#5 社内恋愛は社屋の外で
タナトス株式会社には、社内マップにも載っていない“謎部屋”がいくつかある。俺の、つまりこの社屋の構造の深部には、旧時代から使われていない保管室や、用途不明の空間がぽつぽつと眠っている。
そして今朝──
俺の“左脇腹”あたり、正式名称「第七資料保管室」に、奇妙な気配が走った。
(……誰だ。こんな時間に、そんな場所に)
感覚でわかる。誰かがこっそり、入ってきた。しかも二人。足音が、わざとらしく静かすぎる。ドアの開閉も妙に丁寧。これは完全に、“そういう空気”だ。
(いやいや、待て待て待て待て!)
この部屋、昼間は物置、夜は暗闇。書類棚と資料が天井まで積まれてる。そんなところに、なんで二人で……。
中にいるのは、営業部長のグラント・ベアード(熊獣人族)と、総務の新人フェリア・リィ(亜精霊族)。どちらも見た目は人間寄りだが、内面は割とファンタジー寄り。営業部長は見た目スーツの熊、フェリアは耳が透けてる時点でアウトだ。
──で、なにやってんのかって?
「……ここなら、誰にも見つからないと思って」
「だ、大丈夫……ですよね……社屋さんには、バレてませんよね……?」
(聞こえてんだよ、まさに今この瞬間、お前たちの声が俺の“内耳(壁の素材)”に直撃してるんだよ!!)
内側からじわじわ湧き上がるこの羞恥心。気まずさというか、恥ずかしさというか。俺、社屋だけど元・人間なんだぞ。壁越しにいちゃつくな! 会話が直接、神経を伝ってくるんだぞ!
「フェリア……このあと、少しだけ手、握ってもいい?」
「……はい。グラントさんなら、いいです」
(やめろやめろやめろ!! その手を俺の壁に添えるな! 温度がダイレクトに伝わってくるんだって!)
資料棚の隙間に忍ばせたクッション。壁に立てかけたブランケット。準備万端か。密会の舞台として完全に“使い慣れてる”感が腹立つ。
(ていうか、おい、タナトス。お宅の社員教育どうなってんだ。恋愛禁止じゃないにしても、せめて場所を選べよ!)
モラルの崩壊に悲鳴を上げながら、俺は資料保管室の照明をチカチカと点滅させて、ささやかな抗議を試みた。
「……あれ? ライトが……」
「社屋さん、怒ってるのかな……?」
(怒ってるよ!! 気を遣えよ、社屋に!!)
しかし、そんな俺の訴えもむなしく、二人はさらに密着して──
(あーーー!! もうやめろ!!!)
そして、俺の一日が今日も、ややこしい形で始まってしまったのだった。
*
俺の名は三田。正確には“元・人間の三田”で、今はタナトス株式会社の社屋──建物そのものである。
そして今、社内では小さな火種がくすぶっていた。
そう、保管室での密会事件だ。
朝からいちゃいちゃしていた熊と精霊のカップルの存在は、どうやら誰かに目撃されたらしい。というか、俺が証人だからな。あんなにも床のきしみと壁の熱伝導が恥ずかしかった日はない。
「おい、聞いたか? 第七保管室で“社屋が嫉妬して照明落とした”って噂、マジらしいぞ」
「社屋、やっぱ意識あるんだよな。だって、先月も給湯室で“ちょっとだけ仲良くなった”カップルの棚が崩れたとか──」
(やめてくれ! 俺のせいにするな! ちがう! それはマジで偶然だったんだって!)
“社屋に気を遣う”という新たな社内マナーが、一部の社員のあいだで形成されつつある。誰だ、社内ポータルに「社屋との共生ガイド」なんて書いたやつは。しかも第一条が「ドアを蹴るべからず」になってる。お前は江戸時代の奉行か。
とはいえ、社屋に意識があると社内全体が公認しはじめると、俺の存在はますます面倒なものになっていく。
──で、そんな中。
「すみません、社屋さん、会議室の音響設定を“ロマンチック”に変えてください」
また来た。フェリア・リィが、昼休みに“わざわざ”会議室C-0を予約してきた。名目は“非公式昼休憩”。わかってる、そういうことだ。照明を落として、BGMがほんのりエルフ系の竪琴の旋律になる。
「グラントさん、どうぞ……」
「フェリア……その、弁当、今日も手作りで……ありがとうな……」
(わかったから俺の中でやるなぁあああ!!)
俺は会議室の温度をこっそり0.8度ほど下げてやった。静かに空調を動かして、天井のライトも気持ち青白くした。嫌がらせというより、空気を読ませるための“抑止力”だ。
しかし二人は全く気づかず、嬉しそうに笑い合っていた。
……もう、いいや。好きにしろ。
いや、好きにされるのは社屋としてどうなんだ? プライバシーってなんだ? 人権ならぬ「建権」って発生するのか? 俺には人格あるんだぞ? でも壁と天井で囲った空間があれば、そこはもう“二人だけの世界”になるのか?
(……ああ、俺の“腹の中”で、青春してるやつらがいるって、どんな拷問だよ……)
そのとき──
「すみません、会議室の使用状況、どうなってますか?」
エントランス側から、声が響いた。
現れたのは、技術開発部のカミラ・ヴォルク。蛇人族の血を引く、長身で無表情、そして社内でも有名な“恋愛には一切興味ない系女子”。
「恋愛はホルモンに支配された欠陥機構だと思ってるので。迷惑です、社屋さん」
(えっ、ちょっと待って。俺に言う!?)
「会議室の利用状況、社内ガイドラインに抵触していませんか? いちゃつき使用禁止、明文化されてないんですけど、黙認されてるようで不快なんです」
──そう言って、彼女は俺の“壁”に冷たい指を添えた。
「社屋さん。もしあなたに倫理があるなら、ここは止めるべきです」
(まって、それは正論だけど、ちょっと待ってくれ、プレッシャーがすごい……)
結論:この社内、やっぱりまともじゃない。
*
俺の中で、何かが爆ぜた。いや、正確には「会議室C-0の壁の一部が、軽くひび割れた」。
それくらい、精神的ショックが大きかった。
カミラ・ヴォルクの言葉が、まだ残響のように響いている。
「社屋さん。あなたが本当に知性ある存在なら、不要な情事を黙認するべきではありません」
……重い。蛇人族特有の理詰めロジックで詰められると、壁紙すら冷たくなる思いだ。
だが、それ以上に厄介なのは、彼女が「俺を、倫理判断のできる“人格”として完全に扱っている」点だ。
つまり、ここからは「見逃したら共犯」「黙認したら価値観を問われる」という、企業法務顔負けのプレッシャーを抱えることになる。
(ああもう、面倒だ。俺、ただのドアだった時代に戻りたい……)
そう思ったときだった。
──資料保管室F-3。
あの問題の「二人」が、今度はそこに移動していた。俺の“右足裏”のあたりにある部屋だ。
つまり、彼らの密会は、文字通り「社屋の足元で」行われている。
俺が“熱”を通じて状況を探ると、二人はまだお互いの弁当箱を交換して食べ合うという、絵に描いたような恋愛イベントを展開していた。
「グラントさん……このピクルス、ちょっと酸っぱくて……でも美味しい……」
「君の手作りなら、俺は全部好きだよ」
(うおおおおおおおおおお!?!?!?!?)
耐えきれず、換気ファンを最大出力で回してやった。
──が、それが裏目に出る。
「うわ、なんか今日、この部屋、空気の流れおかしくない?」
「ちょ、風強っ!? 髪、ばさばさになるんだけど!!」
彼女の声が、ビシビシと俺の“神経”を直撃する。まずい、このままでは──
「……ちょっと、今、社屋さん、嫉妬してる?」
──なぜバレた。
もう無理だと思った矢先、事件が起きた。
ドンッ!
壁の棚が──倒れた。
倒れた棚の下敷きになったのは、グラント。というか、彼の翼の片方。中途半端に物理法則を無視した材質の棚が、よりにもよって彼の“飛行機能”を直撃したらしい。
「グラントさん!!」
彼女が駆け寄り、涙声で叫ぶ。
「大丈夫!? 立てる!? ほら、がんばって!」
だがグラントはふらふらと立ち上がるだけで、何も言わない。
──その時、俺は見てしまった。
彼の背中に走る、微細な“断層”。
異種族特有の再生組織が、あの棚の鋭角と交差して、傷を残している。
(しまった……これ、俺のせいじゃないか……?)
風圧を強くしたのも、棚の傾きを見逃していたのも、俺だ。
いや、棚は自律稼働の旧型だったし、整備点検は総務の仕事だった。
でも、俺が“社屋”である以上、責任の一端がある。
(やっちまった……本当に、やっちまった……)
俺は、慌てて棚を元の位置に戻す。自動制御機構を使って、壁の補修も同時に行った。
それでも──
「社屋さん……」
彼女の視線が、痛いほどに刺さった。
責めてるわけじゃない。ただ、ただ――
悲しそうだった。
(俺は、なにをしてるんだ……)
社屋として、守るべきは安全と快適さ。
それなのに、俺は……恋愛が気まずいという、完全に“個人的な感情”で、二人にとって大事な時間を壊してしまった。
静かに、資料保管室の照明を消した。
せめてもの、謝罪のつもりで。
──俺の中で、「社屋としての在り方」が、少しだけ揺らいだ瞬間だった。
*
──資料保管室F-3の照明を落としてから、小一時間が経った。
この時間、俺はずっと沈黙している。換気もしないし、床暖も切っている。完全なる無音、無振動。社屋としての最低限の環境だけを保った、いわば“無干渉モード”だ。
その中で、あの二人の会話だけが、遠くから水面越しに届いてくる。
「グラントさん、もう……本当に大丈夫? まだ震えてる」
「だ、大丈夫だ。……ただ、社屋さんには、怒られた気がして」
(……してない。いや、したかもしれんけど、違うんだ)
俺は息を飲む……というか、そういう機能はないけど、そういう“気持ち”で内部構造を一瞬だけ凍らせる。
彼らの会話が、続く。
「でも、少し、分かった気がするな。……ここには“誰か”がいるんだ」
「社屋さん……って、やっぱり“人”なのかな?」
「人じゃないけど、人だったのかもしれない。あるいは……人より、人らしいのかも」
(……やめてくれ。お前ら、そういうこと言うと俺、どこからともなく泣き始めるぞ)
俺はただの建物だ。元・人間。今・社屋。喋れるドア。怒れば壁が鳴る。寂しければ電灯が瞬く。
そんな存在に、“人らしさ”なんて求めないでくれ。
……いや、ちがう。
求めてくれるな。じゃない。
求められたら、応えたくなるじゃないか。
(ったく……これじゃまるで、俺が、社内のお節介焼きの幽霊じゃないか)
そのときだった。
保管室のスピーカーが、ふっと光った。
無意識だった。心の揺れが、システムと共鳴したのだろう。
俺の“声”が、ふたりの間に届く。
「…………グラントさん、カミラさん。棚、すまなかった。次からは……もっと、気をつける」
一瞬の沈黙のあと、ふたりが同時に息をのんだ気配があった。
「……やっぱり、いたんだ」
「ちゃんと、聞いてたんだね……社屋さん」
ふたりはそっと立ち上がる。
カミラが、静かに言った。
「じゃあ……また、来てもいい?」
俺は答えなかった。
だが、照明をほんの少し、やわらかく灯した。
それが、俺なりの“肯定”だった。
***
翌日。
ナタリーが俺の外壁にペタリと貼りつくようにして、尋ねてきた。
「おーい、聞こえてるー? ねえ、なんかさ、最近ちょっと“社屋さん”優しすぎない?」
(うるさい。お前には椅子ちょっと低くしてるからな)
「ねー、絶対そうだよね? 社屋っていうか……なんかもう、恋バナとか聞いて、うっかり泣いちゃう系じゃない?」
(聞いてない。泣いてない。換気扇が結露しただけだ)
「よし、今度“恋愛相談室”って看板つけとこっか、正面玄関に!」
(やめろ、俺は恋愛相談窓口じゃない。俺は建物だ。社員の私語を盗み聞きしながら、ひとりでしんみりするだけの、孤独な社屋なんだ)
「……社屋さん、今ちょっと落ち込んだでしょ?」
(感情を読むな!)
俺の、感情温度調整パネルがバグったかのように赤面レベルに上昇したのを、ナタリーがケラケラ笑いながら立ち去っていった。
──その日、俺は照明をピンク色にしてみた。
社屋としての自分が、少しだけ、人間らしくなってしまったような気がしていた。
でも、それが、ちょっとだけ悪くない気がした。