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スレナス物語(アンスロポスシリーズ)  作者: 緒方 敬
第06章 懸想文
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懸想文-5

●不幸な人

「泥棒だぁ~! 誰かそいつを掴まえてくれ~!」

 その形相と振り回す包丁にさっと人が退ける。その人垣をすり抜けて、飛び込んで来る小さな影。

 それは襤褸ぼろを纏った子供。手足も顔も薄汚れている。

 やっと追いついた男が、包丁を振り上げた。

 犯罪者に人権は無い。法の裁きを受けさせるのが常道であり、勿論警邏隊などが居れば遣りすぎを制止する。しかしはっきりした証拠があれば捕らえる過程で殺してしまっても特に問題にならない。それがノルマンの法であり、アンスロポスの常識だ。しかし、僕の意識は前世の倫理を引きずっていた。

(危ない!)

 反射的に、僕は護身の為に握りこんでいた銅貨を、手を振り上げざまに打つ。

 狙いは包丁を持った手の親指。間合いを計る必要が無い分、手裏剣よりも当て易い。

 銅貨は吸い込まれるように命中し、男は包丁を取り落とすはずであった。

 だが、慌てて加減を誤った。すっぽ抜けた包丁がクルクルと回転しながら飛んで来る。

 無論、狙って投げたものでは無いため威力など無い。おまけにそのまま行けば僕の顔の右横5センチを通過して地面に刺さる軌道だ。いや軌道だった。


 カキーン!

「きゃー!」

「姫。ご無事ですか!」

 悲鳴は包丁が腕を掠めた女の子のもの。続く声は剣で包丁を打ち払ったアベルのもの。

 咄嗟の事で護衛も反応できなかったのに、アベルが僕に向けられた凶刃を防いだ形になったのだ。彼は僕に得意げな笑みを浮かべて挨拶すると、剣を包丁を持っていた男の喉下に突きつけた。

 何が起きたか判らない群集はざわめく。

「下郎。どこの手の者だ。白昼堂々、グース家の将来の嫁を暗殺しようとはいい度胸だな」

「ひぃぃぃ」

 我に返り取り乱す男。彼にすれば泥棒を追いかけて来た捕り手の筈であった。

 それがいつの間にか自分が暗殺者と言うことになってしまっている。

「まあいい。責めても刺客が白状などしないだろう。我が剣の錆びになることを光栄に思え」

 一思いに死なせるのが慈悲であるとアベルは成敗しようとそのした時。

「待たれよ!」

 騒ぎを聞いた警邏隊の面々が駆けつけて来た。アベルの剣を止めたのは警邏隊長クレマンの声。

「アベル殿。その者が何をしたかは存じませんが、如何なる場合も私的な成敗は認められませぬぞ。それがノルマンの法にございます」

 身を護る為相手を討ち果たす当義殺を除き、私的処刑は認められない。それが法である。

 下手人は腰を抜かし震えている。ここで剣を使わず殴る蹴るならば、結果として死んでしまったとしても罪を追求される事は少ない。しかしながら、無抵抗の者を剣で殺すのは明らかに私的処刑であった。

「その者は、肉屋の免許を持つ市民。王都の納税者にございます。王家の保護の下にありますれば、法に従い取り調べ、法に照らして処罰するのが道理にございます」

 近年、某国が『国際法は弱小国の権利を阻害する』などと妄言を吐いたが、少なくともハンムラビ王以降の法は弱者救済の為に作られている。よって公正に適用される法は弱者を保護するものである。もし法が存在しなければ、世界は弱肉強食の原理に支配されるのであるのだから。

 例えば既に死文化した法の一つに、貴族には無礼を働いた者を無礼討ちに殺す権利があるのだが、当義殺の規定が乱用を阻止している。返り討ちにした場合、仮令たとえ奴隷の身であってもその事についての罪は問われ無いのだ。また、無礼討ちに殺す積りで逃げられただけでも面目を失し、家名が侮られる元と成る。

 だから無礼討ちと称しても、頬を張るとか尻を蹴飛ばしたり棒で打ったりとか、鞭で数回打ち据えるとか、誰が見ても命の危険には及ばない私的制裁に留まるのが通例であった。


瞠見人どうけんにん!」

 クレマンの声に群集の何人かが手を挙げる。警邏隊は彼らから事情聴取しながら、狼狽している包丁男に縄を掛けて行く。

 目撃証言は、泥棒と叫びつつ走って来た男が、僕に包丁を投げつけた。と言う部分で全員一致していた。

 幸い、と言うか予想通り。人々の視線は刃物を振り回す男に注がれており、僕の動きを見ていた者は居なかったようだ。

 ところで、彼に追いかけられていた泥棒なる者はここには居ない。襤褸を纏った子供は、これ幸いと騒ぎに乗じて居なくなっていた。


●運命なのか?

 とある路地裏。市場の喧騒も届かぬ静かな細い通り。襤褸を纏った子供が、荒い息を整えていた。

 握り締めた手に、僅かな肉の付いた骨。

「そこまでだぜ。こそ泥坊や」

 塀の上から見下ろすのはロート・ブリレ。こう言う事を任せたら中々に良い仕事をする男である。

 さっと飛び降り逃げられぬよう襤褸を掴む。

(ん? この肉は臭うな。腐ってやがる)

 自慢の鼻が肉の鮮度を値踏みした。

「泥棒じゃない。拾っただけだい」

 きっと睨むその目は、嘘を言っているようには思えない。

「坊や。話がある。ちょっと来て貰えるか?」

「やだ! おいら悪く無い」

 抗う子供。だが冒険者を遣るほどの実力があるものが、がっちりと襤褸を掴んでいるから逃げられるはずなど無い。筈だった。

「え゛…」

 抗う子供の力と、ロートの力がせめぎ合った結果。起るべき事が当然起こったのは予測の範囲だろう。

 だが、ロート・ブリレ。それがお前の運命さだめなのか? 裂けた襤褸が露わにしたのは。

「…うそだろ。お前」

 根は純情なロートは、一瞬固まった。

「あばよ。スケベ兄ちゃん」

 まるでトカゲの尻尾の様に、千切れた襤褸を捨てて逃げ去る子供。

「お、おまえなぁ!」

 子供が坊やで無い事を、はっきりと目撃してしまったロートであった。


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