1冊を持ち出した。

「これなどはいかがでございましょう。今流行りの京伝師匠の力作にございます」

吉原楊枝。外なる体の家斉君のお陰でこの時代の文字がなんとか読める。だけど、江戸城で行われる林大学頭の経書講義は眠くなる。昔から漢書は苦手だ。

「うーむ。これはちと若様には早いのではないか。それより、本日、主人は在宅か?」

え? 吉原のタイトルで、家斉君には早い? 読んでみたい。

「はい。おります。ちょうど、申し上げました京伝師匠もご一緒で」

蔦屋重三郎に山東京伝! やったあ。小説の登場人物がぞくぞく現れるぞ。

「先ほど武部が申したように、若様におかれては庶民の暮らしぶりにご興味があられる。突然の訪問ではあるが、少々話が聞きたい。よいな」

いかつい顔の神津が言うと、番頭は頻りに頭を下げて、

「承知致しました。すぐに主人へ申し伝えます」

と奥へ慌てて入った。侍って強引。

「少し無理やりではないか?」

僕の素直な感想。

「なにを仰せです。悠長に構えておりますれば、お城へ戻る刻限が」

周囲に気遣って神津は僕の耳元で囁いた。それに僕はそうかと頷いた。

しばらくもせず番頭が戻ってきた。

「お待ち頂きまして申し訳もございません。ささ、こちらへ」

慇懃に案内されて僕らは奥へ上がった。つやっつやに磨かれた廊下を通って座敷へと入る。江戸城の僕の部屋程ではないにしろ、かなり広い。我が家のリビングの3倍くらいはあるかな。いよいよ蔦屋重三郎とご対面だ。それに山東京伝にも。僕の胸は高鳴った。出来るなら一緒に写メでも撮りたい気分。でも叶わない。残念。

そこへ恰幅のいい男が入ってきた。きっと蔦屋重三郎だ。小説的に表現するなら、色つやのいいまさに男盛りの真っ只中といったところか。確か、定信のために財産の半分を没収されたんだよね。その処分はまだこの後か。なんだか気の毒。そして、山東京伝は50日の手鎖だ。その京伝も蔦屋に続いて姿を見せた。蔦屋と違って細身の優男。二人を前にして僕は感慨もひとしおだった。その未来を承知しているだけに、なんとか助けて上げたい。頑張るぞ。

蔦屋たちは下座に着座するなり平伏した。その間を計ったように女性二人が座敷に入ってきて、お茶と菓子を差し出していく。蔦屋の奥さんと娘さんかなあ。二人ともなかなかの美人。仕草も上品で決まっている。娘さんは大奥に呼んじゃおうか。むふ。あ、いかん、いかん。どうも家斉君の体はそっちにばかり反応する。

「面を上げられよ。突然の訪問で失礼した。こちらにおわすは直参旗本篠崎家の若君であられる。みどもは用人を勤める神津と申す。この者も同じく武部と申す」

神津の紹介に蔦屋二人は上げた頭をまた下げた。しかし、ちっとも非礼を詫びていると聞こえないところが武家と町人との関係なんだ。現代に照らせば、相手は大出版社の社長とベストセラー作家なんだよね。はは。

「此度は、若様のご希望で市中見聞の最中である。まずは今流行りの書物などご覧になり、町人の暮らしぶりをお知りになられたいと仰せだ。ゆくゆくは家督をお継ぎになり、延いては幕政にあって要職にも就かれることであろう。そなたらの意見がご政務に繋がらんとも限らん。心して申し上げるように」

高飛車―っ。確かに要職も要職。僕は征夷大将軍なのだから。これ以上はないのだから。しっかり受け止めて、二人を救って上げるからね。いっぱい話して。

「これは勿体ないお言葉。身に余る光栄に存じます。先々のこととはいえ、手前共などの話を政にお取り上げ頂きますこと、夢のようでございます」

そう言って頭を上げた蔦屋だが、その表情は少しも嬉しそうじゃない。どうして?

「何か懸念があるのか?」

思わず聞いちゃった。

「いえ、そのような……」

「我らを疑っておるのか」

神津の声は厳しいんだよね。ドス効いてるし。御庭番だし。相手完全にビビッてんじゃん。いっそ、僕の正体ばらしちゃおうか。僕は妙にムズムズしだした。言いたくて仕方ない。それを察してか、武部が僕に目配せ。心の内読まれているね。

「滅相もないことにございます。お旗本をお疑い申し上げるなど」

「神津殿。いささか両名が気の毒でござる。初対面で我らを不承知なのは致し方ないこと。まずは両名の生業などから聞き取りし、数を重ねる内に親睦も深まりましょうほどに。時には料亭にて酒を酌み交わすのも一興かと存ず」

「うむ。わかった」

「いきなりご政道批判をせよと申しても頷くわけにはまいらぬであろう。のう。そうであろう?」

「え? ま、まさかご政道に物申すなど、決してそのような」

蔦屋は懐から出した手ぬぐいを額に当てた。思ってるんだ。不満がいっぱいあるんだね。僕は微笑んで見せた。

それから、話は蔦屋の商売や京伝の苦労話で結構盛り上がった。一口に浮世絵といってもいろいろあるとのことだった。確かに、100人の画家がいれば、100枚のそれぞれ違った絵画がある。印象画だったり抽象画など作風も異なる。まして浮世絵は版画だ。そこには彫師もいれば刷り師もいる。一人の絵師が描いた線描も彫師が違えば出来栄えも変わってくるらしい。優れた絵師と優れた彫師、そして、優れた刷り師が揃ってこそ、いい浮世絵が完成されるとのことだった。うーん。なんと奥深い。ただ、なんといっても肝心は絵師。その構図や描かれる男や女の表情はやはり絵師の腕次第。蔦屋は何人か将来の歌麿になりそうな絵師を抱えて世話をしているそうだ。その大成を見込んで今から育て上げておけば、いざ世に出た時に商売敵に取られなくて済む。いつの世も経営者はそうあって欲しいものだ。果たして我が社の社長はそうだろうか。疑問。疑問。ま、僕はせいぜい経理課長止まりだろうから、いいけどね。だから、この時代の将軍として十分に楽しませてもらおう。悪い? いいでしょう。羨ましいでしょう。むふふ。いったい誰に言っているのか。

一方で、京伝の苦労も大変そうだった。最初は絵師だったのだ。僕は小説で読んでいたから知っていたけど、武部たちは盛んに感心した。家業が質屋で何不自由ない暮らしかと思いきや、絵師の世界は実力本位。それを己が技量で切り拓いたのだから、才能ある者はやはり違う。しかも、本人がやりたいことは戯作で、それを一から始めたのだ。絵師としての地位がいくらか助けたのは否めないだろうが、それだけでこの時代の人気作家にはなれないよね。それに勉強もしている。いつか、中国古典の水滸伝を題材にした読み物を書きたいと言った。聞きかじりの情報だけでは小説なんて書けないでしょう。インターネットもない時代だし。中国古典の本なんてこの時代じゃきっと高価なものだろう。蔦屋の話では、貸本屋が主流で、そうした本をいざ買おうと思えばかなりの高額ということだ。きっと忙しい合間を縫って、貸本屋からこつこつと借りては読んでいるのだろう。頭が下がる。確かエッらく長い物語だよね。翻訳本なんかあるのかなあ。原文で読んでいるのなら、これもまた凄い。なんだか、有名人に会えた喜び半分、才人を前に気圧される自分に気付いて落ち込み半分。

「日を置かずにまた訪ねてまいる。その折はよしなに」

神津が初めて会釈した。彼も二人の話に感銘を受けたのだろう。

「お待ち申し上げております。本日は楽しいときを過ごさせて頂きました」

蔦屋と京伝にばかり話させていたのに、二人はにこやかに僕らを見送るのだった。成功者は自分の道のりを人に話したくて仕方ないものかもしれない。僕らも盛んに感心して彼らを喜ばせて上げたのだから、ま、いいか。

「面白うございました」

武部の言葉に僕も頷いた。

「いい勉強になった」

「御意。これから如何なさいまするか」

「話に夢中になって空腹も忘れていたようだ。何か旨い物を食おう」

「若、いえ、上様。食らうなどと仰せられてはなりませぬ。その場合は食す、と仰せなされませ」

途端に小姓の顔が出た。

「はーい」

「では、美味しい鰻を出す店を知っておりまする。少々歩きますが、よろしゅうございますか?」

「任せる」

将軍らしく威厳を示したが、僕のお腹がぐーと鳴った。形無し。武部は笑いを押し殺している。

江戸人の少々は現代人のけっこうなんだ。最初こそは江戸の街並みに物珍しさが勝っていたが、その内、延々と歩き続ける武部の背中にため息をつくことが多くなった。将軍としての体面もあるから「まだあー」なんて言えない。流石に日頃から鍛えている家斉君の体力は音を上げないが、空腹がそれを邪魔した。それに内なるからだの僕はとうに悲鳴を上げていた。

漸く辿り着いたうなぎ屋の2階に上がって待つことまたしばし。鰻は現代でもすぐには出てこないが、この時代は注文を受けてからさばき始めるらしく、それまで酒を呑んで待つのが常とのことだった。待つばっかし。でも、突合せで出された漬物、香の物というらしい、が絶妙。酒が進む。昼酒は効くよなあ。

「蔦屋らの話は如何でございました」

武部が切り出した。

「面白かった。表に出ない、仕事の裏側を知ることはいい見聞になる。定信への不満を聞き出せなかったのは残念だが、武部が言うように初回では仕方ない」

「これから数を重ね探ってまいりましょう。あの者らであれば、江戸の隅々に至るまで世情を捉えておりましょう。余人に聞くまでもないかと存じます」

流石は御庭番。神津の勘所は違う。

その時、隣の座敷に騒々しく数人が入ってきた。襖で仕切られているので、どんな人間かはわからない。カチャカチャと音がする。

「武家のようです」

武部の囁きに神津も頷く。カチャカチャは刀の音なんだ。

盃を口にしながら、僕ら3人とも聞き耳を立てる。隣からどんな話が聞けるのかと3人の狙いは同じだ。酔っぱらいはタガが緩んでいるから、きっと面白い憂さ話が聞けるだろう。

「おい、女将。酒だ。酒を五六本つけてくれ」

「はい。かしこまりました」

女将さんの軽やかな声の後襖が閉まる気配。途端に隣から愚痴が始まった。

「今のご政道はいかん。なっとらん」

「そうだ」

「なにが棄捐令だ。借金を棒引きにされると聞いて最初こそは諸手を上げて喝采したが、その後がいかん。嫌な予感がしたのだ。札差どもも商売だ。貸したものが返してもらえんでは成り立つまい。そら見ろ。たちまち苦しくなって、新たな貸出はせんとほざき始めた。ご大身はよかろう。急場を凌げば、それなりに見入りがある。売りさばく家財も多かろう。先祖の鎧などこの泰平に無用だからの。否と拒めば無理にでも押し付ける力もある。我ら微禄はたまらん」

「拙者など売る物さえもうない」

「暮れは困ったぞ。武士は何かと物入りなのだ」

「同心などは羽振りがよいそうではないか」

「そうだ。あいつらには袖の下がある。難癖付けてはせびり取っているらしい」

「くそう。御家人風情が」

そこへ女将が酒を持ってきたのか一瞬静まる。だが、退出するとまた始まった。

「ご老中はいったい何を考えておられるのか」

それを聞いて僕はほくそ笑んだ。武部たちもにやりとする。

「倹約。倹約。それもよいが、行き過ぎはいかん」

「近頃は華美なものはいかんと仰せで、浮世絵など吉原ものは規制となっておる。着物の柄にまで口出す始末」

「贅沢もいかんと砂糖も禁じられておるそうだ」

「それで饅頭がまずくなったのか」

「甘味屋も店を畳むものが増えておるらしい」

「我らの楽しみを奪ってどうするお積りなのか」

「ご老中は日頃から質素な暮らしをされておられると聞いたことがある。自分がしていることを我らに押し付けんとされておるのだ」

「ああ。田沼様の時代が懐かしいのう」

「あのお方は田沼様憎しに凝り固まっておいでだ。田沼様がなされたことをすべて覆された」

「早くご隠居召されんだろうか」

「無理だ。まだお若い」

「ならば、失脚」

「滅多なことを申すな。誰がそれをやるのだ」

「無論。上様を置いて他にない」

僕はそれに大きく頷いた。

「上様? ははは。それは駄目だ」

僕の耳はさらにダンボになる。

「どうしてだ」

うんうん。僕も知りたい。

「上様は女以外にご興味がない。まだお若いというのに、側室だけで両手を超えるというぞ」

僕は武部を見た。武部は首を横に振って、片手を広げた。え? 5人? そんなに? 僕は奥さんしか知らないのに。他に5人も女性がいるなんて。なんて浮気性なんだ。

「しかもだ。それは側室ばかりで、気に入った腰元などにはすぐにお手が付いて、その数は不明という噂だ」

僕はうなだれた。そんな筈はない。たぶん。

「今のご老中はお若く将軍職に就かれた上様の後見役でもある。ご成人あそばされるまでのだ。しかし、一旦握ったものは放したくない。上様の女狂いをよいことに、表向きのことは一切お見せにはならん。老獪なご老中のなさりそうなことだ」

おのれ定信。僕は怒りが込み上げてきた。僕の女狂いをいいことに、いや、女狂いなんかじゃない、好きだけど狂ってなんかない。とにかく僕の目を盗んで好き放題やってるんだ。許せない。そこへ鰻が運ばれてきた。旨そうな匂いに食欲増大。怒りも加わって、僕は一気にかっ食らった。その食べっぷりを武部たちは唖然と見守るばかり。


経済政策を思いつく


江戸城へ帰りながら、僕らはもう一度日本橋界隈を散策した。行き交う人々の数は多い。おそらく来た時よりは増えているだろう。でも、うなぎ屋で聞かされた話を元に眺めると、人々の目は沈んで見える。不思議なものだ。見る側の視点で物事は変わってくるのだ。

「あまりお気になさいませぬよう」

僕を気遣ってか、武部が慰めを言った。

「うむ……」

確かに女狂いはショックだった。

「上様はお世継ぎをお設けになられることも大切なお勤めにございます。畏れ多くも東照大権現様より脈々と受け継がれたお血筋が耐えては、また国の乱れの元となりまする」

「だが、作り過ぎもどうか」

僕に武部は苦笑した。こいつもそう思ってるんだ。あいつらと同類なんだ。みんなそういう目で僕を、家斉君を見ているのだろうか。城に戻るのが気まずい。

「奥向きのことは私などにはしかとわかりませぬが、大奥はいまだないほどに活気づいていると承っております。それもひとえに上様のご配慮と拝察申し上げます」

武部は頭を下げた。

「大奥が活気づけば、物入りとなります。御台様をはじめ、御中臈方のご衣裳や化粧道具だけでも多くの物品を買い付けることとなりましょう。それは商人への注文となり、商人は職人を使ってそれらを揃えます。物の流れは金の流れにございます。こうして江戸の町が潤っておりまするのも、そうした流れが澱みなく作られているからでしょう。それこそ泰平の御世ゆえ叶うもの。戦の中ではあり得ませぬ。これは代々受け継がれた将軍家のご威光の賜物に他ならず、さらにこの活況は上様のご尽力あっての賑わいと存じ申し上げます」

ジーン……。僕は立ち止まって武部を見つめた。なんだか涙が出そうだ。いい家臣を持ったなあ、僕。そして、同時に僕の中に一線の光明がきらめいた。そうだ。経済だ。倹約なんて後ろ向きなことをするからいけないんだ。幕府の財政はひっ迫しているんだろ? なら、収入を増やせばいいじゃないか。その方が、人間前向きになるぜ。駄目だ、駄目だって言われ続けると、本当に人はいじけてしまう。僕がそうだからよくわかる。収入を増やそう。増やして、赤字をなくすのだ。米に頼った財政だからいけないんだ。田沼意次は確かそれを思いついて商人に近づいたんじゃなかったか? それを定信は潰したんだ。本当に悪い奴。

「武部。よいことを思いついた。城に戻るぞ」

僕は思わず急ぎ足になる。

「え?」

「勘定奉行は誰だ」

「勘定奉行? 勝手方にございましょうや、それとも公事方に」

「金勘定だ。財政を立て直すんだ」

「では根岸様かと」

「わかった。神津急ぐぞ」

「はは」

神津はあっという間に僕を追い越して行った。橋の袂に隠してある舟の準備に先回りするのだ。流石は御庭番。

帰城すると、隠していた着物に着替えて僕は中奥に入った。御側御用取次の加納を呼びつける。そして、根岸の登城を命じた。それから僕は例の秘密の小部屋に入った。ここに来ると何故かホッとする。僕自身になれるからなのか。外なる体は家斉君だけど、やはり僕は僕だからね。そう言えば、江戸の桜をじっくり見てないや。舟から遠くチラッと見えただけだったな。まだ蕾が膨らんだくらいだったから、落ち着いたら奥さんと花見でもするか。でも、まずは財政の立て直しだ。根岸ってどんな男だろう。定信とつるんでいたら厄介だなあ。その可能性も考えておかないと。

夕方近くなって根岸が訪れた。

「火急のご用事とは如何なことにございましょう」

小部屋に二人きりだ。勘定奉行の要職にある者がこの部屋に通されるなどあり得ないことらしい。それを無理やり僕が押し通した。将軍の命令なら仕方ない。それにしてもこの男融通の利かなさそうな面構え。年もずっと上みたいだし、ふと会社の部長を思い出した。威圧感たっぷり。

「そなた、今の政道をどう思う」

「と仰せられますると?」

根岸は僕に不信感たっぷり。

「では、話を変えよう。そなたはいつから奉行を勤めておる?」

「はは。天明七年七月にご拝命頂きましてより間もなく四年に相成ります」

今から4年前? 寛政の改革はいつからだ? 寛政っていうからには、寛政に入ってからだよなあ。じゃあ、定信とは関係ないか? あれ? 待てよ。家斉君の将軍就任は1787年じゃなかったか? 今は1791年。すると4年前。家斉君が若年だから、定信が後見として老中になったんだよねえ。うーん。微妙。

「上様? 上様」

「ん?」

「何を先ほどより腕組みして独り言のように仰せでしょうか。ご指示あればはっきり仰せ下さいませ」

おお。そうきたか。ますます部長に似ている。やだなあ。でも、このまま曖昧には出来ないし、ひょっとしたらこいつがキーパーソンのような気もする。堅物だけに抱き込めたら最強の味方になるかもしれない。いっそ思い切って聞いてみるか。

「そなた、定信をどう思う?」

「ご老中をでございまするか……」

流石に即答は出来ないだろう。苦虫を噛み潰したような顔で黙っている。堅物がカチカチの岩になったようだ。ここはチラッと僕の本音を見せて探りを入れてみるか。

「私は定信が行う改革とやらが気になる」

「ご改革でございまするか」

お。表情が動いた。もしかして……。

「あれは弱い者苛めではないか? そなたどう思う」

「弱い物苛め……」

もう一押しか。

「倹約だ、贅沢禁止だと唱えて、民らの楽しみを取り上げておるそうではないか。それでは民らが可哀そうだ」

「ははっ」

頭を垂れる根岸。

「何も知らぬと思っていたのか?」

「滅相もないことにございまする」

「それではそなたの考えを申してみよ。ここには私とそなたの二人しかおらん。誰も近づけないことになっておるでな。私だけに言わせるではない」

「はは」

さらに畏まる根岸。ちょっと気分いい。部長を跪かせているみたい。

「わかり申した。畏れながら、この老輩の存念を忌憚なく申し上げまする。もし上様におかれましては、お気に召されぬことあれば、どうぞご遠慮なくこの老輩の首をお手討ちあそばされませ」

おお。言うねえ。覚悟決めちゃったよこの人。でも安心して。僕は人殺し嫌いだから。

「倹約はいかにも大事。幕府財政の現状を顧みますれば、やむを得ぬものかと存じます。但し」

根岸はそこで一段と声を上げた。

「庶民に押し付けるは如何なものかと存じます。政は武士が行うもの。有態に申せば、武士が勝手に行い、武士が勝手に身動きならぬほどにしてしまったのでございます。庶民に何の罪がございましょうや」

ほう。僕らの味方じゃないか。やったあ!

「上様。何が可笑しゅうございまするか?」

「ん? 笑ってはおらん。嬉しいのだ」

「嬉しい……」

「私の思いと同じなのでな」

「誠にございまするか!」

「嘘は言わん。だが、少し違う」

「それは」

「倹約もいかん」

「されど、倹約致さねば、財政はいずれ破綻するは火を見るよりも明らかでございまするぞ」

「どうして破綻する?」

「それは申し上げ難きことなれど、あまりに出費が」

「大奥か」

「御意」

根岸は項垂れた。そんなに浪費してるんだ。奥さんたち悪くないと思うけどなあ。僕が、いや、家斉君がいっぱい側室作ったからだね。いけない奴だ。

「出費が多いなら、その分を稼げばいいではないか」

「されど、石高はもはや頭打ち。はたまた米価を引き上げれば、先年の如く打ち壊しが頻発することは必定かと」

米価引き上げ? そんなこと裏でやってたの?

「米に頼るからいけないのだ」

「へ?」

根岸の目が点になった。

「世に出回る物産は米だけではなかろう」

「それはまた」

「私が食す食材にもいろいろなものがある。それらを扱ってもよい」

「お言葉ではございますが、それは百姓どもが作りしもの。それを武士にもさせよと仰せでございまするか」

根岸凄い反発。

「そうではない。百姓に作らせ、それを売ればよい」

「それは商人の仕事にございます」

「商人に代わってすればよい」

「上様! 然様なこと武士に出来るわけがござらん」

「なぜだ」

「それでは武士の面目丸潰れにございます」

「商人の真似と思うからそうなる」

「ではどうせよと」

「税と思えばよい」

「税?」

「そうだ。武士は本来百姓町人を守ってきた。それは戦ばかりではなく、町を作ってもきた」

「町を?」

「家康公はこの江戸に入府された際、葦の生い茂る土地を整備され、運河を作り、そこに橋もかけた。狭かった江戸を海岸への開拓を行って広げてこられたのだ。違うか」

「御意。まさにその通りにございます」

日本史の教科書がこんなところで生きるとは。

「商人をはじめ町人たちはその恩恵に預かっておる。あの者たちの今在るは我ら武士のお陰ではないのか」

「たしかに」

「では、その使用料を徴収しても理屈に適うだろう。だが、橋の一つ一つに通行料を取る番人を置くのも馬鹿げておる。費用もかかる。ならば、誰もが使うと見做して、須らく万民から徴収するのが良策だろう。公平に徴収するのが肝要だ。特定の者に特権を与えて奨励するから、役人との癒着が生まれる。すべての者に同じ決まりで税をかけるのだ」

「御意。御意にございます」

根岸いよいよ乗ってきたな。僕も乗ってきた。

「して、そのやりようは?」

「まずは住民税」

「住民税…… いかなるもので」

「簡単だ。町民の頭数に合わせて税をかける。人数分使うと見做すのだからな。但し、子は半分にせよ」

「それは妙案。して、如何ほどの額に?」

「それはそなたらが考えよ。あまり負担を大きくしてはならん。公共物の使用料だからな。その程度には抑えるのだ」

「御意」

「それから、商人には別の税も用意する。あれらは物を動かす。その動かした物の利ざやを利益としておる。百姓町人の作った物を売って商売としておるのだ。その百姓町人を守っておればこそ、物を買い、売ることが出来るというものだ。無論、我らが作った橋や土地も使っておるし」

「まさしく、まさしくでございます」

「名付けて所得税だ」

本当は法人税だけど、まあいいや。話がややこしくなる。外形標準課税も考えるか。

「しょとく?」

「利益にかける税のことだ。それなら文句あるまい」

「上様」

根岸は改めて平伏した。

「誠に、誠に感服仕りました。まだお若い将軍といささか不安に思わぬこともありませなんだが、もはや名君の器ここに」

言葉に詰まって、根岸は肩を震わせている。

「それともう一つあるのだが、聞くか?」

「いくらでも」

「これは少々難題だが、成功すれば、世の中変わる」

「変わる?」

「米は徳川にとってやはり屋台骨だ。蔑ろには出来ない」

「御意」

「特に寒冷地において飢饉は深刻だ」

「先年も多くの死者が出たと聞いております」

「そこで寒さに強い米を作らせよ。また、寒さだけはなく、ひでりにも強くなければならんだろう。そうしたものに強くて旨い米を作るのだ。品種改良だ」

「しかし、それはいかようにすればよいので」

「知らん」

根岸ずっこける。

「それこそ武士の知恵を集めよ。それで足りなければ、オランダやポルトガルからも人が来ているだろう。彼らからも聞き出すのだ」

「上様。南蛮人どもは米は食さぬらしゅうございます」

「米はなんだ。農作物だろう。米は食わぬとも、同じような物は食うておるのではないか? きっと似たような苦労を越えてきておる筈だ。聞き出せ」

「はは」

「それと併せて、新しい作物を作れ」

「新しい作物……して、いかようなもので」

「知らん」

また根岸ずっこける。

「ここまで考えたのだ。後はそなたらが考えよ」

言っちゃったあ。よく部長に言われるんだよね。一度使ってみたかったんだ。

「新しい作物は徳川専売品とするのだ。将軍の許可ない商人には卸させるな。これは農作物に限らず、商品も加えよ、皆が知恵を出し合って作り出すのだ。そのためにも広く意見を集めよ。身分の隔たりなく、この江戸に住む者すべてにだ。成果によっては、百姓町人は士分に取り立てる。武士には俸禄を加算する。だが、この際だ。働きのない者には減俸も併せて行え」

ちょっときつかったかな。減給は厳しいよね。勢いに乗ってついしゃべり過ぎてしまったかも。

「ははー。畏まってございます」

平伏すると根岸は慌てて部屋を出て行ってしまった。

「あ、ちょっと、根岸。……根岸さーん」

僕の呼びかけ虚しく彼の遠ざかる足音だけがこだました。発布はもう少し待てと言いたかったのだけど。あの様子じゃすぐに実行に移すよな。きっと定信が血相を変えて駆け込んでくるだろう。もっと外堀を埋めてから、定信とは対決したかったのに。しまった。僕の悪い癖だ。走りだすと止まらない。どうしよう。憂鬱。あの全身カミソリみたいな奴にまともに当たって勝てるわけがない。しばらく病気ってことにするか。でもそれもいつまでもは逃げられない。僕は部屋を出て御駕籠台まで歩いた。

「誰かいるか」

「は。ただいま」

離れた場所から声がしたかと思うと、「承ります」と台座の下からまた声がした。

「神津に話がある。すぐに呼べるか」

「は。畏まってございます。しばしお待ちを」

彼らは姿を見せない。というより僕を、将軍を正視してはいけない身分らしい。気づけば、厳しい社会だ。

それからいくらもしない内に神津は現れた。彼は僕を見ることが出来る。いわゆるお目見えの資格があるのだ。

「お呼びでございましょうか」

「武部に連絡を取って欲しい」

僕は根岸とのやり取りを詳細に語った。

「承知致しました」

「武部には私が直接話す。我ながらしまったものだ。性急過ぎた」

「ご心配召されますな。いざとなりましたら。我らが上様の盾となりまする」

どう「いざ」なんだろう。老中松平定信との面談に御庭番は出て来れないでしょう。まさか、定信が僕と大立ち回りするなんてこともないだろうし。だいたい殿中は危険物持ち込み禁止だよね。あ、小刀は持ってるか。でも、まさかだよね。僕の背中を冷たい汗が流れた。

思案した結果、当面仮病を使うことにした。ここは時間稼ぎが必要だ。奥さんには事情を話しておくべきだと思ったから、その後大奥へ。それに、たとえ仮病でも病気となれば、その間大奥には行けない。しばらく会えないから、今夜はいっぱい奥さんを愛してあげなくちゃ。そう言えば、他に側室がいるんだよね。いずれひと通り会っとかないとね。あくまでも参考ですから。

翌朝、僕は神津の手引きで城外へと出た。武部との待ち合わせ場所へ向かう。

着いたのは日本橋にある蔦屋だ。昨日の今日でちょっとずうずうしくないかと思ったが、武部が手はずを整えてくれたのだ。それに定信という脅威が迫っている。蔦屋と対面する前に、僕は手短に根岸とのやり取りを武部にも話した。彼は既に使いの者から詳細を聞いていたらしく、話の飲み込みは早かった。

蔦屋は座敷で僕らを迎えてくれた。京伝は流石にいない。

「早速お越し頂きますとは嬉しい限りでございます」

お世辞でもなく本心で迎えてくれたような気がした。気に入ってくれたのかな。

「京伝師匠は本日は来られないのかな」

「はい。新作にとりかかっておりまして、そうなるともう手前の呼びかけにも応じてはくれません。昨日はその打ち合わせでございました」

「人気作家は大変だ」

愛想笑いする僕の横で、武部と神津は不愛想だった。

「若様。いえ、上様。この際ではございますが、ご正体を蔦屋にお打ち明けなられた方がよろしいのではないかと存じます」

「!」

驚き顔の僕に武部は真面目な顔で平伏するのだった。神津も平伏する。そんな3人を見て蔦屋は戸惑うばかり。一体何が起きたのかという顔だ。

「皆様方、どうされましたので?」

「蔦屋、頭が高い。ここにおわすは徳川十一代将軍家斉公にあらせられる」

「へ?」

「控えよ、蔦屋」

「へへーっ」

「私は小姓頭取武部彦馬である」

「拙者は御庭番頭神津文左衛門である」

蔦屋は二人に威圧されてさらに縮こまった。可哀そうに。

「こうしてご身分を明らかにしたには理由がある。当初は追々そなたらと打ち解け合い、しかる後にと思っておったが、そうもいかなくなった」

「はは」

蔦屋にはまだ事の真意が飲み込めない。

「畏れ多くも上様におかれましては昨今の民らの苦境にお心を痛めておられる。それを私共にお打ち明けられ、このように危険を顧みず市中をご見聞あそばされておわす」

「とおっしゃいますと」

「ご老中の改革である」

「ご改革……それと、手前共とどのような関わりが……」

顔を上げた蔦屋には不安と期待の入り混じった表情が見られた。

「蔦屋。そなたの心底が知りたい。いや、そなたに限らず、出来るだけ多くの声を聞きたい。ご老中の発せられる倹約に始まった贅沢禁止がどのように民の生活に影響しているのか。それが、今は苦しくとも、将来において民のためになるものなら、よし。だが、もしそうでないときは」

「そうでないときは」

蔦屋が固唾を飲むのがはっきとわかった。

「ご老中の改革は一旦白紙とせねばなるまい」

ふー。

蔦屋のため息。武部が全部話しちゃった。僕の出番なし。

「それが誠でいらっしゃるなら、こんなに有難いことはございません」

「蔦屋。そなたまだ我らを疑いおるな」

「正直に申し上げます。確かに疑っております。考えておくんなさいまし。昨日今日お会いしたお武家様がいきなり将軍様とおっしゃられても、俄かに信じ難く。しかも、ご政道をご批判召されて、手前などにお打ち明けられるなど、天と地がひっくり返ってもあり得ねえ」

蔦屋は盛んに首を横に振った。

「流石は蔦屋。なかなか肝が据わっておる。もし我らが上様を騙る偽物であれば、今その首は胴から離れておろう。それを覚悟して申したのであろう」

「いえ」

「だが、案ずるな。既にそなたが確信しておるように、ここにおわすは正真正銘、徳川家斉様にあられる。上様。証拠の品を」

「え?」

いきなり振られて戸惑う僕。

「印籠をお持ちではないかと」

お、そうか。水戸黄門よろしく、「これが目に入らぬかー」とやるわけね。僕は印籠を武部に渡した。

「見よ。徳川のご紋。三つ葉葵である」

あら。やらないの? ちょっと残念。

「ははー」

再び平伏する蔦屋。ちょっと流れが違うけど、やっぱりこのシーンは快感。癖になりそう。

「確かに承知致しました。ご無礼の数々、平に、平にお許しを」

「苦しゅうない。面を上げよ」

いっぺん言ってみたかったんだよね。この台詞。

「畏れながら、一つだけお伺いしたいことがございます」

「何だ。申してみよ」

クーッ、カッコいいー。僕絶好調。

「ご老中と申せば、ご政道の顔と存じます」

「ふむふむ」

「そのご老中が断行なされるご改革に将軍様が異を唱えられるのが、手前などには不思議と映ります」

「それはどうしてだ?」

僕の出番が続く。

「もしやその……将軍様とご老中とのお仲が……」

蔦屋は言い難そうに告げて俯いた。

「図星」

僕はさらりと言ってのけた。慌てたのは武部たち。

「上様!」

そこまでとは彼らは思っていなかったのか? でも、嫌いなものは嫌いなのだ。

「定信のことは苦手だ。あの怜悧な眼差しで見られると腹の内を見透かされそうだ。だが、それと政務とは違う。公私混同しては、それこそ世の乱れの元だ。良薬口に苦し。将軍として時に諫言も聞き入れる器量がなければならんと思っておる。ゆえに、たとえ我が後見役を勤める老中であろうと、施策に誤りあればそれを正すのが、私の役目である」

3人とも僕に聞き入っている。将軍が板について来た、という感じかな。

それから、弁舌爽やかに語る僕は根岸に話した徴税案と品種改良政策を3人に披露した。

「さてさて」

蔦屋は苦笑いした。商人としては当然の反応だ。僕の政策では、今後の利益が税金として徴収され減ってしまうのだ。しかも、人が存在するだけで住民税もかかる。

「これは痛し痒しでございますな」

「そうだろうか。蔦屋。そなた、商売においてはなかなかの工夫人と聞いておるが」

「いいえ。少しばかり人のやりそうでないことをやるのが好きなたちなだけでございます」

「隠さずともよい。根岸が褒めておったぞ」

「恐れ入ります」

「定信は上から押さえつけるばかり、それでは窮屈だ。成長というものが期待出来ない。だが、その蓋を取り除いてやれば、皆の工夫次第で如何様にも大きく出来るだろう。蔦屋の工夫にももっと延び代が出来るというものだ」

「ほう」

蔦屋は少し乗ってきた。

「我らはただ金を取るのではない。そなたら商人の活躍する場を与えるから、その使用料を払えと申しておる。また、時に知恵も出そう。その手数料をそなたらは払う。ということなのだ。今、武士は使うばかり。先祖が築き上げた櫓にどっかり胡坐かいてふんぞり返っておる。だが、もうその櫓が老朽化でぐらぐら揺れ出した。ここは武士も一念発起せねばならんだろう。私は皆に鞭打ち、けしかける役目だ。元より涙を忍んで。武士が働くのは、町人百姓の為だ。それが行く行くは武士に還ってくる。きれいごとばかりを唱えておっても始まらん」

「面白うございますな。承知致しました。僭越ではございますが、この蔦屋、微力ながら上様にお力添えさせて頂きとうございます。なんなりとお申しつけ下さいまし」

よっしゃあ! 平伏する蔦屋に僕は心の叫びを発した。

「早速だが、蔦屋。そなたに相談がある」

僕は昨夜奥さんを抱き締めながら思いついた秘策を3人に告げた。


3日の間を置いて、僕は公務に復帰した。当然、仮病だったが、寝ていたわけではない。むしろ寝る間も惜しんで、僕は精力的に暗躍していた。

僕が復帰した報を受けて、早速定信が面会を求めてきた。そら来た。僕はニンマリと笑った。でも、今回はわざと定信に勝たせてやるのだ。

「上様。御加減は如何でございましょうや。日頃よりご健康であられる上様が此度は長の患い。心配申し上げておりました」

べー。仮病だよー。それにしてもなんだろうね、この鳥居と戸田の2名は。いつも金魚のフンみたいに定信にくっついてら。

「心配かけた。まだ本調子とまでは行かないが、いつまでも寝てはおられん」

「どうぞご無理なさいませぬように」

くたばれと思ってたんじゃないの? 僕が叛旗を翻したと思ってるよね。

「まだご本復ではない上様に申し上げまするも恐縮なことではございまするが、是非とも確めたき儀がございまして、ご無理を承知でまかり越しました次第でございます」

回りくどい言い方するねえ。さっさとぶちまけりゃいいのに。

「何であるか。申してみよ」

うざったあーい。早く言え。

「勘定奉行の根岸をご承知であらせられまするか」

「無論だ。奉行が誰かくらい知らんで将軍が勤まるか」

「御意。なれば、昨今あの者が四方に働きかけを行いしことは?」

「働きかけ? 知らんな。なんだ、それは」

僕も役者やねえ。

「公儀の提唱する倹約を蔑ろにし、商人共より冥加金を徴収して財政を立て直すとか申しておるようで」

公儀? お前さんが言ってんでしょう。それに冥加金ではなく、法人税なんだけど。

「どこでそのような知恵を得たものか。かなり強気に周囲を巻き込んでおりまするのが、ちと厄介」

へえ。根岸もう頑張ってくれてるんだ。頼もしい。徐々に外堀から埋まってくるかな。

「漏れ承りますところによると、根岸めに上様が直接ご指示あそばされた、とのことでございまするが、真相はいかに」

ねちねちと嫌な性格。

「まさか上様におかれましては、斯様な」

「そうだよ。私の指示だ」

はは。言ってやった。それも軽く。定信の顔色が変わったねえ。自分の威圧に恐れをなして僕が思わず否定すると踏んでいたんだろう。お生憎様。その手は既にお見通しなのだ。僕が否定してしまえば、根岸の立場がない。そうなれば、僕の政策はあっという間に潰されてしまう。

「何故そのような。上様のお考えはこの定信にもわかり申す」

わかってるならもういいんじゃないの? でも、自分が考えたものが完全否定されるのは面白くないか。そうだろう? まして政治の執行者なら我慢ならない。是が非でも押し通そうとする。その言い分を聞いてやろうじゃないの。

「さりながら、それは、武士には、武家を中心としたこの体制には合い申さん」

「どうして?」

「武士の面目にございます」

「ふーん……」

本当は、田沼がやろうとしたから気に食わないのでしょ? 田沼憎けりゃ、施策まで憎しだろ?

「たかが面目、されど、面目でございます。武士はこの面目を保つことだけを心の支えとして生きている、と申しましても過言ではございませぬ。この面目を捨ててまで生きようとは、どの武士も思いませぬ」

「そういうものなのか」

僕は感心の頷きを繰り返した。きっとここがポイントになる。そう思っての反応だ。案の定、定信はニヤリと笑った。自分の説諭に年若い将軍など相手ではない、と思っているのだ。残念。僕はお前が思う程幼くないよ。

「いかに慎ましく暮らせども、人の施しを受けてまで生き長らえようとはせず、まして日頃より蔑んでおります商人よりその上前を掠め取るような真似など、多くの武士が潔しとはしないでありましょう。そうして武士が質素な暮らしぶりをしておりながら、一方で町人商人共に贅沢を許しておけば、如何相成りましょうや。必ずや、多くの武士が不満を抱き、世の乱れとなりまする。皆共に質素倹約に努め、この日の本が揺るぎない統治国家であると示すことが肝要であると存じます」

うわあ、暗そうな国だ。

「わかった。もう少し練り直そう」

もう練り直してるよー。目指す方向は変えてないけど、推し進める方法を修正変更したのさ。

「では早速根岸に申し伝えますほどに」

満足の笑みを浮かべて退出しかけた定信を僕は引き止める。

「待て。根岸に何を伝える?」

「それは無論、上様のご指示は撤回であると」

「そうは言っておらんぞ。練り直すと言っただけだ」

「しかし、上……」

「そなたの政策を邪魔するものではない」

本当は取消しちゃうよ。

「そなたの苦労を私なりに手伝えんかと思いついたまでだ」

「恐れ多いことにございます」

「だが、まだまだ研究が要る。まずは研究会を立ち上げようと思う。そのため、根岸には同志を募れと言うてある。その中で、もしそなたの施策に批判めいた言動があったのならば、謝る。この通りである」

僕は軽く頭を下げた。将軍が下の者に頭を下げるなどないことだろう。まして謝罪としてならいっそうだ。定信は恐縮して平伏した。しかし、その行動と違って、彼の心は僕、いや、青年将軍家斉に対する優越感でいっぱいだろう。

人は優越感に浸ると自分を見誤り、墓穴に陥り易い。

僕はじっくり時間をかけ待つこととした。敵を油断させるためにも、ここは時間が必要だ。蔦屋に頼んだ仕事も手間がかかる。僕はあの時の3人の顔を思い浮かべてはにんまりと笑った。

「瓦版でございますか」

「そうだ。そなたにとっては得手だろう。造作もないのではないか」

「確かに然様ではございますが、如何ほどご用意すればよろしいので?」

「江戸中に撒きたい」

「そいつぁ豪気だ。ですが、それほどの数となれば、右から左ってわけにゃあ」

「承知しておる。こちらも撒くまでには下地を作っておかなければならん。幾日で作れる?」

「そういうことなら……五日でございましょうか」

「わかった。5日後に江戸中に撒け。無論タダだ。かかった費用はこの武部に持たせる。遠慮なく言ってくれ。武部。金は根岸から預かれ」

「はは」

「それで? どのような物をお撒きになられるので?」

「文面は京伝師匠に頼みたい」

「内容は?」

「なんでもよい」

「なんでも?」

「多くの者に足を運びたいと思わせたい。桜には間に合うか」

「満開までにはなんとか」

「江戸の皆に城の桜を見せよう」

「お城に町人をお招きになるので!?」

蔦屋は飛び上がらんばかりに驚いた。

「流石に本丸まで入れるわけにはいかんが、吹上ならなんとかなるだろう」

「吹上の御庭にございまするか」

「そうだ、武部。あれなら半蔵門から引き入れられるだろう」

「そうではございまするが、前例がございませぬ」

「今回が前例となる」

「一体何をお考えであらせられまする」

「城の桜や他にも咲き誇る花々を皆に見せてやりたいのだ」

「そればかりではございますまい」

「無論。そうだ」

僕はこぼれる笑いを抑えきれない。

「だが、まだ誰にも明かすわけにはいかん。万全の上にも万全を期す」

「そのようなことでありますれば、これ以上は」

武部は頭を下げて引き下がった。

「出来ることなら江戸にいる者すべてを呼び込みたい。瓦版だけでそれが出来るか?」

「さて……」

小首を傾げる蔦屋。

「通達は高札を以って行うこととなっております。いかに瓦版で伝えたところで、皆がそれを信用するものでしょうか。ご城内へ入れる確信があれば人も集まりましょうが」

「高札か」

僕も首を傾げる。難しそうだ。といって、場所を変えて寛永寺などの城外へ移してしまえば、今度は僕の移動が厄介だ。お忍びで行けば何の問題もないが、それでは意味がない。身分を隠した僕ではなく、将軍として皆に対峙しなければ、そもそもやる効果がないのだ。だが、将軍の公式な訪問となると、前触れはするは、民衆の出入りも規制されてしまう。これでは僕の目論見も成就しない。この両方を解決する上で、城内の吹上は打って付けだった。

「高札を勝手に立てるわけにはいかんか」

「それは無理にございます。必ずやご老中の知れるところとなりましょう」

「そうか……ならば、瓦版一本で行こう。但し、その信憑性を高めるためにデマを流す」

「で、でま?」

あれ、デマは日本語じゃないの?

「噂だ。好奇心旺盛な江戸っ子のことだ。きっと面白がって集まって来る」

「そのでまとやらはどのように流されますか?」

「それこそ蔦屋。そなたの出番だ。それと、神津」

「は」

「配下を町中に散らして噂を広めよ。人の集まりそうな場所で何気なくでよい。ひそひそ話しほど人の関心を引くものだ」

「上様。畏れながらいったい何処でそのような処世術をお学びになられたので」

会社に決まってるじゃん。人目を気にする振りしながらワザと噂話する奴がいるんだよね。気になってしょうがない。


定信をいい気分にさせた翌日、僕は北町奉行初鹿野信興を呼んだ。無論、例の小部屋だ。根岸の話では、初鹿野も信頼置ける人物であるらしい。しかも根岸から既に僕の計画は聞かされていて、賛同も取り付けているという。やはり根岸は強力な助っ人だ。

「そなたを呼んだのは他でもない、そなたの配下を少し借り受けたい」

「どのような」

この男も根岸に似て生真面目そうな顔つきだ。この時代の人はこういうのが多いのだろうか。悪代官は出て来ないねえ。

「別の手蔓を使って数日後に瓦版が出る。吹上にて無礼講の花見会を開くという内容だ」

「花見会。町人もお呼びになられるのでございますか」

ちょっと不服そうな目だ。

「あれだけの庭だ。将軍家だけで占有しては勿体無いと思ってな。皆にも楽しんでもらいたい。いかんか?」

「いいえ。そうは申しませぬが」

僕は嘯いた。やはり町人ばかりを表に出しては納得されないようだ。どんなに人徳あるといっても、所詮は百姓町人の上に成り立つ武士。その立場を蔑ろにした言動は慎んだ方が得策だ。

「大勢の町人どもが訪れてくるだろう。出入り口は半蔵門とする。だが、一度に来られては混雑するばかり、騒動の元ともなりかねん。そこで、北町に通行の整理を頼みたい」

「通行の整理でございますか」

「区割りをせよ。配下の人数に限りがあるのは承知している。町名主にも声掛けして混乱なきよう」

「開催されますのはいつになりましょうか」

「二日後だ」

「ご老中には」

「話が面倒になる。北町がしっかり取り締まっておれば、問題はなかろう」

「はは。しかと勤めまする」

これでよしと。奉行所が取り締まるとなれば、瓦版の保証をしているようなものだからね。

横断幕も考えたけど、ちょっと無理だよなあ。『定信は倹約令を取り消せ』なんて書いたら、すぐに押さえ込まれてしまう。何かそれに代わるものはないだろうか。決行まで日がない。ここに来て僕に焦りが生まれた。いつもながらの先走り癖だ。準備万端で事に当たったことがない。

【アルファ。いい案はないかなあ】

【はい。準備期間がないですね】

【それはわかってるさ】

【火事と喧嘩は江戸の華だそうです】

【知ってるよ。でも、どっちも大変なことになるだけだろ?】

【どちらの要素も含みながら、江戸っ子の気勢が上がるものがあります】

【え? なに?】

【祭りです】

【祭り……】

【天下祭りといわれる神田祭りと山王祭りは城内への入城も許可されています。将軍家による上覧がなされたからです。祭りには威勢のよい掛け声がつきものです】

【シュプレヒコールか。早く言ってよ。それなら瓦版なんて計画しなくてもよかった】

【開催日が違います。それを無理に進めることはどうかと】

【じゃあ、出来ないでしょう】

【盛大には難しいでしょうが、神輿を1台繰り出す事は可能かと。瓦版で集まる人々には格好の引金になります】

【なるほど】

僕は神津を蔦屋に走らせた。


江戸市中の至るところで瓦版はばら撒かれた。評判が評判を呼んで、町人に留まらず、武士の姿も多く見られた。それに先駆けて、上野や隅田川の堤といった桜の名所を花見禁止にしたのも大きかった。花見に飢えた江戸っ子たちが一斉に押し寄せたのだ。僕が花見禁止を発案したとき、定信は予想通りの喜びようだった。予てより定信はその禁止を訴えていたが、他の老中が難色を示していたらしい。僕の提案はその老中らの反対を押し切る絶好の援護射撃となったわけだ。しかし、結果的には、それが定信失脚へのプロローグとなるのだから、皮肉なものだ。

吹上庭園への入り口は早朝から半蔵門を開放した。無論、門番は立っている。加納に指示して、危険物の持ち込みだけは警戒させた。武士も大小は門前で預かる。僕はこの日のために用意させた高さ3mほどの櫓に登った。骨組みだけの急場拵えだが、頑丈だ。その高みから眺めると、同心や町名主らに先導された一団が次々に入ってくる。まるでオリンピックの入場行進のようだ。日本選手団ほどの統率はないが、町内毎にまとまりがある。中には屋台を担いだ者もいて、ちゃっかり商売をしようというのだろう。

西の丸方面からは予め持ち込ませてあった神輿がやって来た。蔦屋が手配した若い衆が担いでいる。酒でもう景気づけしているからやたらと威勢がいい。掛け声は「わっしょい」ではなく、「けんやく」だ。つまり、倹約。江戸っ子のことだから、すぐに察してこの「倹約」を逆手にとった掛け声にすり替えてしまうだろう。狙いのひとつはそこにある。

神輿を見つけた者たちがたちまち神輿を取り囲んで、大きな渦となった。まさしく群集だ。人の波が海原のようにうねっている。掛け声も「けんやく」の後に、「やめちまえ」と続くようになった。江戸城内だというのに逞しい民衆だ。

「上様! 上様!」

定信たちが駆けて来た。

「なんだ?」

振り返った僕に定信が何か言っているが、文字通り祭り騒ぎで聞こえない。僕は定信にも櫓に登るよう合図した。定信は仕方ないという顔で櫓に取り付いた。やがて僕と並んだ。

「上様。なにごとでございますか」

言葉は丁寧だが、完全に怒っている。ま、当然だけどね。

「花見だ。わからんか」

「これが花見にございまするか」

「ちょっと騒々しいが、たまにはよかろう」

「騒々しすぎます。危のうございます。お降り下さいませ」

「もうしばらく眺めていよう。そなたも付き合え」

「……」

定信は憮然と押し黙った。神輿を担ぐ掛け声が続く。「けんやく」「やめちまえ」「けんやく」「やめちまえ」流石にそれと気づいて定信は唖然と口を開けた。

「これは……」

「町人、いや、民衆の心の叫びだ。政治は上から押し付けてばかりでは上手くいかんのう」

「……」

定信は僕を振り返った。いつもの怜悧な眼差しが哀しげに見えた。

「ご免」

定信は櫓から降りて行った。諦めたかな。こんな反対デモ見せられたら、誰だってへこむよね。自信なくすよね。よっしゃあ! もう一押しだ。

「武部。武部はおるか!」

「はっ。こちらに」

「武部。例の物を」

「はっ」

一度退がった武部がやがて大きな張りぼてを抱えて戻った。メガホンだ。竹の骨組みに和紙を貼り付けて作らせた。多少は遠くまで声が届くだろう。祭りの勢いも疲れ気味だ。そろそろ休憩時間だな。僕は櫓の上から手製メガホンで叫んだ。

「皆のものよーく聞け!」

お。意外といい感じ。神輿担ぎが一段落したタイミングもあって、皆の視線が僕に集まった。人生初の脚光。

「私は徳川家斉である」

「皆のもの頭が高い。控えよ! 控えよ!」

小姓たちが口々に宣告して回ると、どよめきが辺りに広がり、やがて掻き消えるように静かになった。皆が一様に僕に向かって平伏している。壮観。

「よく来てくれた。嬉しく思う」

おおー。僕の言葉にまたどよめきが立った。天皇陛下の一般参賀ってこんな気分?

「許せ。上野と隅田川の花見を禁止としたのは、ひとえにこの日を期してのことだ。皆に江戸一番の桜を見て欲しかったのだ」

「ありがたいことでございます」

誰かが声を出した。

「誰か! 直答は許さん!」

「かまわん」

僕は声のした方に微笑んだ。

「折角こうして皆と会えたのだ。堅い事を申すな」

「話のわかる将軍様だ」

「よっ。日本一!」

「天下人!」

かかる声の一つ一つに顔を向けて僕は頷いた。

「今日は存分に楽しんでもらいたい。酒も用意してある。皆前へ枡を取りにくるがよい」

僕の一声で皆立ち上がり樽酒に群がった。僕は満足絶好調。

「飲みながらでかまわぬ。これから言う話に耳だけ貸してくれ。今、老中松平定信を中心に倹約を推し進めておる」

「そいつがいけねえんだ! なんとかしてくだせえ!」

誰かが叫んで、笑いが起きた。

「たしかに、倹約、倹約ばかりでは肩が凝る」

「そうだ!」

「上手い事を言いなさる」

「倹約が過ぎれば、物が動かなくなる。物が動かねば、金が動かん。金が動かんということは、そなたらの懐に入らんということだ」

「そいつは困る」

「この悪循環を止めるためにも、いっとき倹約は休止とする」

おおっ! 大きな歓声が起こった。

「思い違いをしてはならん。あくまで休止である。物を動かし、金を動かすが、無駄遣いを奨励するものではない」

実際には取り消すつもりだけど、釘は刺しておかないとね。それと、徴税の件はまだ黙っておこう。盛り上がった空気に水を注しかねない。経済が潤い始めれば多少の痛みも気にならないだろう。

「まだ酒はある。本日はゆるりと過ごしてゆくがよい」

僕はまたまた大歓声の中手を振りながら退場した。


定信の逆襲


それから数日。定信に何の動きもなかった。辞表―この時代にそういう手続きがあったのか知らないが―とか、隠居願いでも出してくるのではないかと期待したが、何もない。まして、腹を切ったという報もない。嫌な沈黙が続いた。

秘密の小部屋で自分の時間に浸っていると、その思いがけない報告が神津よりもたらされた。蔦屋の身代半減。山東京伝の科料手鎖50日。それを聞かされたとき、僕は耳を疑った。そんな筈はない。二人の処分をさせないために、僕は策を急いだのだから。それに倹約令は僕が休止を宣言したではないか。将軍が宣言しているのだ。それに逆らう処分を、いったい誰が下せるというのだ。

「ご老中にございます」

苦渋な表情で神津は告げた。

「定信を呼べ」

「上様」

「なんだ。早く定信を呼べ」

「倹約令につきましては、正式に撤回されておりませぬ」

「なに? 私が民衆を前にして宣言したものが正式ではないと申すか」

それに神津は首を横に振った。

「どういうことだ! とにかく定信を呼べ!」


怒りが収まらない僕を前にして、定信はいつものように落ち着き払って座っている。どこまでも小憎らしい男だ。金魚のフンの鳥居と戸田も今日は偉そうだ。

「政には手続きがございます」

「将軍の私が宣言したものが無効なのか!」

「そこまでは申し上げませぬが、さすれば、上様のご提案を詮議致し、正式な発布として民らに示す必要がございましょう」

「なら、そうすればいいだろう」

「ご書面にて頂戴致したく」

「私の考えをそなたらが詮議するのか!」

「政でございますれば」

「わかった。すぐに書く。だが、蔦屋と山東京伝に対する処分は即座に撤回せよ」

「何故にございましょう」

「逆に聞く。両名の罪科はなんだ」

「度々に渡るご禁制違反にございます。当世は倹約第一の世の中。それに故意に結託して吉原などを舞台にしたいかがわしい戯作や華美に彩った浮世絵などをばら撒いてございます」

何が倹約第一の世の中だ。その倹約を世にはびこらせようとしているのはお前ではないか。何が結託してだ。結託しているのはお前らだ!

「取り消せ」

「は? しかと聞こえませなんだが」

「取り消せ!」

「それはなりませぬ。いかに上様とはいえ、法を曲げては、ご政道が成り立ちませぬ。この定信、一命をかけましても、承服致し兼ねまする」

くそっ、狸め。これを承知であのとき、櫓の上で僕に何も言わずに立ち去ったのだ。言い合いになれば、僕が事情を悟って手を回すのを嫌ったのだ。なんて狡猾な野郎だ。

このまま睨み合っていても埒が明かない。とにかく蔦屋と京伝に会って、謝罪しなければ。

だが、将軍とは不自由な立場だ。すぐには城から出られない。翌日、病気と称して影武者を床に臥せらせ、僕は神津と舟に乗った。仮病だとは気づかれているだろう。しかし、それはこの際問題ではない。将軍としての面目、いや、僕自身の信頼を取り戻すためにも、蔦屋たちには会って謝罪と説明をしなければならない。

「面目次第もございません」

逆に頭を下げられて僕は言葉も出なかった。憔悴した蔦屋の姿も哀れだ。

「ざまぁありやせんや。手前がご禁制を甘く見た罰が当ったのでございましょう」

「こちらこそ面目ない」

それだけ言うのがやっとだった。本当に情けない。将軍の威厳も権威もあったものじゃない。

「ご覧の通り間口を狭め、店こそ残りましたが、商売道具はごっそり持って行かれやした。お役人に浮世絵や洒落本の価値なんぞわかりゃしません。いちいち選ぶ手間も省こうてんで、大方没収というわけでございましょう。本当に半減なのか。しっかり調べたら、それ以上かもしれやせん。ただ、幸いなのは名が残ったということでございます」

「名?」

僕に蔦屋は頷いた。

「この蔦屋重三郎という名でございます。牢屋にぶち込まれた日にゃあ、あっけなくおっ死んじまうことにもなり兼ねなかったが、そこまではご老中もなさいませんでした。蔦屋を殺してしまえば、火の粉が我が身に降りかかるとご承知なのでございましょう。賢いお方だ。だが、そのお陰で、手前は生き残った。大方没収されたとはいえ、まだまだ商売は出来る。この名はいわば信頼でございます。蔦屋重三郎という名を信頼して、絵師は手前に艶な浮世絵を託す。戯作者も飛びっきりの黄表紙を書いてくれます」

「そうか……」

謝罪どころか、こちらが励まされているような気分だ。なんて強い人なのだろう。こんな男になりたい。心底から感動して、僕の目は潤んだ。

「京伝師匠も妙に張り切っておりました。手前は身代半減とは申せ、所詮は銭でございます。失った銭ならまた稼いで取り返せるというもので。ですが、手鎖をされて、それが五十日とは、考えただけでゾッとしやす。手前なんぞすぐに音を上げて死んでしまうかもしれません。聞けば、憚り以外は外しちゃあならねぇんだそうで。しかも、五日にいっぺんは奉行所で手鎖を検分なさるとか」

「検分?」

「ちゃんとしているかを確めるんでしょうねえ」

蔦屋も僕も苦笑した。やることが細かすぎる。定信らしい処罰だ。

「奉行と申したが、北町か?」

「いいえ、南町でございます」

くそっ。何から何まで行き届いていやがる。それにしても……。今さらの疑問が湧いた。どうして蔦屋と京伝が処罰されたのだ? 風紀を乱すとか政道批判は今に始まったことじゃない。それに、他の版元や戯作者には何らの処分なく、差があり過ぎるじゃないか。やはりこれは、僕の策謀の裏に蔦屋と京伝が絡んでいると知って断行したのだ。監視の役目が南町にあるのもおかしい。初鹿野が僕と繋がっていると承知の上なのだ。根岸の動きを牽制してきた定信だけに、初鹿野についても察知しているのは頷ける。だが、しかし、蔦屋たちとなると、首を傾げたくなる。将軍の僕がこうして御忍びで市中を歩き回っていることに気づいているのだろうか。いや、それはない筈だ。御庭番の神津が用意周到に導いてくれている。その神津が裏切り者であれば別だが、あれ?

「如何なさいました?」

「ん?」

「何やらお顔色が優れなく見えますが」

「いや、いや。そうではない。蔦屋に申し訳ないばかりだ」

「恐れ多いことにございます。勿体無いお言葉。それだけでもう気持ちだけは前を向けます」

蔦屋は深々と頭を下げた。出来ることなら、その蔦屋の温情に僕が平伏したいほどだ。

「先だってのご城内での花見は爽快でございました。皆も口々に上様へ喝采を叫んでおりました。話がわかるお方だと。徳川様の御世で初めて、いいえ、頼朝公以来初めて、町人の為を思って下さる将軍様だと。そう誰もが目を輝かせて言っておりました」

ふと蔦屋の目が光ったように見えた。直後にその目から涙がこぼれた。

「申し訳ありません。無様な姿を」

蔦屋は手拭で目頭を押さえた。僕は天井を見上げた。僕の涙は、蔦屋のそれとは違って、無念と己の不甲斐なさを思い知った涙だった。

意気消沈して僕は蔦屋から出た。すぐに神津が隣に付く。気が滅入る上に、この神津が裏切り者であったらと思うと、さらに落ち込む。もう誰も頼れる者がいない。絶望的状況だ。打開策なし。

江戸城に戻り、僕は影武者と入れ替えに蒲団に潜った。とても起きている気分じゃない。

うとうとしていると、遠くが騒々しくなった。城内では珍しい。何やら襖がビシバシ勢い良く開けられている。誰かがこちらに向かって来る。それも明らかに怒っているとわかる。誰だろう。定信か? いや、違う。あの男はこんな感情的な行動は絶対にしない。どこまでもニヒルで厭味な奴だから。では、いったい誰だ? 猛進してくるそいつを小姓たちが懸命に制している。いや、実際には宥めているように聞こえる。ああ。加納の声も聞こえる。あの目下には高飛車な男がやけにうろたえた声だ。そこまで気づいて、僕の全身を脂汗が吹き出た。え? どうしたのだ? 僕は理由がわからない。勝手に体が反応したとしか思えない。家斉君の体が条件反射的に反応したのだ。その時だ、最後の砦というべき襖が開け放たれた。

「家斉殿!」

家斉殿? 僕をそんな呼び方出来るのは………、父上! 家斉君の記憶から父親の恐い顔が洪水のように押し寄せた。な、なんだ?

「起きなされ。仮病など疾うに知れておる!」

「……」

僕の意に反して体は蒲団から顔さえ出そうとしない。強烈な負の記憶が金縛りのように体を硬直させている。

「起きろと申すのがわからぬかっ! 豊千代!」

その一喝に、跳ね飛ばされたように起きて、その場に平伏した。これは僕ではない。家斉の潜在意識にある恐怖心がコントロールしている。

「何を拗ねておる。この父に申してみよ」

家斉の体は小刻みに震えた。

「言葉が出ぬか。いつもそなたはそうじゃ。わしが問い詰めればすぐにだんまりを決め込む。じゃが、今日の今日はもう許さん。定信がわしに何と言うてきたか、そなたわかるか!」

「……」

「ご放胆な方だと。お若いだけに然もなき事にも極端な判断をされる方だと。最後にお血筋でしょうか、と抜かしおったわっ!」

「……」

僕は動けない。いや、家斉が動けない。

「このわしの悔しさがわかるかっ、豊千代。何とか申し開きしてみよっ!」

「……」

「あやつはわしを憎んでおる。田沼と結託して自分を白河に追いやったと恨んでおるからな。そうでなければ、そなたの代わりに己が将軍になれたと自惚れておるのじゃ。血筋だけでなく、己が技量ならば将軍と押し上げられて当然と思っておるのじゃ。ああっ! 返す返すも腹立たしい。腸が煮えくり返るわっ!」

父上は激しく扇子で畳を叩くあまり、ついに折れてしまった。それがまた癇癪を買って、僕に投げつけた。なんて気性の荒い人なのだろう。家斉君が怯えているのもわかる。

「そなたは自分が何を仕出かしたかわかっておるのか? そなたはいやしくも徳川十一代将軍ぞ。それがなんだ。町民どもを城内へ引き入れるばかりか、歌え踊れの大騒ぎ。仕舞には政道批判までしたというではないか。わしがその場におったならば、即座にそなたの首を刎ね、返す刀でわしも腹掻き斬って果てたであろう」

「……」

「そなたは、今の政道は定信が勝手にやりおることと思っておろう。それは違う。違うぞ、豊千代。たとえ定信が推し進めしことであっても、定信はそなたの配下じゃ。この日の本で唯一無二の存在は将軍であるそなたなのじゃ。民らはそなたの政と見做す。そなたが仕出かしたことは自分で自分を批判したようなものなんじゃぞ」

言いたい事を言いつくしたようで、その言い様は次第に穏やかに諭す口調となった。父上さん。もういいでしょう。

「よいか、家斉殿。そなたは何故自分が将軍職にあるのかわかっておるまい」

珍しく家斉君の首が動いた。コクリと頷く。

「それは吉宗公以来の血流を絶やさぬためである。紀州徳川がこれまで奔流としてこの幕府を支えてきた。それを途絶えさせてはならんのだ」

そういうことなら僕でなくてもいいのでは? 確か定信もその血を受け継いでなかった? とは思ったけど、また説教が長くなるだけと口をつぐんだ。徐々に家斉君の金縛りが解けつつある。

「そなたの使命は血を絶やさぬことじゃ。それがためには多く子を成せ。生まれた子は、男なら他家を継がせよ。女なら有力大名へ嫁がせよ。さすれば、このわしの血が、そなたの血が、ひいては紀州の血がこの日の本をいずれ席巻することとなろう。ほっはははは」

紀州一族で幕府はおろか全国の大名を牛耳ろうというわけか。姑息な計画だ。

父上さんは言うだけ言って、帰ってしまった。激情家は沸騰しやすい反面、冷めるのも早い性質がある。家斉君もそれは承知していて、話の後半は緊張が緩んでいた。それにしても、我が息子を種馬のように見做しているのは許せない。正室以外に多くの側室を抱えた大名にとって、その女たちから生まれた子など自分の政略を果たす手段としか捉えていなかったのだろうか。乳母だとか養育係とか、誕生後すぐに手元から引き離され、家臣が育て上げたようなものだから、親子の情が薄いのもわからないではないが。自身も親に対する愛情が薄ければ、それは累々と引き継がれて、親子の関係など名ばかりだけのものだったか。


家斉君、民衆の支持を得る


また無為な日々が過ぎて行く。財政立て直し策と題した草案を奥祐筆に作らせ、老中たちに提出したが、しっかり棚上げにされたらしく、まったく音沙汰ない。一方で、神津への疑いは拭えない。蔦屋たちに会いに行きたくとも、城から出ることさえままならない。精力的に動いていた根岸も、肝心の僕が沈黙してしまったことで、おとなしくなってしまった。八方塞だ。唯一、武部がいてくれるが、彼一人ではどうにもならない。このままでは潰されてしまう。家斉君はただの種馬として生涯を終えてしまうことになる。僕は焦った。しかし、焦るばかりで、打開策が浮かばない。

そんなある日、例の秘密部屋でボンヤリしていると騒々しく女たちの歓声が聞こえる。なんだろう。ちょっと耳を澄ますと、中に男の声が混じっている。え? 男子禁制だろうに。御三家や御三卿の例外は認められてはいるけど。僕は気になって、起き上がると大奥へ向かった。突然の将軍訪問に大奥は蜂の巣を突っついたような騒ぎ。僕はスズメバチか。慌てふためく女たちを僕は一人一人制しながら、その巣本へ立ち入った。そこには煌びやかな反物が部屋中処狭しと並べられていた。呉服商が新作の紹介に来ているのだ。無論、世辞甘言を駆使して、すべて売りつけてしまう魂胆だ。ここだけは相変わらず、倹約の風が届かない。

お。越後屋だ。部屋の隅で小さく平伏している男に僕は腹の中でやはりこう呟く。「越後屋、そちも悪よのう」

「これはこれは、上様。お目通り叶いまして恐悦にございます」

「商売は順調か」

「はい。お陰様でご贔屓頂いております」

「定信の目もその方には届かないようだ」

「滅相もないことでございます」

「まあ、よい………」

この時、僕の脳裏にある閃きが点った。

「越後屋。その方は日本橋であったな」

「はい。然様でございます」

「本日はそなただけが登城してまいったのではなかろう」

「はい。共を連れております」

「そうか……誰か。墨と紙を持ってまいれ」

腰元が持って来た紙に僕はサラサラと書きなぐる。いやあ。時代劇だなあ。まったく映画の一場面だ。

「これを小姓の武部に渡すように。よいか。直に渡すのだ」

僕は腰元にそう厳命した。そして、越後屋に向き直る。

「越後屋。折り入って頼みがある」

「はい。どのようなことでございましょうか」

「もっと近くへ。皆のもの。越後屋とだけ話がしたい。人払いだ。悪いが、部屋より退出してくれ」

それから一刻後、僕は越後屋の一行に紛れ込んで城外へと出た。やったね!

蔦屋に着くと、既に武部が待っていた。

「上様。なんという危ないことを。もしものことがありましたら、一大事にございまする」

「私がいなくなろうと、定信がおる。定信が私の代わりを勤めるだけだ。現に実態はもうそうなっておる」

「然様なことを……」

横を向いた僕を武部は悲しげに見つめる。

「ま、ご無事にお越し頂きまして何よりでございます。ゆるりとお寛ぎ下さいまし」

二人の間に入って蔦屋が言うと、手を打った。それに合わせて膳が運び込まれる。

「蔦屋。申し訳ないが、私はすぐに帰城せねばならん。上様がご不在と露見すれば大騒ぎとなる。上手く誤魔化さねばならん」

そう言うと武部は僕に平伏した。

「お城に戻りましたら、早速神津殿にお報せ致します。おそらくはもうご存知で、この近くで見張られていることとは存じますが」

「その神津が信用ならんのだ」

「え?」

「詳しくは後で話す。すまんが、上手く取り繕ってくれ」

「はは。畏まりましてございます。では、蔦屋。ごめん」

武部はそそくさと立ち去った。

「神津様がいかがなされましたので?」

武部を見送って、蔦屋は僕の盃に注ぎながら聞いた。

「定信と結託しているかもしれない」

「神津様がご老中と?」

「まだ確証があるわけではない。しかし、そう考えねば、私とそなたらとの繋がりを定信に知られる筈がない」

「なるほど………ですが、御庭番は将軍様直属のお役目。ご老中に繋がる糸が見えませぬが」

「それは私も思う。だから、迷っている。ただ、そもそもの始まりが、神津が私と武部の城外脱出を見咎めたことからだ。あのときは、御庭番だけにそういう監視の目があるのだろうと納得したのだが、今から思い返せば、不自然に思えなくもない」

「上様の御身を思い図ってのことと聞いておりまするが」

「うん。しかも、挺身して私に従った武部の命を救ってもくれた」

「そのような方がご老中と結託なさっているものでしょうか。上様を陥れんとされるなら、最初にお城を出られたまま放っておかれた方が都合よいように思われまするが」

「そうだな……考え過ぎか」

「はい。手前にはそのように」

「では、何故定信は私とそなたとの繋がりを知ったというのだ?」

「上様におかれましては、何故ご老中が手前どもが上様と親しくさせて頂いていることをご存知とご推察召されておられますので?」

「それでなければ、そなたらへの厳しい処分はなかっただろう」

「然様で……或いは、あれはたまたまだったのでは」

「たまたま?」

「はい。いかにご老中と雖も、間髪入れずのご裁断は難しいことかと。あれは以前より周到にご準備されたご処分だったのでは」

「そういうことか」

「はい。それが自然な流れのように手前には見えます」

「なるほど」

僕の背中に重く圧し掛かっていた物がすっと消えていった。神津が戦力として使えるなら、まだまだ定信に対抗出来る、ような気がする。気力も幾日か振りに立ち上がってきた。

「そうか。そうだな」

「然様でございますとも」

「ところで京伝師匠はその後どうか。手鎖でさぞかし気が滅入っていることだろう」

「強がっております。実際には筆を持つ気力さえ失っているのでしょうが、刑が解ければ新作を出すと息巻いております」

「そうか。仇は必ずこの家斉が取ってやると師匠に伝えてくれ」

「勿体無きお言葉、謹んでお伝え申し上げます。師匠も今一度踏ん張り直せるというものでございます」

平伏して蔦屋は感謝を述べた。

それから、憂鬱の霧が晴れて久し振りに気持ちが軽くなった僕は蔦屋を相手にしたたかに飲んだ。まだ日も明るかったし、流石に将軍が外泊はまずかろうと思い、蔦屋の心配りを断って外に出た。神津が何処かで見守ってくれている安心感も手伝って、僕は一人江戸の町を歩き始めた。泥酔している自覚はないのだが、自分が思ったように歩けていないのはわかる。だが、どうしようもない。右に寄り道する気も、左に傾く積りも毛頭ないのだが、本人の意に反して真っ直ぐ歩けない。こっちにフラフラ、あっちにフラフラする内、何かに当った。うん? なんだろう。視界がグルグル回っている。世界が回っている。と直後にまたどんという感触があった。なんだ? すると鈍い痛みが腹の辺りから込み上げてきて、僕はそのまま気を失った。

大海原を僕は一人泳いでいる。何処か遠くで声が聞こえた。笑い声だ。妻だろうか。聞き覚えのある声だ。クスクス、クスクス。何を笑っているの? 僕が可笑しなことでもしたのかな? 何処にも姿は見えない。声ばかりだ。360度見回しても水平線が果てしなく続いている。島影ひとつない。何処にいるの? 空か? 僕は空を見上げた。真っ青で雲ひとつない。そのまま突き通って宇宙まで飛んで行けそうだ。僕は視線を正面に戻した。するといきなり目の前の海が真っ二つに割れた。滝のように海が流れ落ちて行く。わっ! 僕は反転して必死に泳ぐ。だけど、どんどん引きずり込まれていく。どんなにもがいても前に進まない。手でかいてもかいてもダメだ。ダメだーっ!

【卓也さん。起きて下さい。起きて】

【え? アルファ? どうしたの?】

【よかったです。安心しました】

【え? なに?】

【卓也さん。武部さんを恨まないで】

【何を言ってるのさ。わかってるよ。あいつはいい奴だ】

【何があってもですよ】

【え? なに?】

【武部さんには苦しい胸のうちがあるのです。わかって上げて下さいね】

【さっきから何言ってるのさ】

【……】

【アルファ? ……泣いてるの?】

アルファの泣き声は次第に小さくなり、それと入れ替わるように違う声がし始めた。誰だ? 男の声。武部か? だんだん大きくなってくる。

「おい、おい」

「気がついたみたいだぜ」

「おい。あんた。大丈夫か」

はっきり声が聞こえて、僕は目が覚めた。ここは何処だろう。もう江戸城に帰ったのか? それにしては天井が青い。まるで空みたいだ。

「おお。やっと目が開いた。良かった。良かった。おい。あんた。名はなんという?」

「え? 私は……」

起き上がろうとして、僕の頭に激痛が走った。思わず仰け反る。

「まだ無理しちゃだめだ。きっと川底の石にでも頭ぶつけたんだ」

どうして川底なんだ。状況がまったくわからない。ああ。たしか、海が割れて落ちた。あれは川だったのか? 僕の視界にぼんやりと人の姿が映った。3人いる。なんだか3人ともずぶ濡れみたいだ。

「兎に角このままじゃ風邪引いちまうぜ。何処かに担ごう」

「どうする? 番屋か」

「番屋は厄介だ。折角助かったんだし、身投げじゃないのはおらっちがしっかり見てっから、よしきた。おいらの長屋に連れて行こう。おい。あんた。少しは歩けっか? 歩けねえようなら、おいらがおぶってやるぜ」

え? なんだって? 何言ってるんだ?

「立ち上がれっか?」

状況がわからないなりにも、僕はまず起き上がることだと思った。先ほどの激痛が頭をよぎったが、ここは踏ん張らないと。幸い、ゆっくり上体を起こしたからか、それほどに痛みは感じなかった。さっきは無警戒過ぎたのだ。

「おお。大丈夫か?」

頷きながら、僕は周囲をゆっくり見回した。川原にいるみたいだ。町人風の男が3人、僕を見守るように取り囲んでいる。

「私はどうしたの?」

「川に落とされたんだよ。ひでぇことする奴らだ」

「川に? 落とされた?」

「おう。あんたもあんただ。昼まっから酔っ払って大通りをよたついてりゃ、そりゃ誰かに当るってもんよ。そいつが運悪く侍だったってわけさ」

「侍に……」

まったく記憶にない。

「無礼討ちにならなかったのが不幸中の幸いだあね。でも、だからといって、川に投げ落とすこともなかろうがな」

無礼討ち……? どうして僕が無礼討ちになるの? 僕は武士……あ、そうか。僕は越後屋の手代に化けて城を抜け出したんだ。そして、着替えを持ってきてなかったから、そのままの姿で……ハックション。

「いけね。詳しい話は後だ。歩けるか?」

僕はゆっくり立ち上がると歩き始めた。全身がずぶ濡れだ。

「着いてきねえ。すぐそこだから」

男の後に僕は着いていった。よく現状が飲み込めない。

男の住む長屋に入って、彼の着物を借りて着替えた。将軍の物とはかなり違って薄くよれよれだ。なんだか変な臭いもする。

「我慢してくんねえ。棒手振りで魚売ってからよ。臭いが染み付いてやがるんだ」

自分も着替えながら、男は人懐っこそうな笑顔で僕に言い訳した。

「あんた。名は?」

「名? ……」

「おいおい。頭ぶつけて忘れっちまったのか?」

「いや。憶えている。篠崎卓也だ」

「篠崎? あんた侍なのか? そうは見えねえが」

「……昔は武士だった」

「そう。いろいろあるんだろうな。それ以上は聞かねえよ。安心しな。おいらは佐助だ。年は十九だ。よろしく頼むぜ」

握手でもするのかと手を差し出したが、見事にスルーされる。佐助は立ち上がって湯を沸かし始めた。名乗りと一緒に年齢も言うんだ。家斉君と同年齢とは思えない。苦労している分年上に見える。

「あんた。いや、篠崎さんか。家は何処だ? 近くなのか?」

「う? うん。近くだ」

「なら一人で帰ぇれるな」

「ああ。たぶん」

「なんだよ。気弱なこと言うじゃないか。帰ぇれない理由でもあるのかね」

「若干」

「はは。あんた面白い人だねえ。おいら気に入ったよ。これからも仲良く頼むぜ。魚が食いたくなったらいつでも呼んでくれ。生きのいい奴を見繕って持っていってやっからよ」

まさか江戸城にこの佐助は入れないか。この時代にきて、刺身を食べてないなあ。刺身を食べる習慣はあるのだろうか。

「刺身は……」

「え? なんだって?」

佐助は僕と自分の前に茶碗を置いた。御茶が入っている。

「悪いな。今日の仕入は今日中に捌かねえと、魚は足が早えぇからよ。刺身が食いたけりゃ、明日届けてやるよ。何がいい?」

「いや。大丈夫です。御台、いや、妻に聞かないと」

「なんだい、かかあの顔色伺いかい。それにしてもその年でもう所帯持ちたあ、おそれいるねえ」

「佐助さん、奥さんは」

「さんはやめてくんな。佐助でいいよ。おいらはひとりもんさ」

ちょっと寂しそうに笑った。

「一人で暮らしてるんですか?」

「ああ。昔っからな。……おいら、捨て子だったんだ。それを親方が拾ってくれて、育ててくれた。この商売も親方のお陰さ。頭が上がんねえや。いつか恩返ししないといけねえ」

「……」

佐助のしんみりとした話に僕の涙腺は危うくなりつつある。

「しみったれた話しちまったな。ごめんよ。……今年から親方の元を離れて一人で魚売り始めたんだ。いっぱい稼いで、親方孝行しなくちゃなんねえからよ。女なんかに構ってる暇なんぞねえってわけよ」

泣いても笑っても目が小さくなって、憎めない顔だ。

「蔦屋はここから近いのですか?」

「蔦屋? あんた、蔦屋の知り合いかい?」

「ええ。まあ」

「そいつは驚いた。あの旦那の知り合いたあ。どうりで品のある顔だと思ったぜ。洒落本でも書きなさるんかね」

急に丁寧な言い回しだ。僕を作家とでも勘違いしたみたいだ。なら、そうしとこうか。

「ま。そんなところです」

「へえ。通り名はなんていいなさる」

「通り名?」

「ほら。戯作なんか書くときにゃ、本当の名は使わねえんだろ?」

ああ、ペンネームか。どうしよう。

「山東……京春です」

「山東京春? あまり聞かねえなあ」

「駆け出しなもんで」

「そうかい。それで? 山東って名乗るってことは、京伝師匠に弟子入りしたってわけかい」

「はい。そうです」

「頑張りなよ。あの売れっ子に弟子入り出来ただけでも、あんたの筋がいいって見込まれたってことだろうから」

「ええ。ありがとうございます」

「そいじゃ蔦屋まで連れてってやろうかい」

佐助はそそくさと立ち上がって、もう出て行こうとする。やはり江戸っ子は気が早い。僕の同意もなにもない。

「あ、それは申し訳ない。道筋だけ教えてもらえれば。まだお仕事があるんじゃ」

「なに。仕事はもうしめえさ。いつまでもだらだら働かねえのが、江戸っ子ってもんだ」

佐助はどんどん行ってしまう。戸締りもしない。僕が戸を閉めて、後を追いかけた。

裏長屋とはよく言ったもので、木戸を潜り抜けると表通りに出た。それから辻を二つ三つ過ぎれば見覚えのある通りだった。蔦屋がある通油町はすぐそこだ。なんだ。こんなに近くだったのか。ちょっと拍子抜け。

「番頭さん。師匠をお連れしたぜ」

「なんだ。佐助じゃないか。どうした」

そう言って僕に気づいた番頭は最初怪訝な表情だったが、すぐに絶句して奥へ入った。そして、間もなく蔦屋が出て来た。蔦屋も驚き顔だ。たしかにそうだろう。今日は越後屋の手代から始まって、今は魚屋の格好だ。成り行きとはいえ、不思議な体験だ。おまけに意識はなかったが、川にも落とされた。

「じゃな、師匠。またご用があったら、いつでも呼んどくれ」

気のいい佐助は何も知らず帰って行った。

「う、上……まずは中へお上がり下さい」

蔦屋は周囲に目配せしてから、僕を奥へ招じ入れた。

「いったいどうなされましたので」

僕を上座へ座らせると蔦屋は平伏して聞いた。魚屋が大店蔦屋の上座に居て、主人が平伏している図は端から見れば不自然と映るだろう。映画ならそんなワンカットを引き伸ばしで映すのかな。そんな想像をしながら、僕は蔦屋を出てからの顛末を説明した。

「申し訳ないことを致しました。つい手前もよい心持で飲み過ぎてしまいました。誠に返す言葉もございません。ご無事でなにより。もしやのことがあれば……考えるだけで怖ろしゅうございます」

蔦屋は恐縮して平謝りだ。

「そんなに畏まることは。私も悪いのです。ほどほどにしておけばよかったのだから。反省しておる」

「それにしても、少し解せぬことが……」

蔦屋は小首を傾げた。

「解せない?」

「はい。何故その侍たちは上様を川へ投げ落としたのでございましょう」

「それは、私が酔ってぶつかったからでは」

「いいえ。ならば、佐助の申す通り、町人姿でおられた上様を無礼討ちするのが普通。たしかに昨今は、武士と申しましても無礼討ちはなかなかに出来ない世の中とはなってきております。だからといって、川に投げ落とす……番頭さん。番頭さん」

「はい。お呼びでしょうか」

「先ほどの佐助とやらをもう一度呼んできてはくれないかね」

「はあ。承知致しました」

「佐助に何かまた」

すぐに下がった番頭の後姿を見ながら、僕は蔦屋に訊ねた。

「勘でございます。何やら怪しげな影があるような」

「影?」

佐助を待つ間に僕は魚屋の格好から、蔦屋の着物を借りて着替えた。流石に将軍が魚屋ではまずいか。

「お呼びでしょうか」

襖が開くと、そこに神妙な顔付きの佐助が座っていた。あの威勢のよかった若者はどこへやら。きっと何か叱られると勘違いしているのだ。

「お入り」

「へい」

佐助は腰を屈めて入ると、改めて両手を付いて頭を下げた。この時代は誰も礼儀作法が行き渡っているねえ。今頃の若い奴らに見習わせたい。

「なんでございましょう」

そう言って顔を上げた佐助は僕を見て目を丸くした。黒紋付に着替えた僕を見直した? いや、違うよね。蔦屋を下座に侍らせて、僕が上座に鎮座しているからだ。駆け出し中の作家が大手出版社の社長を前にふんぞり返っているわけがない。

「お前さんに聞きたいことがあるんだ」

そんな佐助の驚きを無視して、蔦屋は話を進めた。

「へい」

「このお方がお侍に川へ投げ落とされなさったとき、その場に居合わせたのかい?」

「へい。たまたま通りかかって、何をしているんだろうと見ておりやしたら、いきなり落としやがったんで。そいで、おいら慌てて飛び込んで。他に二人ほど手助けしてくれやしたんで、何とか岸まで引き摺り出せたってわけで」

「いきなりか」

「へい。よくはわからなかったが、その方は気を失っていたようで、担いでいた一人がいきなりどぼんと」

「相手は一人だったのかい?」

「いいえ。三人、いや、四人でした」

「その前に、何か揉めている様子はなかったかい?」

「いやあ。それは見ておりやせん。たしか、橋の向こうからやって来て、落としたと憶えておりやす。無礼者がと言って、落とした後罵声を浴びせてから、立ち去っていきやした。それで、おいら、お侍がいなくなったところで、助けにいきやした」

「その時のご記憶はまったくないのでございますね?」

蔦屋は僕に向き直って訊ねた。蔦屋の言葉遣いや態度に佐助は怪訝な表情だ。

「面目ないがまったく」

僕は首を横に振るばかり。

「あのう……旦那? この方はいったい……」

「お前さんは聞かれたことだけに答えてくれればいい」

「へい」

蔦屋に釘を刺されて一層しゅんとなる佐助。

「若様はおそらくこの蔦屋を出られてから、常盤橋御門の方へ向かわれたのではないでしょうか」

「たぶんそうだと思う」

蔦屋の機転で僕は旗本の若様となった。佐助は最初ぽかんと大口開けたが、すぐに合点出来たと見えて、一人頷いた。

「その途中でどなたかに当ってしまい、近くの川に落とされた」

「そうなんだろう……なあ」

「ただ腑に落ちないのは、お武家はそのような事をなさるのでしょうか?」

「そのようなとは?」

「若様を担いで橋まで運ぶということです。まして、手前どもは若様と承知しておりますが、その時のお姿は商家の手代。商売人相手にとてもそのような面倒をかけるとは思われません」

「なるほど」

「手前には、どうも裏があるように思えてなりません」

「裏?」

「はい。まだはっきりとは申せませんが、ひょっとしてあの方が……」

「ん? 誰?」

僕の疑問に蔦屋は佐助を気にした。

「佐助。悪かったな。これで何か旨い物でも食べとくれ」

蔦屋は小粒金を佐助に手渡した。

「こんなによろしいんで」

佐助は目を丸くした。

「お前さんは若様の命の恩人だ。また改めてお礼するから、今日のところはこれで」

「へい。ありがとうございます」

ペコリとお辞儀すると、佐助は後退りしながら部屋を出て襖を閉めた。それを確めて、蔦屋は口を開いた。

「何の証拠がある訳じゃあございませんが、ご老中ではないでしょうか」

「定信?」

「はい。そのお武家はわざと上様にぶつかって来たように思えます」

「わざと!」

「わざとぶつかっておいて、酩酊召された上様を川へ突き落とした。その者たちからすれば、幸いにも上様は町人の格好をしてらっしゃる。それは偶然でしょうか? 私は、予めそれを承知でその者らはこの辺りを窺っていたように思います。町人なら狼藉者として成敗することができます。すっかり酔われた上様を襲うことは簡単でしょう。ですが、流石に無礼討ちしてしまえば、後でそれが天下の十一代将軍と知れたときにただでは済みません。それであれば、川に落として溺死させる方が無難かと。遠く流れてしまえば、まず見つからないでしょう。一方で、将軍様が行方不明というわけにも行きませんでしょうから、頃合を見計らって病死とし、ご老中の扱い易いお方に十二代目をお継がせになれば、ご老中は安泰」

「しかし、私がこうして城外へ出ておるなど、定信は知らぬ筈。まして越後屋の手代に扮しているなど想像外」

「お一人だけご存知の方がいらっしゃいます」

「え? 誰?」

僕の疑問に蔦屋は苦渋の面を作った。

「武部? ……まさか、あれは定信をきつく批判して……」

「ですが、武部様がご老中の間者とすれば、いろいろなことに辻褄が合ってまいります。手前や京伝師匠が吹上お庭での花見を呼びかける瓦版をばら撒いたこと。上様がご心配されましたように、手前どもが関わっているとご存知なら、先だってのご処分も頷けるというものでございます。また、本日は上様が越後屋さんの手代に化けて手前を尋ねていらっしゃいました。しかも、お酒をお飲みになられる様子をご覧になって、武部様は立ち去られてございます。上様を亡き者にするには絶好の機会でございましょう。おそらく神津様が上様の行方をご存じないことも承知なされているのでは」

「え! 神津が知らない?」

「大奥より抜け出られたのであれば、おそらくは御庭番の監視もそこまで届かないのではないでしょうか。江戸城にあって大奥は別物と伺っております。神津様の目が光っておらぬ今こそが好機。そう思い至りますと、慌ててお城にお戻りなされたことも合点がいきます」

御庭番も大奥までは入り込めないか。そうかもしれない。奥さんとの時間は覗かれてなかったんだ。

「なぜだ。なぜ武部は私を裏切るような……」

あの爽やかな笑顔を思い浮かべると、まだ信じられない。

「初めからご老中の手先であったのでございましょう。上様の懐に入る機会を探っていたのではないでしょうか」

「誰も信じられなくなった」

最も信頼していた友というべき人間に裏切られた。僕は悔しさに両拳を握り締めて天井を仰いだ。

「これからどうすればいいのだ」

「それは手前にも……」

沈痛な空気に僕らは覆われてしまった。状況が深刻過ぎて何から考えればいいのか、それさえ思い浮かばない。長い沈黙の後、僕の脳裏に一つの懸念が生まれた。

「私はもう将軍ではないのか? あの城へは戻れないのか?」

退屈と公務の煩わしさに辟易していたくせに、いざ帰れないかと思うと急に恋しくなる。それに奥さんや側室さんもいるし。

「それはございませんでしょう。おそらく、上様ご失踪はまだご老中の胸の内に留めておられる筈。無論、今後も公には決してされないでしょう。少なくとも数日は伏せられて、その内にご病気とされ、後に重篤となって、恐れながらご逝去という筋書きかと存じます」

「新しい将軍となるまでどれくらいの時間があるものか」

「よくは存じませぬが、一月やそこらはかかるのではないでしょうか。ただ、それは公のことであって、内々にはもっと早いのかもしれません。ですが、先ほども申し上げましたように、ご病気ということにするのであれば、多少の日にちはかけるかと存じます。いきなりお亡くなりになったとはしないでしょう。そうなると十日前後でしょうか」

「10日か……次の将軍はどのように選ぶのだ?」

「それは御世継ぎが継承されるかと」

「私にはまだ世継ぎはいないが」

「でございましたら、上様のご遺言ではないでしょうか」

「私はここにいて死んではいない。当然、遺言などあり得ない」

「そこはご老中が偽装されるかと」

「なるほど」

僕の頭に閃きがあった。

「蔦屋。そなたにまた骨を折ってもらいたい」


 それから僕は姿をくらませた。あのまま江戸城に戻れば、今度は本当に定信によって暗殺されかねない。と言って、蔦屋に居候していても、いつ武部に嗅ぎつけられるか知れたものじゃない。ならば本当に失踪と決め込んだ。無論、蔦屋の協力を得て、蔦屋の知人宅へ隠れ住むこととなった。それもいつまでもではない。定信が僕の死亡を公表するときまでだ。一方で、神津への連絡を試みた。それも武部が敵となった以上、蔦屋に頼むしかないのだが、3日後になんとか神津が僕の前に現れた。

「上様……」

絶句して立ち尽くす神津の目から涙が溢れた。鬼の目に涙だ。そして、崩れるように平伏した。

「いったいどういうことでございましょうや」

「すっかり武部に騙されていたようだ。無論、後ろでは定信が操っているが」

「武部にございますか」

「そなたも気づいてはいなかったか」

「しかとは、ただ、何やら不審な点があるため、配下に様子を探るよう命じたところでございました」

「流石は御庭番だな。私などは蔦屋に指摘されるまでまったく気にもかけてはいなかった」

「いいえ。もっと早くに調べさせておれば、このような仕儀には至らざったと、不覚にございました」

「まあ、よい。それほど定信の張り巡らせた罠が巧妙だったということだ。それより、私は城ではどうなっている?」

「ご病気で臥せっていらっしゃることになっておりまする」

「そなたの配下が影武者となっておるのか」

「それが違いまする。そうであればもっと早く上様の異変に気づいております。上様のご指示なく影武者を立てることはありませぬゆえ」

「ならば、誰が私の身代わりとなっておるのか」

「今から思えば、武部が何者かを用意したのではないでしょうか」

「武部か」

あり得る。そう言えば、あの日蔦屋から去るときに「上手く誤魔化す」と言っていた。

「その影武者は1日寝ているのか」

「配下の報告ではそのようです。憚り以外に床を離れることはないようで、食事も摂らぬと」

うわっ、辛い仕事だなあ。何もしないのも、かなりきついよ。しかも断食付き。誰もそんなバイトしないよ。

「着々と徳川家斉の病死が準備されているようだ」

僕はニンマリと笑った。

「何をお笑いですか! このままでは将軍家が代替わりとなりますぞ!」

「心配するな。策は考えてある。一度死んだ身だ。一か八かの大勝負に出る」

言いながら僕は心地よい高揚に武者震いした。これがこのアトラクションの醍醐味かもしれない。映画だって、テーマパークだって、こんな体感は絶対にないからね。失敗したら、本当に死んでしまうんだ。それに恐怖しないのは、僕自身の生命の安全が担保されているからだという安心感があるからだろう。いざとなれば、アルファに頼んで抜け出せる。でも、それ以上に、僕には自信があった。この勝負は必ず勝つ。


その夜。僕は神津の手引きである屋敷に忍び込んだ。将軍にはなれるは、泥棒も体験出来るはで、なかなかのスリル。その屋敷とは、北町奉行初鹿野信興の住まいだ。その寝所に忍び込む。くーっ、痺れるような緊張感。

「何奴だ」

低いが威厳のある声だ。流石は町奉行。

「気づいたか。仕方ないな。お遊びはこれまでだ。神津。灯りを点けよ」

「そ、そのお声は、もしや……」

「憶えてくれていたか。それなら話が早い。多少の立ち回りも覚悟していたのだが、少々残念だ」

そのとき行灯が点った。部屋が明るくなって、外がざわつき始めた。

「大事ない。呼ぶまで下がっておれっ!」

外に一喝して、初鹿野は蒲団から出て平伏した。

「夜分にすまん」

僕は深夜の訪問を詫びた。内心、真っ最中だったらどうしようかと思っていたのだ。

「いいえ。しかし……」

「驚いたか。この通り、元気だ」

「では、上様の身代わりとなっておる者が」

「定信が用意した影武者だ」

「ご老中が?」

「城を抜け出たことをよい機会に私を亡き者にしようと企んだようだ。実際に危うく殺されかけた」

「まさか」

「そのまさかだ。私も最初は信じなかった。だが、そなたが私を病気と思っているのは、なぜだ。誰かが将軍家斉が病気療養中であると伝えているのだろう? 下の者がつく程度の嘘ならすぐにばれようが、力ある者が嘘をつけば厄介だ。それは誰だ。城中にあって、将軍を病気であると言える者はごく限られているだろう」

「御意。さすれば、明日にでもご登場あそばされて、ご無事なお姿をみなに」

「いや。それではつまらん。折角定信がお膳立てしてくれたのだ。もっと面白いものに仕立て上げなければ、ご老中に申し訳なかろう」

「え?」

「今夜そなたに会いに来たのは、頼みがあるからだ」

「お頼み……」

「くれぐれも内密に当って欲しい。もっと近くへ」

「はっ」


次に勘定奉行根岸鎮衛の屋敷にも潜入した。大体武家屋敷はセキュリティー能力ゼロだね。侍の屋敷に泥棒に入る馬鹿はいないと高を括っているのだろう。本当の馬鹿は侍だ。間違いない。塀さえ乗り越えてしまえば、造作はない。通りに人は滅多に歩いていないから、人目を気にすることもない。忍び込んでしまえば、高い塀が却って侵入者を外から見えなくしてくれる。こんな理想的なターゲットはないな。だから鼠小僧なんかが現れたんだ。次は鼠小僧にでも転移しようか。このスリルは癖になりそうだ。

根岸にも初鹿野と同じ話をした。流石に根岸は不審を抱いていたようだ。病気になるような柔な体じゃないからね、家斉君は。


数日後、待ちに待った連絡が神津よりもたらされた。十一代征夷大将軍徳川家斉死去。根岸の掴んだ情報が神津経由で僕に届いたのだ。

「よしっ!」

僕は拳を高く上げた。いよいよ松平定信と決着をつけるときが来た。僕は予め決めていた策を実行するよう、神津をして初鹿野、根岸、そして、蔦屋に走らせた。

蔦屋の手配で瓦版が派手にばら撒かれた。それを読んだ人々がぞくぞくと半蔵門目指して集まって来る。将軍がまた振る舞い酒をする。先着1000名には祝儀として1分金が配られる、というビラを撒いたのだ。名目は僕の快気祝いだ。幕府の将軍逝去の発表がたちまち庶民へ広がる筈がない。その前に、元気な僕が現れて、偽情報を流した張本人を締め上げようと言う計画だ。無論、張本人とは定信に他ならない。武部から僕が死んだと報告を受けている筈の定信はさぞかし驚愕するだろう。その瞬間が定信失脚のときだ。

半蔵門前には人々が溢れていた。開門の刻限を区切ったので、時間前はまだ入れない。しかし、先着1000名には1分金が配られるから、我先にと皆集まっているのだ。僕も群集の中に紛れ込んでいる。姿もまた手代の格好だ。これなら誰にも気づかれないだろう。しかも、警護として町人に扮した神津自身とその配下が近く遠く僕を見守っている。

門が開かれた。皆一斉に中へなだれ込む。僕もその勢いに押されて行く。なだれ込んだ群衆は目当てがわからず散らばった。しかし、誰かが目敏く幟を見つけて、「あれに違ぇねえ!」と叫んだから、また一斉にその幟目掛けて動き出した。きっと空から眺めたら、巨大な黒い1個のアメーバーが吹上庭園を呑み込んで行くように見えたことだろう。その群衆から神津に手を引かれてやっとの思いで僕は抜け出せた。越後屋の手代から将軍家斉へ模様替えだ。

群衆が目指した幟は櫓に縛り付けてある。先だっての花見のときに僕が上ったあの櫓だ。その櫓の下に根岸をはじめその配下がスタンバッている筈だ。先着1000名にご祝儀を渡さなければならない。勘定方総出の仕事だ。そこまで来ると、初鹿野が従えた町方が整然と並んでいるから、押し寄せる人波もそこで小休止。幾つかの行列へと分散する。

僕は根岸たちに隠れて、もう一人の主役を待った。そう。定信の登場をだ。

しばらくすると、端の方が騒々しい。いよいよ主役のお出ましだ。誰か大声を張り上げているのは、定信にいつも追従している金魚のフンどもだろう。せいぜい威張り散らしていればいい。その膨れ上がった虚勢を一発で弾き割ってくれよう。

「根岸! そちまでもか! いったい何をしておる! 誰の許可を得てこのような暴挙を!」

「この上なきお方からのご指示でございます」

毅然と根岸。言うねえ。

「何をたわけたことを。老中筆頭松平定信様なら、こちらにおわす。このような指示は出しておらん」

「そいつぁ聞き捨てならねえなあ」

僕登場。一気に櫓へ上る。カッコいい!

「う、上様?!」

「なんだい。どうしたい。信じられねえか。死んだ筈の俺が居ちゃ、不都合なようだなあ」

定信以下金魚のフンどもも腰砕けのように尻餅突いた。

「根岸は言ったはずだぜ。この上ない方からの指示だと。そいつは俺だ! それともなにかい、定信。おめえはいつから俺の上に立った!」

「い、いえ。決してそのような……」

定信は絶望の表情でうな垂れた。

「根岸から聞いた。俺が病気だって? 病気で死んだって? この通り、ピンピンしているよ!」

もう定信は応える力もなく、身動き一つしなかった。僕の大勝利! それを讃えるように群衆から拍手と歓声が湧き起こった。


10日ぶりの江戸城だ。奥さんや側室さんたちに早く会いたかったけど、その前にしなくちゃならないことがある。武部だ。しかし、というか、やはりというか、武部は姿をくらませていた。僕は神津に武部の行方を捜すよう命じた。どう処分するか。それはあいつの話を聞いてからと思った。きっと何かの事情がある筈だ。

定信をはじめ3人の老中すべてが今回の陰謀に関わっていたから、いわゆる内閣総辞職という事態となった。当面の切盛りは、僕の意向を受けて活躍してくれた根岸と初鹿野に任せることにした。これまでの事例からすると、定信たちは罷免に留まらず、3名には閉門蟄居の末に切腹。それと連座する形で白河藩などのお家は取り潰しとなるのが大方の意見だった。だが、僕はそれを禁じた。会社社長が罪を犯しても、会社は倒産しないよね。風評で経営が立ち行かなくなることはあるだろうけど、強制的に破産法の適用はされない。それにいたずらに失業者、つまりは浪人を増やせば、逆恨みを買うのはこっちばかりだし。定信たちも罷免だけで許してやる積りだったけど、それは強行に根岸らに押し切られた。確かに、未遂には終わったけど、時の最高権力者を暗殺しようとしたのだ。許されるわけがない。それに、根岸たちからすれば、罷免されたとはいえ前政権を担っていたその首班を残しておけば、また争いの火種にもなりかねない。定信の若さも災いした。

武部については不問とした。いや、実際には、僕が黙っていたのだ。根岸や初鹿野は僕の遭難に関わる経緯を知らない。むしろ彼らからすれば、武部は僕への協力者くらいの認識しかない。僕はあくまで武部を見つけてからのことと胸の内に決めていた。しかし、武部の所在はあれ以降杳として知れない。

諸々の事後処理を片付けて(その間に奥さんと側室さんたちとの歓喜の再会を済ませてあるのは言うに及ばず)、僕は日本橋に向かった。蔦屋と京伝師匠に対する処分は早々に取り消していたのだが、やはり直接会って謝罪したかった。定信が押し通したこととはいえ、僕の対応が上手くいっていれば受けずに済んだ処罰だったのだ。蔦屋は没収した身代を返却すれば表面上は元に戻せるだろうが、山東京伝の手鎖はどうにもならない。過ぎてしまった過去は、与えた苦痛は取り消せないのだ。

蔦屋では京伝も待っていてくれた。両手に巻いた布が痛々しい。僕は上座に着く前に、端座して二人に頭を下げた。

「う、上様。何をなさいます」

慌てたのは蔦屋たちだ。

「いや、こうしないと私の気持ちが収まらないのだ」

「上様のせいではございません」

「然様でございますとも、あっしら決して上様をお恨みするようなことはこれっぽっちもありません。逆になんとお礼を申し上げたらよいのか、思案に暮れていたところでございます」

蔦屋に重ねて京伝も平身低頭だ。どっちが謝っているのかわからない。

「どうぞ、お手をお上げ下さいまし。天下の大将軍様に頭を下げて頂いたなんか世間に知れた日には、手前共は表を歩けなくなります。すぐに簀巻きにされて、大川に投げ込まれてしまいましょう。なんと申し上げても、上様は庶民の大敵を退治頂いた大恩人。今や仏様、上様でございます」

「そんなことになっているのか」

「はい。それはもう大変な騒ぎでございます。ちょいと障子の陰から外をご覧頂きましたらわかります」

「障子の陰から?」

僕は言われるままに障子ににじり寄り、少し開けて外を盗み見た。するとそこには大勢の人だかりがあった。

「通りいっぱいに人がいるぞ」

「然様でございましょう。きっと上様がこちらに入られるのを誰かが目敏く見つけたのでございましょう」

「すると、こうなるのか」

「はい。どこをどう手繰ったのか、上様と手前が関わりあると知れておりまして、日頃から誰かしらが見張っているようです」

「毎日か」

「たぶん」

「うーん」

僕は腕を組んで障子から離れた。まるでハリウッドスターだ。パパラッチみたいなのもいるんだ。いつの世も人の好奇の対象は変わらないか。ストーカーにならなければいいが。

「まったく無防備でここまで来たからな。神津は気づいていたのか?」

それに神津は苦笑した。知ってたんかい。

「余計なお気遣いをさせては申し訳ないかと存知ましてございます」

ま、神津なりの配慮ということにしておこう。

「ところで、武部様につきましては何か消息は」

僕は首を横に振った。蔦屋にも情報収集を依頼していたのだ。

「神津には配下を四方に散らせて探らせてはいるのだが、何の手掛かりもまだない」

「このようなことを上様のお耳に入れてよいものか迷うのですが」

「どんなことでも構わない。教えてくれ」

「いえ、先だっての佐助を覚えておられますでしょうか」

「忘れる筈がない。命の恩人だ」

「その佐助があの日、帰りしな番頭にぽつりともらしたことらしいんですが。手前から小遣い銭を貰って、少し気が引けたんでございましょう」

『おいら最初はあの方を助けるつもりなんかなかったんだ。騒々しいから気になって見ていただけで、相手はお侍だし、関わったら、こっちが危ない目にあうかもしれない。だから、途中から気づかなかった振りして行こうとしたら、そのお侍の一人がやけにおいらのことを見てやがるんだよ。野次馬を追い払うつもりかと思えば、そうでもねえ。逆に、あれはおいらに何か頼みたい目だった。そうこうする内に、あの方が川に落とされちまった。あっと思ったら、そのお侍たちが逃げて行く。だけど、逃げながらも、そのおいらを見つめていたお侍は何度も振り向いておいらに頭下げるんだ。ああ。こいつぁきっと、あの落とされた人を助けてくれと言ってるんだって、そのとき思ってよ。行きがかり上、知らん顔もできねえさね』

「佐助の言うお侍とは、ひょっとして武部様ではないでしょうか。どのようないきさつで武部様がご老中の間者となって、上様を陥れる一味に加担されたかは想像もできません。ですが、あの方は、根っからの悪人とは思えません。きっと、ご老中と上様との板ばさみにあって、迷われていらっしゃったのではないでしょうか」

蔦屋の言葉を聞きながら、僕の脳裏にあの生真面目で正義感の強そうな顔が浮かんで消えない。定信たちを処分しながらも、僕はどうしても武部だけは憎みきれなかった。僕を死にそうな目に合わせたけど、それが武部の本心から生まれた行動とは思えなかったのだ。武部はある意味、僕と定信の政争に巻き込まれた被害者だったのかもしれない。そんな思いがずっと僕の片隅にあった。蔦屋の言葉はそれを改めて僕に気付かせてくれた。

「きっとそうだと思う。あいつは義理堅い男だったから、定信に恩義を感じる何かがあったのだろう。心底から定信に心酔していたとは思えない。むしろ私には強い批判を口にしたほどだ。馬鹿な男だ。一言打ち明けてくれたらよかったものを」

僕の頬を涙が流れた。

その日もしたたかに酔ってしまった。武部への悔恨が悪い酒となったのだ。

「上様。お足元にお気を付けあそばされませ」

「ら、らいじょうぶ」

蔦屋から出ると大きな歓声に囲まれた。それを神津が睨んで寄せ付けない。アイドルの護衛にもこんなSPがいたら、トラブルはないかもね。僕が手を振ると取り巻く輪が縮まり、それを神津が威嚇してまた輪が広がる。その繰り返しだ。

時に教訓とは忘れるものである。

今日は神津も傍にいるし、配下の御庭番も遠巻きにして守ってくれている。たとえ誰かにぶつかったとしても、まさかまた川に投げ込まれることはないでしょ。

「おなひてつはふまぬぁいのら(同じ轍は踏まないのだ)。あれ? るをれつがままらない(呂律が回らない)……」

よた足の僕を時折後ろから素早い対応で神津がサポートしてくれる。さぞや迷惑な上司になっていたことだろう。大勢の家斉ファンも失笑に違いない。

「笑うなら、笑え。俺は悲しいんだ」

僕は急に孤独感に包まれて、その場にしゃがみ込んでしまった。

「上様。いかがされました」

心配して神津が駆け寄る。その時だ。一発の銃声が轟いた。

え? 気づくと、誰かが僕の前に倒れている。え? 神津? いや、神津は僕の隣で仁王立ちになっている。では、誰?

「追え! 鉄砲はあの屋根上辺りだ! 追え!」

神津が配下に大声で指示をした。きっと数人が犯人を追いかけて行っただろう。

「おい。大丈夫か」

神津が倒れている男を揺り動かした。うつ伏せになっている男を仰向けにした。

「おい。お……」

神津は絶句した。

「上様」

僕に目を向ける神津。

「どうした?」

僕はその男を覗き込んだ。

「!」

それは武部だった。小姓として仕えていたときと違って、今は町人のような身なりだ。武士のままでは逃亡出来ないと思ったのだろうか。しかし、それなら何故ここに、僕の目の前にいるのだ。

「武部! どうしていたんだ! 今までどうして」

取り縋る僕を神津が制した。その指さす先を見ると、血で染まっている。先ほどの銃弾が武部の腹に命中していたのだ。いや、実際にあの鉄砲は将軍である僕を狙ったものに違いない。だとすれば、武部は僕の身代わりに銃弾の前へ体を投げ出したのか。何故だ。何があったのだ。僕は混乱した。

武部は蔦屋に運び込んだ。死んではいないが、かなり危ない状態であることは間違いない。傷口に手拭いを宛がっているが、すぐに真っ赤に染まってその交換が頻繁だ。顔色も徐々に血の気を失い青白い。

「う、上様」

「今は何も話すな。傷口にさわる」

「申し訳もございませぬ」

「黙っておれ」

「いいえ。今、お詫び申し上げねば、もう機会がございませぬゆえ」

武部は寂しげに笑った。

「馬鹿なことを……」

僕は涙で声を詰まらせた。

「一度は腹を切ろうとしましたが、上様のお命を狙う者があると知りましたので、身をやつし、その者の身辺を窺っておりました」

「お前は馬鹿だ。馬鹿正直だ。何故逃げてはくれなかった」

武部は首を横に力なく振った。

「その者の察しはついております。詳しくは書きとめて母に預けております」

「私に直接伝えておればよかったではないか」

「申し訳ございませぬ。上様のお命を狙う大罪人ではございますが、私にとりましては大恩ある方。裏切ることは出来申さず。さ、さりながら、事ここに及んでは、もう引き返すことも叶わず。斯くなる上は我が身命と引換えに、その方には罪を償って頂く他なく……」

「武部?……武部……武部ーっ!!」

最期はあの爽やかな笑顔だった。


武部の遺体は番町にある彼の屋敷に移された。家族は母親と妹の2人きりだった。父親は先年に亡くなっている。武部家の家格は旗本とはいえ末席に近く、とても将軍近くに侍る小姓を勤められるほどの家ではないらしい。それが僕家斉の将軍就任と合わせて抜擢され、今年には若年ながらも小姓頭取に昇進している。神津に言わせれば異例中の異例とのことだ。ここら辺の人事に、僕を襲った人物の影が見え隠れしているに違いない。

武部の母親は、彼がこの女性から生まれたのだと頷ける、落ち着いた淑女だった。またその眼差しは彼の生真面目で融通の効かない性格を彷彿とさせる。

「上様にはこのようなむさ苦しい場所へわざわざのお運び、心苦しいばかりにございます」

息子を亡くしたばかりだというのに、母親は毅然と僕に対峙した。或いは覚悟を決めていたのだろうか。

「彦馬が私への書状を預けてあると申しておった。よければ見せてはくれまいか」

「恐れ多いことにございます。上様に対し奉り手紙を書き遺すなど」

「よい。是非とも見せてもらいたいのだ」

「畏まりましてございます」

母親は胸元から1通の手紙を取り出し、傍らの神津に手渡した。神津がまたそれを僕に慇懃に差し出す。僕は手紙をゆっくり読み始めた。ところどころ文字が滲んでいる。すぐにそれは武部が落とした涙の所為だと知れた。

『上様がこれをお読みになられるとき、私はこの世のものではなくなっていることでしょう。どうぞお許し願いたく存じます。

私は裏切り者です。上様のお考えに深く感銘を受けながらも、私は上様を裏切らなければなりませんでした。武士とは何者でございましょう。人とはいったい。その答を日々捜し求めながら、ついには行き着くことがありませんでした。

発端は私が小姓となったことに始まります。武部の家格では上様のお側近くに侍ることなど到底叶う家柄ではございません。それを長谷川様がご老中にお口添え頂き、私は小姓としてお勤めさせて頂くこととなったのです。ご加増もあって、私共の暮らし向きは格段の変わりようとなりました。これは偏に長谷川様のお陰でございます。長谷川様とは、火付盗賊改方頭の長谷川様です』

鬼平か。

『長谷川様とは亡くなった父が親しくさせて頂いており、その誼で長谷川様はご老中に運動されたのです。しかしながら、真の狙いは違うところにあると、後に気付きました。私は上様の監視役だったのです。上様もご存知のようにご老中でいらっしゃる松平定信様は上様のご後見役。いわば上様が成人なされるまでの執権代行役でございます。上様が政治向きにご興味を示されるようになれば、ご老中のお立場が危うくなります。私はお側近くに仕え、それとなくその様子を窺う役目を負っておりました。上様は、将軍職ご就任からごく最近に至るまで、政治向きにはほとんどご興味なく、専ら剣術や馬術などの武芸をよく嗜まれ、また大奥へのお出ましも頻繁で、私はこのまま時が過ぎて行くのではないかと安堵しておりました。ところが、ある日突然、上様のご様子が変わられました。お姿形はお変わりないのに、まったく別人のような。まるで上様の人型を他の者が被っているのではないかと疑ったほどでございます』

ばれていたようなものだ。人の目はなかなか欺けない。

『その内に私は上様に呼ばれました。憶えておいででしょうか。御用之間で私は上様と二人きりとなりました。あの時、もしや上様に私がご老中の回し者であると勘付かれてしまったのではと気が気でなりませんでした。しかし、上様がお話になられましたのはご政道に対するご懸念でございました。一つの不安は消えたものの、また新たな難題が持ち上がったのだと思いました。政治向きのご興味はご老中が最も警戒していたことです。私は与えられた役目をいよいよ果たさなくてはならなくなりました。

恐れ多くも上様におかれましては、私のような者にご自身の思いを熱く語られ、深く感銘を受けたことは誠にございます。それゆえに、私は苦悶致しました。私には上様のお考えが正しく思えてなりません。ですが、長谷川様への恩義を踏みにじることも出来ず、なるべく差し障りのない事をご報告してまいりました。しかしながら、上様とご老中は水と油のごとく反目されて、いずれぶつかり合う事は容易に想像されました。そして、ついに上様は動かれて、いよいよご老中は警戒を強められました。決してご老中は自らご命令を発せられるようなことはありません。ただ愚痴を言われるのです。それも聞こえよがしに。それを聞かされた者は、ご老中の煩わしさを取り除けば、出世に繋がると思います。悲しい世の中です。

一度は上様をお城よりお連れ申し上げました。あの時、私は死を覚悟しておりました。上様の民を深く労われるお気持ちに比べれば私の命など取るに足らぬものです。しかしながら、神津殿に引き留められ、しかも、上様は私を大事と思われてお城にお戻りになられました。あの時の感動は私の宝でございます。一度は捨てた命。上様の御為にお役に立てればと決意致しました。その後の事は楽しい日々でした。蔦屋を訪ねたこと。お城での民らを引き入れた花見。誠に痛快でございました。ですが、そうした日々の長く続く筈もなく、私は苦境に追い込まれているとも気付かず、束の間の安穏な時間を過ごさせて頂いておりました。

上様が吹上で民らに酒を振舞われた数日後、私は長谷川様の呼び出しを受けました。遂にこの時が来たのかと覚悟して出かけました。長谷川様は私に、上様が市中に御忍びされるときを教えよとのご命令でした。申し訳ありません。御忍びでお出かけになられることは、報告しておりました。私はもしやと思いました。市中の御忍びは身分を隠してのお出かけ。上様のお命を縮めんとするなら、絶好の機会ではないかと。まさかとは思いながらも、長谷川様のお役に対する執着を照らせば、あり得ることです。最早、ここまで至ってしまえば、私などに止める手立てはございません。ならば、いっそ上様にすべてを打ち明けご老中たちを弾劾して後、私自身は切腹しようと決めました。ところが、上様が見当たりません。探し回る内に、大奥より私に書面が届きました。そこには蔦屋にて待つとあるばかり。私は慌てました。きっと、長谷川様の間者は私だけでなく、他にも居るものと。もしその者に先に知られてしまえば、取り返しのつかないことになります。そして、やはり他の者が気づいておりました。蔦屋で上様にお会い出来ましたときには幸いにも間に合ったと思ったのですが、既に刺客は近くに迫っていたようでした。私は神津殿との接触を図るべく蔦屋の近辺を捜したのですが、見当たらず。その時点で、上様が大奥から御忍びで出られたことに気づき、それが神津殿に伝わっていないのだと悟りました。私は途方に暮れました。刺客が蔦屋に押し込んでしまえばもうどうしようもありません。その前に手を打たねばと焦りました。すると見知った男が他の二人と共にこちらへ向かって来ます。咄嗟に一計を案じ、私はその者らに近付きました。思った通り、三名は火付盗賊改の者たちでした。刺客です。私はその者らに、上様が蔦屋から出た後に襲うことを提案しました。昼日中に斬り合いとなれば事が大袈裟になるばかりか、上様の身元が知れれば面倒になると訴えました。そして、襲って気絶させてから川に落とせば、我らの正体が露見する危険も少なく、上手くいけば遺体は下流へ流れ去って見つからないことも充分にあると説得しました。説得は上手くいき、恐れ多いことではございますが、上様を橋より川へ投げ落としました。橋の袂に魚屋がおりましたので、その者に上様をお救いするよう懸命に合図を送りました。幸いにも一命を取り留められ、それを知った時の喜びは筆舌に尽くせません。されど、長谷川様は執念深い方です。如何なる手段を用いても目的を果たされようとされる方です。私は長谷川様と刺し違えても上様をお護り致す所存でございます。それがせめてもの私の償いと心得ます』

馬鹿野郎。自惚れてんじゃないよ。お前一人で何が出来るんだよー。僕は心の奥で叫んだ。


武部の告発状で、長谷川平蔵は自害した。元々後ろ盾だった松平定信を失い、その運命は決まっていたようなものではあるが。鬼平を自害させた。僕は違う感慨に耽った。もし元の世界に戻ったら、鬼平犯科帳という本は存在していないのではないかと。ファンの皆さん。ごめんなさい。


武部、元気か? さぞかし空の上から僕の空威張りを見て笑っていることだろう。でも、弁解させてくれ。定信は失脚させた。寛政の改革も終わらせた。蔦屋たち庶民の活き活きとした表情をみれば良かったのかなあと思うが、本当にそうなのか? 武士たちは消費集団でしかない。何の生産もせず、ただふんぞり反って、物を消費するばかりだ。それでこの江戸時代が成立しているのだからいいのかもしれないが、僕が提唱した政策はことごとく失敗へと向かっている。それに気付いた今、なんだか虚しい。本当に武士はあほだ。ちょっとの切り替えが出来ない。根岸も初鹿野も頑張ってくれたのだが、如何せん指示を受ける受け皿がない。笛吹けども踊らずというやつだ。長い泰平に胡坐をかいたまま居眠りし続けているよ。おまけに初鹿野はポックリ逝っちまうし。お前の横にもう座ってこちらを見ているのかな。初鹿野からもいい訳をじっくり聞いてやってくれ。

ところで、お前の母上は偉いな。実にたいした人だよ。いきさつはどうであれ、お前は将軍である私を一命を賭して守った、いわば武士の鑑だ。当然何らかの褒賞を与えてしかるべきだろう。だが、母上はお断わりになった。しかも、すぐに髪を下ろされた。きっと最初からそう決めておられたのだろう。お前の立場を知っていたがための、覚悟だったと思う。親は欺けないな。妹がいたな。心配するな。妹は大奥に迎えて花嫁修業させている。あの器量なら、良い縁談に恵まれるだろう。安心しろ。妹には手は出さないから。

僕は久しぶりに来た墓の前で武部に語った。僕の後ろでは神津の鼻をすする音が聞こえる。こいつは武部のことになると涙もろくなっている。


墓参りの帰路、僕はつくづく思った。疲れた。家斉君の一生のごく一部でしかないのに、すべてを味わった気分だ。僕には少々刺激が強過ぎたかな。


【アルファ。もういいや。疲れた】

【まだ転移してから1年しか過ぎていませんよ】

【ああ。でも、もういいや】

【そうですか。では、次は誰になさいますか?】

【篠崎卓也】

【え? もう、よろしいのですか?】

【お腹いっぱいだ。徳川家斉でこうなら、織田信長や坂本竜馬なんかになったら、数日で悲鳴を上げただろうね。僕に英雄は向かない。一般人で満足だよ】

【わかりました。では、もう一度確認します。次なる人物は篠崎卓也さん。あなた自身ですね】

【はい。お願いします】

さよなら、家斉君。君を名君に出来なかったよ。ごめんね。


【どうした。もうご帰還かい。旅は、アトラクションは楽しんでもらえたかな】

【くたくたになるほど堪能したよ】

【その声じゃ、もう懲り懲りというところか】

【ああ。もう充分だ。あんたは3人分楽しんだのか】

【いいや。私も1人でへとへとになった】

【なんだ、それじゃあ】

【そう。君と同じだ】

【ひょっとして、あんた】

【そうさ。私は別の世界にいる君さ】

【なんだか、そんな気がしてたんだ】

【なぜだ】

【わからない。感覚だ】

【何か聞きたそうだな】

【いや。やめておく。聞けば、これからの未来がつまらなくなるだろう】

【懸命な答だ。それに、世界が違えば、未来も必ずしも同じだとは限らない。聞くだけ無駄かもしれん】

【あんたは若い頃に同じあんたの未来に逢って、先行きを聞いたのか?】

【無論。聞きゃあしなかった。君と同じ結論さ】

僕は苦笑した。

【今日は何曜だっけ】

【君の世界では日曜の夜だ】

【明日は仕事か】

とても遠い過去のようだ。

                                      

                                       完


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