第5話:『共鳴する道標』
黒い光が完全に収束し、教会跡に再び灰色の夕暮れが戻った。男は、膝をついたまま、震える手で耳元を押さえている。黒い血の跡が、彼の指の隙間から滲んでいた。だが、その瞳には、もはや狂気も憎悪もなかった。ただ、深い疲労と、そして、混乱の中にも確かな「理解」の光が宿っていた。
「……信じられん」
男の声が、かすかに震える。それは、恐怖の声ではなく、現実を受け入れ難い者の呟きだった。
「あの歌が……裁きの歌だと? そして、お前が……未来から来た、私を救おうとした……」
彼は、マリアの瞳をまっすぐに見つめた。そこには、声なき少女の、揺るぎない決意が宿っている。
マリアは、男の前に静かに立ち尽くしていた。彼女の喉の疼きは完全に消え、再び沈黙が戻った。だが、その内側では、《月蝕の歌》がもたらした「裁きの歌」の残響が、深く、静かに響き続けている。それは、彼女の失われた声帯の代わりに、新たな力を宿した証だった。
男は、ゆっくりと立ち上がった。その足取りはまだ覚束ないが、彼の表情には、先ほどの狂乱はもうない。
「私は……《黙示録局》の捜査官だ。コードネームは『シャドウ』。この教会の《アリア断絶の惨劇》を追っていた」
彼は、自らの身分を明かした。それは、マリアを捕縛しようとした者としては、異例の行動だった。
「あの歌は……私に、真実を見せた。お前が、本当に世界を救おうとしていることを……」
シャドウは、苦い顔で続けた。
「だが、お前の歌は危険だ。一般人には耐えられない。お前が《月蝕の聖職者》でないと理解できるのは、ごく一部の人間だけだろう」
マリアは、頷いた。
彼女は、自身の歌が持つ力を自覚していた。それは、真実を顕現させる力であると同時に、人の精神を破壊しかねない諸刃の剣。だからこそ、未来の自分が、この歌を封印しようとしたのだろう。
「……どうするつもりだ?」
シャドウが問う。
マリアは、胸元の《声棺》を軽く叩いた。
そこには、未来の自分から託された記憶が封印されている。そして、その記憶が指し示すのは、「誰も歌ってはいけない最後の聖歌」へと続く道。
マリアの使命は、この歌の真実を解き明かし、世界を終焉から救うこと。そのためには、この《声棺》に導かれるまま、失われた聖歌の欠片を探し出すしかない。
マリアは、シャドウの目をじっと見つめ、そして、教会の奥、さらに深い闇へと視線を向けた。
言葉は出ない。だが、その瞳が語る意思は、明確だった。
「……ついてくるな、ということか」
シャドウは、マリアの意思を正確に読み取った。彼は、苦笑いを浮かべた。
「そうだな。お前の歌は、私にはまだ重すぎる。だが……」
彼は、懐から通信機を取り出した。
「お前の情報は、私が握り潰す。しばらくは、自由に動けるだろう」
それは、シャドウなりの、マリアへの協力の形だった。彼の内にも、世界の終焉を止めたいという、強い願いがあるのだろう。
マリアは、シャドウに一礼し、再び瓦礫の奥へと足を踏み入れた。
《月蝕の歌》の残響が、彼女の心の中で道標となる。
それは、真実へと続く、孤独な旅の始まり。
そして、この世界に隠された、最後の聖歌が、マリアを呼んでいる。
教会の外では、夜の帳が降り、月が欠け始めていた。
その月蝕の光が、マリアの背中を、静かに照らしていた。
《欠けたる月影 導くは真実 最後の聖歌 終焉の先へ》