十話
吹き抜ける風は、緑の匂いを帯びている。しかしそこに、僅かに混じる鉄錆と潮の匂い。その芳しい香りに身を起こしたそれは、爛々と輝く金の双眸を、匂いの漂ってくる方へと向ける。
遥かなる平原の先の先。視覚では決して届き得ない遠方の情景も、研ぎ澄まされた嗅覚は正確に嗅ぎ取る。
それは四つの脚で、しっかと大地を掴み、天高く輝く太陽に向かって咆哮する。多くの眷属たちが見守る中、なおも宣言するように吠え立てる。
――――あれは、自分の獲物だと。
多くの動物と、人の群れ。あれに牙を立て、柔らかい肉を噛みちぎるのだ。芳醇な血潮を浴びるのだ。そして――――恐怖と絶望を食らうのだ。
再び雄叫びをあげたそれは――――走り出す。
吹き抜ける一陣の風の如く、大地を踏みしめ、爪を立て、疾駆する。後ろからは眷属が続き、幾百、幾千もの足音が、追ってくる。草色、土色、砂色、石色、木目色、枯れ草色、麦色、夕焼け色、宵闇色、夜色。色取り取りの大狼たちは、さながら淀んだ虹のように、歪で醜い稜線となり、進撃を始めた。
その先にいるのは、三千人の遊牧民と、一人の草食男子。肉食動物と草食男子の衝突は、既に不可避の段階へと至っていた。
●○●
『さてさて! じゃあお待ちかね! 君に与えた、恩恵について話そうか!』
「聞きたくねぇ」
『まずは、一番異世界らしい恩恵、《魔法》だね! どうだい、心踊るだろう?』
「聞きたくねぇっつってんだろ!」
『そーかそーか。それだけ喜ばれると、あたしとしても、恩恵を与えた甲斐があるってもんだよ!』
端から意見を聞く気のない声が、仙太郎の握るスマートフォンのスピーカーから響く。いちいち勘に触る、ヘラヘラとしたその声に、仙太郎は本日何度目になるかわからない殺意を覚える。しかし、倦怠感によってそれは不完全燃焼となり、一抹の煙だけを残して立ち消えてしまう。
こうして見も知らぬ世界に連れてこられた以上は、仙太郎に取れる選択肢など一つしかないのだ。
この電話口の化け物がだした無理難題を、なんとかしてクリアしなければならない。
それさえできれば、仙太郎は元の世界へと帰還できる。そういう約束だ。無論、相手が約束を守らない場合は、往々にしてあり得るだろう。なにせ、このクソ化け物は悪意の塊だ。むしろ、一ピコグラムでも善意というものが含まれているのかどうかさえ、疑わしい悪魔である。
だが、だったとしても、仙太郎はそれに従わざるを得ない。一から元の世界に帰る方法を探るより、このクソ化け物にあるかもしれない、ゲームの公平性を保つ程度の倫理観に期待する方が、残念ながら帰還の可能性は高いのである。ここが、ダンタリオンの籠の中だというのなら、その籠に穴が空いている事を期待するより、その持ち主と交渉する方が建設的という事だ。
結局、化け物の思惑通り、その手の平の上で踊るしか、仙太郎にはできない。無論、仙太郎にっとっては苦渋の決断だった事は、いうまでもないが、それ以外の選択肢は現実的ではない。現実主義者の仙太郎は、まんまと悪魔の口車に乗ったのである。
『じゃあ、《魔法》についてだけど、これって別に説明する必要とかないんだよねぇ』
「は?」
『いやだってねぇ……。君は今日から、魔法が使えます。はい、説明終わり』
「いや、舐めてんのか?」
それのどこが説明だと、仙太郎は呆れる。しかし、対するダンタリオンも、難しそうに唸っており、どうやら冗談の類ではないようだ。
『うーん……。なんて言えばいいのかなぁ……。なまじ、地球の余計な前知識を持っているから、説明が難しいんだよねぇ……』
「つまり、この世界の人間なら、説明するまでもない事だと?」
『いやいや、それ以前の問題』
仙太郎の疑問に、ダンタリオンはある意味幻想をぶち壊すような、身も蓋もない事実を告げる。
『あのね、魔法っていうのは、小難しい理論とか、長ったらしい詠唱とか、杖とか魔法陣とかがなくても使える、個人に与えられた才能なんだよ。魔法を使う、使いたいと思ったときに、自然と思い浮かぶ魔法の名を告げるだけで、魔法は使えるようになる。だからね、君は今日から、魔法が使えます。準備も勉強も必要ありません。知識も経験も必要ありません。ただ使えるようになったので、使えます』
つまり、小難しく考える必要はないと、ダンタリオンは言う。仙太郎は半信半疑ながらも、言われる通りにやってみる事にした。
すると、悪魔の言う通り、本当に頭に言葉が浮かび、口をつきそうになった。それだけで、なにを、どこに、どれだけの事ができるかがわかってしまった。
「……これは……」
わなわなと震える唇から、自然と言葉が溢れる。見下ろした手は、小刻みに震えている。信じられないという思いとともに、仙太郎はその手を握りしめた。
『ん? 流石にこれは、君でも嬉しいかい? まー、マジモンの魔法だもんねー。全男の子の憧れ――――』
「――――最悪だ……」
仙太郎は頽れた。
『えー…………』
あまりにも予想外の反応に、ダンタリオンこそ肩を落としたい気分だった。
多かれ少なかれ、魔法が使えるようになった者は、喜ぶものだ。魔法こそ、地球の物質文明とはまったく違う文明の象徴である。これをより先鋭化、先進化していく事こそ、ダンタリオンがわざわざ地球人を異世界に招いている理由でもある。
にもかかわらず、手にした異文明に対して仙太郎が感じたのは、歓喜でも好奇でもなく、諦念と絶望だった。
ダンタリオンからすれば、この《魔法》こそ、仙太郎のやる気に火をつける、最後の切り札だったのだ。それがたった今、あっさりと捨て札扱いされたのである。失望を感じるのも、無理からぬ事だった。
『あのさぁ、いったいなにが、そんなに不満なの? あたし、君にはかなり大盤振る舞いしたんだよ? 普通は、一人につき一つ二つしか与えられない《魔法》を、六つもプレゼントしたんだけど。それでなんで、そんなに落ち込んでるのさ?』
「兵器と背比べする趣味はない……。こんなの、もう人間じゃねー……」
心の底から嫌そうな声で、地面に落ちたスマートフォンへと語る仙太郎。
仙太郎が頭の中で確認した、六つの魔法とその効果。それは、地球だったら戦車や戦闘機並みの攻撃力を発揮する代物だった。間違っても、個人が所有していい戦力ではない。もしここが地球であれば、仙太郎の使用は条約で取り扱いが制限されるレベルである。国家に危険視される個人が、どれだけの不自由を被るか、想像するだに、気の滅入る事甚だしい。
そんな戦闘力を、望んでもいないのに持たされてしまった仙太郎の絶望は、しかし人ならざる化け物には理解できない。
『なんだよぉー。よかれと思ってあげたのにっ! プレゼントに文句をつけるなんて、男として最低だよ!』
「プレゼントなんていらねーから、元の世界に返してくれ。俺が欲しいのは、元の生活だけだ」
『ぶぶー。残念でした。それは約束通り、君があたしの課題に合格できたときに渡されるご褒美だよー』
それはそうだ。このふざけた悪魔が、仙太郎をこの世界に連れてきたのは、こうしておちょくる為ではない。仙太郎に子供を作らせる為。そして、僅かなりとも、地球の文明を残し、こちらの文明に影響を与える為だ。
なにもしていない現状、ダンタリオンが仙太郎を元の世界に返すはずがなかった。
『まったく。本当に、君は特異だね……。これじゃ、他の恩恵の説明をするのが怖いよ……』
「まだなにかあるのかっ!?」
驚愕する仙太郎に、地に落ちたスマートフォンは肯定の声を返したのである。
●○●
「センタロウッ!!」
鋭い声に仙太郎は飛び起き、抱いていた曲刀の鯉口を切る。しかし、そこにいたのは、青い顔をしたタルトだった。
ベルク子爵領に向かい、取って返し、そこから休みなく撤退の護衛をしていた仙太郎とエルミスには、休息が必要だった。民の足を止める事にはなるが、いざというときに二人の集中力が切れても困る。二時間の休憩の間、一時間交代で簡易テントの中で睡眠をとっていた仙太郎。
壮絶な先の譲り合いの末、『こうして言い合っている分、刻一刻と時間は削られていくのですよ? 旦那様の後であれば、私も必ず床につきますから……』というエルミスの言葉に、渋々仙太郎は先に寝る事を了承したのだった。
しかし、そのせっかくの睡眠時間を、事もあろうにタルトが妨害する。だが、それが年相応の悪戯心から行われたのではない事は、その青ざめた顔を見れば一目瞭然だった。
「なにがあった?」
仙太郎は抱いて寝ていた剣を腰に戻しながら、その答えを予想しつつ問う。
聞くまでもない。敵の姿を確認したのだ。ここは見晴らしのいい平原であり、遠くからでも敵の姿を捉えられる。だからこそ仙太郎も、タルトや民に警戒を任せて眠る事ができたのだ。
だがしかし、ただ敵影を確認しただけで、あの勝気なタルトが、こうも怯えるだろうか。その答えは、すぐに返ってきた。
「て、敵だ……」
予想通りのその答えに、むしろ嫌な予感は増していく。
「数は……?」
「……わかんねー……。……たくさんだ……」
身支度を整えた仙太郎は、タルトを促して簡易テントから飛び出す。テントのすぐ側に繋がれていた馬に飛び乗ると、タルトについて集団の先頭まで駆ける。
そこには、多くの遊牧民たちも集まっていた。ざわつく彼等が、背後の蹄の音に振り返り、仙太郎に道を譲る。その先に見えてきたのは、地平の先からこちらへ向かって伸びてくる、マーブル色の川。その川を流れているのは、当然水などではない。人間よりも遥かに大きな体躯を誇る、大狼たちだ。それが淀みなく流れ、一つの川となっているのである。その数は、三桁には収まらない。
明らかに、大氾濫クラスの魔物の大群だった。
「エルミス」
「仙太郎っ」
ようやく先頭に到達した仙太郎が、そこにいたエルミスへ声をかける。
「どういう事だと思う?」
仙太郎の問いに、しかしエルミスは首を振る。
「わかりません。こちらが群れの本体、という事はないと思いますが……」
「だが、明らかに数が多すぎる。別働隊ですらないし、まして斥候なんて可能性は、もうあり得ない」
その言葉に、エルミスは深刻な表情を浮かべて押し黙る。
「そ、そんな事より、どうすんだ? あのままじゃ、確実にこっちにくるぞ?」
顔面蒼白のタルトの言葉に、仙太郎とエルミスが顔を見合わせて頷く。今は、あの群れがなんであるのかという疑問は棚上げし、民を守る事を優先しなくてはならない。
「ああも真っ向から向かってくるんだ。向こうはもう、俺たちを認識していると考えた方がよさそうだな」
「奇襲は無理、ですか……」
「ど、どうすんだよ……?」
そもそも、奇襲でどうこうできるような数ではないが、それでも機先を制する事ができれば、幾分有利に戦闘を始められた。しかし、現状それは不可能である。
「選択肢は二つだ。進行方向を変え、あの群れから逃げるか、戦って撃破するかだ」
仙太郎の言葉に頷くエルミスと、よりいっそう青褪めるタルト。
「で、でもよ!逃げても追ってくるだろっ!?」
「そうだな。この状況で、あの群れが俺たちを見逃すはずがない」
「じゃあ、逃げる意味ねーじゃねーか!」
「そうでもない。この作戦なら、追ってくる敵の先頭だけ倒せばいいんだから、ある程度は戦いやすくなる」
一直線に向かってくる先頭だけ倒せばいいなら、一度に相手にする大狼の数は数十。仙太郎とエルミスなら、そう時間もかけずに処理できる数だ。
「だ、だったらっ……!」
「だが――――この策には問題がある――――」
一見良案に思えるその作戦に飛びつこうとしたタルトに、仙太郎が冷水を浴びせる。
「第一に、敵の数が多すぎる事。第一波、第二波を倒せたとしても、第三、第四があれば厳しいし、第五、第六波まであれば、俺たち三人では手が足りない。倒しきれなかった大狼たちは、後ろの家畜や民に襲いかかり、混戦になるだろう。そうなれば終わりだ。第二に、こちらも数が多すぎる。向こうの方がこちらより足が速い。絶対に、逃げ切れない」
「な…………」
あまりにも絶望的な事実に、タルトは絶句する。
仙太郎とエルミスは優れた戦士だ。口には出さないが、タルトも間近で見た二人の実力は認めており、密かに尊敬もしている。だが、それ程までに優れた戦士であろうと、あのような魔物の大群を前にしてなにができるだろうか。
たしかに、仙太郎とエルミスであれば、数十の魔物を相手に、不覚は取らないだろう。しかし、それであの魔物の大群全てを狩り尽くせるかと聞かれれば、即座に無理だと判断するだろう。
魔物の処理が追いつかなくなり、後ろに庇う民と、対峙する魔物の群れとの板挟みになれば、あの大群を真正面から三人で受け止めなければならない。そんな事は、不可能だった。
そして、自分たちが受け止め切れねば――――タルトは、最愛の妻と子がいるであろう、背後の集団に視線を向け、痛みとすら錯覚するような悪寒を覚える。
状況は最悪だった。
「お、囮を使って、敵の進行方向を変えれば…………」
「無理だな」
自分たちが囮になれば、敵の進路を変え、民たちの逃げる時間を稼げるのではないかというタルトの提案を、仙太郎は一顧だにせず却下する。
「敵の数がもっと少なかったら、あるいはこちらの人数がもっと多ければ、それが一番だったんだがな。あの数じゃ、俺たちと家畜、全部を囮に使っても、引きつけられて半分だ。残り半分が、無防備な民に襲いかかる」
「そんな…………」
では、いったいどうすればいいのか……? このまま、妻と娘があの獣どもに食い散らかされるの待っていろとでも言うのだろうか?
自分はいいのだ。戦士となったからには、死ぬ事も仕事の内である。だがそれは、家族の――――愛する妻と娘の為の死でなくてはならない。
この状況で妻と娘が助かるというのなら、今から単騎であの群れに特攻をかけて死んでこいと言われても、喜んでそうするだろう。しかし、このままでは自分が死んでも、二人とはすぐに再会する事となる。あるいは、自分の方が後から合流するという可能性もある。それでは、死ぬ意味すらない。
「……センタロウ……」
まるで、救いを求めるように、不安な声で仙太郎の名を呼ぶタルト。その顔は、年相応の子供が泣き出す直前のような、しかしそれを必死で押さえつけているような、そんな表情に見えた。
そんなタルトを一瞥した仙太郎は、「ふう」と軽いため息を吐き、いつものぶっきらぼうな声で答える。
「安心しろ。選択肢は二つだって言っただろ?」
その声は軽く、感情の起伏は窺えない。恐怖も、絶望も、緊張さえ窺えない。
「もう一つの選択肢――――正面から戦って撃破する」