誘惑
誘惑
【時間という概念を君はどう捉えている? 或いは、空間をどう考える? 人間は見た物、体験した物事しか信じない悪癖がある】
ふいに声がした。男の声だ。姿が見える訳ではない。その声質から男と思っただけだ。真っ暗で何も見えない。少し考えて、これは夢の中だと思った。確かに、数十分か数時間か前に僕は就寝したのだ。ただ、やけに実感のある夢だ。夢の中で実感とはおかしな表現だが、声の主は見えないだけで、すぐ傍にいて、じっと見つめられている感覚がある。痛い程に視線を感じるのだ。それがあまりに現実的な感覚として迫って来る。本当に夢の中なのだろうか。
【君に面白いものを見せてあげよう】
そんな僕の戸惑いを他所に男は話を続けた。
【明日、吉祥寺へ行くといい。中道通りを歩いて最初に見つけた骨董屋へ入りなさい。そこで亭主にキラキラしたものが欲しいと言うのだ。出された物を君は買ってくるだけでいい。それほど吹っかけはしないだろうが、カードくらいは持参した方が無難だな】
僕は目覚めた。やはり夢だったのだ。
今日は土曜。吉祥寺に出かけようと思えば行ける。馬鹿らしいとは思いながらも、妙に気に掛かる。夢の中の出来事だから、たとえ指定された場所に出かけて空振りに終わっても、誰に笑われるという事ではない。そのいい訳が僕を後押しした。
妻に怪訝な顔をされながらも、僕は出かけた。千葉から吉祥寺は決して近い距離ではない。しかし、それがむしろ僕の好奇心を煽った。観光気分もある。昔学生時代に友人が下宿していたアパートに数日泊まって以来だ。懐かしさもある。それに気楽な事は、おそらく知り合いに会わないと思える安堵感だろう。旅の恥は掻き捨て的な気分も手伝って、僕は総武線快速に飛び乗った。
吉祥寺駅北口を左へ出て右手にパルコを見たらすぐに中道通りの標識が見えた。道の両側に瀟洒な商店が並んでいる。3本目の路地を曲がったすぐに目指す骨董屋はあった。骨董屋の看板は小さく、知らなければきっと見過ごしていたほどだ。それが、通りを歩いて横切る路地へふと視線を移したら、目に飛び込んできたのだ。何も迷うことなく辿り着いてしまった。予言のような夢の後だけに、妙な気分だ。店に入ると、定番のように老眼鏡をかけた初老の店主が奥の机に座っている。いらっしゃいも言わない。店内に入った僕を一瞥しただけだ。何も買わずに通り過ぎていくひやかしが多いのだろう。僕に視線を向けるわけでもなく、何をしているのかただじっと俯いている。だが、僕を意識しているのはわかる。いや、それは僕が過剰に構えている所為かもしれない。この店主に男が教えた物を要求すれば、そこから僕の人生に何かが起きるのではないかという期待と不安の入り混じった予感がそうさせているのだ。店内に処狭しと陳列された無機質な過去の遺物たちがいや増して僕を追い詰めてくる。僕は骨董品を眺める振りをして迷っていた。ひやかし客の一人としてこのまま店から立ち去ろうか、それとも……。すると、今までだんまりを決め込んでいた店主が思いがけず話しかけてきた。
「何かお探しですか?」
その言葉に誘われるように僕は店主に向き直った。僕の性格からしてもう後戻りは出来ない。意を決して例の言葉を告げた。
「何かキラキラしたものはないですか?」
「キラキラしたもの?」
店主は最初腑に落ちないように小首をかしげたが、何か思い当たるものでもあるのか、おもむろに立ち上がると店の奥に入ってしまった。その一連の行動が無表情に進むので、僕は見守るしかない。しかし、内心では不安を抑えられずにいた。一瞬、このまま店から逃げてしまおうかという思いが頭をよぎった。だが、その決断の前に店主は奥から戻ってしまった。
「これなんかいかがです?」
店主が手に持ってきた物は白い小振りの四角い紙箱だった。それを机の上に置いて中身を取り出した。中からはまた桐箱が現れ、前面が観音開きになっている。なんだか高そうだ。僕は別の不安を抱いた。店主はお構いなしにその小さな扉を開いた。中にはガラス製と思われるケースが一つ収まっている。
「最近は身寄りのない年寄りが亡くなって廃屋となることが多いでしょう。決まった年数が経ったら役所が処分出来る、ほら何とかいった法律が一昨年だかに出来たでしょう」
店主はしばらくその法律の名称を思い出そうとしていたが、やがて諦めたか、
「ま、その法律に従って家財から一切を市の職員が引き取って処分したらしいんです」
そう言いながら取り出したガラスケースには小石ほどの宝石が入っていた。もし本物ならとんでもない金額だ。僕は先行きが不安になった。思わず声に出た。
「ダイヤモンドですか?」
「いやいや、イミテーションですよ。これがダイヤだったら、こんな骨董屋なんかに流れてきませんよ」
そう言って店主は笑った。
「でも、なかなかの出来栄えなんで引き取ったんです。ただ、この大きさが災いしたのか、どうも買い手がなくってね。どうです? お安くしときますよ」
店主はその石の収まったケースを僕の前に差し出した。
「いくら、ですか?」
僕は恐々と訊ねた。
「3万。と言いたいところだけど、2万でどうです?」
その金額に僕は内心ホッとした。だが、現金の持ち合わせはなかった。まったくない訳ではないが、帰り渋谷で妻からの頼まれ物がある。今ここで2万を払ってしまえば、ちょっと心もとなかった。
「カードは使えますか?」
「ええ。大丈夫ですよ」
店主は満面の笑みを湛えてケースを元のように戻した。
骨董屋の屋号が入った紙袋を提げて店を出た僕はちょっと複雑な心境だった。高い買い物だったのか、それともあの男が言ったような面白い世界を体験出来る手がかりになるのだろうか。
でも夢だよな。夢は願望が作り出すとも言うし。
僕の胸の内を今更の後悔が満たしていった。
その夜。またあの男が現れた。いや、やはり今夜も姿はなく、声ばかりだ。
【手に入れたな。2万とは安い買い物だ】
【見ていたのか】
【私は君の中にいる】
【え? 僕の中に?】
【潜在意識だ。私の意識を君の中に間借りさせているだけだ】
【そんな勝手な】
【たいした事じゃない。携帯の中継基地を君の中に作ったと思えばいい。ま、あくまでもたとえだがな】
【いつの間にそんな】
【君が生まれる前からさ。君の遺伝子情報に組み込まれているのさ】
【いったいあんたは誰なんだ】
【そんな事はこの際問題ではない。大事なのは、君が手に入れた装置を上手く使えるかだ】
【装置? あの石が何かの装置なのか】
【そう。先人が作った遺物だ】
【先人? 遺物?】
僕は混乱した。なにがなんだかわからない。
【その装置がどんな仕組みになっているのか、君の知識ではわからない。残念ながら、私にも解き明かせる代物ではない。ただ言えるのは、君が手に入れた物は、ありとあらゆる時間と空間を超越出来る物だということだ。そして、君が望む人物にも転移出来る】
【え? どういうこと?】
あまりにも現実離れして、僕は呟くのがやっとだった。
【つまり、君が歴史上の人物になりたいと思えば、その装置がそれを実現してくれるというわけさ。それもテーマパークのアトラクションみたいな束の間ではなく、望めば、その人物の最期まで君は味わえる。どうだ。こんなイベントはこの世にないだろう】
【そんな事出来るわけがないさ。まったくの夢物語。実際、これは夢なんだろう?】
【夢かどうか、君自身で試してみるがいいさ。目覚めたら、やってみるんだな】
【で、でも、もしあんたが言う事が起きたら、元に戻るにはどうしたらいいんだ? その人物のまま一生を終わりたくない。だいたい歴史上の人物なんか、ほとんどが非業の死を迎えているじゃないか。織田信長だって、坂本龍馬だって】
【そう騒ぐな。君自身がその人物に生まれ変わるんじゃない。あくまでも転移だ】
【転移?】
【そう。転移。ターゲットの体を借りるのさ】
【あんたが僕の中にいるみたいにか】
【それはちょっと違う。さっきも言ったように、私は君の意識の中に中継地点を置いただけさ。私自身は別にいる。転移は君自身がターゲットの中に入り込むことだ】
【じゃあ、実の僕はどうなる?】
【心配しなくていい。君が転移している間、君自身の時間は止まる】
【え? 時間が止まる?】
【そういう感覚という事だ。君がまた自分自身に戻った時点で時間は動き出す】
僕には理解不能だ。思考がオーバーヒートした。
【理解の必要などない。我々が理解しようとしても、到底解けない難問だ。そういうものだと思えばいい。現に私もそう割り切って体験した】
【あんたも転移したのか】
【無論だ。自分が経験して面白くなかったものを君に押し付ける程悪趣味じゃない】
【……】
【話を元に戻そう。転移は、君自身がその人物に入り込む事だとはさっき言ったな。人間は、内なるからだと、外なる体から成っているらしい。これは先人からの受け売りだから、私にも理屈は不明だ。そういうものだと飲み込んでくれ。私なりに想定したのは、内なるからだとは魂だと置き換えた。そして、転移すると、君はその人物となり、転移された人物、私が言う魂は君が転移している間、外なる体の何処かに沈み込んで長い眠りにつく。冬眠のようなものかもしれない。君がその人物から抜け出れば、外なる体の脳がその間の記憶を保持しているから、さも何事もなかったように、君が行った事を違和感なく引き継ぐという仕組みだ】
僕は苦笑するしかなかった。納得出来るような出来ないような。まったく荒唐無稽な話だ。
【これは、君が転移した後で、転移された人物の人生をぶち壊しにするのではないかと危惧しないよう前置きをしているのだよ】
【でも、それはあり得る事でしょう。たとえば、武田信玄に転移したとして、僕は武士でもなければ、戦争だって知らない。僕の采配で武田軍が早々に滅びてしまったら、それこそ大変……そう、歴史を変えてしまう!】
【まず第一に、武田信玄に転移しても、信玄自身の外なる体の脳が君の危惧する情報を持っている。だから、心配ない。第二に、そう簡単に歴史は変わらない】
【でも、もう戦争なんかしたくないと、上杉なんかに降伏したら】
【君には出来ないだろうね。信玄に転移すれば、信玄の家族がいる。家来もいる。それを無視して、君は無茶な決断なんかしないよ】
【でも】
【でもの多い男だなあ。それも仕方ないか】
男は笑った。僕は、男が僕のことを知り尽くしているのではないかとふと思った。まるで他人ではないような。確かに、僕が生まれる前から僕の遺伝子に男の一部か何かが組み込まれていたのだから、それは当然かもしれない。
【簡単に言えば、そういう無謀をしない人間、つまり君を選んでいるのさ。確かに、君が心配するように無茶をされては歴史が変わる。たとえば、テロリストを選んでアメリカ大統領にでもなられたら、アメリカは勿論、全世界が廃墟にされかねない。それでは歴史の修復なんてレベルじゃないからね。念のために言っておくが、歴史はそう簡単に変わらない。そして、歴史はこの世に無数にある】
【無数?】
【これ以上の説明は君の混乱を助長するばかりだからこれくらいにしておくが、空間は一つじゃない。むしろ無数だ。その無数の空間にそれぞれの歴史が存在する】
【え?】
【もうこれくらいにしておこう。まずは体験することだな。体験すれば、君も感覚としてわかる。それから君自身に戻る方法はと聞かれたね。それは転移と同じ事をすればいい】
【はあ】
僕は半ば放心状態だった。夢の中で放心状態なんてあるんだ。
男は僕に笑いながら言った。
【どうも君の脳は飽和状態らしい。転移の方法についてはまた明日説明するとしよう。では、お休み。朝まではまだ時間がある。ゆっくり眠るのだな】
翌朝目覚めると、妻が怪訝な顔で僕にこう言った。
「夕べは随分うなされていたみたいね。寝言もひどかったわ」
「寝言? どんな?」
「武田信玄だとか、転移とか」
「そう。昨日立ち寄った骨董屋でその店主から戦国時代の話をいろいろ聞かされたからかな」
「何を買ってきたの?」
「きれいな石さ。妙に魅かれてね」
「石? 骨董品なら高かったんでしょう?」
「そうでもないよ。2千円だから」
僕は妻に嘘をついた。とても2万だなんて言えるわけがない。
その夜、約束通り男は現れた。依然として声だけだ。夢をコントロール出来るわけがない。もうこれは夢なんかじゃない。僕は覚悟するしかないと思った。これはきっと一種の催眠だ。遺伝子情報に組み込んだと言っていたけど、今の人類にそんな技術がある筈がない。きっと部屋の何処かに僕の脳に働きかける通信機みたいなものがあって、僕の意識に入り込んでいるんだ。それくらいの芸当は出来るんじゃないか。簡単に盗聴器なんか設置出来るらしいから。それとも僕の体に何か埋め込まれているのだろうか。最近そんな場面があったか?
【疑い深い男だな、君は】
【え?】
【君の思っている事は筒抜けだ。催眠誘導なら、君を洗脳は出来ても、君の思念は読み取れないだろう。昨日も話したように、私は君の内なるからだに入り込んでいる。君とは双方向で通信が出来るのだよ】
【……】
【少しはわかってくれたみたいだな】
【わかったよ。とんでもないプロジェクトに巻き込まれたってことが】
男は押し殺したように笑った。
【何が可笑しい】
【そんな大げさなものじゃない。いわばこれはアトラクションさ。ただテーマパークと違うのは、それがとてつもなく長く楽しめるということだ。選びようによっては、かなりのスリルと或いは危険も隣り合わせだ。ターゲットは慎重にチョイスしなければならない。無論、ごくごく平凡な人物でもいいけどね。しかし、それじゃあつまらないだろう】
【僕に選択肢はあるのか】
【あるよ。決めるのは君だ。だが、君は実行する運命にある。おっと、余計な事を言ってしまったな】
【運命?】
【そう深刻に考える事はない。避けられないものは受け入れるしかないのだ。割り切る事だな】
不思議と僕にもそんな予感があった。あの骨董屋を訪れたときから、いや、それはこの男が夢に現れたときから決まっていたような。
【渋々でも納得してくれたようだな。では、本題に入ろうか】
【その前に一つだけ質問したい】
【どうぞ】
【もし僕が転移した相手が死んでしまったら、どうなる?】
【どうにもならない。君はその人物から抜け出るだけだ。或いは元の君にそのまま戻るのかもしれないが、私にはその経験がないんでね。大丈夫。君はそうならないよ。私が保証する。】
【どうしてそう言える?】
【今は言えない。後でわかるさ。今は私を信じてもらうしかないな】
【転移している間、実際の僕は時間が止まっていると言ったよね。それがわからない】
【夢と同じさ。夢の中で人は現実の時間以上に旅をする】
【やっぱり夢なんだ】
【ある意味ね。きっと君は君自身に戻ったとき、ほとんど時間の経過がないのを知って、最初は夢だったと錯覚するだろう。だが、大きく違うのは、君が経験した事はしっかり君の記憶に刻まれ残っている事だ。それがこのアトラクションの醍醐味なのさ】
【ゲームなの?】
【ゲームと言えるかもしれない。人生体験型のね。だから、深刻に考える必要はない。歴史は簡単に変わらないし、歴史自体にも自己修正作用がある。多くのアトラクションが決まったコースを辿って、客は変わる景色や仕掛けを楽しんでいるだろう。それと一緒さ。レールは敷かれている。君はその上を通って行くだけなんだ。それぞれの場面で起きる出来事を存分に楽しみたまえ】
男の言葉が僕の肩の荷を軽くしてくれた。物事に取り掛かる前に僕はあれこれと考える癖がある。一旦どうしようと悩み始めるともう止まらない。自分が作り出した迷宮に嵌ってしまうのだ。
【君が思うその短所は時に長所にもなる。慎重という形でね。ただ、混乱した末に後先考えずに飛び込んでしまうのは止めたまえ。踏ん切りの良さと言えなくもないが、多くは危険が伴う。特にこのアトラクションでは。君が転移する人物には取り巻きがいる。いわゆるブレーンだ。彼らのアドバイスをよく聞き入れることだな。有名な史実なら君も承知しているから、判断に迷うことはないだろうが、史実に残されていないことがほとんどだ。その場面では配下の意見を聞くのだな。無論、決めるのは君自身だ。君は英雄になっているのだから、君の言動がクローズアップされるのは避けられない。だが、あまりに配下の言いなりになってもいけない。それは君にとっても不幸なことだし、アトラクションの面白さが半減してしまう】
【なんだか難しいなあ】
【難しくはないさ。君が今歩んでいる君の人生と一緒だ。どんな人物に転移しようと、君の人生を歩めと言ってるんだ。その中で、君が持つ性格を意識すればいい。そんなに大きな過ちを犯しはしないさ。これまで君が生きてきたようにね】
【そうかなあ】
男は笑った。
【どんな英雄も所詮は人間だ。ちょっと仕出かした物事が目立っただけに過ぎない。きっと君も同じ立場だったら出来たかもしれない。さあ、能書きはこれくらいにして、装置の説明をしよう。操作はいたって簡単だ】
男の話が終わって少し間があいた。やがて暗闇の中で輝く物が現れた。あの石だ。
【昨日話したようにこれはただの石ではない。名称は時空間変異型移送装置バージョン6という。先人も試行錯誤の末にこの装置に辿り着いたらしい。私は単にプリズムと呼んでいるがね。人の一生は七色どころか幾重にも変わる。昨日と同じものが今日は違って見えることもある。それはすべて人の心の成せる業だ。そんな人生を見るだけでなく、実体験させてくれる。まさにこの装置は人生の光と影のコントラストを映し出すプリズムと言えるだろう】
【先人て……】
【そう。我々が言う宇宙人だ】
【じゃあ、あんたも宇宙人か】
【残念ながら違う。私も君と同じ地球上の生き物。人間だ。ただ君とは住んでいる空間が違うのさ】
【どうして僕が選ばれたんだ。後で法外な請求をされても】
【つくづく心配性だな。それも仕方ないか。報酬は不要だ。私も君も先人から見ればサンプルなのさ】
【サンプル?】
【歴史の中でどれだけの波紋がその後に影響するかを見ているらしい。その上で、修復するタイミングや手法を検討する材料とするそうだ。既に膨大な検証結果があって、だから私も自信を持って歴史は簡単に変わらないと君に言えるのだ。先人は時間や空間を超越した世界に住んでいるんだ。彼らの科学がそれを実現させたのさ。きっとそうせざるを得ない事情があったんだろう。住んでいる星が終焉を迎えるようなね】
【宇宙人は地球の何処かに潜んでいるの?】
【ずっと遠い星にいると言ってたな。彼らには距離は関係ない。時間もね。この装置も何万年も前に開発されたものらしいよ。笑ってしまうな】
【そんなこと研究してどうする気だろう。なるがままが自然でいいと思うけど】
【それは我々の考えで、彼らには彼らの考えがある。まして、住んでいる星が滅亡するとわかったら、どうしたってそんな研究を始めるだろう。ひょっとしたらこの時点で彼らの星はブラックホールになっているのかもしれない。いかに彼らでも星の運命までは変えられないだろうからね】
【そうなの、かなあ】
【これ以上詮索したって始まらない。彼らが作り上げてしまったものは仕方ない。我々にはどうすることも出来ないだろう? なら、それを単純に楽しませてもらうだけさ。折角体験させてくれるんだ。受け入れようじゃないか】
【……】
【説明を始めるぞ】
【う、うん】
【仕組みはわからないが、操作は簡単だ。私が命名したようにこいつはプリズムだ。光を受けて屈折反射させる。ある決まった角度で出来た光線の先に時空間を飛翔する窓が発生するんだ。窓と言っても扉のようなものだ。君はそこから中に入って、そこにある大判の鏡に話しかければいい】
【日本語が通じるの?】
【翻訳機が内蔵されているのさ。だいたい10銀河くらいは網羅されているそうだ。凄い話だ。銀河だぜ。この地球がある太陽系さえ1銀河系の端っこだ。一つの銀河系だけでも無数の星がある。それが10となれば、気が遠くなる。だが、我々のような言語を持つ知的生命体が存在する星となると、千に届かないそうだ。しかし、それを彼らは調査したわけだ。ほとんどが無駄足だっただろう。いかに時空間を越えて行けるといっても、膨大な作業だったに違いない。頭が下がるよ】
【変身の術なんかも使えて、何百何千と個体を増やせば、案外容易く出来るかもね】
【その鏡に話しかけることで、君と先人との交信がはじまる】
僕のジョークは無視されてしまった。
【先人は君にいくつかの質問をするだろう。なに、それは基本情報だ。先人が君の固有アドレスを確認する作業にすぎない。君の情報も彼らは既に持っているからね。行方がわからなくならないようにセットするのだ】
【行方不明なんてあるの?】
【以前はあったらしい。それでセキュリティーとしてマニュアルに追加したんだ】
【行方不明者はどうなったんだろう】
【最終的には見つけたらしいよ。その苦労を避けるために考案したのさ】
【ふーん】
【質問が終わると、君にチップを装着する】
【チップ?】
【ナノレベルの微小なチップだ。気づいた時にはもう装着されている】
【それでも手術かなにか】
【私もどうやって付けられたのか知らないが……きっとそうだ。質問が終わったら、顔に一瞬エアーが吹き付けられた。その時に装着されたんだと思う。毛穴からでも入り込んだのだ】
【なんだかいい気がしないなあ】
【手続きはそれで終了だ】
また無視された。
【後は君が望む人物の名前とその時代を指定すればいい】
【時代? 西暦かなにか? 学生時代なら受験で覚えていたけど、今じゃわからないよ】
【大雑把で通じるよ。彼らはすべての情報を持っている。たとえばシーザーなら名前だけでも行けるだろう。歴史上にシーザーはおそらく一人きりだ。ただ、同じシーザーでも青年時代もあれば暗殺直前の彼もいる。暗殺間近に転移しても殺されてしまうだけだから、妙味に欠けるね。それならエジプト遠征期を指定した方がいいよな。絶世の美女クレオパトラと睦まじくやれるじゃないか】
【え? クレオパトラ!】
【鼻の下が伸びてるぞ。ま、それは冗談だが。別の考え方をするなら、英雄の若い頃に転移して、どうしてその後の人生を選択したのかを体験するのも悪くない。選ぶのは君だ。自由に考えればいい】
【迷うなあ】
僕はすっかり男のペースに嵌っていた。感じていた違和感さえ今はなくなっていた。
【それから、転移出来るのは最大3人までだ。ま、そこまで楽しめれば十分だと思うけどね。英雄だけにその人生は山あり谷ありだ。平坦な人生などほとんどないだろうから】
【僕自身に戻る時はどうすればいいの?】
【3人を転移し終えたら自動的に戻る。途中で終えたければ、次の転移先を君に選べばいい】
【僕のいつでも戻れるの?】
僕はちょっと期待した。やり直したい事はいくらでもある。
【それは指定出来ない】
【えっ】
それはすぐに落胆へと変わった。
【この辺りが先人の融通が利かないところさ】
そんな言葉を聞くと、この男もそれを願ったのかもしれない。誰しも抱いている願望なのだ。
【君自身に戻る時は転移を開始した瞬間に戻る。だから、最初に言ったように、たとえ数十年を旅したとしても、君の外なるからだは少しも時間の経過がないことになる。考えれば、うまい仕組みかもしれない。客を疲弊させないということさ。浦島太郎にはならない】
それは有難いシステムだとは思うが、僕の人生をやり直せないのは心残りだ。
【さ、大方の説明は終わった。そろそろ行ってみるか】
【えっ、もう行くの? 何も準備は、パジャマ姿だし】
【服なんか関係ないよ。転移すればその人物の姿になるのだから。裸でもいいくらいだ。持ち物も必要ない。それに寝ている時の方が都合がいい。誰にも気付かれないからね】
【じゃ、じゃあ、最後にもうひとつ。僕が転移したら、このプリズムはどうなるの? このまま僕の部屋に残っていたら次の転移が出来ないし、もしかしたら妻が捨ててしまうかもしれない】
【プリズムは先人が移動させてくれる。また他の選ばれた誰かの手元にね。君が骨董屋で手に入れたみたいに。これは時空間移動の扉を開く鍵にすぎない。転移後は君に埋め込まれたチップがすべてを行う。転移を望めばそのチップに呼びかければいい】
【どうやって?】
【念ずればいいのさ】
【なんだか不安だ】
【私も最初はそうだった。でも、簡単なことだ。念のため、チップは2度確認をしてくる。そのいずれにもイエスと応じれば、その瞬間に君はもう次に転移している。このやり取りはチップが埋め込まれた時から君の情報としてセットされるから、心配することもない。システム上で何でも困った事はチップに問いかけるといい】
【なんて呼びかけるの?】
【アルファさ。それも君にインプットされる】
【あなたは僕の傍にいてくれるんだろ? こうして会話しているみたいに】
【それは可能だろうと思うけど、きっとその必要はないだろう。アルファの方が詳しいからね】
【わかった。でも不安だ】
【アトラクションの入り口は誰でもワクワクするものさ】
【それとは違うんだけどなあ】
【ははは……】
男の笑い声は次第に遠くなっていった。
僕は目覚めた。時計を見ると12時を少し回ったほどだ。就寝してからさして時間が経っていない。脳の働きは不思議なものだ。転移の長旅から帰ってきても、きっとこんな感じで目覚めるのだろうか。ついにあの男の名前を聞かずに終わった。呼びかける時に何て呼べばいいのだろう。そんな事を思いながら僕は起き上がった。隣では妻が静かな寝息を立てている。彼女を起こさない気遣いで僕はそっと寝室から抜け出た。プリズムはリビングに置いたショルダーバッグにしまい込んである。仕事に使うバッグだ。その中からプリズムを取り出す。吉祥寺から帰る途中で桐箱もガラスケースも処分したから、それは剥き身のままだ。隠すように本や携帯の下に入れてある。手を差し入れまさぐった指先に冷たく固い感触があった。それを鷲掴みにして取り上げる。
あ、どうやったら扉が見えるんだ? 光を屈折させるんだよな。そして、ある角度から当てると現れるんだ。僕はちょっと考えて、懐中電灯を探すと、リビングの蛍光灯を消した。プリズムに懐中電灯の光を当てるとその光は確かに違う方向へ屈折して流れた。いろんな角度から照らしてみる。なかなか期待の現象は起きない。試しにプリズムをひっくり返した。また、角度を変えながら照らした。しかし、一向に現れない。
おい。どうしたんだよ。どういうことだ。
僕の脳裏を騙されたという言葉がよぎった。でも、あんな巧妙な手口はないだろう。それに僕なんか騙してどんな得がある? それともまだ夢の中なのか? 僕はプリズムに近づいた。自然、プリズムの真上から懐中電灯の光が当たる。すると、プリズムの中に小さな扉のようなものを見た気がした。顔を近づけると確かに扉がある。とても小さい。こんな扉の中なんか入れる訳がない。もしやと思いながら、その位置を変えないようにプリズムを持ち上げ真上から照らした。出た。まさに出た。プリズムから屈折された光が正面の壁に当たって、そこに扉が出現したのだ。しかし、どうやってその扉に入ればいいのだ。扉へ向かえばプリズムを照らし続ける事が出来ない。困ったと思っていつもの癖で懐中電灯を持つ手で頭を掻いたら、なんとプリズムからの光は消えず、扉も残っているではないか。僕は唖然としながらも、ゆっくりと扉に歩いた。もう光もプリズムも関係ないようだ。光を消しても、プリズムを床に置いても、扉は暗闇に輝いている。時空間への入り口が今開いたのだ。
扉に把手はなかった。押すのか、引き戸だろうか。手を触れると、それは音も立てずにスライドした。自動ドアだと想像しなかった自分にちょっと苦笑いだ。中は暗かった。一歩踏み込んだら奈落に真っ逆さまなんてのは勘弁してよ。慎重に足を差し出す。足裏に床らしい感触はあった。軽く踏みしめても大丈夫そうだ。徐々に片足に体重を移す。そして、もう一方の足を中に収めた瞬間、背後で扉が閉まる気配がした。振り向く間もなく僕を眩しい光が包んだ。部屋?の灯が点いたのだ。でも、見上げても天井に光源らしきものはなかった。正面には、あの男が言ったように鏡があった。大振りでいわゆる姿写しみたいだ。だが、僕が近づいても僕の姿は映らなかった。鏡のようで、鏡ではないらしい。どんな構造なんだろう。指先で触れても扉のような反応はなかった。どうすればいい? あの男は話しかけろと言ったな。でも、なんて?
「あ、あのう……こんばんは」
「こんばんは」
それは機械的なものではなく、やわらかな女性の声だった。すべてが意外だ。
「あ、あのう……」
「いらっしゃいませ。ようこそ。これからあなたにいくつか質問させて頂きます。これはあなたが元の世界へお帰りになる際の重要な情報となりますので、お間違いのないように。よろしいですか?」
「あ、はい」
「ありがとうございます。では、最初にあなたのお名前をおっしゃって下さい」
「はい。篠崎卓也です」
「次にあなたの生年月日をお願いします」
「生年月日? 西暦で?」
「どちらでも構いません」
「1988年5月10日」
「ありがとうございます。次に、あなたが今いらっしゃる日付を年月日でお答え下さい」
「2018年10月25日です」
「はい。それでは最後にあなたの現住所をどうぞ」
「現住所? 地球から?」
「あなたが日本という国に住んでいらっしゃる事は承知しております」
「あ、そうか。日本語で答えてくれてるからね。千葉県市原市五井○○○の○○」
「はい。質問はこれで以上です。よいご旅行をお楽しみ下さい。またお会いしましょう」
「あ、はい。ありがとう」
するといきなり鏡からエアーが噴き出た。男が言っていたチップを装着されたのだ。そして、辺りは真っ暗になった。
え? どうなるの?
戸惑う間もなく僕は気を失った。いや、正確には、外なる体から内なるからだが抜け出たのだ。その証拠に、僕は僕自身を見下ろしている。あの僕はどうなるのだろう。そこへ声がした。あの男ではない。子供のような声が。
【卓也さん、こんばんは。私は時空間変異型移送装置バージョン6です】
【アルファなの?】
【そうお呼びになりたければ、それでも構いません。これからあなたをあなたがご希望される時空間へご案内いたします。どんな世界がご希望ですか?】
僕はその時しまったと思った。なりたい人物を選んでなかったのだ。どうしよう。しばらく沈黙が続いた。僕が結論を出さないから、アルファも僕の返事を待って黙っている。その無言が居たたまれない。考えあぐねている内に、何冊かの本が僕の脳裏に浮かんだ。最近嵌っている作家のものだ。舞台はいずれも江戸後期。寛政の改革で倹約令に抵抗する人々を描いたものだ。寛政の改革を推進するのはときの老中松平定信。流石に庶民が老中を相手取って表立った抵抗は出来ない。それでも、瓦版にだまし絵みたいな工夫を入れて改革を揶揄したり、禁制の裏を掻い潜る悪徳商人の悪事を暴いて、せめてもの留飲を下げている。しかし、小説だからか、主人公の妻がなぶり殺しにあったり、登場人物が厳しい刑罰に処される場面があって、感情移入した僕は悲哀や憤懣すること頻繁だった。こんな悪政を行う奴なんか許せない。子供のように勧善懲悪を願う僕だったのだ。
チャンスが巡ってきたのだ。僕はほくそ笑んだ。老中を木っ端微塵に痛めつけられるのは、誰か。もうその上は将軍しかないだろう。そのときの将軍は……
十一代将軍徳川家斉だ。たぶん。僕は勇んでその名をアルファに告げた。
【はい。承知いたしました。日本の近世、江戸時代の十一代征夷大将軍徳川家斉ですね。では、時期はいつにしますか?】
【ええ? 家斉が将軍になってからがいいかな】
【家斉は1787年和暦の天明7年に将軍職に就いています】
【じゃあ、今は2018年だから81年はダメか。19年の逆で91年。1791年にしよう。その頃はまだ将軍?】
【はい。まだ在位中です】
【よし。それと、季節は春がいいかな。江戸時代の桜を見よう。日にちは任せるよ】
【はい。承知いたしました。それではもう一度確認します。ご希望は、日本の近世、西暦1791年、転移対象は第十一代征夷大将軍徳川家斉。よろしいですね】
【はい。お願いします】
僕は寛政の改革がいつからいつまで続いたのか知らずにオーダーした。まあ、いいでしょう。誰しもヒーロー願望がある。僕にだって。それが叶うのだ。よし。ヒーローになって暴れてやるぞー。男たちからは一目置かれ、女たちからは黄色い声援。ほほっ。悪くないねえ。
【目を閉じて大きく息を吸って下さい】
あれ? 徳川家斉って、ヒーローなのか?
【では転移します】
あ、あ、ちょと、待っ……
体験、十一代将軍徳川家斉
た。
アルファが告げた。
【もう目を開けても大丈夫です】
ああ、来てしまったのか。仕方ない。ヒーローじゃないにしても、それなりに楽しめるでしょう。
僕は恐る恐る薄目を開けた。何やら派手な色彩のものが見えた。体の感覚からすると、僕は寝ているようだ。体に被さっているのは蒲団だろうか。上等な蒲団のようだ。手触りが随分我が家のとは違う。羽毛だろうか。この時代に羽毛蒲団なんてあったのかな。そんな事を思いながら、僕はしっかりと両目を開けた。天井が見える。随分高い天井だ。最初に見えたのは、その天井に描かれた鳳凰の絵だった。あんな鋭い眼差しに見つめられながら眠るのは怖くないのだろうか。
「上様。お目覚めでいらっしゃいますか」
何処からか声がした。最近は姿の見えない声ばかりだ。
「上様」
生真面目そうな声だ。応えない訳には行かないか。僕は起き上がった。
「今、起きました」
すると、それを待ちかねていたように右手の襖がスルスルと開いた。その向こうに平伏した者がいた。僕の起床を確かめるように顔を上げる。まだ若い。きっと小姓という者だ。
「上様。お召し替えでございます」
小姓はそう言って中に入ってきた。その後ろにもう一人従って入ってくる。一人は僕が着替えるであろう着物と、もう一人は盥みたいな物を持っている。どうして盥?
小姓の一人がその盥を僕の前に置いた。中を覗くと水が入っている。あ、顔を洗うのか。僕は両手を水に浸した。すると背後から小姓が僕の着物の袖を引き上げた。え? と振り向いた僕に相手もえ? という顔をした。そうか。袖が濡れないように持ち上げているのだ。何だか腕の動きが制約されてぎこちなくなるけど、仕方ないか。僕はいつものように顔をじゃぶじゃぶ洗った。当然のように水が辺りに飛び散って畳が濡れた。あ、しまった。と思ったときは遅かった。僕の粗相を小姓が黙々と拭いている。
「どうも、すみません」
素直に謝った僕に二人の小姓が一斉に顔を上げて僕をじっと見た。二人が固まっているのがハッキリわかる。僕はあり得ない発言をしたらしい。
「大儀である」
自然とそんな言葉が口から出た。すると二人は僕の前に揃って平伏した。なんだかなあ……
どんな顔をしたらいいか戸惑っている僕はふと盥の水に映る自分の顔を見た。え? 顔が違うのは転移したのだから、わかっている。だけど、こんなに若いとは、むしろ、少年といっていいほどの若さだ。家斉って、こんな若い将軍だったんだ。僕は初めて知った。このトリビアを誰にも自慢出来ないのが凄く残念だ。
残念がる僕を尻目に小姓たちは次の仕事に取り掛かかっている。
「上様。お口ゆすぎを」
「う、うん」
差し出された茶碗を取ってうがいをする。で、この口にふくんだ水はどうする? まさか飲み込めとは……。そこへ黒塗りの壺が差し出された。鍋料理の横に置かれた灰汁捨ての壺に似ている。それよりは大きいが。そこへ吐き出すには抵抗があったが、仕方ない。僕は壺に吐き出した。どうも気持ちのいいものではない。
それから着替え。僕が脱ごうとすると、それより早く小姓が脱がし始めた。僕は両手を広げて足も広げて大の字になる。ふと下半身を覗くと白い物を身に着けている。ああ。褌か。僕は苦笑いした。カルチャーショックのオンパレードだ。
いきなり裃を着せられた。まだ朝食も済んでいないというのに、すぐに公務なのだろうか。不審顔でじっとしている僕に小姓が告げた。
「奥へ」
僕は後ろを振り向いた。部屋の奥に何があるの? しかし、小姓は僕を無視して部屋の外へ歩いていく。襖を開け、着座して低頭する。外に出ろということか。ひょっとして別部屋に食堂みたいなのがあって、皆と一緒に食事をするのかな。細かい作法でもあるのだろう。なんだか気が重い。
廊下をくねくね曲がって行くと戸が閉まって行き止まりになっていた。小姓はその戸の脇にぶら下がっている太い紐を引き下げる。すると中で鈴の鳴る音がした。それが合図で戸が横に引かれ、その向こうにまた廊下が見えた。廊下の両側に女たちが控えている。あ、こんな場面をテレビで見たことがある。これはひょっとして大奥? え? まさか朝から……。僕の想像力が勝手に淫らなことを展開させていく。ここは将軍、つまりは僕だけのハーレムだ。やりたい放題? 僕の薄っぺらな倫理観が何処かへ飛んで行く。
「上様。本日もご機嫌うるわしゅう存知ます」
一番手前で控える女がそう言って顔を上げた。ちょっときつい眼差しだが、なかなかの美人。いくつだろう。若そうにも見えるが、案外アラフォーかも。でも、全然OKです。ここで指名するの?
「そなた名はなんという」
「はい? 上様。お戯れを」
女は上品に片手で口元を隠して笑った。軽くいなされたみたい。どうも勝手がわからない。
「上様。お進み下されませ。皆々様がお待ちでございます」
皆が待っている? やはり一緒に食事を摂るのか。僕は女たちに先導されて奥へ進んだ。そして、案内されて入った部屋には誰も居ず、大きな仏壇があった。仏間らしい。歴代将軍家のものだろう位牌がズラリとならんでいる。朝食はまだお預けなんだ。そこで僕は一人にされた。転移して初めて一人きりだ。どうすりゃいいの? 拝めばいいのだろうが、果たして何て拝む?
【アルファ。どうすればいい?】
【そのまま自然体で目を閉じて待ちましょう】
【それでいいの?】
【はい】
仕方なく正座して手を合わせ黙祷していると、不思議と口から法華経が出た。外なる体の家斉君が憶えているのだろう。
先祖への挨拶が終わると、来た廊下を通ってまた元居た部屋に戻った。後で知った事だが、この寝室は御休息之間といって中奥の一部屋だ。中奥とは将軍の私的な空間で、それに対し大奥と表と呼ばれる白書院と黒書院などがある。表はいわゆる公務の場所だ。例の鈴が鳴った廊下は大奥へ繋がる有名な御鈴廊下だった。
部屋に戻ってもまだ朝食とはいかなかった。いい加減お腹が空いている。裃を脱がされている間にさらに小姓が入ってきた。今度は三人だ。その内の一人が脇から小箱を持ち上げた。葵の紋がその上蓋についている。おお。葵の紋だ。僕はひとり感動した。小姓がその上蓋を開け中から取り出した物は大振りの剃刀。ん? 警戒する僕。小姓は僕の背後に回った。な、何をする! その直後、僕の頭に冷たい感触が伝わった。そして、痛みも!
「い、痛い」
僕は思わず手を頭にやった。そこに髪の毛の存在はなかった。あ、丁髷? 月代というのだ。髭のように一晩で生えた髪の毛を剃っているのか。
「上様危のうございます。少々のご辛抱を」
小姓は僕の手を除けて謝ることなく作業を続ける。これは謝罪の対象ではないらしい。武士だからこれくらいの痛みは我慢しなければいけないのか。困った習慣だ。頭が終わると別の小姓が僕の前に座った。やけに近い。目と目が合う。恥ずかしいので僕は目を閉じた。すると今度は顔に冷たい感触。顔剃りが始まった。これもジリジリと嫌な音とチクチクと痛みがある。シェービングクリームとは言わないけど、石鹸くらいはないの? 僕は小さな悲鳴をグッと堪えた。これが毎朝続くと思うと、ちょっと気が滅入る。違う時代にすればよかった。でも、現代に近くなければ電動カミソリなんかないか。せめて月代の習慣がない時代を次はリクエストしよう。さて、それはいつだ?
そんな事を考えている内に顔剃りは終わった。
次はなんだ? 三人目の小姓が僕の頭に何かし始めた。すると襖が開いて、ゾロゾロと数名の坊主が入って来た。なんだ? なにがある? その坊主たちの内二人が僕の左右に座って僕の手を取った。どうやら脈を診ているらしい。医者なんだ。御典医というやつだ。テレビの聞きかじりもまんざら捨てたもんじゃない。頭の辺りでは丁髷がいじられているみたいだし、なんでこういっぺんに作業が重なってるんだ。ちょっと不快。
医者の診察は触診が中心だった。中には着物の袖口から手を突っ込んで僕のお腹を触ってくるのもあって、何だかドキッとする。内科は本道といって、他に外科、目医者、歯医者、鍼医者。こんなに大勢で毎日寄ってたかって診なくてもよくない? 江戸幕府の最高責任者だから仕方ないのか。なんだか思わぬ展開ばかりだ。ここまででドッと疲れが出る。とても今日一日を乗り切れそうにない。
やっと朝食だ。膳が運ばれてきた。将軍だからさぞかし豪勢な……というものではないらしい。器は流石に高級そうだが、食材は貧弱に見える。厳選された材料を使っているのだろうけど。一汁二菜だそうで、目の前には、ご飯と味噌汁にメインディッシュは焼き魚、それに煮物と漬物。我が家の朝ごはんと変わらない。強いて言うなら、我が家にはサラダが付いた。しかもサニーレタスとミニトマトたっぷりのサラダだ。ああ。妻のサラダが食べたい。クルトンがいっぱいのったシーザーサラダが食べたい! 僕はだんだん腹が立ってきた。空腹も手伝っている。だけど、周りに居る小姓たちに八つ当たりしても始まらない。彼らの責任ではないのだ。悪いのはアイツだ。僕をこんな環境に誘い込んだあの男だ。だが、名前を知らない……途端に僕の怒りは萎んでしまった。どうしようもないとわかっているから。いっそアルファに声かけて元の僕へ転移してしまおうかとも思ったが、あまりに早過ぎる。あいつが言う楽しみを僕はまだ何一つ味わってはいない。ここは我慢だ。なに、別に責められたり、酷い目に合っているわけではないのだ。ちょっとは痛かったけど、期待はずれのスタートだというに過ぎない。将軍としての本領はこれからだ。それにまだ松平定信に会っていない。そう。僕はこの男を懲らしめるためにこの時代を選んだのだ。僕は箸を取って、貪るように食事を始めた。
「あ、上様。魚を裏返してはなりませぬ」
「え? なんで?」
答えることもなく小姓は僕の前から焼き魚を引き上げてしまった。まだ半分残っていたのに。
「失礼いたします」
溜息をする僕の後ろでまた何やら始まった。食事中なのに失礼な奴だ。振り向くと男は目礼して応えただけだった。他の小姓も何も言わない。これも日課なのか。僕はもうどうでもよくなってされるがままに任せた。男はまた僕の丁髷の手入れをしているらしい。他人に頭をいじられながら食事をした事など一度もないので、途中から気をそがれた気分で朝食は終わった。
それからまた大奥に出向いて今度は神棚に拝礼。そして、中奥に戻る。無駄な行動に思えてならない。一箇所とまでは言わないまでも、もっと近くに設置すれば行ったり来たりなどせずとも済むものを。仏間にせよ神棚にせよ、大奥にあるのが味噌だ。精神的な拠り所は「奥向き」にしたのだろう。これは厄介だ。僕の手に負えそうにない。早々に諦めた。
次は何をするのか。決まっている筈なのに、小姓たちは部屋の隅に端座しているだけで一向に埒が明かない。かといって、退屈に任せて寝転ぶわけにもいかない。それで余計疲れる。僕は咳払いをしてみた。小姓の一人が僕に振り向いた。
「次は……なんだった?」
「総触のご準備まで今しばらくお待ち下さい」
小姓は僕に向いてそう告げると平伏して、また元のように座りなおした。
「総触?」
【アルファ。総触ってなんだ?】
【じっと記憶の奥を覗いて御覧なさい。見えてきますよ】
僕の、いや、家斉君の記憶から、可愛らしい姫様や美しい女たちが歩いて来る姿が浮かび上がった。大奥で女たちと対面することらしい。また大奥に行くんだ。いっそ大奥に住んでしまえばいいのに。僕のやるせなさが欠伸となって虚しく消えていった。
長い退屈の後、また裃を着てようやく大奥へ向かう。これまでは仏間か神棚だったが、初めてまともな座敷へと通された。そこで座っていると、やがて衣擦れの音が聞こえて来た。いよいよ御台所の登場だ。僕は知らないが、家斉君の脳がそれを認識した。御台所。つまり、奥さん? え? 家斉君って、この歳でもう結婚してたの?
なんとも華やかな女たちが次々に入ってくる。年齢差は多少ありそうだが、どれも甲乙つけ難い。その中から僕の隣に座る女性がいた。これが奥さん、御台所か。なんだかまだあどけない。ちょっとしたアイドルだな。僕は知らず知らず見惚れてしまった。
「上様……上様」
「え? あ、はい」
声が裏返った。それが女たちにはうけたみたいだ。遠慮して流石に爆笑はないが、笑いをグッと堪えているのがわかる。
御年寄と呼ばれる女性の目配せで、御台所が僕に指を突いて挨拶した。
「上様には本日もご機嫌うるわしゅう……」
最後は声が小さくて聞き取れなかった。それがまた可愛らしい。それにいい匂いが僕を包み込む。妻がつける香水とは違う。柔らかで優しい香りだ。なんだろう。すぐそれに気付いた。お香だ。白檀とかいろいろな種類があるのだろうけど、僕はそれを知らない。でも、欧米から入ったものとは違って、やはり日本人には心和む香りだ。僕は即効で彼女に惚れてしまった。奥さんなのだからそれは当然、いや、きっと政略結婚だからお互いの感情など関係なかった筈だ。本当の家斉君はどうだったのだろうか。こんなに素敵な女性だから、彼だって好きになったに違いない。なんだか最愛の人を横取りすることになり、僕は家斉君に申し訳なく思った。
でも、体は家斉君なのだから、それは深く考えないことにしよう。僕の専売特許であるご都合主義で自分を納得させる。
次に妻の顔が浮かんだ。これは夢みたいなものだから。現実ではないのだから。潜在意識は浮気じゃないよね。誰だってそうさ。それに体は僕じゃないし。盛んに妻に言い訳する僕。ふと気になって周りを見回した。妻の姿はない。ホッと胸を撫で下ろす。
朝は挨拶だけなんだそうです。そりゃそうだよね。いかに大奥でも朝から乱痴気騒ぎはないでしょう。綺麗処のご挨拶を受け、僕は上機嫌で中奥に戻った。今から夜が待ち遠しい。
ニヤニヤしながら着替えていると、急にもよおした。気の弛みはお腹の弛み。
「トイ、いや、便所は?」
「え? 厠でございますか」
「そ、それ」
「はい。ただいま」
小姓は平伏すると立ち上がって右手の襖を開けた。僕はダッシュしたい気持ちを押さえ、お尻の筋肉は緊張させて、早歩きで向かった。下手に下っ腹に力が入ると出てしまうかもしれない、力加減が難しい。トイレがすぐ近くでよかった。小姓が手早く着物の裾をからげ褌を脱がせた。そこまでしなくてとも思ったが、褌の脱ぎ方を知らない僕にとってこの場は有難かった。しかし、次回は是非とも辞退しよう。
所謂うんこ座りというものを何年振りにしたことだろう。情けないもので、間に合った安堵と思いっきり放出した虚脱感でちょっと腰抜け状態になったらしく、立ち上がれなくなった。ヘラヘラ笑っていたら、僕の異変に気付いた小姓に抱きかかえられて何とかトイレから出た。和式の奥ゆかしさを痛感する。
心身共にスッキリしたときは妙に体を動かしたくなる。その思いが通じたかどうかは知らないが、次なる授業―もう僕には授業のようなものだ―は剣術ということだった。え? 剣道だよね。中学で少しやって以来か。あの臭い胴着を着るのだろうか。そうか。将軍だから、流石に専用着があるな。
大奥へ通じる御鈴廊下を右に見ながら先へ行くと庭に出る。小姓の先導で歩いて行くと大勢が片膝ついて僕を迎えた。いやあ、将軍って気分いいね。僕はいちいち頷きながら彼らの敬意に応えた。一番奥に偉そうな侍が控えている。これが教授方だな。将軍家の剣術指南役といったら柳生だよね。お? ……柳生! 柳生十兵衛! 柳生但馬守!
「上様。本日もご機嫌うるわしゅう存じます」
「はい、いや、うむ……柳生……」
「はっ。俊則にございます」
「そうか。そうであったな」
こんなに偉そうな応対で大丈夫だろうか。無茶苦茶打ち込まれたらいやだなあ。
傍らにいた弟子が僕に木刀を差し出した。あ、あれ? 竹刀じゃないの? それに、胴着は? 面や小手は?
「あ、あのう……」
「さ、上様。まずは体を慣らす程にお手合い下され」
「その……防具はないのか」
僕は将軍としての威厳を崩さないよう敢て堂々と訊ねた。すると、それがやはり功を奏した。
「ぼうぐ? でございますか」
柳生俊則にはチンプンカンプンなようだ。まだこの頃には千葉周作の北辰一刀流はないのだろうか。ならば好都合。僕が防具の考案者になってしまおう。はは。
「私の考えを述べるので、よく聞くがよい。そして、次の稽古までに試着品を作ってまいるのじゃ」
「はは。畏まってございます。して、そのお考えとは」
皆が僕の前に平伏する。痛快だね。
「まずこの木刀はいかん。手加減なく打ち込めば体は大怪我となる。また手心を加えれば鍛錬にはならん」
「御意」
「故に打ち据えても深手とならぬよう竹を割って後、その割った竹を併せ一本の木刀とせよ。名付けて竹刀じゃ」
「しない……竹を割って併せるのでござるか」
「然様。そうすれば打ち据えても木刀程に体への負担はない」
「それは妙案にございます」
「それから体を保護する防具も考えた」
「それが“ぼうぐ”にございまするか」
「頭に被る面、両手に付ける小手。そして、胸から腹を覆う胴じゃ。鎧兜と思えばいい。だが、鉄では重いから、木綿を厚く縫い合わせて、竹刀の打ち込みから体を守るように工夫せよ」
「これはいかにも上様らしいご発想。感服仕りました。早速に手配致しましょう。さて、本日はいかがなされまするか」
「出来上がるまでは致し方ない。これまでのように稽古いたす」
「承知仕ってございます」
僕は木刀を片手に持って前へ進み出た。そこへ一人の若者が会釈して相対した。僕の相手をするらしい。なんだか強そうだ。僕は将軍だからね。わかってるよね。
これまで防具の説明に夢中で気付かなかったが、持つ木刀が自然と手に馴染んでいるような気がした。僕自身は中学以来剣道なんて、しかも木刀は持ったこともない。しかし、外なる体の家斉君には日頃からの鍛錬が身に付いているのだろうか。そういえば引き締まった体のようだ。殿様のイメージじゃない。ま、まだ若いということもあるか。
相手は勢い良く打ち込んできた。ちょっと、僕は将軍だよ。そう頭は慌てているが、体は余裕でその打ち込みをかわした。一瞬の出来事なのに、僕にはスローモーションのように相手の太刀筋が見えた。凄い家斉! 直後、きっと家斉君の体が勝手に反応したであろう打ち込みが相手の頭上に決まっていた。無論、寸止め。
「お見事!」
俊則の一声に相手は平伏し、皆からは拍手が沸き上がった。なんだか照れる。
「益々のご上達。目録も間近かと存知申し上げます」
「目録?」
「御意」
「そう」
なんのことかわからないが、褒め言葉だと解釈した。しかし、家斉君って剣術の達人だったんだ。なあんだ。それなら防具なんか要らなかったか。千葉周作に悪い事しちゃったな。
ひと汗掻いた後の食事は旨い。但し、正確に言うなら、白米は除くだ。どんな炊き方をしているのか、きっと釜炊きの筈なのに、美味しくない。鯛の塩焼きなど他の食材が旨くてボリュームもあるから、それと併せて食べればさして気にはならないが。機会があればどんな作り方をしているのか見てやろう。将軍の食事は毒見があるから、冷え切ったものかと思っていたけど、そうでもないじゃん。僕らの常識ってなんなんだ。それにしても、奥さんはどうしたのだろう。折角大奥まで来ているのに。一人きりの食事は寂しいものだ。実際には給仕の女中たちがいるのだけど、黙ったままで愛想もないし、ファミレスのウェイトレスとは違うんだよね。朝の小姓たちよりはまだましだけど。ちょっと聞いてみるか。少しずつこの世界に慣れてきたのか、僕は躊躇することがなくなっている。先ほどの剣術で気が大きくなったか。
「奥……は?」
奥さんをどう呼ぶのかわからなかったので、途中を曖昧にした。
「御台様にございまするか?」
「そ、そうだ」
御台所と呼ぶんだった。
「ただ今はお食事中にございます」
「え?」
僕の驚きに相手の女中も驚いた顔をする。当然な事に何故驚くのかという表情だ。
朝も昼も一緒に食べないんだ。何ていう夫婦だろう。本当に形だけなのか? だとしたら、夜もそうなの? う~ん……期待が大きかっただけに、無念だ。
そこそこお腹はふくれて中奥に戻る。なんでこう行ったり来たりなんだろうね。奥さんと一緒の食事じゃなきゃ大奥に行く意味ないのに。よくわからん。盛んに首を傾げていると、また小姓が僕を誘うように頭を下げた。ちなみに、僕の世話係は全部小姓だと思っていたら、小納戸という役割の者もいるらしい。小姓は僕を起こして、小納戸は洗顔用の盥を持って来て、小姓は顔を剃ってくれて、小納戸は丁髷の手入れ、小納戸はお膳を運んで、小姓が給仕をする。だったか? はっきり言って、どっちがどっちなのかわからない。だから、僕の中では全部小姓と思うことにした。面と向かって小姓と呼ぶこともないしね。必要があれば、本人の名前を呼べばいいのだ。その小姓が僕を案内して先導する。これまでとは逆方向だ。
部屋に入ると3人が平伏して待っていた。
「上様には本日もご機嫌うるわしゅう存じます」
「次はなんだ?」
「お戯れを。ご政務でございます。ご決裁頂きたく存じます」
「仕事?」
「然様でございます」
将軍も仕事するんだ。改めて認識する。ところでこの男。名前は加納久周といって、御側御用取次という役職に就いている。側用人といえば、5代将軍綱吉時代の柳沢吉保が有名だけど、あまりにその側用人に権力が集中してしまった反省から、中間的役割として御側御用取次というメッセンジャーを作ったらしい。以上は後でアルファから教えてもらった豆知識でした。
仕事というので、書類に決裁のサインでもするのかと思いきや、いきなり一人が案件を読み上げて、それに対する僕の判断を仰ぐ形式の作業だった。この時代のことをよく知らない僕には全く想像外の案件ばかりで困り果てる。そもそも家斉君はまだ若いのだから、判断のつく筈がない。これもアルファ情報だけど、このとき家斉君は19才。年齢は数えでいうらしいので、実質は若干18才だ。いくら生意気な高校生でも政治や経済、まして裁判官まがいの技量なんかある訳がない。そこはちゃんと取り巻きが補佐していて、ここに上がって来ている案件は大方老中やその下の幹部連中が既に吟味済みで、僕の形式だけの承認が欲しいという作業だった。だから、呉服商に押し入った強盗を死罪に処すとか、旗本の家督を子供の誰それに譲るがいいかとか、京都町奉行を誰それに任命したいのでその承認などなど。そのすべてに意見書が付いていて、僕はそれをただ聞かされているだけだ。それでも、いいとか悪いとか答えなければいけないと思うから、う~んと唸っていると、書き留める係の者がじっと僕を見つめ続ける訳で、なかなか沈鬱な時間だ。言葉も決まっていて、承認は「伺いの通りたるべく候」、差戻しは「伺いの趣なおとくと考えてみよ」となる。最初は承認の積りで「うん」と首を縦に動かしていたが、その都度「伺いの通りたるべく候」と加納が書記係に伝えているから、その内僕もそう言ったら、加納が苦笑して首を横に振った。僕が言う台詞ではないらしい。また、あまり承認ばかりだと面白くないし、実際に差し戻す場合のやり取りも知っておこうと思って、人事の案件で首を横に振ってみた。すると、加納をはじめ皆が怪訝な顔をした。
「差戻し、ということにございまするか」
「そうだ。その場合はどう言うのだ」
「はい。その場合は、伺いの趣なおとくと考えてみよ、とお答え頂ければよろしいかと存じます」
「わかった。その件、伺いの趣なおとくと考えてみよ」
「はは。畏まりましてございます。して、その思し召しの訳は。ご老中や願い出た者に理由を申し伝えねばなりませぬゆえ」
僕は正直に言った。
「その者をよく知らんからだ」
「御意。先ほどの意見書では内容が不行き届きということにございまするな。承知仕ってございます」
加納はあっさりと引き下がった。
しかし、後日また同じ案件が出てきたので、結局は譲れないことだったのだろう。
この政務が延々と続いた。時計がないので時間がわからない。部屋に窓はないし、襖も閉められているから、外の様子もわからない。夕暮れなのか、もう夜なのか。或いは、僕が思うほど時間の経過はないのかもしれない。これなら時計を持って来ればよかった。僕の時計はソーラータイプだから、この時代でも動く。だけどそうか、電波受信だから、現時間を認識出来ずにグルグル回るだけかも。それに、僕の体は元の世界に残したままだから、持って来ようにも出来ないか。文明の利器にどっぷりつかった現代人の不便さを痛感する。
どんよりと疲れる。ハードな肉体労働をこなしたわけでもない。多少の行ったり来たりはあったが、ほとんどはただ座って行事を行っただけだ。精神的な疲労がこれ程体にダメージを与えたのは初めてだ。いや、実際には体は家斉君なのだから、内なる僕の疲労が家斉君自身に感染したというべきか。きっとこの体の奥深くに追いやられた家斉君の魂も預かり知らぬ疲れに襲われていることだろう。ごめんね、家斉君。
剣術で持ち上がったモチベーションも今は見る影もない。出来ればこのまま寝てしまいたい。せめてごろ寝はダメか? 先ほどの役人たちも今はいない。居るのはこの広い座敷に小姓が4人間隔を開けて襖を背に向き合って座っているだけだ。彼らは疲れないのだろうか。僕以上に緊張感に包まれている筈だよね。僕は身近にいた小姓に声をかけた。
「君……そなた、名はなんという」
「はっ」
聞かれた小姓は僕に向き直って平伏した。そんなこといいのに。
「もったいなきお言葉。恐悦至極に存じます。武部彦馬と申します」
「年は」
「はっ。当年取って二十八にあいなりましてございます」
28か。僕よりは年下だけど、家斉君よりはずっと上だな。彼から見た僕は家斉君だから、当然年下に仕えているわけだよね。どんな心境なんだろう。ここは現代人の感覚で考えてはいけないね。時代が違うのだから。それに今の僕は将軍なんだし、彼らからしたら主君。彼らが卑屈にならないためにも、僕は将軍としての威厳を示さないといけないか。ごろ寝は我慢しよう。
武部と名乗った小姓は僕からの指示がまだあると思ってか、じっとこちらを見つめている。純粋な眼差しだなあ。僕にもあんなときがあっただろうか。ここは何か言わなくてはと思案する僕。
「……この後何があった?」
なんともつまらない質問になってしまった。
「はっ。本日はご政務が早く終わりましたので、ご随意にお過ごし召されて、六つ刻になりましたらご入浴かと存じます」
あれで政務は短かったんだ。驚き。もっと案件が多かったらどうなるの? それにしてもご随意にとは。そう言われてもねえ。何をしたらいいんだ? 聞きついでだ。彼に聞いてみるかな。
「それまでどうする?」
「ご入浴前に一汗掻かれますのもよろしいかと。先だってはご乗馬召されていたくお気に入りであったとお話しされておいででございました」
乗馬? 馬か。乗ったことないなあ。やってみる?
「わかった。乗馬しよう」
「はっ。畏まりましてございます。早速御馬別当へ申し伝えますほどに、暫時お待ち頂きますよう」
そう言うと武部は部屋を出て行った。それから脇息にもたれてうとうとしていると、誰かが声をかけている。寝ぼけまなこで見れば、平伏の姿勢で顔だけ向けている者がいる。それが先ほどの武部だとわかるまでに間があった。
「上様。ご準備が整いましてございます」
「うん?」
あ、そうか。馬に乗るんだ。すぐには立ち上がれず、よろけた僕を助けようとする武部。
「悪いね」
思わず片手で礼を言った僕に唖然とする武部。それには気づかぬ振りで僕は歩き始めた。
午前に剣術をした辺りに馬が3頭引かれてあった。やはり将軍一人では乗せないのだね。馬はサラブレッドよりは一回り小さいようだ。派手な鞍を背負っている。さて、どうやって乗るんだ? すると、何処からか踏み台を持ち出して来て、馬の脇に置いた。なるほどね。それを足場に鐙へ足を掛けた。誰かが僕のお尻を持ち上げ、そのお陰で何とか馬の背に跨った。振り返れば、一人が脇で地面に平伏している。
「ありがとう」
僕は素直に感謝した。
「はは。忝きお言葉」
そう言って、男は地面に額を擦り付けている。将軍て、不思議な存在だ。
もう2頭にも男たちが乗った。その一人が武部だった。僕がほほ笑むと、彼も爽やかな笑顔で会釈した。こう見るとなかなかのイケメンだ。
城外へ出るのかと思いきや、流石に江戸城。城内に馬場があって、その中を駆け回った。最初は、僕の馬を引いてくれる係がいて引馬だと思っていたら、違った。ちょっと怖かったけど、家斉君の体は乗りこなせるようで、僕はその手綱さばきに、まさに乗っかっているだけでよかった。そうなると恐怖心など何処へやら。春の心地いい風を受けながら、僕は初めての乗馬を楽しんだ。お陰で先ほどまでの疲労感も吹っ飛んだという次第。
いい汗掻いた後のお風呂は気持ちいい。という訳ではまたない。どうも勝手が違う。いや違いすぎる。まず、床こそは板の間だが、そもそも中奥のど真ん中に浴場がある。もうもうと湯気が立っていない。座敷なのだから、湯気なんか立ち込めた暁にはそこらじゅうがカビだらけになるのはわかる。わかるが、では何故座敷に風呂があるの? 別棟に作ったら? と思う。確か庶民には湯屋があったよね。それも混浴。混浴を望むわけではないけど、座敷に浴場は無理じゃない? 警護のためなのか、構造上の問題なのか。それに、広い座敷に浴槽と呼べる風呂桶が真ん中にぽつんと一つ。時代劇に出てくる棺桶みたい。そして、座敷にあるから、五右衛門風呂みたいに下から焚き上げることもできず、お湯を桶に入れる式なのだ。これだとぬる湯にならないだろうか。しかし、その心配は無用だった。でも、そうなると熱い湯を沸かしてここまで運んで桶に満たす。その作業はさぞかし大変なことだろう。そんなことをぶつぶつ考えながら僕は湯に浸かっている。
将軍を一人きりにしない。それは今朝からのすべてでわかっている。着替えや顔剃りもやってくれる。いい表現を使えば、至れり尽くせり。でも、体を洗うのは自分でやらせてもらえないだろうか。背中はいいよ。垢すりなんて職業があったのは知ってるし、今でも温泉場なんかじゃそういう人がいる。でもでも、前はどうなの? 前は自分で洗いたいよねえ。下半身に限らず。男とはいえ、僕の前に立って僕の体をぬか袋を使って洗うっていうのは、どう? ソープランドじゃあるまいし。しかも相手は男だ。どうも妙な気分。額に汗を滲ませて懸命にやってくれるのは申し訳ないけど。どうしてこうなるのかなあ。将軍になる人間は生まれながらの殿様だから、小さい頃から慣れているのだろうか。そうか。子供の気分でいればいいのかって、なれるわけないじゃん。
“すべて”を洗い終わって、現代なら脱衣所でバスタオルを使って体の水分を拭き取るところだが、案内されたのはお上り場。そこで浴衣をいきなり着せられた。え? 体拭かないの? と驚いたのも束の間、その着せられた浴衣はすぐに脱がされて、また新しい浴衣を着せてくる。え? え? と思っている内に、その作業が7~8回あっただろうか。そうこうする内に着物が本当に着せられた。浴衣はバスタオルの代わりだったんだ。バスタオルとは言わないけど、手ぬぐいか何かで拭いたらいいんじゃないかと思うのは僕だけでしょうか。しかも、脇の下とか大事な部分の浴衣の生地に触れない箇所はまだ湿っているのに。ひょっとしたら、将軍とは人形なのかもしれない。徳川幕府のお飾り。壊れないように、傷つかないように、皆が大切に扱っている。だけど、飾るだけだから、本人の意向は関係ないし、そもそも確かめるシステムもないのだ。なんだか無性に悲しくなる。しかし、これではいけない。僕が変えてやろう。そして……どうすりゃいいんだ?
風呂の後は夕食だ。朝より昼、昼より夕食と内容は豪華になる。これはいつの世も一緒だね。これだけ食べれば太るだろうと思えるけど、朝食の焼き魚みたいに全部平らげることはさせないのだろう。贅沢で無駄なことだ。現代人の飽食はこの殿様膳から引き継いだのかな。などと僕の思考は忙しい。湯上りにビールといきたいところだけど、それは無理な話で、この時代は日本酒しかないか。見たところそれっぽいものはなさそうだ。今日は諦めるか。そこへ、お坊さんが入ってきた。男かと思ったら、どうも女性のようだ。尼さん? どういうことだ?
「上様。今宵はいかがなされましょうや」
?
何を言っているのか。武部に目をやっても知らん顔だ。冷たい奴。
「上様。今宵は」
「何を聞いているのだ?」
仕方ないからそう返すと、尼さんは目をパチクリさせている。そこへ武部がやおら向き直り、
「上様。今宵のお相手についてお伺いしております」
と言うではないか。
お相手? 今宵の? え? え?
さぞかしこのときの僕は鼻の下が伸びた情けない顔だっただろう。
しかし、今夜の相手というなら奥さんしか、御台しかいないのではないの? それとも他に、つまり、愛人、じゃないや、側室がもういるの? この若さで?
後でアルファに確認したら、既にこの時、家斉君には数人の側室がいたらしい。なんと羨ましい。いや、もとい、節操のない。
僕は即座に、
「御台」
と答えた。他の側室については名前を知らない。後でそっと武部にでも聞いてみよう。あくまでも参考ですから。
「承知致しました。御台様にはお渡りである旨言上致します」
やったね。僕は胸の内で指を鳴らした。
夜の相手をすることをお床入りというらしい。なんと奥ゆかしい。さて、奥さんと何を話せばいいのだ? なんたって接点ゼロだからね。今朝僅かに挨拶しただけだもの。確かに家斉君自身とはもう少し長い付き合いだろうけど。武部にそれとなく聞いたら、一昨年に結婚したばかりだって。まだ新婚気分じゃないの。向こうは何度か夜を一緒に過ごしているだろうが、僕は、僕自身は初めてだからなあ。初対面でいきなりだからなあ。ソープランドならそうだけど、あれは客商売だから、相手が気を使って話題を振ってくるからね。今夜はそうはいかないよなあ。なんてったって、お姫様だからね。お! お姫様かあ。お姫様なんだ。うはうは。
「上様。上様」
「え? なに?」
「上様の番にございます」
大奥へ行くまでの間に一刻、つまり2時間程あるというので、僕は武部相手に当扇興という遊びをしていた。扇を的に目掛けて投げる遊びだ。京都の舞妓さんを紹介したテレビで見たことがある。でも、今の僕は気もそぞろ。すっかり上の空だ。
「なあ、武部」
僕らはすっかり打ち解けていた。流石に武部は僕に気遣ってはいる。
「はっ」
返事をする度にいちいち平伏するので、そこがやり難い点ではあるが。止めさせようと強行すれば、たちまち切腹してしまいそうなので、そのままにしている。
「そなたには妻はいるのか?」
「いえ。まだ嫁はもらってはおりませぬ」
「そうか。そなたは女子にはもてそうだから、まだ独身を謳歌しているのだな」
「滅相もないことでございます。私などどの女子も相手になどしてはくれません」
「またあ。隠さなくてもよい」
「誠にございます」
「そう?」
武部と会話しながらも、腰は落ち着かない感じだ。
そして、待ちに待った大奥入り。今日何度目の大奥だろう。それもこのときのためにあったと思えば、いい顔つなぎだったか。行灯で照らされた廊下を歩いて行く。淡い灯りがロマンチックだ。現代人の僕らは明る過ぎる夜に暮らしているのかもしれない。本来夜は闇に包まれるもの。それを改めて気付かさせてくれる。
座敷に通されると、そこに奥さんともう2人の女性が待っていた。二人きりにはさせてくれないんだね。先走った想像を掻き立てていただけに、いっきに萎む。ここで四方山話をするみたいだ。みたいだというのは、そんな雰囲気がこの場にあるからだ。御茶にお菓子も用意されている。あ、あのう。夜のお相手って、まさかこれ? 僕、帰らせて頂いてよろしいでしょうか。ちょっとムッとしていると、御年寄りと呼ばれる女性が僕の不機嫌を目敏く察したらしく微笑んできた。といってお互いに会話のネタがあるわけではない。向こうもどう切り出すか懸命に探っているようだ。僕は機嫌悪く知らん顔を決め込んだ。奥さんはずっと俯き加減。困っているのはお付きの女性ばかりか。
「上様。本日は何をあそばされてお過ごしでしたでしょうか」
それを聞いてくるのか。ならお望み通り一から語ってさしあげようじゃないの。僕の頭を意地悪菌が占拠している。
「今朝起きて顔を洗い……」
から始めて、僕は淡々と且つ事細かに今日の出来事を語った。2人の女性は苦笑しながら僕の話を聞いている。きっと呆れているのだろう。俯いていた奥さんも途中から顔を上げて僕を見ている。「どういう人なの? このひと」という顔に見える。時々でもジョークなり入れればいいものを、僕も我ながら頑固で、ついに最後まで抑揚のないトーンで語り尽くしてしまった。
「はい。それはまたご多忙でいらっしゃいました」
僕の話が終わったと知るや、御年寄りの女性がにこやかに感想を述べた。まるで小学校の授業参観みたいだ。子供扱いなんだよね。実際、家斉君はまだ未成年ではあるが。
「それでは、ご準備を」
御年寄りが頭を下げると奥の襖が両方に開いた。見ると、そこには蒲団が2セット!
奥さんは2人の女性と部屋を出ていった。まさか、この2人分の蒲団を使って僕1人が寝るわけじゃないよね。先ほど奥さんをご指名もしているのだし。いやが上にも高まる期待。紆余曲折あったけど、収まるところに収まるんだ。しばらくすると、あの尼さんが入ってきた。
「上様、こちらへ」
尼さんは僕を蒲団の敷いてある方へと誘う。まさかこの尼さんが相手じゃないよね。僕の懸念を他所に尼さんは控えて待機する姿勢だ。それからまたしばらく、3人の女性が白い着物姿で入って来た。その内の1人が奥さんだ。え? え? さ、3人を相手にするの? と思ったら、僕の横に座ったのはやはり奥さんだった。襖が静かに閉められる。やっと2人きりだ。実際には先ほどのお付き女性が襖の向こうに控えているのだろうが。
無言だが奥さんが僕に微笑んだ。華やかな装いとは違って、白無垢に包まれた彼女は純真な女性そのものだ。僕はそっと彼女の手を握った。それに彼女は驚いたが、すぐにまた微笑んだ。可愛い。僕は彼女を抱き寄せた。着物を通して彼女の温もりを感じる。僕は口づけした。まるで人形のように彼女は僕の腕の中で身を預けている。僕は自分の口で彼女の口を開いた。彼女の驚き振りがその全身から伝わる。初めての所作だったようだ。夫婦とはいえ、まだ幼い二人なのだ。
凄いです、家斉君。僕の経験と家斉君の体力を以ってすれば5人の女性が立ち向かってきても恐るるに足らず。一晩で3回とは快挙です。どうも、僕の見よう見まねのテクニックが家斉君の怒涛のような精力と相俟って、奥さんを開眼させてしまったみたいだ。初めこそは必死に声を殺していたが、その内堪えきれずに発したが最後、堰を切った勢いはもはや留まるところを知らず、何度目かの昇天では雄叫びのように声を響かせた。しかも、部屋の外で控えている女性たちからも呻きが聞こえ、彼女たちをも昇天させてしまうとは、恐るべしかな家斉君。
朝の目覚めは爽快だ。横では奥さんが爆睡中。腰が抜けるほど抱き締めたから無理もない。さて、転移2日目、今日はどんな日になるのか。
朝は、大奥の中だけに、あの尼さんが起こしに来た。それから中奥に戻って頭剃りと顔剃り。裃に着替えてご先祖様へのご挨拶と同じ日課が続いた。朝の総触では奥さんがちょっと恥ずかしげに僕に挨拶をした。夕べの今朝だけに恥ずかしかったのは仕方ない。そのはにかみ方がまた可愛いいから許してしまう。
昨日はここで剣術の時間だったが、今日は違った。老中たちが待っているという。老中と聞いて僕の目が光った。いよいよ宿敵松平定信とのご対面だ。どんな厭味な顔をした奴だろう。きっと悪役の典型のような男に違いない。僕は勇んで小姓の後を歩いた。
部屋に入ると3人が待っていた。
「上様におかれましては本日もご機嫌うるわしゅう恐悦至極に存知ます」
3人が同時に顔を上げた。若いのと壮年とじいさんだ。じいさんはどうかと思うから、やはり定信はこの壮年か。いかにも融通の効かなさそうな面構えだ。僕がそいつを睨んでいると、壮年の隣に座っている一番若い男が口を開いた。
「昨日は御目通り叶わず大変ご無礼いたしました。この定信、急な病を得まして一昨日より臥せっておりました。身の精進不足を痛感いたしましてございます。今後は尚一層の節制に努め、ご政務第一に取り組んでまいりますれば、どうぞお許し願いたく存じます」
僕の目は、そう言って頭を下げた男を見つめて点になっていたと思う。なんでこいつが松平定信なんだ。ひょっとして30そこそこ? 僕と変わらない年齢じゃないの? それに爽やかな笑顔。いかにも殿様的な端正な顔立ちに怜悧な眼差し。かーっ。見た目だけでもう勝負はついたような敗北感。い、いや、いかん、いかん。まだ始まったばかりだ。気圧されてなるものか。こいつは善良そうな仮面を被った悪魔なのだから。
「上様? 私の顔に何かついておりましょうか」
「ん? ん?」
「その……何か」
「へ? い、いや、別に。よしなに勤められよ」
「ははー。畏まってございます」
今日はこのくらいにしてやろう。初対面だからね。次からはそうは行かないぞ。
僕のわきの下から汗が一筋流れて行くのがわかった。
今日は何をするにも力がはいらなかった。挫折感というのか、劣等感というのか。東大卒と聞いて、気後れするのは僕だけだろうか。夜、そんなみじめな自分を振り切るように僕は奥さんにむしゃぶりついた。昨夜に増して激しく絡み合う二人だった。
反定信を立ち上げる
無為な日々が過ぎていった。僕の頭の中を占めているのは、1割が定信対策で、残りの9割が大奥だ。僕の正体見たりむっつりすけべ。我ながら情けない。外なる体の家斉君に満々と溜め込まれた性欲の所為だと信じたい。
ある日、小部屋を見つけた。見つけたというのはおかしいか。当然家斉君は承知の部屋だったのだろうけど、おそらく彼はこれまで使ったことがなく、でも記憶の隅に情報があって、無意識に外なる体が僕を誘導したのかもしれない。そこは完全に将軍プライベートの空間らしく、付き添いの小姓さえ中には立ち入ろうとはしなかった。1人きりになるのは、仏間以外に知らない僕には、隠れ家を見つけた喜びだ。ただ残念なのは、この時代にはインターネットもなければ、CDもない。襖を締め切られた部屋に1人いても、まったく静かで、この無音状態に慣れていない僕にとっては却って自分自身の息遣いや畳を擦る足袋の音がやけに耳につく。そういえば、この時代に来てから、音の少ないことに気付いた。裏返せば、現代にはなんて音が溢れているのだろう。そう思えてくると、不思議に落ち着いた。僕は大の字になって仰向けに寝転がった。目を閉じる。人の聴覚には面白い機能があるみたいだ。いや、それはむしろ脳が持つ機能か。意識を集中させれば、それ以外の物事が認識出来なくなる。しかし、今こうしてぼんやりしていると、脳によって選別されない情報が耳を伝って入ってくる。いわば音に対しては無警戒状態ということなのか。ところが、ある音に気付いた瞬間から自然とそれに意識が向き始めて、望むと望まざるとに関わらず脳はその分析を始めるようだ。それは人の声のようだ。笑い声か。女だ。大奥で女たちが集まってでもいるのだろう。奥さんもいるのかなあ。僕は起き上がった。フーと溜息が出る。
「武部」
「はっ。お呼びでございますか」
「構わぬ。入ってまいれ」
「はっ」
武部は静かに襖を開け、中腰のまま中に体を滑り込ませた。見事な身のこなし。
「武部」
「はっ」
「退屈だ」
「はっ」
「退屈だと言うておる」
「はっ。間もなくご政務のお時間かと」
「それも退屈だ」
「はー……」
武部は僕の意図を掴みかねているようだ。当然だろう。僕も何が言いたいのかわかっていない。武部には気の毒だが、思いつきで呼んだようなものだ。
「ご政務がお済みになられましたら、ご乗馬などなされましたらいかがかと」
政務は前提条件、つまりは必須となっている。小姓の立場では当然だろう。政務をエスケープして楽しくやろうぜ、なんて言えるわけがない。
「そなたが代わりに政務を勤めよ」
「え?」
生真面目が着物を着ているような男にそんなジョークは通じないか。半分は本音で言ってみたものの、それさえ空振りになったようだ。
「そなたこの城から出たことはあるか?」
「はっ。お勤めは当番制でござりますれば、非番の時は自宅におりまする」
「そうか。だからそなたがいない時があるのだな」
「はっ。申し訳ありません」
「役目なのだから、仕方ない。そなたの責任でもなかろう」
僕は平伏する武部に言ってやった。凄い優越感。カッコいい。久し振りの快感。そうだ。この武部と一緒に城外へ出ちゃおう。僕は悪巧みを巡らせた。
「そなた自宅に帰るのはいつだ」
「はっ。明日昼前の四つ半に明けとなりまする」
「そうか。そなたの他にも帰宅する者はおるのか」
「はっ。朋輩は四、五名かと存じます」
「なるほど。そなたの共は?」
「まだ若輩でございます。共を引き連れるほどのことは」
「ないか」
「はっ」
「他に着用する着物は持っておるか」
「詰め所に幾枚かは持参しておりましたかと存じます」
「なるほど。その内より一揃いを今夜持ってまいるように」
「え? いづれにでございましょう」
「無論。私のところにだ」
「上様へ? 如何なさいますので?」
「そなたの着物を私が着る」
「上様が私のような者の着物を? 何をお考えに……まさか、上様!」
「政を行うに、この城内にあって満足に出来ると思うか? 世の中を知らずば、施策など覚束ないに決まっておる。ご先祖様方も嘗てはそうしてこられた。私も同じ事をするだけだ」
「なりませぬ。上様が城外へお出ましになるときは、書院番、小十人組衆に徒衆が警護いたすこととなっておりまする」
「そんな堅い事言わずに。それでは身動きがならんではないか。折角市井を見聞しようにも、侭ならん」
「上様はこの国の要でございます。上様にもしもの事がありますれば、私の腹一つではとても足りませぬ。国の一大事となりまする」
武部は畳に額を擦り付けて訴えた。でも、行き掛かり上、僕ももう後へは引けない。正攻法でダメなら、搦め手から攻めるのみ。
「そなたは定信をどう思う」
「ご老中にございますか」
「定信の改革は上手くいっておるのか?」
「ご政道を改めるものと聞いております。政治向きのことは私にはそれ以上申し上げることは出来ません」
「ここは、そなたと私の二人きりだ。腹を割って話せ。他言はせん」
「……」
ちょっとぐらついたかな。もう一押し。
「なにも定信を悪く言うつもりなどない。私がまだ若いゆえ、私の代わりに政務を委任しておるのだから。私は定信を信じておる。信じてはおるが、やはり気になる。もし、万が一、定信の改革の一つでも間違った施策であったなら、私がいよいよ将軍として政務を執ることとなったときに、世が乱れていては、苦労するのは私だ。いや、私だけではない、そなたにしろ、民にしろ。そうではないか?」
かーっ。いい事言うなあ、僕。
「承知仕りました。上様のお考え、この武部彦馬、誠に感服仕ってございます。まだお若い将軍であられながら、既に名将の器と拝察致しました」
武部は肩を震わせているようだ。泣いているの? やったね。
「確かに、ご老中の改革は先のご老中田沼様の施策をすべて覆すものばかり。ご就任当初は民らも歓迎致す者が多くございましたが、今では昔を懐かしむ者が多いように聞いております。中でも、贅沢を禁ずるあまり、華美な着物や民らの持ち物にまで難癖をつける、いや、これは失言でございました」
「よいよい。有態に話せ」
「はっ。或いは、ご政道を揶揄するものだと戯作物を統制したり、着物では芝居に着用する物にまで口を出される始末。一部には確かに贅を尽くした者もおりましょう。しかしながら、民らの多くは年に一度の祝い事に晴れ着で装ったり、あくせく働いた身銭で芝居見物をしておるのでございます。その楽しみまでご老中は奪われてしまった。それはご政道と言えるのでございましょうか」
こりゃ強力な反定信派だな。いい味方を得たぞ。
「なるほど。そうであったか。だが、そなたの意見だけで定信を罷免するわけにもまいらん。やはり私自身の目で市井の様子を見定める必要があるのう」
僕は目を閉じた。しかし、薄目で武部を窺った。すると、これまで平伏しながらにいた武部がやおら上体を起こした。やる気になったな。作戦成功。
「上様。この武部彦馬、一命に代えましても、上様のご本懐成就となられますよう、微力ではありますがお力添え致したく存じます」
また平伏し直した武部に満足げに頷く僕。役者やねえ。
かくして我々同志は江戸城脱出計画を推し進めることと相成りました。やるぞ!
翌日の昼前、昨夜の内に届いた武部の着物を着て、僕は迎えに来た武部の後ろに、さも後輩が先輩に従うように俯き加減で歩いた。この計画のために昨夜は中奥泊まり。さぞ奥さんは寂しい夜を過ごしたことだろう。今夜帰ったらいっぱい可愛がってあげるからね。待っててね。
時折行き違う者に武部はいちいち足を停めては廊下の端に寄って平伏する。無論、僕も同じだ。小姓という立場と武部の若さだから仕方ないのだろうが、昨日まで僕に平伏していた者たちなので、ちょっと気分が悪い。だが、これも大計のためだと我慢する。それ以上に、見つかりはしないかとヒヤヒヤものだったが、まったく気にする者さえいない。お前ら僕、いや、将軍家斉を知らないな。だいたい、テロリストなんかが侵入したら、こんなじゃ簡単に城奥まで潜入されてしまうではないか。今後はもっとセキュリティーをしっかりさせなくちゃ。
その甘いセキュリティーのお陰で僕らは難なく本丸を出た。後は門を通って城外へと脱出だ。逸る気持ちを抑えながら、しかし、態度は堂々と歩く。これ、怪しまれない鉄則ね。
「そこなお二人。しばし待たれよ」
ふいに後ろから声がかかった。うっ。まずい。露見したか。
「後ろの方の袴の紐が解けておりますぞ」
え? 僕は慌てて確認した。確かに紐が緩んで解けている。自分で着たことがないのでしっかりと結べてなかったのだ。
「忝うございます」
武部が僕に代わって相手に礼を言った。相手はそれを笑顔で受けて立ち去った。
「驚いたぞ」
僕は小声で武部に言った。
「まずは大事無く安心致しました」
武部は人目を気にしながら僕に会釈した。先輩が後輩に頭を下げるのはおかしいからね。
そして、門を潜り城外へ。門番が眼光鋭く僕らを見つめていたが、武部が「ご苦労」と声をかけると立礼して、これも目出度く通してくれた。武部って意外に偉いんだ。
「これから如何なされまするか?」
「どうするかまだ決めてない。そもそも民らが何処に住んでいるのかさえ知らんのだからな。そなたの屋敷はどこだ?」
「番町でございます。しかし、民らの様子をご覧になられるのであれば、やはり日本橋か両国辺りがよろしいかと存じます。そうなりますと私の家とは反対方向。御疲れではございましょうが、ここはもうひと頑張り頂き、日本橋までまいりましょう。お戻りになる刻限を思いますれば、畏れながら当家にお立ち寄り頂く時間はないかと存じます」
「そうか。わかった。道案内を頼む」
「畏まりましてございます」
僕らはお濠に沿って歩いた。向こうから侍が3人こちらへ向かって来る。一瞬緊張したが、もう城外へ出たのだ。気にすることはないだろう。次第に近付く。そして、すれ違う直前であっという間に3人に取り囲まれてしまった。え? なに? 襲われたの? しかし、3人はすぐに平伏した。ん? なに? 何が起きたの?
「上様。もうこれ以上はお諦めなされませ」
1人が平伏しながら言った。顔さえ上げない。見られてはまずい顔なのだろうか。
「何奴だ!」
武部が僕を庇うように楯となって問い質した。流石は僕の親衛隊。
「我らは御庭番にございます」
「御庭番……」
武部はそう聞いて呆然と立ち尽くした。え? なに? 御庭番? 隠密? 僕には?ばかり。
「上様には誠に申し訳なくも、これが我らのお役目にございます。昨日からの御話。拝聴仕ってございます」
「盗み聞きしたの?」
今度は僕が武部の前に出た。
「これがお役目なれば、常に上様のお側に隠れて、上様に危難が近付くことを警戒致してございます」
え? いつもどこかで見張っているの? 聞き耳立てているの? 僕のすべてを知っているの? 僕の背中をいやな汗が流れた。奥さんとの激しいやり取りも知ってるんだ。嫌な連中。
「ならば何故昨日の内に引き止めなんだ。まさかそなたらは偽りを申して、油断する我らを手にかけんと待ち伏せいたしおるか!」
また武部が僕の前に出た。刀を抜いて構える。勇ましいねえ。
「お疑いの義、ご尤もにございます。しかしながら、我らとて上様のご決断に賛同する者にございます」
「え?」
またまた僕が武部の前に出た。それを制するようにまた武部が前に出る。忙しい。
「それはいかなることか。仔細を申してみよ」
武部の威嚇にようやく1人が顔を上げた。確かにあまり人には見せない方がいい顔である。
「畏れながら申し上げます。上様の行方が知れずとなりましたら、城内は如何なりましょうや」
「私が行方不明?」
「御意。上様には大切なお勤めがございます。それが、お姿が見えないとなれば、これ以上の一大事はございません。いくらもせぬ内にご城内は大騒ぎとなりましょう。たとえ間置かず上様ご自身がそのご無事なお姿をお見せになったとしても、上様の身の回りをお世話する者は責務として厳しい咎めを受けることは必定。切腹だけで済めばよろしいが、場合によっては家名断絶もあり得ます。上様。その者はそれを覚悟で上様に従っておるのでございますぞ」
「え?!」
僕は武部を見つめた。
「武部。あの者の話は誠か」
武部は苦渋の顔で視線を逸らした。その一点で事の真意ははっきりした。
「では、どうせよと言うのだ」
少なからぬ狼狽を隠して僕はそう問いただすのがやっとだった。
「先ほど申し上げました如く我らは上様のお志に深く感銘致しましてございます。しかしながらまず一旦ここはお引き取り願わしゅう存じます。その者の一命を救う事は元より、いらぬ騒動を起こさぬためにも、別の機会をお待ちあそばされるが懸命と思し召されませ」
「このまま城へ戻れと申すか」
「御意」
「そなたが申す機会などある筈がないではないか」
「畏れ多くも、家光公、或いは吉宗公におかれましては、鷹狩りを催されたこと頻繁。他にも、菩提を弔うと名目をお唱えになって増上寺や寛永寺に御成召されるも可能かと存じます。また、上様におかれましては浜御殿にてご遊興召されますのも一興かと」
「ほう。城外へ出る口実はかようにあるか」
「御意」
「しかし、それではままなるまい」
「影武者を仕立て上げまする」
「影武者?」
「御意。城内にありましては、ご政務の折などお側近くに侍りおります者の目を欺くは至難と心得まするが、御成の際は別物。遠くにあって、上様の仔細に気付く者は少なかろうかと存じます」
うーん。それはそうかもしれないが、ちょっと悲しい。僕に注目しないんだ。
「しかも、小姓であるその者の力添えあれば、まさに盤石。ただし」
「ただし?」
「ご遊興あそばされる折には、おそらく御台様もご同伴が常の習い」
「うむ」
それはそうかもしれない。奥さんも大奥ばかりでは気が塞ぐだろうからね。
「ここは是非とも御台様には上様の御心内をお打ち開けになって、御台様のご協力を賜りますことこそ肝要かと存じます」
「御台に?」
「御意」
「話すの?」
「御意」
「うーん……」
奥さんはわかってくれるかなあ。定信のことをどこまで承知だろうか。国政には無関心かもしれないし……。そうか。確か、大奥では定信の打ち出した倹約令が不評だったよね。それに、今夜2,3回いかせてあげたら僕に反対することもないな。むふふ。
「相わかった。このまま引き返そう。御台には今夜でも我が思いを伝えるであろう」
「はは。勿体なきお言葉。やつがれなどの声にお心を煩わせ賜い誠に畏れ多いことにございます。またお聞き入れ給うたこと、感極まりてございます」
男は肩を震わせた。
「この神津文左衛門。今後はお役目は元より、いついかなるときにおいても上様をお守り申し上げんことを神仏にお誓い申そう。皆、覚悟はよいな」
「はは」
他の二人もさらに平身低頭、地面に埋まりそうだ。
「……」
なんだかジーンとくる場面だ。
それから僕は武部と共に城内へと引き返した。一度は帰宅するよう促したのだけれど、武部の言う通り彼の共連れとして出たのだから、僕一人では不審に思われる。神津は御庭番だから城内では知る者がいないらしい。僕一人で行けば、きっと門番に阻まれて門前払いだったに違いない。いろいろと武部には面倒をかける。家臣ではあるが、これからは心友として彼には接しようかな。
その夜。僕は心の内を奥さんに打ち明けた。すると、奥さんは目をウルウルさせて僕に抱き着いた。泣きながら奥さんが告白するには、こんな素敵な人だとは思わなかった、というような事を言っていたと思う。たぶん。ああ、どうしよう。益々奥さんが可愛くてたまらない。昂ぶる感情の中で何度奥さんをいかせたことだろう。数えきれない。妻の姿が僕の中で遠ざかっていく。