9月はまだ夏だよな
プシュっという音とともに、プルタブから溢れ出したビールが俺の手を濡らす。
チッ。
軽く舌打ちしつつ、慌ててビール缶に口をつけた。
冷えたビールは美味いんだろうが、実はあんまり好きじゃない。
本当はキウイ系のスムージーとかのがよっぽど好きだ。まぁ今の世の中、生鮮食品なんて贅沢すぎるけど。
それにスムージーが飲みたいなんてこと言ったら、風子あたりが「意外〜、かわいい〜」とかムカつく声で言ってきそうだ。
なんだって、アイツはああも能天気でいられるんだ。
アッチのくせに…
そう思うと、首を捻って絞め殺してやりたくなる。
なんだって、俺に親しげにしやがる。
でも…
クソっ。
声が似てる。
仕草が似てる。
鬱陶しそうに俺を見る生意気な目。
そのくせ分からないことがあると、チョットいいかな〜なんて甘ったれた感じで資料を差し出す手。
何、お兄ちゃん?なんか用?
中学になって、途端に偉そうな態度をとるようになった妹…
そのくせに、
「お・に・い・ちゃん」
ドアから顔を覗かせて、上目遣いで差し出す数学のプリント。
助けてやれなかった。俺の妹…
「クソっ」
妹の影を打ち消すように、今度はあえて声に出して悪態をつき、一気にビールをあおる。二十歳前の俺には苦いばっかりだ。
市役所の職には、就いたばかり。
仕事もまだまだ始まったばかり。
ようやく、何とか人らしいと言える生活を過ごしている。
俺はベッドに大の字になって、職場の奴らを思い浮かべた。
新東京市役所、住民管理課、マイナンバー再構築グループ第3班。
連絡担当としてしょっちゅういない班長を除いて、実質面子は俺を含めて4人。
全員同期。
というか、現在どの職場も同期以外あり得ないんだが。
最初に顔が浮かんだのが、1番年長の新垣美沙。
彼女はいい。
なんというか、頭がいい。勉強が出来るとかの頭の良さではなく、回転が速い感じだ。
その割に性格はおっとりと落ち着いていて、アイツにイラついた俺を和ませてくれる。
まぁ、あの人はコッチだろうな。
次に吉岡直之。
仕事は結構できるけど、空気って感じか。
自己主張しなさ過ぎ。いい奴ではある。
吉岡はドッチだろうかと考えたがイマイチ結果が出ない。どちらでも飄々と生き延びていそうだ。
そしてあいつ。蒼井風子。
顔を思い浮かべると、また腹立たしさが沸き起こる。
クソっ。
再びうち消そうとした妹の影が風子の顔に重なって、嫌でもあの日が蘇る。
俺は絶対忘れない。
あの、世界が突然終わった日を。
そして、再び突然終わった日を。
「9月はまだ夏だよな」
どうでもいいようなことを話しながら、俺は自転車を漕いでいた。
隣には部活仲間の浜田。
2台の自転車で、舗装されてない道を並走して走る。
大して気が合うタイプでもなかったが、家の方向が同じなんで、帰りはなんとなくいつも一緒だった。
お互いカゴには辞書とか入った重たいリュック、肩にはジャージの入ったサッカー部お揃いのエナメルバック。
途中コンビニもない田舎だったから、腹を空かせた俺らはただ適当な話をしながらそれぞれの家を目指して自転車を走らせていた。
「おい、数森」
急に浜田が自転車を止めて俺を呼んだ。
「あん?」
俺も自転車を止めて浜田の方に振り向いた。
浜田がアレどうするって顔で少し先の畑を指差す。
見ると50歳くらいのおばさんが、畑の隅で不自然に蹲っていた。
熱射病か?
知り合いってほどじゃないが、毎日見かける人だし、声くらいかけとくか。
二人とも自転車を停めて畑に向かった。
大ごとだったら救急車かな?
無意識のうちにポケットに手を入れて携帯の存在を確認した。
「あの、大丈夫すか」
先に浜田が声をかけた。
おばさんは酷い顔色で、蹲ったまま返事もしない。
「あの…」
浜田がおずおずと肩に手を掛けたがまるで反応がない。視点もあっていないようなおかしな表情。
これはヤベーわ。
いよいよ救急車かとポケットの中の携帯に触れつつ俺もおばさんに近寄った。
すると、おばさんがよろよろとした動きで立ち上がり俺に顔を向けた。
「‼︎」
次の瞬間、首に激痛がはしった。
おばさんが、突然首に齧りついてきたのだ。それも食い千切らんばかりの勢いで。
うわぁと情けない声を出しながら思いっきりおばさんを突き飛ばした。
手加減などできるはずもなく、おばさんは頭を地面に叩きつけるように倒れた。
なんなんだ、なんの冗談だよ。
痛みと焦りで事態が理解できない。
倒れたおばさんは、何事もなかったかのように、再び緩慢な動作で起き上がり、俺の方を向いた。
嘘だろ。もろ頭打ってたじゃん。
思わず後退りする俺。
なんの感情も見受けられない表情、ただ目標が俺なことだけは確かで、ゆっくりと、でもひたすらに俺に向かって来る。
その顔、アレはもう人間じゃなかった。
殺される。
本気でそう思った。
首には噛まれた痛みが残っている。
咄嗟に持っていたカバンを構え、また向かってきたおばさんに思いきり叩きつける。
受け身もなくそのまま後頭部を打って倒れた姿にほんの一瞬安堵した。
その時だった。
「⁈」
その瞬間、肉を剔られる様な痛みというものを初めて体感した。さっき噛まれた時より遙かに強い痛みが走る。
肉を千切り、くちゃくちゃと咀嚼する音が響いた。
浜田…?
振り向くと、口から血を垂らした浜田の姿。
そして無表情のまま、くわっと大きく口を開けた。
なんなんだよ、マジなんなんだよ。
部活仲間だったはずの男が、俺を、俺を喰おうとしている⁈
噛みちぎられ血が滴る首元を手で押さえながら浜田の腹に思いっきり蹴りをいれた。
防御の体勢を取ろうともせず、浜田はそのまま勢いよく倒れた。
おばさんと同じで、受け身もとらずに…
訳がわからねぇ…
ただもう、無我夢中でカバンを振り回しながら自転車に向かって走った。
一旦は倒れても、まるで痛みなど感じない様子で、二人とものそのそと起き上がり俺に向かって来る。
何度倒しても…
起き上がる。
あいつらの動きは遅い。
大丈夫だ、十分逃げ切れる。
自分を励まし、首の痛みに耐えながら、なんとか自転車にたどり着いた。
振り向くと、口の周りを俺の血で染めた浜田が迫っていた。
俺はカゴから辞書入りのリュックを取り出し、浜田だったやつに投げつけた。
そしてそのまま自転車で走り出した。
家に逃げ込むことしか思いつかなかった。それで助かるのかなんて、考える余裕もなく…
世界の終わりの始まりだった。
そして、この時を境に、これから続く、半年に渡る地獄が開幕した。