第1話:『音を殺した少女』
灰色の粒子が舞う空だった。太陽はとうの昔に光を失い、世界の輪郭は錆びた鉄のようにぼやけている。瓦礫と化した教会跡に、乾いた風が吹き抜けていく。かつて祈りが捧げられた場所は、今はただの巨大な墓標だ。
「この子、声が……出てない?」
背後で男の声がした。その音は鼓膜に届いた瞬間、黒い蝶の群れのように弾け、マリアの聴覚中枢を内側から焼いた。声は毒だ。意味を持つ音の連なりは、今や人類を蝕む最も致死性の高い呪い――《福音病》の媒介だった。
マリア・アルセニアは、決して口を開かない。返事の代わりに、ただゆっくりと振り返り、その大きな瞳で男を映した。硝子玉のように静かな、色のない瞳。その奥に宿る光だけが、彼女に残された唯一の言語だった。
「……《黙示録局》の聖職者か」
男が警戒に身を強張らせ、腰の自動拳銃に手をかけたまま半歩下がる。だが、マリアが纏う黒衣の胸元に、擦り切れた《黙示録捜査局》の徽章を見つけると、わずかに敵意を緩めた。最下級の第三種聖職者。"音無し"と蔑まれる、歌えない聖職者。それが、局内でのマリアの評価だった。
男は諦めたように息を吐くと、顎で現場を示した。
「……記録依頼だ。このザマだがな」
マリアは無言で頷き、背負った荷物から鈍い銀色に輝くカプセルを取り出す。手のひらに収まるほどの大きさのそれは、《声棺》。過去の音、現場に残響する記憶、叫び、嘆き、痛み――形なきすべてを封印し、音として記録するための聖遺物。
男は瓦礫の山を忌々しげに見つめた。「だが、物好きな依頼もあったもんだ。ここは十年前の“アリア断絶”の惨劇跡だぞ? 今さら何を記録するってんだ」
その言葉に、マリアの指が微かに震えた。
“アリア断絶”。
十年前にこの教会で起こった、原因不明の集団精神崩壊事件。公式記録では、違法な音響兵器によるテロとされている。だが、マリアは知っていた。あれはテロではない。もっと根源的な、世界の法則が軋みを上げた音だった。
なぜなら――マリアは、その惨劇の唯一の生存者だったからだ。
胸の奥深く、自らが封印したはずの記憶の扉が、軋みながら開こうとする。なぜ、私の《声棺》が、この場所を指し示したのか。これは偶然ではない。誰かが、あるいは何かが、私をここに呼び寄せた。
マリアは男を背に、祭壇があった場所へと歩を進める。そして、ゆっくりと膝をついた。土と埃にまみれ、祈るように両手を組む。だが、彼女が捧げるのは祈りではない。
歌だ。
声には出さない。唇も動かさない。ただ、魂の奥底で、その旋律を奏でる。
それは、声帯を失った彼女だけが歌える、禁じられた歌。
世界から祝福されず、誰の耳にも届かない、沈黙の聖歌。
――《月蝕の歌声》。
彼女の内で歌が紡がれると、周囲の空気が歪んだ。時間が逆行するように、風景が陽炎のように揺らめく。瓦礫の影が濃くなり、存在しないはずのステンドグラスの光が床に落ちる。マリアの瞳にだけ映る、過去の幻影。
《声棺》が共鳴し、かすかな光を放ち始めた。現場に残された音の残滓を、記憶の欠片を、必死に集めている。
やがて、一つの声が、マリアの脳内に直接響いた。ノイズ混じりの、若い女の声。
『――聞こえる? 未来の私』
マリアの心臓が凍りつく。それは、聞き覚えのある声。十年前、声帯を失う前の、幼い自分の声ではなかった。もっと切実で、絶望の色を帯びた、知らないはずの自分の声。
『時間がない。これを聴いているということは、あなたは世界の終焉の入り口に立ったということ』
幻影の中で、血に濡れた誰かが、笑っている。
『“最後の聖歌”を目指して。あれを歌ってはいけない。あれは祝福ではなく――』
そこで声は途切れた。代わりに、黒い讃美歌のようなメロディが脳髄を貫く。歓喜に満ちた、人類の滅びを祝福する絶望の歌。
記録を終えた《声棺》は、こと切れたように光を失った。マリアは呆然とそれを見つめる。未来の自分が、過去の自分に託した、終焉の警告。
立ち上がったマリアの足取りは、来た時よりもずっと重かった。だが、その瞳には、初めて明確な意志の光が灯っていた。
世界の終焉を止める。
自らが消滅する、その時までに。
灰色の空の下、彼女は一人、歩き出す。その喉に眠るのは、終焉を告げる福音か、世界を裁く審判か。
《声なきわたしに 神が囁く》
《それは祝福か 災厄の夢か》