その二
緑の楽園と呼ばれるこの部屋で、カナリスは寝起きしていた。
蔦が壁という壁を覆い隠し、もはや森林の奥地という様相だ。
最初は、大地の精霊を感じられるように模様替えしたのだが、現在はどこにいるよりも落ち着く空間となった。
ハティスから受け取った手紙を床に投げ捨てたカナリスは、ぎりりと奥歯を噛んだ。
差出人を見れば、中身を見ずともなにが書かれているかはわかっている。
商家の長男として生を受けたカナリス。
古くから商いをしているため、地元でも名の知れ豪商だったが、カナリスの両親に商才はなかった。
金策に走り回る父の傍らで、名家の出の母は、生活の水準を落とすのはよしとせず、豪遊していた。そんな二人の間に愛があるはずもなく、繋いでいるのはわずかな金だった。
そんなときに生まれたのがカナリスだ。
両親は、我が子が八聖騎士であると知ると、すぐに教会に売り渡した。それこそ、あっさりと。
我が子への情よりも、教会からの報償に目が眩んだらしい。
普通の生活をしていれば、一生を働かずに過ごせる程度の金銭を受け取った両親は、傾いた店を建て直すのではなく、自分たちのために使ったという。
『カナリス、カナリス、可愛い子。お願いだから、憐れなお母様にお金を恵んでちょうだい。あなたのお父様は、わたしを飢え死にさせる気なのよ。ねぇ、贅沢を言わないわ。金貨でいいの。ほんの数枚でいいのよ』
あるとき、教会へ母が訪ねてきた。
隔絶された世で過ごす八聖騎士とその身内が会うのは、あまりいい顔をされなかったが、まだ主人もいないこともあり、特別に許されていた。
初めて会う母親にどきどきしていたというのに、彼女はそんな気持ちを一瞬で吹き飛ばしてくれた。
年に似つかわしくない厚化粧と、鼻をつく香水。
胸を強調させ、憐れっぽく乞うのは、母親ではなく、見知らぬ女だった。
カナリスから金貨を受け取った母親は、息子を抱きしめるでもなく、ただ大げさに喜んで家に帰っていった。
『ああ、カナリス。会いたかった。我が息子。立派になって……なに不自由していないと聞くが、困ったことがあったら父を頼りなさい。おや、いい首飾りだ。翡翠かな? これはいい。どれ、父が加工してやろう。なに、案ずるな。すぐに返すさ』
間をおかずに父もやって来た。
くたびれた服だったが、顔立ちは若々しい。カナリスが年を取ったら、こんな顔になるんだと漠然と思ったほどだ。
父親は、言葉巧みに首飾りを奪うと、もうカナリスには用はないとばかりに去っていった。
もちろん、父親の手に渡った宝石類が、手元に戻ってくることはなかった……。
それでも、カナリスはいちるの望みにすがってしまったのだ。
――両親は、自分を愛している、と。
けれど、そんなのはまやかしだった。
ハティスとは違い、自分は金のために売られ、そして今は、金を手に入れるための道具として存在しているのだ。
「もう、いい……」
彼らに期待するだけ無駄だ。
冷え切ったカナリスの心に、彼らに対する情などもう残ってはいなかった。
愛情が消えた今、無心されてもこれまでのように与えるつもりはない。
そのとき。
ふっとなにかが頬に触れた。
「なんだい、慰めてくれるのかい?」
蔦がカナリスに触れていた。
冷たいはずなのに、どこかあたたかく感じるのは気のせいだろうか。
「……アタシには、あんたたちがいるね」
自然は、カナリスが想えば、その分だけ愛情を返してくれる。
ふっと目を瞑ったカナリスは、口元に笑みを刻んだのだった。
でも、それはどこか寂しさを感じさせるものだった。
カナリスの孤独が癒されるのは、まだ先の話。
『エルファーナ、ね。じゃあ、エルって呼ぼうかな』
カナリスは、長い時を経て、ようやくただ一人を見つける。
彼女だけが、カナリスの唯一であった。
その未来を知らないカナリスは、今はただ、深い眠りに包まれるのであった。




