三話
「ハァーッハッハッハ!! むべなるかな! むべなるかなッ!!」
「――――は?」
自転車に乗ったままの姿勢で、仙太郎は唖然とした表情を浮かべる。眼前には、一人の壮年の男。傲岸不遜に笑う男は、豪快に語る。
「その意気や良し! それこそ、我の求める条件である!」
「は?」
呆気にとられ、同じ言葉を繰り返す仙太郎。それは言葉というよりは、音といった方が正しい表現だっただろう。
しかしそれは、仕方のない事だった。朝靄の中を走っていた仙太郎が、次の瞬間にはよくわからない場所に連れてこられ、よくわからない男に、よくわからない事を言われているのだ。もしこの段階で状況が呑み込めるような奴がいれば、それは予知能力者か、なろうに染まり過ぎた奴だろう。
ここがどこなのかすら、杳として知れない場所。少なくとも、さっきまで走っていた住宅街ではない。どころか、屋外なのか屋内なのかもわからない。白いような、黒いような、明るいような、暗いような、狭いような、広いような、そんな『よくわからない場所』としかいえないところに、仙太郎はいた。
しかし、男は仙太郎の狼狽など意に介す素振りすら見せず、自分勝手に話を進める。
「やる気のある者!! 努力を惜しまぬ者!! 実力に裏打ちされた自信を持つ者!! そのような存在こそが必要なのだと、我は結論付けるッ!!」
「お、おい……、なにを言っている? ここは、どこだ? お前は――――お前は誰だッ!?」
叫ぶ仙太郎は、恐怖していた。非現実的な光景に。ありえない状況に。
仙太郎の問いに、女は答える。
「私が誰かなどという問いに、答えなどない。私は誰でもなく、誰でもある。唯一確実な事は、一つだけよ。私はお前ではない。それだけ」
「な、なんだよ……それ……」
さっきまで男だった目の前の人物は、いつの間にか妙齢の女性になっていた。しかしその姿は、ややもすれば一瞬ののちには再び変わってしまいそうな程に、虚ろで希薄。線が細く、儚げな女性は、なおも続ける。
「問題は今よりも、これからよ。君に求められている役割は、遺伝子の方舟」
「は、方舟……? 遺伝子……」
「そうよ、遺伝子。あるいは、文化」
「…………」
遺伝子と文化。まるで違う二つを、同義の存在として語る目の前の少年。中学生くらいの彼は、快活に語る。
「やっぱり、引き籠りとか犯罪者って、やる気が足んないんだよねー。ちょっとした事ですぐ心折れるし、安易な道にばっか流れちゃって、最終的に役に立たないんだから」
ケラケラと嗤う少年は、嗜虐的な視線で仙太郎を見つめていた。
「ストイックに、ハングリーに、苦境に慣れたマゾヒストにこそ、僕が求める生存率が存在すると考える!」
少年は語る。あまりにも滔々と、あまりにも無邪気に、少年は語る。
「二十二人。僕があちらの世界に送り出した人数だよ。引き籠りやニート、ホームレスや犯罪者等々、いなくなっても社会的影響の少ない人間を選抜して送り出したら、あっちの世界にもまったく影響与える事なく死んじまいやがったんだ」
「二十二人……」
「そ。二十二人、全員死んじゃった。あ、予め教えておくね。僕が君に求めているのは、遺伝子の運搬、そして文化への干渉だ。つまり、あっちの世界で子供を作ってもらう事。別に勇者になって、魔王を倒してくれなんて頼まない。その辺、勘違いするやつも多くてね。率先して危険に身を晒し、流れ作業みたいに次々死んでいくんだ。ったく、送り出すのもタダじゃないってのに……」
淡々と語られる内容に、仙太郎は戦慄する。二十二人の人間の死を、まるで些細な事とでも言いたげに語る少年。それは非現実的な眼前の光景の影響か、はたまた少年の語り口の影響か、自然と真実だと感じさせた。だからこそ、仙太郎は目の前の少年に恐怖する。
そこにあるのは、人間の死を、実験動物の死と同程度に語る存在だと、認識したから。
「信じらんないくらい、バイタリティの低い人間の生存率は低いんだ。そういう意味では、一番生存率の高かったのは犯罪者だったね。ただ、連中はすぐに安易な道に流される。犯罪や反社会的な行動をとって、権力者に危険視されてしまい、最終的に殺される。いやまぁ、生存の為に恩恵を与えすぎたのが原因なんだけどね……。あ、あと食中毒と感染症! なんだって、日本人ってのは魚を生で食べたがったり、卵を生で食べたがったり、豆を腐らせてから食べたがったりすんだろうね! そら死ぬわ!」
「…………」
「おっと、蛇足が多かったね。いやはや、無駄話が多いのは僕の悪い癖だ。東城仙太郎君。君に求めているのは、僕がこれから送り出す世界でハーレムを構築し、多くの子孫を残し、子々孫々日本人の遺伝子を、その世界に残してもらう事だ。安心してほしい。君には生存を第一に考えてほしいので、こちらも恩恵は用意する。力というものは、向こうの世界では立派なステータスだ。女性に困る事はないだろう」
「ちょっと待て! 送り出すだとッ!?」
少年の吐く言葉は、一から十まで意味不明であった仙太郎だが、その台詞だけは断じて容認できるものではなかった。
「俺の野球はどうなるッ!? 初公式戦はッ!? 甲子園はどうなるんだよッ!?」
「あー……、ごめん。あんま考えてなかった」
あっさりと、そう言い捨てる少年。
信じられない。こんな自分勝手に、身勝手に、自分の夢を踏みにじろうというのか、目の前の存在は?
「僕たち神霊種っていうのは、全知全能なんだ。ただし、人間の生存や文明発足の足掛かりとして世界に干渉する為、神だの悪魔だのに身を窶すときにその存在を過少化して――――」
どころか少年は、仙太郎の絶望をまるで意に介さず、またしても余計な蘊蓄を語り出した。その姿勢に、これまでは圧倒されっぱなしだった仙太郎も、流石に引いていた血の気も戻り、どころか頭に上る。
「ふざけるなッ!!」
怒髪天を衝くような仙太郎の態度に、少年はそのあどけない顔立ちを驚きの色に染めて、目を丸くする。
「おやおや? これはいったいどういう事だろう? この段階で怒られたのは、僕の経験でも初めてだ。いったいどういう心境で怒りを発露させたのか、聞いてもいいかい? あ! いや、ちょっと待って! 今、人間の情緒に詳しい僕と交代するから!」
仙太郎の怒りなど意に介さず、むしろ嬉しそうにそうまくしたてた少年は、仙太郎の目の前でその幼い相貌に手を乗せると、まるで昔のスパイ映画よろしくベリベリと顔を剥ぐ。気付けば、眼前にいたのは初老の男性。瞬く間という表現があるが、目の前の変化は瞬きをしていない仙太郎にも理解できない程に、ゼロに近い時間で行われた。
身長も服装も、一瞬で変化した老人は言う。
「ふむ。さて少年、儂に聞かせてはもらえぬか? なにゆえ怒る? アレはやや自分の都合を優先し過ぎるあまり、手段を見失いがちではあるが、それでも目的を見失う事はないはずなのだが?」
仙太郎は基本的に、敬老精神にあふれた少年である。だが、目の前の一見老人に見える怪物相手に、その敬老精神を発揮するつもりはなかった。
「なぜ? なぜだと!? なぜもなにもない!! 俺は高校球児だ! 異世界だかなんだか知らないが、そんなものは他所でやってくれ! 俺は甲子園に出場するんだ! 魔王も勇者も魔法もモンスターも、俺には関係ない! ハーレム? 興味ねーんだよ! 勝手にやってろ! 女に使う時間も金も、俺にはない!」
仙太郎は、それまでに溜め込んだ不満を一気に吐き出す。
甲子園。甲子園だ。
その為に仙太郎は、学力的にはちょっと無理をして、県内有数の強豪校に入学したのだ。十年近い研鑽の日々を積み重ね、ようやく九イニングスを迎えた仙太郎の野球。彼の努力は、この三年の為にこそ積んできたといってもいい。
それでも、ここまでやっても、もしかしたら甲子園の銀傘を拝める機会は、仙太郎の三年間で訪れないかもしれないのだ。当たり前だ。こんな事は、日本全国の高校球児の多くが実践している。彼等全員が、努力に見合った成果を得られるかといえば、そんなはずがない。そんな事になれば、春夏の甲子園球場には、スタンド以上にグラウンドに人が溢れ返る事になるだろう。こんな事で出られるなら、誰もあそこまで必死に、甲子園という聖地を目指したりはしない。それが、高校野球という厳しい世界だ。
だからこそ意味がある。だからこそ、夢に見る。
「ふむ……。いや、申し訳ないが少々理解不能じゃの」
しかし、老人はそう言い捨てる。
「否。理解はできる。理解はできるが、やや難解じゃ……。宗教のようで、主義のような……。否。そうではない。それは、高校生という短い期間に限定され、その後捨てる事を理解してなお、信仰し主張するという前提を考えれば、期間限定の気の病とでも……。否だな。彼は正気である。しかし、捨てる事が前提の宗教、主義などというものは、存在意義が破綻しているといわざるを得ない。プロ野球選手となりたいわけでもない? 否。なりたくはあるのか。だが、英雄願望を抱く者が、誰しも英雄的な行動をするわけでもないように――――否。これも違う。ただ漠然とした憧れに留め、現実的には安定した一般職に就く事を望んでいるのか? では、なぜ高校野球などに、全てを注ぐ? いずれ捨てるとわかっている甕に、それまでのすべてを注ぎ込んでから、たかだか三年の高校生活を終えれば本当に叩き割るのか? 否。否? 否否。その認識こそが間違いか? 捨てるのではない、のか? 思い出としての昇華? カタルシス――――否。陳腐である。そのような言葉で枠に当てはめるには、目の前の事例は特異である。否。やはり、地球における一般的な認識では、宗教に近い概念である。そして――――戦争。そう、戦争か。それも、聖地奪還の聖戦の概念――――否。否否否。それではない。そこまで切迫してはいない。勝利できずとも、達成できずとも充足する目的? なんだそれは? 今まで見落としていた事が不思議な程に、難解な題材である。儂等は、高校野球という題材を、観察すべきでは――」「――失礼、東城仙太郎君。いやはや、彼はたしかに情緒に詳しいが、詳しすぎるという点で、対応に向かないという結論に達した。非礼を詫びよう」
怒涛のようにまくしたてた老人が、線の細い青年へと姿を変えて、慇懃に謝罪する。老人の態度に圧倒され、毒気を抜かれてしまった事に、仙太郎は些か危機感を覚える。やはり、目の前の超常なる存在を相手にするには、それなりのエネルギーを有する感情が必要だった。
平常心で相手をすれば、どうしても圧倒されてしまう。それだけの存在感を、目の前の青年は放っていた。
「東城仙太郎君。聞いてもいいかな?」
「……なんだ?」
「君は本当に、ハーレムに興味はないか? 正直を言えば、私はこの条件で拒否を告げられる事を想定していなかった。我等は全知全能だが、それがゆえに未知を知らぬ。全能であるがゆえに、諸君らの創る新たな文明、文化を創れぬ。そして私まで存在を過少化してしまえば、もはや全知でも全能でもない。ゆえに、君の選択は非常に興味深い」
「それは、お前がこっちの世界に未練のない者ばかりを選んでいたからだろ? 俺はまだ、こっちの世界でやりたい事が多くある。家族もいる。どことも知れぬ世界になんて、行きたくない」
ふむ、と考え込む青年。目の前の存在は、どうやらかなり理屈屋のようだ。
「つまり、ハーレムそのものに対して、興味がないわけではないと?」
「いや、そうだな……」
一旦そう呟いて、僅かに考え込んだ仙太郎は、改めて青年と向き合う。
「うん、やっぱり興味ない。というか、一人の女性を相手にするのも大変そうなのに、なんでわざわざ複数人の女性と、同時に付き合ったりしなければならないんだ?」
「うん? ハーレムは人類の婚姻形態として、それ程特異なものとはいえないぞ?」
「王様とか権力者はな。でも、現代の日本でそれは犯罪だし、俺は一般人だ」
「しかし、人間の男という種の欲求として、ハーレムは誰しも夢見るものではないのか?」
「うーん……。そういう願望を、理解できないわけではないんだが……」
複数人の女の子にチヤホヤされる状況を思い浮かべれば、なるほど肯定的にその状態を捉える事はできるだろう。しかし、そのようなコミュニティが恋愛関係の上に維持されているという事を考えれば、砂上の楼閣という言葉以外に、それを同定できない仙太郎。
「維持を考えたら、辟易という言葉を通り越して、恐怖すら覚える……」
「そこまでか。たしかに動物界のハーレムは、オスに対する性的搾取に近いが……」
「そもそも俺は、恋愛経験が皆無なんだ。そんな俺が、異世界でハーレムだなんて、魔王討伐より難易度が高い」
キッパリと、そう断言する仙太郎。
東城仙太郎という男は、昨今流行の草食男子なのである。ハーレムどころか、一人の女の子と付き合う事を考えて、そのあまりの労力と財力の消費に及び腰になってしまうような、ヘタレ野郎なのだ。
「だからどうか、俺以外の、異世界で女の子とイチャイチャしたい男を探して、ハーレム作りはそいつに任せてくれないか? チャラチャラと髪伸ばしてるヤツとかオススメ。できればサッカー部から選んでくれ。まぁ、そうじゃなくても、たしかにその提案をうけるやつ、結構多いと思うぞ? 俺は、女の子と遊ぶより、練習がしたいが」
「ふむ……。君はもしかして、女性に興味がないのか? だとすれば、計画はそもそも成り立たぬ。たしかに、私の人選ミスだ」
「いや、あるぞ。ただ、欲に任せて安易な道に逃げたら、絶対後悔する。試合で負けたとき、彼女に対して『こいつと付き合っていた時間を、練習に充てていたら』とか考えない程、自分ができた人物だとは思っていない。どころか、そんな八つ当たりをするようなやつだと、自覚している。だから俺は、今は彼女はいらない。俺みたいなやつに、そんな逃げ道はいらない」
「ああ、なるほど。だから、高校野球が終わるまで、恋人はいらないという事だな。なるほどなるほど、たしかに興味深い……」
「そうだ」
どうやらわかってくれたらしいと、安堵する仙太郎。目の前の存在も、自分という個性が目的に合致していない事を理解し、人選をやり直してくれるものと期待した。どころか、話せばわかるじゃないか、などと楽観した。
その存在が、自分たち人間を、実験動物と同列に扱っている事を、失念して。
「しかし、他の高校球児が、すべて君のような個性を有しているかといえば、恐らく否であろう。どころか、君こそが特異であるとすらいえる。状況は今、変化した。凡百とは別種の、特異であると、私は結論付ける。その、一つのものに対する熱意。その為に、多くのものを制限する理性。延々と続く練習という名の労苦を労苦とも思わぬ、その忍耐力。実に素晴らしい!」
「……は?」
そう、だからこそ、そのとき仙太郎の反応は遅れた。
「我等が欲しいのは、その遺伝子だ! その精神だ! その文化だ! 我等に、文化は創り出せぬ! ゆえに、輸入せざるを得ない。あの世界に、日本人特有のストイックさを取り入れる程度の計画ではあったが、状況は今変化した! 我等は君の存在を観察する!」
「ちょ、ちょっと待て! だから、俺じゃ無理だって! それに野球が――」
「私は言った。『高校野球が終わるまで、恋人はいらないという事か』と。君は答えた『そうだ』と。喜び給え、東城仙太郎。向こうの世界に甲子園はない。グローブもなければ、バットもない。ボールはあるだろうが、野球ボールは恐らくないだろう。つまり、君の高校野球は今日で終わりである! 今日からは、思う存分色恋にうつつをぬかせるぞ!」
「い、いや、違っ――そうじゃない!」
「貪欲に勝利を求めるくせに、最終目的に到達できぬ事すら想定し得るのだろう? 飽くなき努力の賜物を、目的の達成、もしくは失敗と同時に捨て去り、錆付かせる。成就を目的とせぬ夢というものは、実に不可解なれど、私の目的とも相反しない! 実に実に興味深い! 君が今現在、高校生であってよかった! もし大人になっていれば、社会に与えた影響も大きかったはずだ。今はまだ、ただの高校生ですむが、将来的にはそれは叶わなかっただろう。僥倖といっていい! その影響力は、向こうで大いに発揮してくれ給え。多くのもの生み出し給え。物でも、者でも、好きに生み出し給え。君のすべてを肯定しよう。君のすべてを同定しよう。それが私、ダンタリオンの使命である!!」
明らかに、仙太郎に不都合な話の流れだった。しかし、困惑する仙太郎の感情に、怒り程のエネルギーはない。目の前の存在を止める手立ては、今の仙太郎にはなかった。
「さぁ、行き給え!! 水面に投じられる小石のごとく! あるいは焚き火にくべられる竹のごとく! おおいに世界を刺激し給え!!」
嬉しそうな青年の声を最後に、仙太郎の意識は闇に呑まれていった。