第3話:『残響の記憶』
瓦礫の奥へ足を踏み入れるマリアを、男の叫びが追いかけた。
「待て! その歌は危険だ! お前も《神託の声》に侵されるぞ!」
だが、マリアの耳には、その言葉はもはや届かない。彼女の聴覚中枢を支配するのは、《月蝕の歌》の不協和音と、それに呼応して脈打つ《声棺》の振動だけだった。
崩れ落ちた教会の内陣は、陽光も届かぬ暗闇に包まれていた。だが、マリアの《声棺》から放たれる銀色の微光が、足元をぼんやりと照らす。その光に照らされた壁には、かつては美しかったであろうフレスコ画の残骸が、無残に剥がれ落ちていた。描かれていたのは、聖歌を歌う天使たちの姿。しかし、その顔は全て削り取られ、空虚な穴が残されている。まるで、声そのものが消し去られたかのように。
《月蝕の歌》は、マリアの意識の奥底に、さらに深く潜り込んでくる。それは、単なる音の羅列ではない。無数の声が織りなす、複雑な記憶の断片。歓喜、悲嘆、絶望、そして、抗いがたいほどの「真実」。
マリアの脳裏に、新たな映像がフラッシュバックした。
それは、十年前の《アリア断絶の惨劇》の日。
幼いマリアが、この教会で、何かに怯えながら隠れていた記憶。
そして、目の前で、一人の少女が、喉から黒い光を放ち、周囲の人間が次々と泡のように消滅していく光景――。
その少女の顔は、なぜか、今のマリアと瓜二つだった。
「まさか……私が、あの時の……」
声なきマリアの唇が、震える。
《月蝕の聖職者》――それは、他ならぬ、かつての自分だったのか?
そして、自分が「処刑したはずの、かつての自分」とは、一体どういうことなのか?
《声棺》の熱が、さらに増した。銀色の表面に浮かび上がっていた黒い紋様が、まるで生きているかのように蠢き、マリアの掌に吸い付く。
その瞬間、マリアの喉の奥で、微かな疼きが走った。
それは、声帯を失って以来、完全に沈黙していたはずの場所。
だが、今、そこに、何かが芽生えようとしている。
《月蝕の歌》が、その疼きを増幅させる。それは、終焉の讃美歌ではなく、覚醒の序曲だった。
「見つけたぞ、異端者!」
背後から、男の声が響いた。振り返ると、男が銃を構え、マリアに向けていた。
「やはりお前は、《月蝕の聖職者》の残党か! ここで処分する!」
男の瞳には、憎悪と恐怖が入り混じっていた。彼にとって、マリアは世界を滅ぼそうとする脅威でしかなかった。
マリアは、男から目を逸らさず、ただ静かに《声棺》を胸に抱きしめた。
彼女の喉の疼きは、もはや微かなものではない。それは、内側から突き上げるような、強い衝動へと変わっていた。
《月蝕の歌》が、マリアの全身を駆け巡る。
それは、彼女が知る《聖歌》とは全く異なる、根源的な「音の力」。
そして、その力は、彼女の失われた声帯を、新たな形で再構築しようとしているかのようだった。
男が引き金を引いた。
だが、その銃声は、マリアには届かなかった。
彼女の耳には、ただ一つの旋律だけが響いていた。
それは、かつての自分が残した、真実の歌。
そして、今、マリア自身が、その歌を紡ぎ出そうとしていた。
喉の奥から、黒い光が漏れ出す。
それは、終焉の福音か、あるいは、世界を救うための、最初の審判の歌か――。
《過去の残響 偽りの歌声 覚醒の旋律 裁きの始まり》