第8話:『記憶の図書館』
都市の闇の中、マリアは静かに歩を進めていた。先ほど対峙した異形が崩れ落ちた場所には、もはや彼の痕跡はない。ただ、マリアの《声棺》の中に、彼の苦しみと、そして安堵の記憶が、新たな真実の欠片として封印されているだけだった。
「裁きの歌」――それは、断罪ではない。魂を鎮め、真実を顕現させる鎮魂歌。
マリアは、自身の喉に宿る「月蝕の歌声」の真の力を、改めて理解した。この力は、世界を終焉へと導くものではない。むしろ、終焉の淵から、失われた真実を救い出すための、唯一の希望なのかもしれない。
《声棺》が、微かに、しかし確かな振動で、マリアを導く。都市の路地を抜け、廃墟となった大通りを横断する。風が吹き荒れ、朽ちたビルの窓枠が軋む音が、この世界の深い沈黙を際立たせていた。
やがて、《声棺》の振動が、これまでになく強くなった。その銀色の表面に浮かび上がった黒い紋様が、激しく明滅する。それは、この先に、非常に重要な記憶の欠片が隠されていることを示唆していた。
マリアがたどり着いたのは、都市の中心部にそびえ立つ、巨大な廃墟だった。かつては壮麗な建築物だったであろうその建物は、今では外壁が崩れ落ち、窓ガラスもほとんど残っていない。だが、その威容は、周囲のビル群とは一線を画していた。
建物の正面には、辛うじて判読できる文字で、「国立中央図書館」と記されていた。
図書館――「言葉」を扱う全ての職業が消えたこの世界で、最も早くその機能を失った場所の一つだろう。
マリアは、崩れた入り口から内部へと足を踏み入れた。
内部は、想像以上に荒廃していた。埃が舞い、カビの匂いが鼻を突く。無数の書架が倒れ、本が散乱している。紙の束は湿気を吸い、原型を留めないほどに朽ち果てていた。
だが、この場所の沈黙は、これまでの都市の沈黙とは異なっていた。それは、無数の「言葉」が、声なきままに、この空間に澱んでいるような、重く、深い沈黙だった。
《声棺》の振動は、さらに激しさを増す。
マリアは、その導きに従い、倒れた書架の山を乗り越え、図書館の奥へと進んでいく。
彼女の聴覚中枢に、微かな「音」が届いた。それは、異形の放つ「音の毒」とは全く異なる、澄んだ、しかしどこか悲しみを帯びた「響き」。
それは、まるで、遠い昔の記憶が、この場所で共鳴しているかのようだった。
書架の奥、崩れた天井からわずかに光が差し込む場所に、奇妙な空間があった。
そこだけが、他の場所とは異なり、比較的きれいに保たれている。倒れた書架が、まるで壁のように周囲を囲み、小さな隠し部屋を作り出していた。
その部屋の中央に、一台の装置が置かれていた。
それは、古びたデータストレージユニットのように見える。表面には、無数のボタンと、小さなディスプレイが埋め込まれているが、電源は落ちているようだった。
しかし、その装置から、あの微かな「響き」が放たれている。
マリアは、装置に近づいた。
《声棺》は、もはや激しく脈打つというよりも、装置そのものと共鳴しているかのようだった。
この装置の中に、何が封印されているのか。
それは、失われた「言葉」の記憶か。
あるいは、「誰も歌ってはいけない最後の聖歌」へと続く、新たな道標か。
マリアは、静かに装置に手を伸ばした。
その指先が触れる寸前、ディスプレイに、一瞬だけ、微かな光が宿った。
そして、そこには、意味不明な、しかしどこか懐かしい「文字」が、浮かび上がった――。
《言葉の墓場 響くは記憶 最後の聖歌 新たな文字》