第7話:『音無き鎮魂歌』
マリアは、静かに《声棺》を構えた。
歪んだ口から絶えず不協和音を放つ異形が、ゆっくりと、しかし確実にマリアへと迫る。その全身を覆う黒い「音の膜」は、まるで生きているかのように蠢き、周囲の空気をさらに重く、歪んだものに変えていく。
異形の放つ「音の毒」は、マリアの聴覚中枢を直接焼くような痛みをもたらした。それは、かつて彼女の声帯を崩壊させた「神の声」の残滓。だが、マリアは一歩も引かない。彼女の内に響く《月蝕の歌》が、その痛みを、真実へと至るための「共鳴」へと変換していく。
マリアの胸元の《声棺》が、激しく脈打つ。銀色の表面に浮かび上がった黒い紋様が、眩い光を放ち始めた。その光は、異形の放つ黒い「音の膜」に触れると、まるで墨が水に溶けるように、ゆっくりと浸透していく。
「裁きの歌」――それは、断罪の歌ではない。
それは、偽りを剥がし、真実を顕現させる歌。
マリアの喉の奥で、再び微かな疼きが走った。それは、覚醒の兆しではなく、異形の「音の毒」を、自らの「裁きの歌」へと取り込む過程で生じる、共鳴の痛みだった。
異形は、苦悶の声を上げた。その歪んだ口から漏れる不協和音が、一瞬、悲痛な叫びへと変わる。異形の全身を覆っていた黒い「音の膜」に、ひび割れが生じ始めた。その隙間から、かつて人間だった頃の、微かな記憶の光が漏れ出す。
マリアの脳裏に、断片的な映像が流れ込んできた。
それは、この異形が人間だった頃の記憶。
《福音病》が蔓延し始めた頃の、混乱した都市の風景。
愛する者を守ろうと、必死に抗う人々の姿。
そして、突如として天から降り注いだ、おぞましい「神託の声」に精神を侵され、徐々に異形へと変貌していく、彼の苦しみと絶望――。
その記憶は、マリアの心に深く響いた。
彼もまた、世界の犠牲者だった。
《月蝕の歌》は、彼を断罪するのではなく、彼の苦しみを理解し、その魂を鎮める「鎮魂歌」へと姿を変えていく。
黒い「音の膜」が、完全に剥がれ落ちた。
異形は、元の人間らしい姿へと戻った。だが、その瞳には光はなく、まるで抜け殻のように、その場に崩れ落ちる。
彼は、もはや「音の毒」を放つことはない。ただ、静かに、安らかな表情で、そこに横たわっていた。
マリアは、その場に膝をつき、静かに異形の額に触れた。
彼女の《声棺》から、微かな銀色の光が放たれ、異形の身体を包み込む。
それは、彼の魂を、安らかな眠りへと導く、音無き鎮魂歌。
彼の記憶は、《声棺》の中に、新たな真実の欠片として封印された。
都市の闇の中で、マリアは再び一人になった。
だが、彼女の心には、新たな決意が宿っていた。
この世界には、まだ多くの「異形」が存在するだろう。彼らもまた、真実を理解されず、苦しんでいるのかもしれない。
マリアの使命は、彼らを断罪することではない。
彼らの記憶に隠された真実を暴き、その魂を鎮めること。
そして、その先にある「誰も歌ってはいけない最後の聖歌」を見つけ出すこと。
《声棺》が、再び微かに振動を始めた。
それは、新たな記憶の欠片が、次なる道標を示している証。
マリアは、静かに立ち上がり、都市の奥へと足を踏み出した。
彼女の喉に宿る「月蝕の歌声」は、今、終焉の福音ではなく、世界を救うための、音無き鎮魂歌を紡ぎ始めていた。
《音無き歌声 魂の鎮魂 記憶の欠片 新たな道標》