六話
「センタロウ! 帰りやがったかっ!」
ベルク子爵の館を発った、次の日の昼。馬を休ませつつ、夜通し走った仙太郎とエルミスは、ようやくゾル族の現在の居留地へと戻ってきた。そんな仙太郎を出迎えたのは、エルミスの父、族長パテラスの大声だった。周囲は喧騒に包まれ、多くの人々が忙しそうに走り回っている。
「ただいま、族長。この慌ただしさは、やっぱり大氾濫か?」
「おう、魔物の群れ、五千を確認したぜ」
「五千……」
とんでもない数だと、仙太郎は呆れるように呟いた。
周囲を行き交い、戦の準備やゲルの撤収に勤しむ遊牧民たち。仙太郎がこの世界に来てから、ほぼずっと世話になっていた遊牧民たちだが、こうして危機的状況に陥るような出来事は、初めてだった。
と、そこで周囲の雰囲気が、おかしいことに気付く。
人々の表情から、悲壮感や、まして絶望感などを読み取れないのだ。誰もが、一族の為、仲間の為と、戦の準備や、老人や子供を連れての大移動の準備を手伝っている。相手は五千もの魔物であり、遊牧民全体ならともかく、ゾル族から出せる戦士など三百に満たない。それも、十代前半の、仙太郎からすれば子供も含めての数である。そんな状況で、どうしてこうも落ち着いていられるのか。
疑問に思った仙太郎は、素直に族長に聞いてみる事にした。
「みんな、随分と落ち着いているな。大衆というのは、こういう場合パニックを起こすものだと思っていたんだが、これは遊牧民特有の現象か?」
「はぁ? なに言ってやがんだ、おめえは? この大変なときに、みんなで力合わせるなんざ、たりめえじゃねえか!べらんめぇ!」
ところどころ、遊牧民特有のコテコテ語訛りが残った言葉で話す族長は、本気で仙太郎がなにを言っているのかわかっていないらしい。しかし、現代日本から来た仙太郎からしてみれば、こういう怪物に追い回される状況というのは、フィクションでしかお目にかかれなかった代物だ。それにいき遭った、ヒーロー以外の『その他民衆』は、演出の都合上悲鳴をあげて右往左往するものだった。だから、一族をあげて、冷静に着々と準備を進めるゾル族に違和感を覚えたのだった。
「まぁいいや」
遊牧民たちの冷静沈着さを、この民族のアイデンティティとして処理し、一言で片付けた仙太郎は、既に他の事を考えていた。
「で、族長? 俺にできる事はあるかい?」
「おう、あるぞあるぞ! ジジババとガキ連中、あとは馬のお守りでえ! ノノと羊どもも忘れず連れきゃあがれ!」
「はぁ?」
族長の言葉に、そうじゃねえだろと疑問の声を上げる仙太郎。しかし、それに応える族長も、頑として譲らぬとばかりに、その髭面を笑顔の形に固めて仙太郎を威圧する。
「おい、族長。今は、少しでも戦力が欲しいときと違うか?」
「場所を移す連中の護衛だって、必要不可欠じゃあねぇか。それがセンタロウ程の腕利きときたら、俺たちも背中気にせず弓を射れるってぇもんだ」
「だからって、多勢に無勢でどうにかなるものでもないだろう。王国軍や帝国軍がどうして撤退したか知らんが、魔物が保身を考えて撤退する事なんてありえないんだから」
「だぁーらぁ。あーめんどくせぇ……」
心底面倒臭そうにそうボヤいた族長は、盛大にため息を吐いた。それからギロリと仙太郎を見下す族長。
「おめぇが参加すっと、他の連中が手柄取れねえって、文句がでんだよ」
「はぁ?」
「はぁ……。ったりきだろうが。ウチだって、先の戦いで戦士連中が多く死んでんだ。今の戦士の中には、あの戦いの後に生まれたやつだっている。つまり、手柄に飢えてやがんだよ」
「はぁ?」
「そこに降って湧いたような、魔物の大氾濫でぇ。参陣するだけでも武勲の誉れは確実で、武功を立てる機会は魔物の数分ありやがる。より多く魔物を狩って武功を立てたい若い連中にとって、おめぇみてぇな規格外なやつは邪魔でしかねーのさ」
「はぁ……」
「だから、大事だとわかっていても、退避する民の護衛っつー、武功が少ない役割におめぇを割り振ろうってんだ。わかったか?」
「はぁ……」
捲し立てられる族長の言葉に、仙太郎は同じ相槌を繰り返す。その心情を正確に表現するならば、「なに言ってんだろう、このおっさんは?」だった。
魔物の大氾濫といえば、一つの町が滅んでもおかしくないような、紛う事なき大事件だ。こんな国未満の平原に点在する、一部族であるゾル族なんて、霜柱よりサックリと踏み潰される。そんな自然災害に、今まさに直面している遊牧民の族長の台詞があれか?
遊牧民の戦士団は、ゾル族の総力をあげてもようやく三百。対する魔物は五千の群れだという。普通魔物を狩る行いは、パーティを組んで行われる。つまり、魔物一匹は一人の人間より強いといわれているのだ。それは、群れを作る狼系統の魔物である、スコルやハティも同じ事だ。
それが、五千で味方が三百。
はっきり言って、全滅すら覚悟しなければならないような戦力差であり、仙太郎としては一族全員で退却し、他の遊牧民たちと合流するものだと思っていたのだ。その為の殿すら覚悟していたのだが、よりにもよって手柄争いとは……。
「なぁ、状況わかってんのか?」
思わず、そんな言葉が口をついた仙太郎を、誰が責められるだろう。しかし、それに対する族長は、心配ないと言わんばかりにニンマリと男臭い笑顔を返す。
「心配ぇすんな。俺たちぁ、誇り高き平原の戦士。例えガキに毛の生えたようなひよっこだろうと、魔物なんかにやられやしねぇよ!」
「いや、だからってこの物量差だぞ?」
「たしかに数は多い。だが、頭の悪い魔物なんぞ、数が多くても恐るに足りねぇ。幾万の王国帝国の兵士の方が、よっぽど厄介だったっつの!」
「いや、それはそうだろうけど……」
遊牧民は、厳しい自然とともに生きている事もあり、いわゆる『正々堂々』みたいな拘りはあまりない。落とし穴も不意打ちも、なんなら闇討ちだまし討ちだって、一つの立派な戦術。勝って、狩って、食らう為には、なんだってやるのが遊牧民だ。そして、人を騙すのはいつだって人だ。
馬鹿正直に吶喊するだけの魔物の群れなど、ただ数と図体が大きいだけの有象無象だと、族長は言っているのだ。まぁ、それでも決して楽観していい物量ではないという仙太郎の言葉は、どうしたって間違いにはならないのだが。
「はぁ……。わかった、任せるよ」
結局、これ以上抗弁する理由もない仙太郎は、そう言って頷いた。
「助かるぜ。若えやつにも、ここらで一度実践を経験させてぇ。その意味でも、おめぇがいたら緊張感が緩むからな」
「そう言われると、本当に一言もないな。遊牧民の教育方針と言うのなら、例えそれがスパルタ式だったところで、俺に文句は言えないからな」
「スパルタってなんでぇ?」
「敵も味方もぶっ殺し軍団」
「?」
「なんでもない……」
どれだけ遊牧民と深く交わろうとも、仙太郎は遊牧民の一族ではない。それは、遊牧民特有の排他的な性質も理由だったが、一番は仙太郎にとってこの世界は、結局『お邪魔している』程度の感覚でしかなく、家族を残してきた元の世界へと、いつかは戻りたいと思っているからだ。
この感覚が、最近やや鈍りつつある気がするのは、エルミスと結婚して、この世界にも愛着がでてきたのか、はたまた家族の方は心配いらないという、絶対の確信があるからか。
「とはいえ、勿論エルミスは連れていかせてもらうぞ?」
「たりめえだ。エルミスはもう、おめぇの嫁だろうが。つうか、うちの娘置いてきやがったら、魔物の前にテメェからぶち殺すぞ?」
こえー……。
思わず飲み込んだ唾に、喉を鳴らす仙太郎。顔色も、若干ではあるが青ざめている。パテラスは、体格こそ細身ではあるが、その迫力は下駄のような四角い強面も相俟って、すさまじいものがある。巌のような髭面に浮かんでいるのは、今の言葉が本気だという鬼気だ。
それに、体格が細いといっても、民族衣装の下にはそのシルエットからは信じられない程の筋肉が、バカみたいに詰め込まれている事を、仙太郎は知っていた。そもそもパテラスが細身なのは、その方が馬に負担をかけないからであり、一族の中でも一二を争う馬術の名人である彼には、貧弱な印象など欠片もない。
「りょーかい。まぁ、じいさんばあさんと、子供たち。ついでに、馬と家畜たちも任せておけ。絶対に、守ってみせる」
「おう、頼んだ。悪ぃが、おめぇも言った通り、余裕がねぇ。守りはおめぇとエルミスだけになっちまうが、大丈夫か?」
老人と女子供だけとはいえ、その数は三千人程度。そのほとんどが子供だ。しかも、年齢が十に届かないような、年端もいかない子供ばかりである。
老人や女の中には、エルミスと同じく弓を射れる者もいるだろうが、流石に戦士と同等に戦えるとは思えない。なにより、そんなに多くの人間が放てる程、矢を持って行くわけにはいかない。物資は魔物たちと戦う戦士たちに、優先して回されるので当然だ。そうなると、本当にその人数を仙太郎とエルミスだけで守る事になる。普通に考えれば不可能に近いが、仙太郎は面倒臭そうに頭を掻くと「ああ」と手短に答えるのだった。
●◯●
「センタロウ!」
族長のゲルを出た仙太郎が、早速準備に取り掛かろうとしたところに、やや高い、溌剌とした声が響いた。
「タルトか。どうした?」
「へっへー。お前、今回の戦いに出ないらしいな? 俺なんか、短弓騎兵として戦う事が許されてんだぜ。お前の分も手柄取ってきてやるって、宣言しておきたくてな!」
「なるほど、族長が言う事は正しいようだな」
「あん? 族長がなんだって?」
「なんでもない」
気付かれないようにため息を吐きつつ、仙太郎は首を振る。こういう若い連中の功名心が、仙太郎が今回の戦の最前線に立たない最大の理由だという事を、目の前の少年は知らないのだろう。
褐色の肌は瑞々しく、やや癖の目立つ金髪は風に揺れ、期待に満ちたその目には、爛々と仙太郎がこの二年で無くしてしまったなにかが灯っていた。遊牧民特有の戦装束に身を包んだ彼は、しかしその矮躯もあって、どこかお仕着せじみていた。しかし、彼はれっきとした一人前。その革鎧とて、自前のものだ。
タルト。遊牧民の少年であり、当年とって十三歳。仙太郎にしてみれば、こんな少年を前線に送り出し、自分は後方という状況に、激しい倫理的葛藤すら覚える程の子供である。小学校高学年、もしくは中学生という年頃の彼は、しかし遊牧民の中では既に成人の儀式も済ませた、立派な大人である。
というか――――
「そ、それとよ……」
少し言いづらそうにしながら、モジモジとタルトが言葉を紡ぐ。
「俺の奥も一緒に退却すんだから、ちゃ、ちゃんと守れよな!」
ビシッと指を突きつけると、タルトは一目散に駆けていく。その後ろ姿は、仙太郎の認識では公園を駆ける子供と大差ないように思えた。
しかし、タルトはこれから出撃する戦士団の一員であり、その為の準備は仙太郎より時間がかかる。そんな忙しい中でも、こうして仙太郎に自らの妻を任せると言いにきたのは、彼がそれだけ愛妻家だからである。
そう、彼は愛妻家なのだ。つまり、妻がいる。どころか、既に子供がいる。
「あんな子供に、子供がいる……。地球の常識を当てはめちゃいけないって、わかってはいるんだけどな……」
それでも、倫理的な忌避感を覚えてしまう仙太郎は、やれやれと頭を振る。これが普通だからこそ、エルミスも自分に行為をせがんでくるのだろう。逆に言えば、子供ができる頃には、こういった葛藤も覚えなくなっているはずだ。
さて、自分の理性は、いつまでもつのだろうか。と、益体もないことを考えてから、仙太郎は今度こそ目的地へと足を向けた。
●◯●
「旦那様、できましたよ」
「うん、ありがと」
背後のエルミスの言葉に頷き、自らの格好を見下ろす仙太郎。
先程までの旅装と違い、厚手の革鎧を身に纏った仙太郎。鎧だけでなく、革製の手甲脚絆も装備して、こちらは多少金属も使われている兜――――というか、仙太郎の認識では帽子も被っている。遊牧民特有の見事な戦装束に身を包んでいた。革鎧だがそこに安っぽさはなく、エルミスの施した、遊牧民特有の装飾が所々にあしらわれていて、中々にエキゾチックな雰囲気である。
そもそも、平原の遊牧民は金属鎧を用いない。馬の負担になるし、弓を引くのにも邪魔になるからだ。だから、遊牧民たちの装備に使われる金属というのは、兜の一部と、鏃と曲刀くらいのものだ。
「あまり使ってなかったってのに、随分と綺麗だな……」
「戦装束の手入れも、内助の功です」
自慢げに言うエルミスに、敵わないとばかりに肩を竦める仙太郎。どうやら、おざなりにしていた装備の手入れを、知らぬうちにエルミスがやっていてくれたようだ。グローブの手入れを怠った事はない仙太郎だが、どうにも鎧の手入れは苦手だった。
そういえばと、リトルリーグ時代に、フライを弾いてサヨナラ負けを喫した事を思い出し、やはり鎧もきちんと手入れしようと、肝に銘じる仙太郎。こちらの世界では、ちょっとしたエラーがあっという間に命を奪うという事を、彼は既に重々承知しているのだ。
「エルミスも準備しろよ、俺の事はあとでいいから」
「旦那様が優先です! 私の事こそ、あとでいいのです!」
「いや、俺はもう大丈夫だから、自分の準備を優先してくれ」
「旦那様? いつも思うのですが、このやり取りに時間を取られる事こそ無駄ではありませんか?」
「…………」
エルミスの言葉に反論できない仙太郎は、言葉に詰まったあとため息を吐いて頷く。その反応を見たエルミスは、嬉しそうに目を細めて仙太郎の戦支度を続けるのだった。ほぼマネキンと化した仙太郎は、やれやれと自分の妻を見やる。
どうして遊牧民の女性は、夫にここまで献身的なのだろう?
無論仙太郎とて、現代日本の価値観で女性を見る事が、こちらの世界では間違っているという事は、既に知っている。理想とする男性像、女性像というものは、文化、国、宗教、はたまた時代ごとに違う事は、重々理解しているつもりだ。
だが、だからこそ、仙太郎は疑問に思う。
普段は一個人として、あれだけ権利の認められている遊牧民の女性。自由に外を出歩き、楽器を弾いたり、踊ったり、料理をしたり、書物を読んだり、あるいは書いたり、どころかエルミスのように馬に跨り、弓を引く事も認められている遊牧民の女性。
そんな彼女たちには、独立心というものはないのだろうか?
いや、彼女たちにあるかないかは、この際どうでもいい。エルミスにはあるのかどうかが、仙太郎には重要だった。もしエルミスに、なにかやりたい事があるのだとすれば、そしてそれを、仙太郎との結婚で断念してしまったのだとすれば、自分を気にせず、それをやってほしい。夢を持つ事は、実に有意義な事だと、仙太郎は信じている。
エルミスにも、それを持ってほしいと思うのは、この世界では間違いなのだろうか?
仙太郎にとっては、お邪魔しているだけの世界であっても、やはり妻くらいは幸せにしたいと思う。その幸せが、もし自分と共になくとも、あるいは生涯共にあろうとも。
「さぁ、これで戦支度はできあがりですね。素敵ですよ、旦那様」
「ああ、ありがとう。じゃあ今度こそ、エルミスの準備も整えてくれ。場合によっては、俺たち二人だけで戦う事になる。万が一を考えて、きちんと身を守れるよう、準備を怠るなよ?」
「はい、旦那様!」
嬉しそうに笑うエルミスの笑顔に、やはり彼女には幸せになってほしいと思う仙太郎。
異世界で出会った一組の夫婦の価値観は、少々複雑にすれ違っていた。これは、異世界だなんだという文言を抜きに、ただただ仙太郎が朴念仁である事が原因である。
女の子の夢は、どこの世界、どの時代であろうと〝お嫁さん〟が、統計上の一位を独占しているという事を失念しているのだから。
エルミス、十九歳。現代日本の価値観では、既にクリスマスを迎えている彼女。
馬術と弓術が好きで、子供の頃から馬に乗ってきたエルミス。その二つで、遊牧民の中でもそこそこの実力者になってしまった彼女は、戦後に生まれた若い少年たちにとっては、妻として娶りにくい存在だった。
ゾル族では女性が馬術、弓術を修める事は認められている。それで秀でたところで、本来はあまり問題視されたりはしない。むしろ、いざというときに戦えるという事は、褒められるべき美徳だった。しかし、一族の男は戦士になる事が前提の遊牧民にとって、自らより武に秀でた妻というものは、非常に扱いづらい存在だ。
妻より武勇で劣るという事実は、男の瑕疵になるからだが、タルトのような若年の戦士たちにとっては、単純に研鑽の年数が違うので、仕方のない事でもあった。
しかも、本来はそういった女性の受け皿となるべき歴戦の戦士たちは、戦後のベビーブーム時に目一杯妻を娶ってしまっており、これ以上は本気で腹上死の心配をしなければならないような、笑えない男の夢を叶えていた。
つまり、不運な巡り合わせによって、エルミスの婚姻はパテラスとエルミス、双方の心配のタネだったのだ。
そこに現れたのが、年頃もちょうどよく、馬術こそ未熟だが、たしかな実力を有する仙太郎。遊牧民ではない仙太郎だったが、聞けば異世界の出身であるという。つまり、大陸の他民族ではないという事であり、そこから一族を浸食される心配は、極めて低いといえた。
一族挙げての塾考の末、エルミスの婿にとる事はできなかったものの、エルミスを嫁にして族長の縁戚にするという手段で、事実上仙太郎を一族に取り込んだゾル族。
その事に誰より喜んだのは、実はエルミス本人だった。
遊牧民の価値観において、結婚というものは家長が決める、家と家の繋がりを強くする政治の一部である。しかし、それは建前であり、お互いにお互いを好いていなければ、なにかしら理由をつけて縁談が流れる事もあった。パテラスも、エルミスに仙太郎を拒否するような気配があれば、無理に婚姻を勧めたりはしなかっただろう。
仙太郎は知らなかったが、お見合いを受けた後で断る事はタブーだが、その前に断るのは別に失礼でもなかったりする。また、お見合いの最中にも抜け穴があり、なにかしらの変事があれば、それを口実に『縁起が悪い』という理由で婚約を流す方法とてあった。その変事も、遠乗りに出たら魔物が出たから縁起が悪い、雨が降ったから縁起が悪い、曇ったから、日照りだから程度の事でも構わない。つまりは、ていのいい口実で、相手を振る事はできるのである。
遊牧民の婚姻は、実は仙太郎が認識している程、厳格な風習ではないのだ。
では、なぜ仙太郎が勘違いしたのかといえば、パテラスが有無を言わせず仙太郎にエルミスを嫁がせたからである。パテラスとて、普段は厳格な父親として振舞ってはいても、自分の娘が可愛くないはずがない。そんな娘が、不運から嫁の貰い手がないという事に、かなり気を揉んでいたのだ。
仙太郎に対しお見合いでの抜け穴などを教えなかったのも、そういった風俗に疎い仙太郎を逃がさない為だった。
たしかに抜け穴の多いお見合いの風習であるが、やはり男尊女卑の風潮は根強く、男性である仙太郎から相手を袖にする事はできても、エルミス側に相手を選ぶ権利は、建前上は認められていない。仙太郎が、それに忌避感を感じたのは、偏に現代日本における男女平等の概念を有していたからだ。
しかしそれは、男尊女卑の社会で生きてきたエルミスの価値観では当たり前の事であり、不当だとは考えていない。パテラスが決めた以上は、もし相手の事が嫌いであっても、それに従う事を当然と受け止める。家と家との結びつきを強める、政治の一種というのは、そういう事である。
とはいえ、親としては娘に嫌いな相手と一緒になって、不幸せな一生を送って欲しいなどと思うはずがない。貴族的な慣習の薄い遊牧民にとって、結婚は実は、かなり自由なものだった。仙太郎にそう見えなかったのは、一応は男尊女卑という建前が残っており、その建前に目を奪われて本質を見失ったからに他ならない。
なにより、当時十八歳のエルミスにとって、これを逃せば本気で婚姻の機会を逃しかねない状況だったのだ。喜びこそすれ、不満に思う事はまったくなかった。
しかし、異世界出身の夫は、その婚姻の価値観が、自分たち遊牧民のものとは、まったく違った。他文化との交わりを、極力絶ってきた遊牧民であるエルミスにとって、違う価値観というものに対する理解と適応は難事を極めた。それでも、夫を理解する為に、度々暇を見つけては、仙太郎の世界の話を聞き、仙太郎に日本語を習ったりして、異文化を理解するように努力している。すべては、夫の為。夫を支える、よき妻になる為に。
しかし、このままでは、東城の姓を名乗る事なく、自分は一族へと戻らねばならない。
エルミスはずきりと痛む胸を鎧で覆い隠し、呑気にこちらを窺っている夫に笑いかけるのだった。