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梔子の夢

|梔子《くちなし》の青年

作者: 石構紅康

 私は、幸せ者だ。 


 緑の大地を散り彩る紅色と白のまんなかで、青年は手足を投げ出して満足そうな微笑を浮かべていた。

 目の前に広がるのは真っ青な空。

 白い雲。

 真っ白な六弁の花が咲き誇る、彼がこの世で二番目に愛していた美しい梔子の木。


 ゴホゴホ…。

 不意に咳き込んだ青年の口から鮮血が流れ落ちた。

 しかし、青年は拭う事もせず、ただ歌うように呟いた。

「藤…私は、君の事を心から愛しているよ。…愛していた。だから…君を守るために私はこの命を捧げよう」

 そして、紅色に染まった両手を合わせて口の中で小さく呪を唱え始めた。

 この呪いにも等しい命を、この美しい大地に縛りつけて彼女を守るために。

  

 脳裏に浮かぶのは漆黒の長い髪と優しげな大きな瞳をした美しい町娘。

 

 ああ…死にたくないねぇ…。

 青年の頬を一筋の涙が伝い落ちる。

 それでも、すでに彼の魂は彼自身の霊力によって霊山と化したこの山に取り込まれ始めていた。


 未練はある。

 たらたらある。

 しかし、彼は微笑んだ。

 そうしてそっと囁く。

「藤…君に直接愛していると言えずに沈黙していた私を許してくれるかい?」 

 返事はない。

 しかし、彼は構わずに続ける。

「でも…許してくれても、くれなくても…私達が結ばれる事はない。でも、だからこそ遥かなる未来の子達のために…」

 最後の印を結び、呪を唱えた彼の体から力が抜けて行く。

「封印の、礎となろう…」

珀影(はくえい)様ぁぁーー!!』

 どくん…。

「ふ…じ…?」

 遠くの方から彼が愛した女性の悲鳴にも似た叫び声が聞こえる。

 その声に、青年はそちらに顔を向けながらうっすらと微笑を浮かべた。


 あぁ…やっぱり私は幸せ者だった。

 姿はまだ見えないけれど、最期に愛した女性の声を聞けたのだから…。

 端から見れば不幸な人生だっただろう。


 それでも、彼は幸せだった。

 

 

 少し時を戻そう。 


 

 柔らかく舞う、初夏の風。

 その風に舞う甘い香りに誘われて、その人はふと、顔を上げた。

 その人の視線の先に現れたのは、真っ白な六弁の花が咲き誇る、梔子の木。

 その人が、たった独りでいる時の唯一の慰め役だ。

 その姿。

 その可憐な花。

 甘い、甘い、香り…。

 その全てが、愛おしい。

 そう、あの女性の次に、愛おしい。

 その人は、梔子の木を見上げながら淡く微笑んだ。

 不意に強い風が吹き、その人の長い、長い真白の髪をなぶっていく。

「おっと…」

 乱れ乱れる真白の髪など気に掛ける事なく、その人は薬草の入った籠の上に微かに日に焼けたその手を乗せた。

 しかし、摘んで来たばかりの酸模さんもが、その風に攫われる。

 続いて、問荊もんけいも風に攫われ、その人は少々ウンザリとした表情になった。「やれやれ…イヤな風だねぇ~」

 その香り立つような容姿とは懸け離れた声と口調に、くすくすとどこからともなく笑い声がその人の耳に届く。

 その人は、笑い声の主を捜す事なく、その方に視線を向けて微笑んだ。

「藤。見てたのかい?」

「ええ、珀影(はくえい)様。貴方様のおかしな所を余す事なく」

 くすくすと笑うのは、質素な着物に袖を通した村娘だった。

 しかし、綺麗な着物に袖を通せば、かなりの家柄の令嬢にも見える。

 柔らかな頬。

 柔らかな唇。

 艶やかな漆黒の髪。

 大きくて、優しげな黒い目。

 その全てを、その人──珀影は好いていた。

「いじわるだね、藤。…所で、君はご両親からここへ来る事を禁じられていたんじゃないかい?」

 風に飛ばされた酸模と問荊を拾い集めながら、珀影は意趣返しのつもりで軽口で問う。

 その瞬間、藤の大きな目が悲しみとも、切なげともいえる光を灯した。

 珀影は内心、まずい事を言ったかな? と思うが、口に出してしまった言葉はもう喉には戻って来ない。

「珀影様は…わたしに会いたくは、ないのですか? 会いたくなかったのですか?」

 切なげに問い掛ける彼女に、珀影は困惑する。

 そんなはずない! と叫びたい。

 しかし、それは、許されぬ『言葉』だ。

 自分自身が言わないのであればいい。

 他の誰かが彼女に言うのであれば、いい。

 例え、自分が嫉妬に狂って狂い死にしても、彼女を幸せにしてくれるのならば、それでいいのだ。

 自分は、子孫を残してはならぬ身だから。

「…藤。私が鬼子だと言う事を忘れているね? 私は誰とも心を通わす事など出来はしないのだよ。さあ、用がなければ早々にお帰り。日が落ちてしまうよ?」

「珀影様!」

「なんだい?」

「貴方様は、ただその髪と目の色が他の村人と違うだけではありませんか! それなのに、どうして鬼子などと…!」

「藤」

 たった一言だけ、珀影は彼女の名を呼んだ。

 しかし、それだけで、彼女は押し黙ってしまう。

 彼女の言いたい事は、分かっている。

 分かっているつもりだ。

 しかし、彼女以外の村人はそうは思っていないのだ。

 珀影はゆっくりと籠を下ろし、両手を天高く翳し、その手を見る。

「私が、人の目に見えぬモノを祓う仕事をしているのは、知っているね?」

「…はい」

「その力が、尋常でない事も、知っているね?」

「知っています」

 珀影は、微笑んで彼女に視線を向けた。

「父親が誰なのかも、分かっていない。この私の名だって、母が唯一父から聞き出せた名だ。それ以外、父の影を追えるモノはないんだよ。だから、父親が何者かも分からない、こんな霊力の強い私は鬼子だ。強い力を持つ者は恐れられ、忌み嫌われるモノだろう?」

 自信の力を過信しているような、口振り。

 しかし、彼女は…いや、彼女を始めとする村人達は、彼の美しく儚い姿とは裏腹な強すぎる霊力を恐れていた。

 人には見えないモノを見、それを祓う者。

 占いや化け物退治までやってのけながら、無傷で生還する者。

 先だって、都に巣くう化け物をたった一人きりで退治したのだ。

 村人達の恐怖は、計り知れない。

 いつ何時、彼が『敵』になるかもしれないから…。

 それは村人達の杞憂なのだが、彼等が今まで彼にして来た事を考えると、恐ろしいのだ。

「でも、そんな事…」

「そうだね、君には関係のない事だ。そして、私にもね。でも、村人達はそうは思っていないんだよ? だから、もう二度と来てはいけないよ? いいね? 藤」

 穏やかな、拒絶。

 優しい拒絶。

 藤の心も省みない珀影に、彼女は悲しみと怒りを覚えた。

「でしたら、どうしてこの村を出ないのですか? こんな村近くにたった独りで庵を構え、寂しくはないのですか?」

 一瞬、珀影は虚を突かれた。

 ──痛い所を突かれたなぁ~。

 しかし、いつもの穏やかな笑みに表情をすり替え、小首を傾げて本心を隠す。

「ここには、梔子の木が沢山あるからね。だから、寂しくはないよ」

 ──君もいるからね…。

 そんな言葉を飲み込み、珀影は両手を降ろした。

「さあ、いつまでもここにいても仕方がないだろう? 早くお帰り」

「! 珀影様のおたんこなす!!」

「お、おたんこなすって…」

「あっかんべーっだ!」

 藤はその容姿と年齢からは考えられないほど子供っぽく言い捨て、村の方へと走り去っていく。

 後に残されたのは、この山の頂に庵を構えている珀影のみ。

 しかし、その彼は今この時だけは、寂しくはなかった…。



 数日後、彼がいつものように冬に備えての薬草集めをしている時だった。

 今時期しか採取出来ない薬草もあるのだ。

 珍しく、山が騒がしいと感じたのは、決して気のせいではないだろう。

「なんだ…?」

 ゆっくりとした動作で彼は腰を伸ばし、騒がしいと感じる場所の方に白い双眼を向けた。

 その途端、彼の白き双眼と意識に流れ込んで来たのは激しいまでの殺意と、恐怖の感情だった。

 そして、この禍々しいまでの気配。

「妖、獣か?」

 独りごちるなり、彼は恐怖に震える沢山の気配の中から、大切だと思う存在の気配を感じ取る。

「藤…!」

 ──何故、妖獣の気配に最も近い場所で、彼女の気配を感じるのか。

 その理由はただ一つ。

 彼女が襲われている…!

 珀影は抱えていた籠を投げ出し、気配の強く感じる場所へと走る。

 着流しの着物の裾が、邪魔だ。

 たくし上げ、草履を投げ出し、彼は走る。

「藤!!」

 心を占めるのは、彼女の笑顔。

 彼女がその身に纏う、清らかな輝き。

 彼は、彼女を失いたくなかった。

 もし、ここで彼女を失ってしまったら、きっと自分はこの身に宿る霊力を暴走させてしまうだろう。

 それが、容易く想像出来る自分が、恐ろしいと初めて思った。

 こんなにも、藤を愛する自分がいる事を、初めて知った。

「無事でいてくれ、藤…!」

 そうして、彼が辿り着いた先にいたのは、白装束に身を包んでいる藤の姿と、全ての村人達。

 珀影は微かに目を見開き、首を傾げる。

 ──白装束? 何故、藤が贄の装束を身に付けている?

 ふと藤の前方を見ると、彼等の目の前には、金色の毛並みの大きな大きな狼がいた。

 しかし、ソレが普通の狼ではない事は、珀影には容易く見て取れる。

 『金』は魔の色。

 それが双眸であれ、毛並みであれ、持っているモノは全て魔なるモノだ。

 それを知っていて、何故無視など出来ようか?

 しかも、藤が贄の装束を身に付けているのだ。

 目の前の金色の狼の身からは、強烈な死臭が漂って来ている。

 これだけのモノが揃っていたら、誰でも容易く想像が付くだろう。

 彼女は…藤は、村のためにとあの金色の狼の化け物の贄とされるのだ。

「藤ーー!」

 珀影の叫び声に、そこにいた全ての者達が振り返った。

 もちろん、金色の狼の化け物も。

「珀影様!?」

「何故ここに鬼子が来るんだ!」

 先に叫んだのは、藤。

 続けて叫んだのは、村人達。

『忌々しや…何故、この場に祓え師なぞがおる? よもや、我との契約を裏切る気か?』

 人語を解する狼に、焦ったのは村人達だ。

「ま、まさか! それこそまさかでございます。私共はこのように、貴方様がお望みになられた娘を差し出しているではありませぬか!」

 それを聞いて笑ったのは、狼。

 それを聞いて激怒したのは、珀影。

「貴様等ーー! 私と、私の母を村から追い出しておいて、今度は藤を不幸にする気か! 藤は村の宝だと言っていただろう! 私に近付くなと言っていただろう! それを、このような下賤な化け物の贄にする気か! 愚か者共が!」

『我が、下賤だと? 貴様ごとき祓え師なぞ喰ろうてくれるわ!』

 藤の目の前にいた金色の狼が、瞬時に飛翔して珀影の喉元に食い掛かる。

 しかし、珀影はその牙に掠る事なく身を躱し、そのまま狼の首根っこを素手で掴んだ。「誰が、下賤だって? そんなの決まっているだろう? お前だよ、『狼臥(ろうが)』!」

 魔なるモノは、名に縛られる性質がある。

 自らよりも強い力を持つ者に名を呼ばれれば完全に服従し、その逆であれば名を呼んだ存在を喰い殺す。 

 しかし、真実の名を珀影に呼ばれた狼…狼臥は、どうやら前者のようだ。

 その証拠に、珀影に首根っこを掴まれたまま力を失い、言葉すらも失っている。

「珀影様! お怪我はございませんか?」  

 その場にいた人間達の中で、唯一珀影に声をかけて来たのは今まさに珀影に捕まっている狼の贄にされそうになっていた藤だけだった。

 他の村人達は小声で珀影と狼の様子についてなにやら話している。

 しかし、珀影は気にせずに狼を片手に問い掛けた。

「コレは一体どういう事だ? この村にかような魔なるモノが出没しているとは聞いていないが…」

『放せぇ、放せぇぇ!!』

 しかし、その問いには藤も答える事はなかった。

 否。

 出来なかったのだろう。

 言えば、必ず彼は藤に為に動く。

 そして、彼が動けば必ず村人達は彼に対する恐怖を強める。

 だからこそ、彼女は何も言わずに贄になるつもりだったのだろう。

 彼を、守るために…。

 珀影は小さく溜息を付き、自身が村人達の恐怖の対象である事を改めて認識する。

 しかし、彼はそんな事など気にも掛けてはいなかった。

 だからこそ、自分の『仕事』をするだけだ。

「…この魔なるモノは私が封じよう。今日は大人しく家路に着く事だ」

 さっさと村人達に背を向け、珀影は『仕事』を始める。

 ──どうやら、この化け物の属性は風のようだな。ならばこの場に封印した方がいいだろう。

 ザッと辺りを見回した珀影は、懐から一枚の呪符を取り出して、狼の額に張り付けた。

 そしてその場に狼を残して、村人が持っていた神酒の酒樽を奪い取る。

「な、なにを…!」

「いいから黙って寄こしなさいって」

『な、何をするか!』

 さっさと中身ごと奪った珀影は、狼の元へ戻り中身を狼の頭からぶちまけて、へろへろになった所を樽に押し込めた。

 そして蓋をしたその上に再度呪符を張り付け、口の中で小さく呪を唱える。

 何を言っているかまでは、村人達には聞こえない。

 だからこそ、彼等は珀影に恐怖するのだ。

 そうして完全に魔なるモノを封印した珀影は、最後の仕上げと言わんばかりに滝壺へと狼の入った酒樽を蹴り落とし、更に何やら口の中で小さく呪を唱えた。

 ざっぱーーん。

 という大きな音で、ようやく我に返った村人達は、非難と恐怖が入り交じった目で口々に珀影を罵り始めた。

「何て事をするんだ!」

「そうだそうだ! あの化け物のおかげで、この村の作物は毎年豊作だったというのに!」

「今年の冬をどうやって乗り切れと言うんだ! 答えろ!」

 自分勝手な言葉に、珀影は眉根を寄せる。

 しかし、それを無視して珀影は更に長々と呪を唱え、終わった頃にようやく口を開く。

「では、お前達はあの魔なるモノに贄を与えて、代わりに豊作にしてもらっていた、というのかい?」

 口調こそ戻っていたが、彼は怒っていた。

 何故、贄を与えてまで魔なるモノの力を、使わねばならないのか?

 何故、魔なるモノよりも私の事を恐れるのか?

 私は何なのか。

 私は何者なのか。

 分からない。

 分からない…。

 しかし、彼は彼の仕事をしただけ。

 それに、どうして大切な存在の『死』を目の前で、寿命とは違う『死』を受け入れられようか…。

 だからこそ、彼は自らの死により解けるであろうこの呪を強化し、もう一つの呪を掛けたのだ。

 彼女のために。

 


 更に数日後、庵に彼は近付いて来る大勢の人の気配に気が付いていた。

 『負』の気配をぷんぷんさせながら近付いて来る気配。

 それは、村人達の気配だった。

 しかし、よく馴染み、慈しみ、愛した存在の気配は、村にある。

 動かない所を感じ取れば、きっと彼女はどこかに閉じ込められているのだろう。

 ──まあ、死ぬ所を見られずに良かった、とでも思っておこうかな? 泣き顔を見なくて、良かったと思っておこうかな?

 庵の中で、珀影は小さく笑った。

 こうなる事は、狼臥を封印してから予想が付いていた。

 しかし、彼等が彼の命を奪ったところで封印は解けない。

 何故ならばこの山自体がすでに、珀影の尋常ではない霊力を受け止めて、『霊山』なっているからだ。

 だから、あの封印は珀影が成仏しないかぎり解ける事はないだろう。

 この山と、この世で二番目に愛してやまない梔子の木が燃やされないかぎり、解ける事はないだろう。

 それでも念には念を入れなければならない。

「でも、あの人達は何にも考えないでここを燃やすんだろうな~」

 どんどん近付く、村人達の気配。

 しかし、それでも珀影は動かない。

 殺されるつもり、なのだろうか?

 否。

 未来に賭けるだけだ。

 肉体が滅びても、きっと自分は本当の『死』を迎える事はない。

 遙かなる未来の、あの子達のために。


『いたぞー!』

『珀影だ! 珀影は庵の中だぞ!』

 村人達の怒号が山々に響き渡って、ようやく珀影は我に返った。

「おや、もう来たようだね」

 小さく呟き、珀影は庵から出て集まった村人達の前に姿を現した。

 その少し日に焼けた顔に浮かぶのは、笑み。

 いつもと何ら変わる事のない、淡い笑みだった。

「こんなに朝早くに一体何の用かな?」

 何をしに来たのか分かっているというのに、彼はそう問い掛けた。

 村人達は顔を見合わせ、小さく口々に呟きを洩らす。

 それがざわざわ、ざわざわと喧しい。

「お前達は、私が怖いのだろう? なら、どうしてここへ来たのかな? 目的を忘れちゃいけないよ?」

「し、知って?」

 かつて、まだ珀影が村に住んでいた時の隣人だった男が、眉根を寄せて半分叫ぶようにして驚愕する。

 ──怖いのだったら、来なければいいのに…。

 しかし、珀影はそんな思いを表面に出す事なく、笑みすら浮かべて答える。

「それだけの武器と恐怖に満ちた目で見られたら、誰にでも分かると思うけど?」   

「だったら、どうして逃げ惑わない!」

 違う村人の問いに、珀影はここで初めて表情を微かに曇らせた。

「もしも私が抵抗したら、後ろの花火師さんが花火を揚げて村のどこかに閉じ込めている藤を殺す気だろう? 何人か姿も見えないし、ね…」

 村人の間に、驚愕の空気が流れる。

 そして、村長の方に視線が集まった。

 ──なるほどね~。藤を閉じ込めてきたのは長か。

 珀影は神妙な顔付きにして、長に声を掛ける。

「ときに長どの?」

「な、何だ!」

 珀影に名を呼ばれ、怯える村長に彼は微かに笑った。

「長どのは魔なるモノではないので、私に名を呼ばれたぐらいではどうにもなりませんけど? 私の霊力の影響を受けるのは魔なるモノのみですからね」

「な、何だその言いぐさは! それではまるで、わしが貴様に怯えているようではないか!」

 まさにその通り、とは思いつつ、珀影は笑みを消して村人達を見回した。

「ですから、私の霊力は人には効かない、と言っているんですよ。それよりも長どの、最期のお願いです、聞いて貰えますか?」

 やけにあっさりとしている珀影の覚悟を見て取った村長は、尊大な気分になっていた。「なんだ?」

「この山を…庵を、燃やさないで頂きたい」

「なに?」

 その様子から、村人達は彼を殺した後でこの山を燃やす気だったのだろう。

 珀影の予想は当たっていた。

 だからこそ、はったりの一つや二つ言ったところでどうって事はないだろう。

「梔子は魔を避ける木。その木を燃やす事は得策ではないと思われますが? 狼臥よりも強い魔なるモノが入り込まないとも限りませんしね。アレよりも更に凶悪な魔なるモノを相手になんて貴方様方には無理でしょう?」 

 にっこりと笑う珀影に、村人達の間で再びざわざわ、ざわざわと波紋が広がっていく。「それとも、今際の際の願いすら聞いて貰えないほど、薄情な方々なんですか?」

「! 失礼な! よーし、いいだろう! この山は燃やさん!」

「ありがとうございます。では、永遠に燃やさないで下さいね?」

「いいだろう! 永遠に燃やさん!」

 内心してやったりの珀影は、にっこりと笑ったまま言う。

「ついでに玄武の滝にも祠を建てて、あの魔なるモノも供養してあげて下さいね? 約束ですよ? この約束を破ったら…化けて出て永遠に貴方様方の子孫を呪いますからね?」

 語尾にハートマークが付きそうなほどの、明るい口調。

 これが、今まさに死のうとしている者か?

 甚だ疑問ではあったが、彼の霊力を思い出して彼等は肝に銘じておく事にする。

「では、さっさとしましょ」

 珀影がいきなり両手を打ち鳴らし、それを聞いた村人達が我に返って、クワや鎌を身構えた。

「約束、忘れないで下さいね?」

 村人達のクワが、珀影のあまり太くはない身体に突き刺さり、血飛沫を上げる。

 白き長い髪が、宙を舞い踊る。

 何度も何度も、珀影の身体にクワが、鎌が、振り下ろされる。

 その間、珀影は悲鳴も苦悶の声すら上げる事はなかった。

 白と紅の、コントラスト。

 緑の絨毯に白い絹糸が広がり、紅がその場を染め上げた。


「珀影様…!」

 全ての村人が村に帰り、ようやく解放された藤は山の夜道をひた走る。

 草履も、片方どこかに落としてしまった。

 着物の裾も、木の小枝に掠めて引き裂かれている。

 しかし、それでも、藤は構わずにひた走る。

「珀影、様…!」

 ようやく山の頂上の珀影の庵に到着した頃、藤は見るも無惨な姿になっていた。

 所々擦り傷が出来、髪も乱れ、着物はボロボロ、草履はいつの間にか両方なくしている。

 それでも、庵の前に横たわる人影に走り寄る。

「珀影様」

 そして、紅に包まれてすでに息絶えている珀影の身体に縋り付いた。

「珀影様ぁーー!」

 その日、一晩中藤の泣き声が風に乗って村まで届いて来たという。 


 梔子の花言葉は『私は幸せ者』、そして『沈黙』。

 珀影は愛する藤を守る事が出来て『幸せ』であった。

 想いを告げる事は出来なかったが、『幸せ』だった。

 想いを告げずに『沈黙』したのは彼女の未来のため。

 今日、この日を迎えるのは決められた事柄だったのだから…。


 

 

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