本気の悲鳴ってこんななんだ。
忙しい市役所業務の中、私はふと思い出す。
あの、世界が突然終わった日を。
そして、終わった世界が、終わった日を。
私は絶対に忘れない。
あの日、あの日々を…。
なんて事を考えてたら、
「風ちゃん、マイナンバー、終わったの?」
隣の席の先輩、というか年上同期の美沙さんが耳元で囁いた。
「あ、ゴメンなさい、まだです」
というかまだまだです。今日明日に終わる仕事でもありません。
それは美沙さんも当然承知の上な訳で。
「だよね」
と、軽く窘められてしまった。
そして私にそっと耳打ちする。
「また思い出してたんでしょ。」
「す、すみません。つい。」
言い訳する私に、ダメダメ、って感じで首を振る美沙さん。
仕事の進捗を気にして叱っているのではなく、純粋に私を心配してくれている。
この人にはいつも心配されてばかりだ。
そうだな、気を引き締めてマイナンバーシステム再構築業務に集中、しよう、うん。
「…」
視線を感じて見上げると、向かいの席で同期の数森有人がこっちを見ていた。相変わらず人を小馬鹿にしてるような顔をしている。
「何よ、数森」
「いや、別に。俺なんてそんな余裕ねーからさ」
わざとらしく忙しそうに仕事を再開する姿にまた腹が立つ。
が、仕事が忙しいのも事実。
すごく重要な仕事なのも事実。
数森の隣では、我関せずといった感じで吉岡くんが黙々と作業を進めていた。
私だけじゃない。みんな大変な思いをして、ここでこうして仕事をしているんだ。
少し反省して、パソコンディスプレイに視線を戻した。
気を引き締めて仕事に取り掛かろう。
新東京市役所、住民管理課、マイナンバー再構築グループの一職員。
私こと蒼井風子。
心から有り難いことに、私の1日、今日も平和だ。
1日の業務を終えた私は、寮に帰って自室のベッドにダイブ。
今日も疲れた。また明日も頑張ろ…。
…。
ダメだ。
やっぱ、まだダメだ。
無理に未来を向こうとしても、ついあの日の事が蘇る。
忘れられるわけがない。
でも、乗り換えなきゃいけない。
乗り換えたいあの日が、あの終わりの日が、ついつい頭をよぎる…。
一人だと、止めてくれる美沙さんも、チャチャを入れるあのバカもいない…
あの日、世界が終わった日…
突然響き渡る悲鳴。
驚愕、苦痛、怒り、恐怖…
色んな感情を含んで発せられたその声は、なんとも表現のしようのない音だった。
それは学校帰り、いつものように友達の真由と歩いていた時だった。
本気の悲鳴ってこんななんだ。
最初に浮かんだ思いは、我ながらアホな感想だった。
でも、事態は冗談どころではなかった。
人が、人を襲ってる。
歩いていた男が、突然近くにいた女性に抱きつき、慌てて逃げようとする女性にしがみついている。
…、まさか、あれ、食べて…る…?
一瞬、ただの痴漢かと思った。
でも…
遠目に見えた光景。
生肉を血を滴らせながら食い千切っている、無表情の男。
そいつから逃れようと、必死で片手で押しのけようとしている女性。
もう片方の手で、噛みつかれ出血する首を押さえている。
それでも、抑え切ることの出来ない溢れる血が、薄い色のワンピースを赤く染めていた。
「ふ、風…」
真由が情けない声で私を呼んで手を握ってくる。
私もギュっと握り返す。
あまりの出来事に、周りも動けないでいた。
かく言う私も、怖くて体が動かない。
なんなの…
何が起こっているの…
さらにあちこちから悲鳴が上がっている。
襲う人も襲われる人も増えていく。
襲われてる人を、さらに大勢が群がって襲う。
いったい何人が犠牲になっているのだろう。
ああ、シマウマ襲ってるハイエナの群れだ、あれ。
アホにも程があるだろうに、次に浮かんだ感想はそれだった。
「ふ、風、逃げよ」
真由の声が震えてる。
そうだよ、逃げなきゃ。
やっとそこに考えが至る。
でも、足が動かない…
気持ちが焦るのに、なんで体動かないの!
「なんなのこれ、TV?映画?」
あえてふざけたセリフを口にする。
でも、出てきた声は、 情けないほど震えた声で…
本当に、映画とかだったらいいのに。
現実だと、思いたくなかった。
でも、そうじゃないことはわかってた。
辺りに立ち込める、鉄臭い血のにおい。
まるでゾンビ映画の出だしみたいだ…
「…」
真由からの返事がない。
「?真由…?」
大丈夫?と続けようとして、真由の方を向いた。
「!」
声にならない悲鳴が喉から溢れる。
さっきまでと違う。
真由が、真由がおかしい。
顔から恐怖の感情が消えてる。
いや、すべての感情がないみたいだ。
へんな猫背になって、視点があってない…
よろよろと動き出す真由。
まるで、まるで…
「真由、どこ行くの!」
私の手を振り切って、真由は人を襲う群れへと向かう。
ダメだよ、行かないで。
声を出そうとしたけど、声が出ない。
真由が、真由じゃなくなっちゃう。
行かないで。
手を伸ばす…
足を踏み出そうと足掻く…
でも、ダメだ。
体も、なんか重くて…、重くて…
思うように、動けない…
ダメだ、死んじゃう。
私、このままじゃ、死んじゃうよ…
急に頭に靄がかかったみたいだ。
意識が朦朧とする。
体が重くて、気持ち悪くて。
とてもまともに立っていられない。
そして同時に襲ってくる強烈な飢餓感。
何やってんの私。
霞みがかった意識の中、ひとつだけはっきりしていることがある。
やるべきこと、やらなきゃいけないこと。
必要なものは…。
アレだ…。
飢餓感が焦燥感を伴って強くなる。
早くしないと、なくなっちゃうじゃん。
ほら、みんな先に食べてるのに。
アレ食べなきゃ、私、死んじゃうじゃん…
本能が命じるまま、私は、重い体を動かして、先に向かった真由の後に続いた。