存在理由
――僕の存在理由って、何だろう?
薄暗い部屋。空気は淀んでいる。シーツからは、もう落ちることのない煙草の臭いがした。
僕はベッドの上で寝返りを打った。身体が普段の倍以上重く感じる。
部屋に閉じ籠って、十三回目の夜。
そろそろストックしてあった食料も尽きてきた。新しい食料を仕入れなければならない。しかし、僕は外へ出る気になれなかった。
僕は机の上の煙草へ手を伸ばした。あれ程吸わないと思っていた煙草。今では、これ無しではいられない。きっと、僕の肺は真っ黒になっているのだろう。でも、それも仕方ない。
僕は新しい煙草に火を付けた。肺一杯に煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
ゆっくりと緊張が解けていく。けれど、それも一時のこと。すぐに元通りになる。その度に、僕は煙草に手を伸ばす。延々と続く行為も、煙草が無くなれば終わりになる。しかし、僕は新たな煙草を買う。金を捨てて、身体を壊す。分かっているはずなのに、それから脱却できないでいる。
僕は机から財布を取り出し、中を検めた。幸い食料と煙草を買う分の金は、入っている。
僕は部屋を出た。
僕はアパートから一番近いコンビニへ足を運んだ。そこで、カップ麵やら何やらをカゴに放り込んでいく。そして、それを持ってレジへと向かう。レジの店員と目を合わせることもなく、カゴを置き、一言。
「十三番三つ」
店員は棚から煙草を三箱持って戻ってくる。僕は無言でパネルを押した。
「あ、あの」
不意に店員が声を掛けてきた。僕は心底面倒臭そうな風に顔を上げた。そこで、目の前の店員と目が合う。店員は不思議そうな顔を僕へ向けていたが、その顔が綻んでいった。
「美邦君……、だよね?」
どこか嬉しそうな声。
僕は久しぶりに呼ばれた名前に、一瞬固まった。しかし、僕はすぐに視線を下へと流した。
「人違いです……」
「え……。そ、そうでしたか……。すみません……」
店員はか細い声で言った。無言のまま、店員はバーコードの読み込みを行い、金額を小さな声で言った。僕は、財布からその額を出し、無作法に転がした。そのまま、僕はビニール袋を引っ掴むと、足早に店を出ようとした。
「み、美邦君……」
店員の声に、僕は立ち止まっていた。
「やっぱり、美邦君だよね……?」
不安げな声に、僕は何も言えなかった。僕は何も言わずに、逃げるようにコンビニを出た。
僕は三本目の煙草に火を付けた。部屋に戻ってから、ずっと煙草を吸っている。今までであれば、一本吸えば落ち着けたものを、今日に限って何本吸っても無駄のような気がした。僕は煙草を灰皿へ押し付けた。
ベッドに潜り込む。目をつぶり、無理やりにでも眠ろうとした。けれど、そうしようとすればするほど、眠れなくなっていく。
僕の頭の中にあったのは、先ほどのコンビニでのこと。もう長いこと聞いていなかった、自分の名前。それを突然呼ばれたのだ。しかも、僕はまったく彼女のことなど覚えていない。覚えのない人間から名前を呼ばれることほど、恐ろしいものはない。しかしそれ以上に、僕のことを知っている人間が近くに居たこと自体が、僕にとっては恐ろしかった。
僕は枕に顔を埋めた。右手の震えが止まらない。煙草の臭いの中、僕はただひたすら眠ることが出来るまで、身体を丸めていた。
カーテンの隙間から入り込む日差しに、僕は目を開けた。
頭がガンガンと痛む。まるで二日酔いのような感覚だ。僕はなったことのない二日酔いを想像しながら、身体を起こした。床には昨晩買ってきたものが散乱していた。僕はその中から煙草を一箱拾い上げ、机へ投げた。
灰皿に吸いかけの煙草。僕はその煙草へ手を伸ばした。だいぶ撚れている。僕はその煙草を銜えると、ライターで火を付けた。気付けば、もうオイルが少なくなっていた。僕はビニール袋の中を漁った。しかし、肝心のライターは出てこなかった。
机の引き出し……。
僕は引き出しの中を探したが、マッチが一箱出てきただけだった。それでも、何もないよりはマシだろう。僕はそれを机の上へ抛ると、床に座りこんだ。
身体が重い。このまま自分は沈んでいくのかもしれない。そんなありもしないことを考え、僕は目を閉じた。
その時だった。不意に外の階段を上る足音が聞こえたのは。
僕は自然とドアの方へ目を向けていた。足音は確かに近づいてきている。ある程度のところで足音が止む。それから数秒。僕は変な緊張感を持って、ドアを凝視していた。
長い沈黙の後、長い間鳴らされることのなかった音が鳴った。来客を告げるその音は、僕にとってはあまり聞きたくない音だった。
僕はいつもそうするように、居留守を決め込んだ。宅配などなら、名前を大声で言ったりする。そうなれば僕も出たりはするが、基本は出ない。人との接触は、僕にとっては毒でしかない。僕は扉の向こうの人間が帰ってくれるのを、暗に祈った。
しかし、扉の向こうで引き返す足音はなかなかしてこなかった。僕としても、何とも歯切れが悪い。我慢比べのような様相を呈してきたのだ。僕はベッドの縁へ座り直していた。
数分後、結局動いたのは僕だった。僕は重い足取りで扉の前に立った。
僕はゆっくりと開錠し、ドアを開けた。もし人がいたら、睨みつけてやろう。そう思って開けたドアだったが、僕の視線は、目の前にいる人を見ることが出来ただけで、その人を睨むことも出来なかった。
「美邦君……」
昨夜と同じ。また名前を呼ばれた。しかし、今日のそれは、昨夜のそれとは違う。確かなものをもった響き。確信をもった響きだった。
僕は視線を逸らした。
「ご、ごめんね…。勝手に来ちゃって……」
彼女は何か必死で言い繕うように口を走らせたが、そんなことは、今の僕には関係なかった。
「何で来たんだよ……」
僕は突き放した口調で言った。それ以上の言い方を、僕は出来なかった。
「え……、それは……」
彼女は答えに詰まった。視界の隅に入る彼女の指。絡ませたり解いたりするその指が、僕を苛立たせた。
「それと、何でここだって、知ってんだよ」
彼女は息をつまらせて、黙り込んだ。こうなっては、僕が彼女と顔を突き合わせている意味はない。僕はドアを閉じようとした。
「待って!」
それまでよりもはっきりした声。はっきりとした意志を感じさせる声に、僕の動作は止まっていた。
「ここが分かったのは、美邦君のお母さんに教えてもらったから。私がここに来たのは、美邦君のことが心配だったから」
彼女は一息に言い切るように、一思いに言うように、早口に言った。僕は面食らった。そもそも彼女が誰かも分からないのに、そんな彼女に心配されている。そのつながりが、僕には分からなかった。
「誰なんだよ……」
僕は小声で呟いていた。それが彼女に聞こえたのか、彼女はそれまで伏せていた顔を上げた。そして、たははと笑った。
「あ……、やっぱり覚えてないか……。私のこと……」
少し肩を落とした彼女に、僕は掛ける言葉が無かった。実際、ここで僕が掛けられる言葉なんて高が知れている。そんなことを言っても、どうしようもないのだ。
「私は、中町知佳子…。高校の時、同じクラスだった……」
彼女はそう言って頬を染め、視線を下方へと泳がせた。
そう言われて、僕は初めて思い出した。高校の時、クラスにそんな名前の女生徒がいたことを。しかし、それは一年の時の話であり、二、三年ではクラスが違ったはずだった。一年間しか同じでなかった人間の顔と名前など、忘れてしまう。それも、今から数年前の話だ。僕が覚えていないのも肯ける。
「もう何年も前だけどね」
そう言って、ぎこちない笑みを浮かべる中町の顔を、僕は呆然と見つめていた。しかし、まだ腑に落ちないことがあった。
「何で来たんだよ?」
僕は自然ときつい言い方になっていた。そうだ。今まで誰とも顔を合わせずにきたのに、ここにきて、忘れていた昔のクラスメイトと顔を突き合わせている。
「え……、いや……。心配……だったから……」
中町は伏し目がちに言ったが、最後の方はほとんど呟きにしかなっていなかった。
「お前に心配される筋合いなんてない」
僕は冷たく言い放った。これ以上、中町と顔を突き合わせていることは出来そうになかった。
僕はドアを力一杯閉めた。
大きな音を立てて、ドアは閉まった。扉の向こう側で、中町が呟くのが聞こえた。
「明日も、来るから……」
僕は扉へ額を押し付けた。
遠ざかる足音が、扉の向こうから聞こえてきた。
僕はその場に崩れ落ちていた。
畜生。
長い間離れていた人間関係。人の温もりなど忘れてしまった。もう、相手にどう接すれば良いかすらも分からない。それなのに、何年も前にクラスが一緒だっただけの人間に、彼女は優しくする。それが、僕には耐えられなかった。その優しさを知ってしまったら、僕自身が壊れてしまいそうで、それが、怖かった。
僕はチャイムの音で目を覚ました。時計に目をやれば、十二時を回っている。
僕は重い足取りで衣装ケースの前に立った。下から二段目のところからズボン。上から一つ目のところから、シャツを取り出し、適当に着替えをした。その間、扉の向こう側は静かだった。僕はチャイムの音も気のせいかもしれない、そう思ったけれど、結局扉のところまで歩いていた。
開錠し、開いた扉の向こう側には、昨日言った通り、彼女が立っていた。
中町知佳子。高校一年の時同じクラスだった女子。しかし、それ以外のことは僕の記憶に残っていない。
「迷惑……だったかな……?」
彼女の第一声がそれだった。その問いに、僕は嫌な顔を返した。
「そう思うなら、もう来るなよ……」
冷たく言い、彼女の出方を窺う。彼女は、僕の言葉を聞いて足元へ視線を落とした。しかし、彼女は動こうとしなかった。そればかりか、拳を握りしめて、真っ直ぐに僕の方へ向き直った。僕は、そんな彼女を無表情に見ていた。
緊張した空気が流れた。しかし、それも一瞬のことで、彼女は笑ってビニール袋を掲げてみせた。
「お昼ごはん、まだでしょ?」
僕はビニール袋と彼女の顔へ、交互に視線を投げた。彼女の行動の意図するところは、僕でもわかった。
「まあ……。まだ食ってねぇ、けど……」
僕は歯切れの悪い返事をした。
「よかった。それじゃあ、これ食べない?」
彼女の言い回しは、暗に一緒に昼食をとろうということを言っている。
僕は躊躇した。ここで彼女の行為を受け入れるのか、それとも突き放し、追い返すか。僕は彼女の持つビニール袋を見た。
「あ、近くのスーパーで売ってたから…」
僕の視線に気づいたのか、彼女は付け加えるように慌てて言った。ここで追い返すのも、僕には出来ただろう。けれど、結局僕は彼女を部屋へ入れた。
「飯食うだけだからな……」
そう言って、僕は彼女に視線だけで中に入るよう促した。
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに顔を綻ばせて、部屋に上がってきた。
僕は、長いこと使っていなかった折り畳みの座卓を、部屋の隅から引っ張り出した。生憎机の上は散らかされたままだった。彼女は拾われた猫のように、部屋の中を見回していた。
「煙草の臭い……」
不意に彼女が呟き、視線を僕へ投げてきたが、僕はその視線を受け流した。
「ほい……」
僕は座卓を置き、一言彼女へ声を掛けた。まるでコミュニケーションを取ろうとしない僕に、彼女は少しばかり困った顔を向けた。
「カーテン、開けない……?」
静かに彼女は言って、僕の顔色を窺う。僕は視線を床に向けたまま、呟いた。
「ああ……」
この呟きを、彼女は了解の印と取り、カーテンを開けにかかった。
カーテンの開かれた窓からは、日光が差し込み、一気に部屋の中を明るく照らした。しかし、僕には、その光は眩し過ぎた。
「窓は……」
彼女は僕の方を向いて、小さく聞いてきた。
「好きにしろ……」
僕も呟きで返す。僕の言い方があまりに突き放した言い方だったためか、彼女は少し躊躇っていたが、結局、細く窓を開けた。
「それじゃ、ご飯にしよっか」
そう言って彼女は座卓に二つの弁当を並べた。
「どっちがいい?」
控えめに視線を下方へ流しながら、彼女は僕の方へ二つの弁当をよこした。
「……どっちでも……」
僕はいつもの癖で、適当な返事をしていた。すると、彼女は一つの弁当を取り上げた。
僕の前には、唐揚げ弁当が残った。
「それじゃあ、私のおすすめ」
そう言って、彼女は笑った。その笑顔は、部屋に差し込む明かりと同じくらい、僕には眩しかった。
「おいしいでしょ?」
不意に彼女が口を開いた。その声に、それまで黙って食べていた僕は顔を上げた。彼女が嬉しそうな顔をして、僕の方を見ていた。
「ああ……、まあ……」
僕は視線を弁当の方へ戻しながら、曖昧な返事を彼女へ返した。
実際、僕は碌な返事が出来なかった。味が分からない。おそらく、煙草のためだろう。味覚がおかしくなっている。だから、どんなに美味しいものを食べても、その味は僕には分からない。この唐揚げの味さえも、僕には分からなかった。
「ここのスーパーのお弁当で、一番美味しいの」
彼女は笑いながら僕に言った。しかし、僕は彼女の顔をまっすぐ見ることが出来なかった。僕は黙ったまま、残りの弁当を搔っ込んだ。
「どうか……した……?」
彼女の心配そうな声に、僕は顔を上げた。
彼女は座卓に自分の弁当を置き、僕の方を心配そうに見ていた。彼女と目が合った途端、僕は反射的に目を逸らした。
「何でもない……」
僕はぼそりと呟き、箸を置いた。
「何か……、ごめん……」
「別に……」
彼女が何に対して詫びたのか、僕自身がいったい彼女の何を許したのか、それさえも分からない。僕は座卓の上で視線を泳がせた。
彼女は一口ずつ弁当をしっかり食べていた。その時間のかかる食べ方が、僕を少しばかり苛立たせてもいた。
彼女が弁当を食べ終えた時には、僕は煙草へ手を伸ばしていた。箱から一本の煙草を取り出し、マッチを擦ろうとしていた。そこで、彼女がこちらをじっと見ていることに気が付いた。彼女は僕の手元をじっと見つめていた。僕の持ったマッチを、彼女はじっと見つめていた。
僕は擦ろうとしていたマッチを、ケースへ仕舞った。銜えていた煙草も、灰皿へ置いた。
僕の行動に、彼女は驚いた顔した。
「煙草……、吸うんじゃ、なかったの……?」
「気が変わった……」
僕は視線を合わせず、ぶっきら棒に言った。けれど、彼女はどこか嬉しそうな表情を浮かべた。
「そっか……」
その呟きが、何となく温かさを感じさせた。
数分後、僕は扉の前に立っていた。
昼食を終え、彼女は部屋を出た。その時、彼女が置いていった言葉。
「明日も、お昼一緒に食べても、いい?」
控えめにそう言った彼女は、僕の顔色を窺っていた。僕は、すぐには返事が出来なかった。これを許してしまったら、僕は二度と戻れないところに来てしまう。しかし、ここまで僕のために行動してくれる彼女に、無下にするのも憚られた。
「あ、明日は、スーパーのお弁当とかじゃなくて、もっとしっかりしたのにするから……」
彼女は、なかなか答えを出さない僕に対し、必死で説得しようとしているようだった。
「だから…………」
消え入りそうな声でそう呟き、彼女は顔を伏せてしまった。
「……わかった……」
僕は呟いた。彼女に聞こえるかどうかも分からないような、小さな声だった。
「いい……の……?」
顔を上げた彼女は、瞳に薄っすらと涙を浮かべていた。
「好きにしろ」
僕は彼女から視線を逸らしながら、感情を込めずに言った。そんな言い方でも、彼女は笑ってくれた。
彼女が帰っていった後、僕は考えていた。何故彼女がここまでするのか。ただの同期でしかない僕に、ここまでする義理はない。もっと言えば、覚えているのが不思議だった。高校を卒業して、数年が経っている。それなのに、彼女は僕を覚えていた。それが、何より不思議だった。
僕は煙草へ手を伸ばした。先程吸わなかった煙草を銜え、マッチを一本取り出す。それを擦ろうとした時、不意に手が止まった。頭の中に出てきた、彼女の顔。それを思い出し、手が止まっていた。
結局、僕は火を付けていない煙草を銜えたまま、ベッドに横になっていた。
たまには、吸わない日があっても、いいかもしれない。
久方ぶりに、自分でカーテンを開けた。窓から差し込む日光が、起きて間もない目を刺激する。
僕は、時計へ目をやった。十一時半。昨日よりも早い。僕は扉へと目を向けていた。
不思議な気分だ。あれ程忌み嫌っていたのに、今では、彼女が来るのが少しばかり待ち遠しく感じる。僕は、確かに以前いたところよりも、違うところへ来ていた。それが良いことなのか、悪いことなのかは、まだ分からなかった。
僕は、伸びきった髪の毛を、後ろで束ねた。こうして髪を束ねるのも、長いことしていなかった。
ちょうど束ね終えた時、チャイムが鳴った。
彼女は、今日はビニール袋を持っていなかった。かわりに、大きめのバッグを肩から提げている。
「早すぎたかな……?」
そう言って視線を泳がせる彼女に、僕は無言で中に入るよう促した。
座卓の前に座った彼女は、バッグの中から、風呂敷に包まれた弁当箱を取り出した。それを座卓の上に置きながら、僕に笑いかけた。
「今日は、ちょっと作ってみたの」
僕は風呂敷に包まれた弁当をじっと見つめた。
「迷惑……だったかな……?」
心配そうな顔をした彼女に、僕は笑いかけた。
「いや……」
彼女は一瞬びっくりした顔をしたが、優しく笑った。
この時、僕は気付いた。今初めて彼女の前で笑ったことに。笑い方も忘れていたはずなのに、僕は笑っていた。
「色々おかず入れたから」
そう言って、彼女は風呂敷を解いた。中からは、中ぐらいの弁当箱が二つ、姿を現した。彼女はバッグから箸を取り出し、僕に手渡してくれた。
「食べてみて」
そう言って笑いかける彼女に促されるまま、僕は弁当箱を開け、最初に目に入った玉子焼きを箸で摘まみ、口へ運んだ。
玉子焼きは、ほんのりと甘かった。
「どう?」
僕が咀嚼するのを待って、彼女は僕に聞いてきた。
「美味い……」
僕は、嘘とも真とも言えない答えを返した。確かに甘さを感じた。けれど、やはりしっかりと味を感じることが出来なかった。それだけに、僕の答えは意味を成さないものとなってしまった。けれど、彼女はそのことを知ってか知らずか、安心したような顔を僕へ向けた。
「もっと食べてね」
そう嬉しそうに言う彼女は、別で小さな包みを取り出した。それも、弁当箱のようだった。その弁当の蓋を開け、彼女も箸を動かし始めた。僕は、嬉しそうに食べる彼女の顔を見ながら、自分も箸をすすめた。
弁当を食べ終わった時、不意に彼女が口を開いた。
「今は、どんな仕事してるの?」
僕はそれまで手にしていた湯呑みを、静かに置いた。
「何で、そんなこと……」
一気に気分が暗くなっていった。それまでは明るく振舞えていたのに、ここから先は、そうする自信が無くなった。きっと、今からは彼女に対する当たりがきつくなる。そう思った時、彼女が静かに口を開いた。
「ごめんね……。でも、何してるのかな、って……」
彼女は視線を忙しなく動かしていた。
「ふっ……。俺がろくに仕事をやってるように見えるのか?」
僕は心底冷たい言い方をして、彼女を見た。
「ごめんなさい……」
顔を伏せたまま、彼女は消え入りそうな声で呟いた。それが、僕の気に障った。
「お前も何なんだよ。俺のとこなんかに来て」
僕は彼女のことを何も知らない。今どんな仕事をしているのかも、今何を考えているのかも、何で彼女がここまで僕のためにするのかも。
「わ、私は……」
彼女は言葉を出そうとしたが、その後の言葉が出てこなかった。結局、彼女は言いかけて顔を伏せてしまった。
「言うことがないなら、もう帰ってくれ……」
僕はそれだけ言って、視線を床へ投げた。彼女は黙って包みを片付けた。
彼女は黙ったまま、僕の部屋から出ていった。独り残された僕は、座卓を拳で叩いていた。彼女へ向けた、自分の態度に腹が立った。それしか出来ない自分が、人との接し方を忘れた自分が、情けなくて、馬鹿らしくて、嫌だった。
起きた時にあったあの感覚も、単なる幻やその類のものに思えた。
僕は溢れようとする気持ちを抑え、布団へ潜り込んだ。今更誰かに何か言われるわけではない。
僕は暗い世界へ、静かに体を投げ出していった。
今日は朝から雨が降っていた。大粒の雨。その雨音に、僕は叩き起こされた。
窓を叩く雨粒の音が、部屋の中にまで響いている。
その音を煩がりながら、僕は扉の方へ視線を投げた。
昨日の今日だ。彼女が来ることはないだろう。
僕はそう思いながらも、もしかしたら、とそう考えていた。しかし、あまりにも雨が強く降っている。しかも風まで出てきた。この様子では、扉の向こう側まで雨で濡れていることだろう。僕は、再び布団へ潜り込んだ。
瞳を閉じ、再び闇の中へこの身を投じていく。いつしか、僕は眠りに落ちていた。
再び目覚めたのは、午後三時過ぎだった。依然として、雨風は強いままだった。ベッドから抜け出した僕は、妙な不安に駆られた。
もしも、彼女が来ていたら。
そんな疑念が、頭に浮いて、離れようとしなかった。
僕は手近にあった服に着替え、ためしに扉を開けてみた。風のためか、扉はいつもより重く感じた。何とか外が見える程に開いた時、僕の身体は硬直した。
雨でずぶ濡れになったまま、彼女は扉の前に立っていた。
僕が扉から顔を出すと、彼女は笑いを浮かべて僕を見た。
「よかった……。開けてくれないかと思ってた……」
彼女は笑顔で僕を見ていたが、僕は視線をどこへやれば良いのか分からず、視線をやたらと泳がせていた。
「い……、いつから……、いたんだよ……」
何とか言葉を絞り出すと、彼女はたはは、と笑った。
「一時くらいには来てたんだけど、怖くて、呼び鈴押せなかった…」
「馬鹿野郎!」
力なく笑う彼女に、僕は怒鳴っていた。
「押すことも出来なかったなら、何で今までここにいたんだよ」
僕は感情的になって、怒鳴っていた。彼女は相変わらず、力ない笑いを浮かべていた。
「だって、昨日のこと、謝りたかったから」
「っ…………」
僕は言い返すことが出来なかった。何故彼女がここまでするのか、僕には理解出来なかった。
「とにかく部屋入れ…」
僕は戸口に佇む彼女を、無理やりでも部屋に引き入れた。
僕があまりに力を入れて腕を引っ張ったせいか、彼女はバランスを崩して僕の方へ倒れ込んだ。自然と僕はそれを受け止める形になったが、その時、彼女の身体の冷たさに驚かされた。雨に濡れた服越しに、彼女の身体はとても冷たく感じられた。
「あったかい…」
細く息をする彼女が、小さく呟いた。僕は彼女を抱き留めた腕に、力を入れていた。
「馬鹿野郎…」
僕は腕の中の彼女に向けて、小さく呟いた。
彼女にシャワーを浴びるように言い、その間に適当な着るものを用意した。それを脱衣所に置き、袖を通すように言っておいた。僕は、湯を沸かし、茶を淹れていた。
「ごめんね…」
彼女はふらふらと歩きながら、脱衣所から出てきた。服はちょうど良いものが無く、だいぶ身の丈に余っていた。
「こっち来て座れ」
僕は彼女を座らせると、淹れておいた茶を出した。
「あったかい……」
呟きながら茶を啜る彼女を見て、僕はひとまず胸を撫で下ろしていた。そんな僕を、彼女は優しい顔で見ていた。
「やっぱり、美邦君は、美邦君だ……」
優しく言った彼女へ、僕は顔を向けた。どんな視線を送っていたのか、自分でも分からない。けれど、その言葉の意味が、僕にははっきりとは分からなかった。きっと僕は、怪訝な顔を向けていたのだろう。彼女は小さく笑った。
「やっぱり、本当は優しいんだよね」
そう言って笑う彼女。僕は、彼女の顔を直視できなかった。その言葉は、今の僕には不向きな言葉だ。
「…………」
僕は視線を適当に泳がせ、手近にあったタオルケットを彼女へ投げた。
「掛けてろ。風邪ひく……」
僕が投げたタオルケットを、彼女は肩から掛けた。
「ありがと」
そう言って笑う彼女の顔。僕はベッドへ倒れ込んだ。これ以上、彼女の顔を見ていることは出来そうになかった。
「ねえ、覚えてる?」
不意に彼女が口を開いた。
「あ……?」
僕は天井を見上げたまま返事をした。彼女は小さく息をすると、言葉を続けた。
「高校の時、美邦君が同じクラスだった人、殴ったこと」
「ああ……」
忘れるはずもない。あの事件。僕はその当時のことを思いだしていた。
「あのあと、皆距離置いてたよね……」
彼女は小さな声で、言葉を続けた。その言葉の中にも、僕の反応を探るものが感じられた。僕は目を瞑り、黙って聞いていた。
「それが一年間続いて、二年生になってクラス変わっちゃって……」
僕は頭だけ彼女の方へ向けた。彼女は、俯き、両の手を膝の上で握り締めていた。
「私……、心配だった……。また、美邦君独りぼっちになっちゃわないか……」
僕は視線を逸らそうにも、そうすることが出来なかった。僕の視線は、伏せられた彼女の顔に固定されていた。
「でも、そんな心配必要無くて……、でも、何だかそれも、寂しくて……」
少しばかり涙声になりながら、彼女は続きを言おうとした。けれど、それを僕が止めていた。
「何でそこまで……。俺なんかに……」
僕の呟きだけが、部屋に響いているようだった。
「それは……」
顔を伏せたまま、彼女は数回浅い息をした。タオルケットの掛かった、肩が小さく上下するのが見えていた。僕が言葉を続けようかと口を開きかけた時、彼女が僕より一瞬早く口を開いた。
「好き……だったから……かな…………」
周りの音が何も聞こえなくなった。雨が地面を叩く音も、風が荒々しく吹く音も、窓を叩く雨粒の音も、彼女の息遣いさえも。何も、僕の耳に入らなくなった。僕の視界は、真っ白になっていた。視線の先にいたはずの彼女も、部屋の景色も、僕の視界から消えた。
「違うね……」
彼女の呟きに、ゆっくりと視界が戻っていく。けれど、彼女の声と息遣い以外、何も聞こえない。僕は口の中が急速に渇いていくのを感じた。脈動が激しくなっている。
僕はじっと彼女を見つめた。
彼女は、深呼吸を二回ほどして、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、笑っていた。
「今も……、好きだから……」
彼女の言葉に、僕は唇を噛んだ。
「だからって……」
僕は感情の捌け口を探したのかもしれない。しかし、それは僕にとっては言葉でしかない。僕は上体を起こして口を開いた。
「だからって……、ここまでするなんて……。おかしいだろ……」
僕は右の手に力を入れていた。握られた親指が折れそうなくらい、僕は力を入れて、右手を握っていた。
「身体を壊すようなマネまでするもんじゃないだろ!」
僕は声を荒げていた。しかし、彼女は笑顔を崩すことはなかった。
「私、馬鹿だから。こういうやり方しか、出来ないから……」
僕は彼女へ顔を向けた。きっと、僕は顔を歪めていただろう。僕が理解できない感情。それを、彼女は僕へ向けた。
「だからって…だからって…………」
僕は出処の解らない嗚咽を堪えた。
「ごめんね……。私、こういうやり方しか、できないから……」
僕の前に立った彼女は、そう言って僕の頭を抱いた。
「……くっ…………」
僕は、抑えることの出来なくなった感情を爆発させた。
額から伝わる彼女の温かさ。頬を伝う涙。堪えることの出来ない嗚咽。僕は、長い時間忘れていた、人の温かさに触れた気がした。
中野知佳子。僕は彼女と再会して、長い間忘れていた人というものの持つ、温かさを思い出した。
肌で感じることの出来る温かさだけではない、内側の温かさ。しかし、それを知ってしまったが為に、僕は元の場所へは戻れなくなった。
彼女は、今日もいつも通りの時間にやってきた。午前十一時。あれから一週間。僕は、彼女と人並みには話をできるようになった。もっとも、今でも彼女の顔を見られない時の方が多い。
「髪伸びてるよね」
彼女は僕の括った髪を見ながら、感慨深げな言い方で呟いた。
「別に良いだろ。俺が好きで伸ばしてるんだから」
僕は手櫛で髪を流しながら、彼女の方も見ずに言った。
「うん。ただ、昔は伸ばしてなかったなぁ、と思って」
彼女はクスリと笑った。
「あの当時は校則が煩かったから」
僕は笑う彼女を横目で見ながら、ぼそりと呟いた。こんな何気ない会話も、以前は出来なかったことだと思うと、不思議な気分になってきた。
「なあ、知佳子」
僕は彼女を正面から見据えた。
「なあに?」
聞き返された僕は、それまで言おうとしていたことを喉まで出して、また呑み込んでいた。その沈黙のためか、彼女は少しばかり不安げな顔をして僕を見た。
「どうか……した……?」
「いや……。お前、前に俺の仕事のこと、聞いたよな……?」
僕は本来言おうとしていたこととは違う話題を挙げた。
「え……、うん……。聞いたこと、あったけど……」
彼女は少し困ったような顔をしたが、僕はそれに構わず話を進めた。
「お、俺さ、もう解ってると思うけど、ほとんど無職みたいなもんなんだよ……。あ、あれだぜ、前はちゃんと定職に就いてたんだ。だけど、色々あって……」
僕は早口に喋り立てた。自分でも、何を言っているのか、何が言いたいのか分からない。そんな僕の様子を見て、彼女は顔を曇らせた。
「どう……したの……?」
寂しそうに言う彼女に、僕は言葉を詰まらせた。
沈黙が流れた。僕がそうしようとしたわけでも、彼女がそうしようとしたわけでもない。けれども、僕と彼女の間には、重い沈黙が流れていた。
「な、なあ……」
僕は重い口を開いた。背筋を冷たい汗が流れる。口はどんどん渇いていく。視界は狭く、目に入るものは、ぼやけて見える。それでも、僕は彼女を見て、言葉をゆっくりと口から出していく。
「自分の……、自分の存在理由って……考えたこと……あるか……?」
たったこれだけの言葉を言うのに、僕は数秒の時間を掛けた。身体が震える。両の手で自分の身体を押さえていないと、崩れてしまいそうだった。
「え…………」
彼女は声にならない声を出し、呆然と僕を見つめていた。
もう、後には引けない。一度口から出てしまった言葉は、取り返すことは出来ない。僕は震える身体を押さえつけ、ゆっくり、それでいてしっかり聞こえるように、言葉を選びながら彼女へ語りかけた。
「俺は、一度は定職に就いた。けれど、その仕事は俺には向いていなかった。俺は仕事を投げ遣りにした。そんな奴を、会社は必要としない。俺はもちろん外された」
僕はそこまで言って、言葉を切った。深く息を吸って、ゆっくり浅く吐き出していく。
「それからは、部屋に籠もってどうしようもない生活を送っていた。預金を崩して、有り金で何とか食い繋いだ。それが出来なくなって、俺は改めて仕事を探した。だけど、こんな奴に仕事をくれる人間なんていない。それでも、俺は仕事を探して、何とか籠もっても出来る仕事を見つけた。不定期で、内職みたいな仕事だ。それをやって、何とか金を貯めた。だけど、それも続かなかった」
僕は彼女の顔色を窺った。しかし彼女は顔を伏せていた。僕には、彼女の表情は分からなかった。それでも、僕は話すのを止めなかった。
「それで結局、今は無職。有り金が無くなったら、死ぬのを待つみたいなもんだ。そんな俺だ。お前が好きだと言った男は、そんな、人間の屑みたいな奴なんだよ…」
僕は震えの止まらない右手を、左手で押さえつけた。
彼女は無言のまま、顔を伏せていた。僕は息遣いも荒く、視線をいたる所へ泳がせた。そして、最後に一言、付け加えた。
「俺に、存在理由なんて、ないんだよ……」
僕は目を瞑り、顔を上げた。大量の汗をかいている。頭がくらくらする。久しぶりに、こんなに喋った。僕は、喋ったことに対する疲労感からか、だんだんと目の前が暗くなっていくのが分かった。
完全な暗闇になる直前、僕の視界は大きく回った。
僕が目を開けた時、僕が見ていたのは、いつも見ている天井だった。白い天井。無表情のそれは、いつもよりも低く見えた。
頭が痛む。身体が熱い。視界もいつもより狭く感じた。しかも、朦朧としている。
僕はやっと、自分がベッドで横になっていることに気付いた。
「大丈夫?」
僕の耳に心配そうな女性の声が聞こえた。僕は視線を右に動かした。そこには、ベッドの縁に手をついて、僕の顔を覗き込む一人の女性がいた。ここ数日、毎日のように僕のところへ通っていた女性。
「知佳子……」
僕はおぼろげな像を、何とか結ぼうと目を凝らした。けれど、視界は依然として不明瞭なままだった。
「急に倒れたから……。熱もあったし……」
彼女は心配そうな顔をしていた。僕の目は、彼女の像を結んだかと思えば、またぼやけたり、また結んだりを繰り返していた。
「感じとしては、ストレス性のものみたいだから、安静にすれば、すぐに良くなると思う」
彼女は僕の頬を指先で撫でながら言った。彼女の指の感触だけが、やけにはっきり感じられた。人とは、どれか一つの感覚が鈍くなれば、それを他の感覚がカバーするように敏感になる。そんな気がした。
「今は、少しでも眠って。そしたら、もっと楽になると思う」
彼女はそう言って、子どもにするかのように、僕の頭を撫でた。
僕は、ゆっくりと目を瞑った。目を瞑れば、ぽっかりと口を開けた闇が、僕の身体を呑みこんでいく。僕は、闇の中へ沈んでいった。
僕は夢を見た。おかしな夢だった。僕は何年も前に卒業した高校にいる。しかも、一番嫌な思い出の年。高校一年とし、僕は在籍している。
教室には僕しかいない。窓から見える日の向きを考えるに、時間としては放課後だろう。
僕は教室の中を見渡した。後ろ側のドアは閉められている。前のドアのみが開かれ、そこに人影が見えた。おそらく、その形から女生徒であると推測できた。
その女生徒は、ゆっくりと僕の方へ歩いてくる。顔は伏せられ、髪の毛の陰になって表情までは分からない。
教室の中ほど、机の間に作られた通路で立っていた僕の前に、その女生徒は立った。
ゆっくりと顔を上げる女生徒。僕はその顔を見た途端、言葉を失った。
忘れていた記憶の断片。これは夢じゃない。現実にあったことだった。僕はこの時思い出した。過去に何があったのかを。僕の過去に何があり、そして、現在何があるのかを。
僕は跳ね起きていた。脈打つ音が耳の中で響いている。気付けば、息遣いも荒くなっていた。
「ど、どうしたの?」
彼女は僕の顔を覗き込み、心配そうな表情をした。
「悪い夢でも……、見たの……?」
「思い出した……」
「え……?」
「思い出したんだよ……。高校の一年で何があったか。忘れていたことを……」
「…………」
僕はゆっくりと彼女の顔を見た。彼女は驚いた顔をしていた。僕が突然言ったことを、理解できなかったのだろう。それでも、僕は彼女の目を見て、ゆっくり頭を下げた。
「わるかった……。俺は、すっかり忘れてたよ……。自分に都合が良いように、なかったことにしてた……」
彼女の息が詰まるのが、感覚的に分かった。その後、微かに聞こえた衣擦れの音。視界の隅に、彼女が頭を垂れているが分かった。
「思い……出したんだ…………」
「ああ…………」
彼女は浅く、早く息をしていた。僕は黙ったまま、頭を下げていた。
「私も、馬鹿だよね。一回振られたのに……。それでも、諦めきれなくて……。だけど、それさえ言えなくて……」
彼女の声は震えていた。そんな彼女に、僕は何も言えなかった。ただ、頭を下げていることしか、出来なかった。
「私じゃ、美邦君の傍にいるのは、無理なのかな…私なんかじゃ……。私なんかじゃ、ダメなのかな……?」
彼女は嗚咽混じりに、言葉を絞り出していた。僕は何か言おうと、口を開きかけ、出す言葉が無くて、再び口を閉じる。そんなことを何度もしていた。僕には、彼女へ言葉を掛けられない。僕なんかじゃ、彼女の苦しみを癒すことは出来ない。そう考えれば考える程、僕の頭は真っ白になっていった。
「たとえ私じゃダメだとしても、私は諦めきれない……。せっかくまた会えたのに……。もう会えないって思って、諦めてたのに……。私は、美邦君にまた会っちゃったから……」
彼女は顔を上げた。その目に涙を溜めて、僕を真っ直ぐに見ている。僕も、彼女の目を見た。もう、それぐらいしか、彼女にしてあげられることはないと、そう思ったから。
「さっき言ってたよね。存在理由がないって。そんなどうしようもない男だって。私は、そんな美邦君でもいい。例え私の方を向いてくれなくても、私は美邦君の方を見てる。私の存在しているのは、美邦君がいるから。だから、私には、美邦君が必要」
そう言って、彼女は笑った。涙を流しながら、彼女は、僕へ笑ってみせた。
「だから、美邦君の存在理由、ちゃんとあるよ」
ほんの少し涙声で、彼女は言った。僕は、返す言葉もなかった。
「もし美邦君が、この世からいなくなったら、それは、私のいなくなる時でもあるの。美邦君、責任重大だからね」
笑う彼女の顔は、僕には眩し過ぎた。彼女が僕を訪ねてきた時から、変わっていない、この眩しさ。僕には、それが人の生きる光のように思えた。
人は独りでは生きていけない。人が人であるためには、他の人という存在が必要である。独りでいる限り、それは人ではなくなってしまう。
皮肉なものだ。ヒトであって、人でない。社会から取り残され、周囲に見放され、自暴自棄に壊れていく。それが、独りになったヒトの末路なのかもしれない。独りになったヒトに、存在理由なんて無いに等しい。
けれど、それは覆される。人は独りでは生きていけない。つまるところ、生きている限りは、人は独りではないのだ。どこかに、自分を見つめている人がいる。自分には見えなくとも、その人はいる。見えるばかりが、周囲ではない。社会ではない。捨て去った世界に生き続けるのは、いや、生かされ続けるのは、誰かの存在があるからなのだ。
僕は最後の一文を書き終わり、筆を擱いた。と言っても、実際に筆を使っているわけではない。ペンでもない。僕はキーボードのエンター・キーを右手人差し指で叩いた。
「出来たの?」
横から彼女が画面を覗き込んできた。
「ああ……。一応……」
僕は傍らのマグカップを掴み、冷め切ったコーヒーを飲み干した。
「何で、一応なの?」
彼女は不思議そうな顔を僕へ向けた。僕は彼女のそんな顔へ、微笑を向けた。
「まだ確認が終わってないんだよ……」
「あー……、なるほど……」
彼女はわざとらしく手を打ってみせた。
「それより、こんなんで食っていけたら、いいんだがな……」
僕がため息交じりに呟くと、彼女は僕の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だよ。きっと」
「こんなことして……、俺は子どもじゃないぞ……」
「だから大丈夫」
彼女は悪戯っぽい笑顔を浮かべて僕を見た。僕はそんな彼女の顔から視線を横方向へずらした。
「冗談はさて置いても、美邦のなら、大丈夫だよ。私が保証する」
彼女は先程までの悪戯な笑顔から、優しげで誠実な笑顔を、僕へ向けた。僕は、こういう彼女の表情が、好きだ。
「それに、私も頑張って手伝うから」
「そうかよ…」
僕はわざと素っ気なく言った。何となく、気恥ずかしかった。
「だって美邦は、私の『存在理由』だから」
彼女はそれだけ言って、すぐ後ろのベッドへ腰を下ろした。
「ふっ……そうだな……。『存在理由』か……おかしなものを、考えたもんだよな……」
僕は呟きながら、彼女の左薬指にある指輪を見ていた。
日の光を受けて輝く指輪は、僕に次なる人生を示してくれているような、そんな気がした。
「こんな生活も……、悪くないかもな……」
僕は彼女へ静かに笑いかけた。