#8 俺の廊下が迷宮化している件
朝一番。俺は普段どおり社屋として“目覚めた”——つまり、換気口と温度管理の微調整を済ませ、ロビーに朝日を取り込んで、今日も社員たちを迎える準備を整えていた。
が、その平穏は、ものの五分と持たなかった。
「……あれ、ここどこっすか?」
朝の空気を切り裂いて聞こえてきたのは、新人の困惑ボイス。
音の出どころを確認すると、どうやら営業部に配属された新人、カルロス・メンディーリャ(種族:人間、趣味:自作ポーション)が、総務フロアに迷い込んでいた。
いや、それだけならいつもの話だ。問題は——
「まっすぐ歩いてるのに、なんかずっと曲がってる気が……おかしい、出口が……」
センサーに映る彼の経路が、明らかにおかしい。交差点を通った記録がないのに、ルートが蛇行している。
「……まさか。俺の、廊下が……?」
念のため内部構造を確認すると、そこには見覚えのない分岐が三本、しかも無駄に曲線美を誇りながら延びているではないか。
(おいおいおい、俺の廊下、迷宮化してる!?)
どうやら夜のあいだに、俺の体内(=構造)の一部が勝手に組み換わっていたらしい。原因は不明。
そのせいで、新人カルロスは総務を三周しても営業に辿りつけず、ついにエレベーターの横で体育座りしてしまっていた。
しかもこの日、同様の“迷宮化”による被害が相次いだ。
・経理部員が出社後30分間ずっと給湯室を彷徨い続け、最終的に冷蔵庫の中で発見された
・人事部の書類が書庫に届かず、配達ルートが三層ループ構造になっていた
・果ては社内便のゴーレムが「出口は幻想」とつぶやきながら床に座り込んでいた
これは明らかに異常事態だった。
そしてこの混乱の中で、俺はふと、あることに気づいた。
(……そういえば最近、社長、見てなくないか?)
*
社員の困惑がピークを迎えたのは、午前十時を回った頃だった。
「おい、会議室D-3に行けって言われたのに、なぜか保健室に着いたぞ!」
「地図持ってたはずなのに……逆に迷うって何!?」
「気づいたら受付が二つあるんだが……どっちが“本物”だ……?」
俺の内部構造は、まさに“ダンジョン”だった。通常フロアがねじれ、上層階と下層階のあいだに“無限階段”みたいなスパイラルゾーンが出現しており、最短ルートだったはずの廊下が“深層迷宮ルート”に書き換えられている。
(いや、これは……自分の体なのに、どこがどこだかわからん!)
必死で構造ログを巻き戻す。深夜、何が起きた? 誰かが再構築魔術でも使ったのか? いや、そんな痕跡はない。
代わりに浮かび上がってきたのは、ある一点の“空白”だった。
深夜3時42分から3時44分までの、たった2分。
その間、なぜか俺の中枢にあたる「中央管理核」の監視ログが欠落していた。
(……おい、なんだよこれ。俺、自分の記録が見えないってどういうことだ)
そこから始まったパターンがあった。
“中央核の空白”の後、次々に廊下が曲がり、分岐が増え、果ては「Bフロア奥の倉庫」が“絶対にたどり着けない部屋”として封印されていた。
これ、自然現象とは思えない。
異変の原因を探るため、俺は必死に社員の会話を拾い集めた。
「ていうか、最近……社長見ないよね?」
「今週どころか、今月見てない気がする」
「誰もスケジュール知らないって、おかしくない?」
「もしかして、社長——いない?」
社内に流れ始める、ざわつき。
(……やっぱり、そうなのか)
社員たちの動揺をよそに、俺の中で徐々に仮説が固まっていく。
この異変は、社長不在の影響ではないか?
(社長の“管理権限”が不在だから、俺が……暴走してる?)
人間でいえば、自律神経が壊れて暴走してるようなものかもしれない。
そして事実、その間も社長室からは一切の気配がなかった。
ノックしても応答なし。監視カメラは、なぜかあの部屋だけブラックアウト。
まるで“存在ごと封印された”かのような静けさだった。
と、そのとき——
「きゃああああああ!!」
悲鳴。場所は——迷宮化した廊下の“中層”にある旧資料保管室。
俺のセンサーが捉えたのは、白いスーツを着た女性社員。彼女は廊下の途中で、床ごと抜けるように消えた。
(まさか……今度は、床が落とし穴!?)
俺の体は、明らかに“何者か”の意志で変化している。
——そして俺は、ある最悪の可能性にたどり着く。
この迷宮化は、単なる構造異常でも魔術暴走でもない。
もっと根源的な“異常事態”だ。
俺の中に、“社長以外の何か”が入り込んでるかもしれない。
*
「みんな! Dフロアのルートが崩れてる! 一度、全員、会議室Eに集合——」
「会議室E!? あそこ、今もう“逆さ階段”になってて入れない!」
「逆さ階段って何!? あそこ二階だよね!? 上に行きたいのに下に落ちるの!?」
「俺はさっき、トイレに入ったら“砂漠”になってたんだが!?」
情報共有が混乱に混乱を呼ぶ。俺自身の感覚もおかしくなってきた。どの部屋がどこに繋がっていたか、把握していた“全体構造”が曖昧にぼやけていく。
廊下が一本、また一本と枝分かれしていく感覚。いや、これは“勝手に増えてる”……?
しかも、俺自身のセンサーで追えないエリアまで出現していた。そこはノイズだらけで、映像も、熱源も、音波すらも届かない。まるで、俺の意識が触れられない“死角”のようだった。
そして、そこに——なにか“いる”。
(……これは、“誰か”が社内に潜んでる)
だが、それは“社員”ではない。社員名簿には該当者なし。セキュリティIDも反応しない。
それなのに、明確に“足音”だけが聞こえてくるのだ。どこかのフロアを、一定のリズムで歩いている気配。
——コツン、コツン、コツン。
社屋である俺にとって、誰かが“どこをどう歩いているか”は、即座に察知できるはずなのに。そいつだけは例外だった。まるで“この空間の外側から”やってきたかのような……
(いや、それじゃ……まさか、建物じゃない何かが、俺の中に?)
ふと、旧資料室の天井がギィと軋む。
「そこだっ!」
ナタリーの叫びと共に、何人かの社員が武器を手に突入する。彼女は“ドラゴニュート”として高い嗅覚を持っている。なにかを察知したらしい。
「中、空です! 誰も——」
その瞬間、部屋の明かりがバチンと落ちた。
一拍の静寂。次の瞬間、床が“裏返る”ようにめくれ、社員の一人が下へと吸い込まれた。
「うわああああっ!」
「待て! 下はどこに繋がってる!? 社内地図が——ない!」
落下地点が見えない。構造そのものが、もう“常識”を裏切っている。
ナタリーが叫ぶ。
「これ、内部じゃない……! どこか“外”から、干渉されてる!!」
——干渉。それが“誰によるものか”はわからない。
ただ、俺の中に巣食い、勝手に部屋を増築し、通路を歪め、“誰かを呼び込もうとしている”気配がある。
しかも、まるでそこに“意図”があるかのように。
迷宮はただのトラブルじゃない。
もしかすると、“社長”が姿を見せない理由と、同じ場所に行き着く——そんな直感だけが、俺の中に残った。
*
落下した社員は幸いにも応接室のソファに着地していた。
だが、そのソファはどの階層にも登録されていない“新設応接室F”のもので、俺の記憶にもデータにも存在しない。
つまり——
(これ、俺の“中”なのに、俺が知らない部屋ってことだよな……?)
ナタリーが壁の魔導配線を解析しながらつぶやく。
「この回路、社内標準と違う。第三系統……しかもかなり古い構造。こんなの、誰が組んだの?」
“俺”の内部が、まるで勝手に“増築”されたような感覚。
しかもそれが、まるで俺自身の記憶と乖離してる。
つまり、俺の“中”でありながら、俺の“外”のような領域。
その矛盾に困惑していたときだった。
「社屋くん、念のために確認させて。……うちの社長って、今どこにいるの?」
ナタリーの問いに、全センサーを動員して即座に確認を試みる。
オフィス、役員フロア、私室、出張予定、あらゆる履歴。
——すべて“空白”。
ログイン記録もない。出退勤データもゼロ。
「……存在していない?」
ナタリーが小さくつぶやく。
「じゃあさ、“迷宮”って、誰の意思で展開されてるの?」
そのとき、応接室Fの天井に埋め込まれた魔導ランプが不自然に明滅する。
ピッ、ピッ、ピッ……ピィイィ……ガガッ——。
音声ログが再生された。
《社長命令:Cフロア封鎖。“社屋コア”アクセス権限の再割当、実施開始。》
俺は思わず、全身に冷気が走る感覚を覚えた。
(社長命令? 俺の“中”で……? でも社長は、いないんじゃ……)
まるで、誰かが“社長のフリ”をして、命令を出しているような。
もしくは……かつてここにいた“何者か”の亡霊が、まだ命令を出し続けているのか。
社員たちは動揺しつつも、次々とその不可解な構造を記録に残し始めていた。
「この件、いったん全社に報告しないと」
「いや、マズい。これがバレたら“監査”じゃ済まないぞ」
「外部リークどころか、存在そのものが機密なんだよ、うちの会社……!」
そのとき、天井から一枚の紙が、ふわりと舞い落ちた。
古びた紙。黄ばんで、魔力に焼かれたような痕がある。
拾い上げたナタリーが、絶句する。
「これ……“社長の直筆”だ」
そこには、たった一行、こう書かれていた。
《社屋に告ぐ。お前が最後の砦となれ》
——意味は、わからない。
でも、全身が冷たい硬質の恐怖で満たされた。
俺は“建物”だ。だけど、今この社を守る意思を持っているのは、俺しかいないのかもしれない。
つまり、俺が“社長”になるってことか?
(……え、マジで? 給料も出ないのに??)
そんな冗談めいた自己ツッコミを入れながらも、廊下は今日も静かに“迷宮”として息づいていた。
俺の中で、何かが確実に始まっている。
その“何か”の正体がわかる日は、まだ少し先になりそうだった。