第2話:『禁忌の旋律』
《月蝕の歌》――それは、マリアがその声帯を失ったあの日以来、決して耳にすることのなかった、そして決して聴いてはならないと教えられてきた禁忌の旋律だった。
教会の瓦礫の中で、その黒き讃美歌は、音無しのマリアの聴覚中枢を直接揺さぶった。それは耳で聴く音ではなく、魂に直接響くような、無数の声が重なり合った不協和音。だが、その底には、抗いがたいほどに甘美な、終焉への誘いがあった。
男は、マリアの異変に気づいたのか、警戒の色を強める。
「おい、どうした? 顔色が悪いぞ、聖職者」
マリアは、その言葉が音の毒として耳を焼くのを感じながらも、男の言葉が遠く、霞んで聞こえるような錯覚に陥った。視界が歪み、瓦礫の隙間から差し込む夕陽が、血のように赤く滲む。
《月蝕の歌》は、マリアの内に眠る“禁じられた記憶”を激しく揺さぶった。それは、十年前の《アリア断絶の惨劇》の記憶。まだ幼かったマリアが、**「神の声」**に触れ、その声帯を失った、あの忌まわしい日の残響。
彼女の手に握られた《声棺》が、脈打つように熱を帯び始めた。銀色の表面に、黒い紋様が浮かび上がる。それは、マリアが封印したはずの、**“未来の自分から託された記憶”**が、この《月蝕の歌》に呼応している証だった。
「この歌……」
マリアの口が、無意識に動く。声は出ない。だが、その唇から紡がれようとしているのは、言葉ではない、もっと根源的な、音の形。
男が、拳銃を完全に引き抜いた。
「まさか、お前……《月蝕の聖職者》か!?」
《月蝕の聖職者》――それは、かつて《神託の声》に魅入られ、世界を終焉へと導こうとした異端の《聖職者》たちのこと。彼らは《月蝕の歌》を歌い、人類の精神を破壊した。マリアの声帯が崩壊したのも、その歌に触れたからだと教えられてきた。
だが、今、マリアの《声棺》が指し示したこの場所で、彼女自身の内に《月蝕の歌》が響く。そして、その歌は、彼女が処刑したはずの“かつての自分”の記憶と共鳴している。
マリアの脳裏に、断片的な映像がフラッシュバックする。
血に染まった祭壇。
崩れ落ちる教会。
そして、自分と同じ、黒衣を纏った少女が、何かを叫びながら、その喉から黒い光を放つ姿――。
「違う……」
マリアは、強く首を横に振った。
これは、自分が知る歴史とは違う。
《月蝕の歌》は、終焉の歌ではない。
これは、**「誰かが」**終焉を祝福するために歌った、偽りの讃美歌だ。
彼女の使命は、この歌の真実を暴き、世界を終焉から救うこと。
そのためには、この《月蝕の歌》を理解し、その根源にある“最後の聖歌”へと辿り着くしかない。
男が引き金を引こうとした、その瞬間。
マリアの瞳に、強い光が宿った。
彼女は、自らの《声棺》を強く握りしめ、瓦礫の奥へと足を踏み入れた。
《月蝕の歌》の残響が、彼女の背を押す。
この歌は、終焉を告げる福音ではない。
これは、真実への道標だ。
マリアは、音無しの世界で、ただ一人、禁忌の旋律を聴きながら、その足跡を刻み始めた。
彼女の喉に眠る「月蝕の歌声」が、今、静かに覚醒しようとしていた。
《沈黙の奥に 響くは真実か 偽りの歌か 裁きの鐘か》