3.異世界転移
ハルトが、オルテンシアに導かれてたどり着いた先は、薄暗い森の中でひときわ明るい場所だった。
ちょうど、太陽が最高の高さから光を降り注ごうとしている頃なので、そこでは、雲の隙間から太陽の光が差し込む時のような、光の筋が斜め方向に見えている。スポットライトを斜め上から投射するような感じである。
光の円柱の中にキラキラした微細な物が浮遊していないところを見ると、塵一つないのだろう。
スポットライトが照らされているのは、周囲が100メートルほどの円形に近い泉。通常は、すり鉢状のくぼみに水がたまっていて、泉のほとりまで地面が斜めになっているはず。
だが、水面と地面とが同じ高さにあって、大きな祝杯に酒がなみなみと注がれているかのようだ。
これほど透き通る水が、どこから湧いてくるのか。鏡面のように動かない水面は、その問いに答えてくれない。
周囲の10メートル幅の砂地も、太陽からのおこぼれにあずかり、きめの細かい砂に混じる石英らしい鉱物をキラリと輝かせている。
見上げると、砂地の上まで木が覆い被さっていないのだが、なぜこのような空間ができたのか。
泉のために、精霊が作ったのか。均一幅のドーナツ状の砂地を見ていると、泉の周りの樹木を伐採して均したとしか思えず、その説を支持したくなる。
これだけ明るい場所に立ち尽くすと、周囲の森が暗い闇の世界に見えて仕方がない。
泉はオアシスか、聖なる場所か――。
『そろそろ、降ろしてくださらない?』
「あっ、ゴメン」
泉とその周辺の神秘的な光景に心を奪われていたハルトは、オルテンシアの声で我に返り、二本の剣を地面にソッと置いた。
下着は、オルテンシアの指示通り、砂地と森との境界にある、大きな丸石の上に。そこには先客があって、綺麗に折りたたまれた民族衣装らしい二着の服が乗っていた。
「ここの泉で、何をしてたんだ?」
『泉に入り、身を清めて、精霊と交信をしていたのですわ』
『お姉様、早く着替えましょう。そうしないと、悪漢がわたくしたちの下着を、よだれを垂らしながら着用するかも――』
「しねーよ。俺は、その近くの木陰にいるから。着替え終わったら、声をかけてくれ」
そう言って、ハルトは木の陰に回り、どかっと腰を下ろして幹に背中を預けた。
無言で着替える二人の方角から、衣擦れの音やらホックの音がする。
一本の木の幹を間に挟んだ後ろで、少女二人が全裸の状態から服を着ているのだ。
森の無風の中で、それらの音だけが耳朶を叩く。これは、少年にとって刺激が強すぎた。
妄想を膨らませる彼は、頭の上で手を振って、考えを振り払おうとする。
だが、その行為は、外界からの刺激を並行処理する脳細胞にとって無駄な抵抗でしかなく、頭の中は二人の裸体やら半裸体で一杯になり、どんどん赤面してしまう。
おまけに、オルテンシアが全裸から武装する変身シーンを見てしまった。
それが、繰り返し再生のように、頭の中で駆け巡る。
雪のように白い肌、細い腕、すらりとした美脚。
芸術のようなポージング。
光の隙間から見えたかも知れない、膨らみかけの胸。幼い双丘。
彼の頭の中で大写しになる彼女の映像は、脳が見えないところを補完してしまうので、ますます鼓動が高まる。両手でテーラードジャケットをつかんで、はためかせも、火照る体は涼しくならない。
「終わりましたわ」
オルテンシアの声に腰が浮くほど驚いたハルトは、「ああ」と幹に向かって曖昧な返事をした。
「いいわよ、こっちに来ても」
毒を吐くカメリアが、珍しく変態の類語を並べないのは、もうボキャブラリーの底を突いたからか。でも、優しいイントネーションが手を差し伸べてくれたような気がして、彼は重い腰を上げる。立ち上がれば、頭に上った血も下がるだろうと思って。
だが、それは全て、間違っていた。
「お姉様、破廉恥男が妄想を膨らましたらしく、顔が真っ赤」
まだまだカメリアの語彙の引き出しは、空ではなかった。
結局、いつもの毒舌で出迎えられたハルトは、下を向くしかなかったのだ。
その時、ちらっと見えたカメリアの姿は、彼を狼狽えさせた。
冷たい表情なのに、顔がめちゃくちゃ可愛いのだ。
銀髪で、ぱっつん髪にロングのサイドテール、はち切れんばかりの豊穣な胸。
二人はお揃いの民族衣装を着ている。彼は、テレビでビールジョッキを何本も両手でつかんで運ぶ女性の服に似ていると思った。
その名前を知らない彼の代わりに答えると、その衣装の名称は「ディアンドル」。ドイツ南部などで、女性が来ている民族衣装だ。襟ぐりが深いため、胸の谷間が見えやすいのだが、豊穣な胸のカメリアのそれは、彼を卒倒させるに十分だった。
ハルトは、近くに腰を下ろし、恐る恐る顔を上げて、二人を見る。
丸石に並んで腰掛けているので比べやすいのだが、とても姉妹とは思えないほど顔が似ていない。どう見ても別人だ。
「あら、驚いていらっしゃいますわね。全然似ていない姉妹でしょう?」
「でも、お姉様とわたくしは、双子」
この衝撃的な発言に、ハルトは完全にノックアウトされた。似ていない双子の美人姉妹。彼は、二度見をして、顔のパーツの比較を繰り返した。
それから、ハルトとオルテンシアの身の上話が始まった。
「まずは、俺からでいいかな? 俺の名は祭城ハルト。十七歳。一つ下の、血がつながっていないカエデという妹がいる」
「わたくしは、オルテンシア・アマティ。妹は、カメリア・アマティ。十六歳」
「へー。妹と、ためなんだ」
「スリーサイズとか、聞いてくるかと思った」
「普通、初対面の女性には聞かねーよ。……んで、こっちの異世界に来たのは、感覚的に1時間前かな。時計ないし、スマホ電池切れで、正確な時間がわかんないけど。元いた世界で、夕方、妹と一緒にコンビニまで買い物に行った帰りに、いつも使う道で喧嘩が始まってたんで、迂回して神社の前を通ったら、目の前で妹が消えたんだ。全身が陽炎のようにユラユラと揺れて、宙に浮く波紋のような空間へ飲み込まれて。――で、俺がその後を追いかけたら、この森の中に立っていたというわけ」
「妹さんは、その時、目の前にいらっしゃらなかったの?」
「ああ。森の中で俺一人。もしかして、別の異世界に飛ばされたのかも知れない」
「さっきも、いせかいっておっしゃっていましたけれど、何かしら?」
「自分の住んでいる世界と違う世界のこと。俺は日本から来た。ここは、まじデブる公国だっけ?」
「マグデブルク公国ですわ」
「そんな国、俺の世界には存在しない。ましてや、精霊が住むなんて。剣に変身する奴なんか、手品師にもいない。だから、ここは異世界。全く異なる世界ってこと」
「ハルトの、にほんという国は、精霊も、変身できる方もいらっしゃらないのですか?」
「いるわけないよ」
「それはまた、奇妙な世界ですわ。――ああ、それを『いせかい』とおっしゃるのですね?」
「もっと奇妙なことがある」
「何ですの?」
「なぜ、俺たち、会話ができるんだ? この世界の言語は、日本語なのか?」
「いいえ。こちらは、ゲルマーニャ語の一方言ですわ。隣の王国や公国では、一つ一つ言語が異なりますの」
「それは不便だな。いったい、いくつ国と言葉があるんだ?」
「587カ国ですわ。言語は、王国や公国の中の方言を入れて、1192の言語が――」
「うっ……めまいがする」
「この世界の人々は、たいてい、全体の3分の1の言語を習得していますわ」
「ますます、めまいが……。まあ、なぜ互いの言葉が通じるかは、それがわかったところでどうでもいい気がしてきたから、追求するのを止めよう」
「そうですわね。……で、妹さんの足取りは?」
「それがわかっていれば、苦労はしない。結局、森の中を彷徨って、出会った人間は、オルテンシアと剣に変身したカメリアだけだった、というわけ。なんか、魔法とかで、居場所がわからないかな? そういうことができる魔法使いとかがいれば、紹介して欲しいんだが。金は……30円なら出せる。水晶玉をこうやって、うーんと睨んでいるような魔法使いとか、知らないか?」
「ごめんなさい。そういう人は、この国にはいないわ。他の国でも知りませんし」
「参ったなぁ……。どうしよう」
「仮に妹さんが見つかっても、にほんへ戻れるのかしら?」
「それそれ! さっきも考えていたんだけど、帰り方がわからない。ま、その時は、この世界へ永住だな」
「わたくしたちも似たようなものよ」
「お姉様! そのお話は――」
「カメリア、いいの。お互い、よく知っておいた方が良いから。実は、わたくしたち、生まれたときから半年前までの記憶がないのですわ」
「記憶喪失?」
「原因はわかりませんが、わたくしも妹も、半年前の記憶しか遡れませんの。どこからか、突然、この世界にやってきたらしいのです」
「なんだ、お前たちも仲間か! 異世界転移者!?」
「ハルトが妹のカエデさんを捜すように、わたくしたちも、消えたクリザンテーモ・セレーナ姫を捜しているのです。そして、帰り方がわからないのです」
「うわーっ。マジで、マジで!? なんか、すっごく安心した。仲間ができたと思うと心強いよ! 二つの異世界から、人を捜している者同士が、ここの異世界へ転移して合流したんだろ? すげー、偶然」
「わたくしたちは、ハルトと違って、どこから来たのか、国の名前がわからないの。クリザンテーモ姫ならご存じかも知れないと思って、ずっと捜しているのですが」
「じゃ、捜そうぜ! そのクリなんとか姫」
「クリザンテーモ・セレーナ姫。いい加減、覚えて、この――」
「はいはいはい、変態とか言いたいんだろ?」
「はずれ。愚か者」
「そっち系か! ……なあ、オルテンシア。俺もお姫様捜しを手伝ってやるから、カエデも一緒に捜してくれると助かるんだが。お互い協力し合って」
「ええ、よろしいですわ」
「それと――」
「なによ」
「いい加減、機嫌を直してくれ、カメリア。とにかく、俺が、飛んでいる下着を捕まえていなかったら、お前ら姉妹はノーブラ、ノーパンだったんだから。な?」
「カメリア。きっと、精霊の悪戯だったのよ。ハルトに、悪気はないわ」
「お姉様が、そうおっしゃるなら」
「助かるぜ、カメリア。呼ぶときは、ハルト様じゃなくて、もうハルトでいいぜ」
「馬鹿ハルト、能なしハルト、愚か者ハルト、ぼけハルトのどれがいい?」
「どれも、きゃっっっっか! ぼけカメリア全開だな……。前途多難だぜ」
「わかった。ハルト、よろしく」
「そうこなくっちゃ! よろしくな!」




