第4話:『覚醒の審判』
男が引き金を引いた。だが、その銃声は、マリアには届かなかった。
彼女の耳には、ただ一つの旋律だけが響いていた。それは、かつての自分が残した、真実の歌。そして、今、マリア自身が、その歌を紡ぎ出そうとしていた。
喉の奥から、黒い光が漏れ出した。それは、夜空の月蝕のように、周囲の光を吸い込み、闇を深めていく。光は瞬く間にマリアの全身を包み込み、彼女の纏う黒衣をさらに濃い影で染め上げた。
男の放った弾丸は、その黒い光に触れた途端、まるで存在を否定されたかのように、音もなく霧散した。
「な、なんだ……これは!?」
男の声が、恐怖に引きつる。彼の銃を握る手が震え、瞳はマリアの放つ黒い光に釘付けになっていた。その光は、彼の聴覚を直接侵し、脳髄に不協和音を叩きつける。
それは、《福音病》の症状とは異なる、もっと根源的な「音の毒」。
マリアは、何も言わない。ただ、その瞳だけが、男の奥底にある恐怖を見据えていた。
彼女の喉から漏れ出す黒い光は、もはや微かなものではない。それは、教会全体を震わせるほどの、巨大な「音の波動」へと変わっていた。瓦礫が振動し、天井から砂埃が舞い落ちる。
《月蝕の歌》が、マリアの意識を覚醒させる。
それは、終焉の讃美歌ではなかった。
それは、「裁きの歌」。
偽りの歴史を暴き、真実を顕現させるための、始まりの旋律。
マリアの脳裏に、十年前の《アリア断絶の惨劇》の全容が、鮮明に蘇った。
あの時、この教会で《月蝕の聖職者》と呼ばれた少女が歌っていたのは、終焉の歌ではなかった。
彼女は、**《神託の声》**によって精神を侵され、暴走する人々を鎮めるために、自らの命を削って「裁きの歌」を歌っていたのだ。
だが、その歌は、当時の人類には理解されず、「終焉を呼ぶ歌」として恐れられ、封印された。
そして、その封印を施したのが、他ならぬ、未来から来たマリア自身だった。
「処刑したはずの、かつての自分」――その言葉の意味が、今、マリアの中で一つに繋がった。
彼女は、未来からこの時代に跳び、あの惨劇を止めようとした。だが、その結果、歌うことで世界を救おうとした「かつての自分」を、自らの手で封印することになったのだ。
そして、その封印の代償として、マリア自身も声帯を失い、この時代に取り残された。
喉から溢れ出す黒い光が、男の全身を包み込む。
男は、苦悶の声を上げ、その場に膝をついた。彼の耳から、黒い血が流れ出す。
「やめろ……! 私は……私はただ……!」
男の脳裏に、彼自身の記憶がフラッシュバックする。
《福音病》によって家族を失った悲しみ。
《月蝕の聖職者》への憎悪。
そして、世界を救うために、何が正しいのか分からず、ただ恐怖に駆られていた自身の姿。
マリアの「裁きの歌」は、男の罪を断罪するものではなかった。
それは、彼の記憶の奥底に隠された「真実」を、強制的に顕現させる歌。
男の瞳から、涙が溢れ出した。それは、恐怖の涙ではなく、理解と後悔の涙だった。
彼は、マリアが《月蝕の聖職者》ではないことを、そして、彼女が歌っているのが終焉の歌ではないことを、ようやく理解したのだ。
黒い光が、ゆっくりと収束していく。
マリアの喉の疼きも、それに合わせて落ち着いていった。
彼女は、男の前に立ち尽くす。
男は、顔を上げ、マリアの瞳を見つめた。その瞳には、もはや憎悪も恐怖もなかった。
ただ、深い絶望と、そして、微かな希望の光が宿っていた。
マリアは、声なき唇で、静かに問いかけた。
《月蝕の歌》の真実が、今、ここに明かされた。
だが、真の戦いは、ここから始まる。
世界を終焉から救うための、最後の聖歌を目指して――。
《裁きの歌声 偽りの終焉 真実の記憶 新たな始まり》