第6話:『沈黙の都市』
教会の瓦礫を後にしたマリアは、夜の帳が降りた都市へと足を踏み入れた。かつては喧騒に満ちていたであろう大通りは、今は深い沈黙に包まれている。街灯はまばらにしか点灯せず、その光もどこか弱々しく、都市全体が巨大な墓標のように佇んでいた。
アスファルトのひび割れからは雑草が生い茂り、廃墟となったビル群の窓は黒い瞳のように虚ろに空を見上げている。風が吹き抜けるたび、遠くで錆びついた看板が軋む音が、この世界の唯一の「声」のように響いた。それは、かつて「言葉」を失った世界が、自らの存在を主張する、悲痛な叫びのようだった。
マリアの胸元の《声棺》が、微かに振動を始めた。それは、彼女の心臓の鼓動と共鳴し、行くべき方向を示している。銀色の表面に浮かび上がった黒い紋様が、闇の中で淡く輝き、彼女の孤独な道を照らす道標となった。
《月蝕の歌》の残響は、マリアの意識の奥底で、今も静かに響いている。それは、彼女の失われた声帯の代わりに、新たな感覚器官となったかのようだった。周囲の「音の毒」を遮断し、真実へと続く微かな「音の気配」だけを拾い上げる。
《声棺》が導くまま、マリアは都市の深部へと進んでいく。廃墟と化した商店街、朽ちた車が放置された交差点。どの場所にも、かつての生活の痕跡が残されているが、そこに人の気配はない。まるで、人類が音と共に消え去った後の世界のようだった。
突然、《声棺》の振動が激しくなった。同時に、マリアの喉の奥に、再び微かな疼きが走る。それは、覚醒の兆しではなく、警告のようだった。
彼女の聴覚中枢に、微かな「音」が届いた。それは、遠くから聞こえる、不気味な「囁き」。
《福音病》の症状に似ているが、もっと深く、もっと根源的な「声」。
マリアは、警戒しながら路地裏へと身を隠した。
その囁きは、徐々に近づいてくる。そして、その音の粒子は、周囲の空気を歪ませ、マリアの視界を揺らした。
路地の奥から、一体の「異形」が現れた。
それは、かつて人間だったであろう姿をしていたが、全身は黒い「音の膜」に覆われ、顔は歪み、口からは絶えず意味不明な「声」が漏れ出している。その声は、聞く者の精神を直接侵食するような、おぞましい不協和音だった。
「《神託の声》の……残滓か」
マリアの唇が、無意識にその言葉を紡ぐ。声は出ないが、その認識は明確だった。
《福音病》によって変異した人間。彼らは、かつて「神の声」に魅入られ、その精神を破壊された者たちだ。
その異形は、マリアの存在に気づいたのか、ゆっくりとこちらへ向き直った。
歪んだ口から、さらに大きな「囁き」が放たれる。その音の波動は、路地裏の壁を震わせ、マリアの耳を焼いた。
マリアは、一歩も引かない。
彼女の胸元で、《声棺》が激しく脈打つ。
その異形の放つ「音の毒」は、確かに危険だ。だが、この「音」の奥には、何か重要な「記憶」が隠されている。
《月蝕の歌》が、マリアの心の中で囁く。
それは、この異形が放つ「音の毒」を、真実を顕現させる「裁きの歌」へと変換するよう、促しているかのようだった。
マリアは、静かに《声棺》を構えた。
この「沈黙の都市」で、彼女は初めて、直接的な脅威と対峙する。
そして、その脅威の奥に隠された、新たな記憶の欠片を、今、暴こうとしていた。
《沈黙の都市 響くは異形 裁きの歌声 新たな記憶》