第9話:『起動する文字』
マリアの指先が、古びたデータストレージユニットのディスプレイに触れた。その瞬間、一瞬だけ宿った微かな光は、すぐに消え去った。だが、そこに浮かび上がった「文字」は、確かにマリアの目に焼き付いていた。
それは、この世界から失われたはずの「言葉」の形。しかし、マリアが知るどの言語とも異なる、複雑で、しかしどこか有機的な曲線を持つ記号の羅列だった。それはまるで、音そのものを象ったかのような、生きた文字に見えた。
《声棺》は、依然として装置と共鳴し、激しく脈打っている。その振動は、マリアの喉の奥に、再び微かな疼きをもたらした。それは、彼女の「月蝕の歌声」が、この装置と、そしてそこに封印された「文字」に呼応している証だった。
マリアは、装置の表面にある無数のボタンに目を向けた。どれも埃を被り、錆びついている。だが、その中で、一つだけ、他のボタンとは異なる輝きを放つものがあった。それは、中央に位置する、ひときわ大きな、銀色のボタン。
《声棺》の振動が、その銀色のボタンを指し示しているかのようだった。
マリアは、迷わずそのボタンに指を伸ばした。
カチリ、と、乾いた音が図書館の深い沈黙に響き渡る。
次の瞬間、装置全体が、ゆっくりと、しかし確かな光を放ち始めた。
ディスプレイに、再び「文字」が浮かび上がる。今度は、先ほどよりもはるかに鮮明に、そして、次々と連なって表示されていく。それは、まるで、失われた「言葉」が、この装置の中で息を吹き返したかのようだった。
そして、その「文字」と共に、マリアの聴覚中枢に、新たな「響き」が流れ込んできた。
それは、かつて異形から感じ取った「音の毒」とは全く異なる、清らかで、しかしどこか郷愁を誘う旋律。
それは、歌だった。
だが、マリアが知る《聖歌》とも違う。もっと古く、もっと根源的な、人類が「言葉」と共に紡ぎ出した、最初の歌。
マリアの脳裏に、洪水のように映像が押し寄せた。
それは、この装置の中に封印されていた、膨大な「記憶」。
人類がまだ「福音病」に侵される前の世界。
人々が「言葉」を自由に操り、歌い、語り、笑い合っていた時代。
そして、「神託の声」が世界を覆い尽くし、全ての「言葉」が毒へと変貌していく、絶望の瞬間――。
この装置は、単なるデータストレージユニットではなかった。
それは、失われた「言葉」と「歌」の記憶を、そのまま封印した「記憶の図書館」だったのだ。
そして、そこに記されていた「文字」は、この世界の真実を伝える、最後のメッセージ。
マリアの喉の奥が、激しく疼いた。
「月蝕の歌声」が、この「記憶の図書館」の旋律と共鳴し、その力を増幅させていく。
彼女は、この装置から溢れ出す「言葉」の記憶を、全て吸収しようとしていた。
ディスプレイに表示される「文字」が、ついに一つの「文」として完成した。
その文は、マリアの心に直接語りかけるように、強く響いた。
《汝、最後の聖歌を歌え。終焉の先に、真実の福音がある》
それは、未来の自分からのメッセージか。
あるいは、この「記憶の図書館」に封印された、失われた人類の願いか。
マリアは、その「文」を見つめながら、静かに立ち上がった。
彼女の旅は、ここから、新たな段階へと進む。
「誰も歌ってはいけない最後の聖歌」――その意味が、今、マリアの中で、より明確な形を帯び始めた。
《文字は語る 記憶は歌う 最後の聖歌 真実の福音》