#16 俺の窓ガラスが泣いている
朝。曇り。社屋の外壁には、早朝の霧がまだうっすらとまとわりついていた。
俺はタナトス株式会社、社屋。建物である。今朝も俺は、自動ドアの音で目を覚ました。
……いや、正確には、音じゃない。社屋である俺には耳がない。だけど「開閉の気配」で分かるのだ。
だが今日は──何かがおかしい。
いつものように、社員が一人通過しただけで、自動ドアが妙に“重たく”開いた。
ギイ……と、控えめな音を立てて。
(おいおい……メンテ不足か?)
違う。俺はわかっている。これは“気分”だ。
──自動ドアが、泣いている。
いや、そんなわけはない。だが……動きに感情のようなものが乗っている。なにより、ガラス面が曇っているのは、朝霧のせいだけじゃない。内部から、薄く水滴がにじんでいる。いわば“結露”の逆流。まるで、自律した感情表現。
(これ……誰かの、情緒が混線してる?)
すぐに調査モードに入る。社内Wi-Fiに繋がるセンサーネット、空調ユニット、温湿度モニタリングデータ、感応系インフラのログを洗い出し──
──ビンゴ。
“情緒干渉”が記録されていた。
特定エリア、午前6時32分――総務部資料庫・通称「まどぎわ席」のひとつ。
社内の中でも、ちょっとした“眺めのいい隠れスポット”として知られる、2階の小部屋。
そこに──誰かがいた。
記録されたのは、微細な静電変動と、涙成分に似た湿度上昇反応。
(誰だ……誰が“泣いてた”んだ?)
社員情報とログを照合。
浮かび上がった名前は──フェリア・リィ。
(……フェリア? あのフェリアが……?)
彼女は、透けた耳を持つ亜精霊族で、表情が豊かというより“繊細な空気”で場を読む子だった。いつも礼儀正しく、誰にでも優しい。だが、最近は……そういえば。
「グラントさんが最近、避けてるっぽい」
日報チャットにこぼされたそんなメッセージが、何度かあった。俺は社屋なので、社内チャットはすべてアーカイブしてある。正規のセキュリティの範囲内だ。たぶん。
(あの熊、何かあったのか……?)
彼女は、社内の“誰よりも感情の流れに敏感な子”だった。社屋である俺ですら、彼女の歩く気配からは、風のゆらぎのような機微を感じ取れる。
そんな彼女が──今朝、誰にも見られない場所で、静かに涙を落としていた。
(……だめだ、これはほっとけない)
それと呼応するように、エントランスの自動ドアが“キィ……”と、また鈍く開いた。
ガラスはすでに濡れていた。
まるで、“誰か”の気持ちを受信しているかのように。
社員たちが一人、また一人と出社するたび、ドアの開閉が乱れはじめる。
「えっ、なんかドア遅くない?」
「今、開きかけで止まったよね?」
──そう、感じているのは俺だけじゃなかった。
何かが、俺の“体内”で滞っている。
情緒と設備がリンクしはじめると、社内は厄介な事態に陥る。最悪の場合、コピー機が詩的な印刷しかできなくなったり、冷蔵庫が“失恋ソングの温度”になる。第11話あたりで経験済みだ。
(このままじゃ、また社内全体が“情緒過敏モード”に入る……)
──今、必要なのは“原因の解明”と、“感情のケア”だ。
だが、社屋である俺に、どうやって“失恋”を理解しろと?
俺の窓ガラスが泣いている。
けれど、泣いているのは──
もしかしたら、フェリアだけじゃないかもしれない。
(まずは、調べよう……彼女の心に、何があったのかを)
俺は、そっと社内記録を辿る。
あの日、フェリアとグラントの間で、何が起こったのか。
そしてこの“泣きガラス”の真相に──
俺なりのやり方で、向き合うつもりだった。
*
午前十一時。社屋の空調が「湿気過多・情緒要因あり」と判断し、勝手に除湿モードに切り替わった。
……が、何も変わらない。むしろ、窓ガラスの曇りは増えていた。廊下の反射も歪んでいる。心なしか、廊下の照明まで“弱々しい”。
(これ、まずいな……完全に社内インフラが“感情干渉”されてる)
俺は社屋だ。自律制御で自分を修復できるが、“誰かの情緒”が建物とリンクした場合、それは極めてやっかいだ。放っておくと、照明が沈んだ気持ちに引きずられてチカチカし、エレベーターが自分の意思で止まる。
案の定──総務部の副主任、リリス族の彼女がヒールをコツコツ鳴らして来た。
「社屋、何か感知してるわね」
(ああ。今朝から、自動ドアも、エアコンも、どうも“湿っぽい”)
「……失恋?」
ズバッと来た。さすがに勘が鋭い。
「フェリア・リィ、今朝の出勤は予定通り?」
(出社記録あり。入室ログも、いつもの時間)
「でも、そのあと一人で“窓際”に寄ってる。……その時点で、十分怪しいわ」
俺は、共有サーバーに保存されていた防犯カメラの記録(音声なし)を副主任に共有する。映っていたのは、フェリアが2階の資料庫の隅で、そっと背を向けて座っている姿だった。
──そして、何かを取り出して、ゆっくりと破り捨てている。
「……あれ、何?」
副主任の声が少しだけ、低くなった。
(印刷物。個人用の……おそらく、手紙。あのサイズは定型封筒)
「誰宛?」
(送信者情報なし。ただ、破棄されたデータに“熊”のイラストと“Thank you”の文字が……)
「グラントね」
副主任はため息をついた。
「今朝、彼が“冷凍庫に缶コーヒー忘れた”とか言って、わざと総務フロアを避けてるのは見たわ。……あれ、“距離を取ってる”ってより、“逃げてる”」
(グラントが、逃げてる……?)
正直、意外だった。あの熊は豪胆で、どんな交渉でも動じない営業部の大黒柱だ。
「つまり……失恋したのはフェリア。でも、それを“処理できなかった”のはグラントのほう」
(処理できなかった感情が、建物を通して“干渉”してる?)
副主任は、冷たい瞳でフロアを見渡しながら呟く。
「誰かが泣いた時、“誰かが泣けない”まま、溜め込んでるのよ。情緒は連鎖するわ。特に、あなたみたいに“感応する”社屋なら、ね」
……たしかに。
俺は、社員たちの気配を日々読み取り、心の機微に触れ続けている。
本来は建物の制御のため。でも、今はもうそれだけじゃない。
──誰かの想いが、俺にまで流れ込んできている。
フェリアの涙。グラントの沈黙。そして、その感情の渦に、窓ガラスが反応している。
俺の“からだ”の一部が、静かに泣いていた。
「社屋。あなたが吸ってる“この感情”を、どうにか解消しないと、たぶん明日には自販機が“別れの味”しか出さなくなるわよ?」
(それはまずい……)
そう呟いた瞬間、天井のスピーカーから“ラジオ体操のメロディ”が流れてきた。たぶん、誤作動だ。
(……よし。方針決めた)
このまま放っておけば、社内全体に“湿った空気”が蔓延する。社員たちが気づく前に、手を打たなきゃ。
「感情の“発信源”はフェリア。でも、伝播させてるのはグラント。なら、やるべきは──」
俺は社内放送システムにアクセスし、ある“社内行事”を提案する通知を作成した。
《営業部・総務部 合同:応接室整理およびデータ改修作業(仮)》
理由:階層の整理、および雑音対策のため
日時:本日13時より
対象:グラント・ベアード、フェリア・リィ
――つまり、半ば強制的な“再会”だ。
直接話さなきゃ、なにも始まらない。
俺は、社屋として決めた。
この“泣いてる窓”を、ちゃんと晴らす。
*
午後一時。俺の中にある第六会議室──もとい“応接室”に、熊と精霊が向かい合っていた。
グラント・ベアード。営業部部長、獣人族。見た目はスーツを着た熊そのもの。
対するは、フェリア・リィ。透けるような耳をもつ亜精霊族の少女。総務部の新人で、社内でも屈指の繊細さを誇る。
「では、作業開始とさせていただきます」
「……ああ」
ふたりとも無表情で、黙々と棚の中の資料を取り出し、ラベルの更新や端末への入力を始める。
だが、目は合わない。手元もぎこちない。気まずさが空間を満たしていた。
(よし、予定どおり……今が勝負どころだな)
俺は応接室の空調を微妙に下げた。ほんの0.5度。人間には意識されないレベルだが、情緒を“凍らせたまま”にしないための、小さな刺激。
フェリアの手が書類の角を折った。
「……総務の管理ラベル、少しずれてます」
「すまん、癖なんだ。営業時代の帳簿、ずっとこの貼り方で通しててな」
「でも、それじゃ……引き継いだ人、困ります」
「……そうか」
グラントの手が止まった。
「困る、か。……そうだよな。そういうとこ、直せてなかったんだ、俺」
フェリアは小さく目を伏せる。
(……今だ)
俺は応接室の照明を、ほんのわずかだけ明るくした。
光が二人の表情を、少し照らす。
「……あの、ベアードさん」
「グラントでいい」
「……じゃあ、グラントさん」
フェリアは、ふっと息を吸って──
「どうして、言ってくれなかったんですか。“もう会えない”って」
「……会いたくなってたから、だよ」
グラントの声は、低くて、重かった。
「次に顔を見たら、きっとまた“言えなくなる”ってわかってた。お前、すぐ泣くからさ。……俺が、耐えられなくなる」
「……そんなの、わたしだって一緒です」
フェリアの声が揺れる。
「でも、黙って距離置かれるより、ずっとよかった。あの時、ちゃんと聞きたかったです。“どうして”って。わたしが、なにか……」
「違う!」
グラントが叫んだ。その声に、応接室の天井板が一枚、わずかに震えた。
(おい、声量調整してくれ!)
「お前は、何も悪くない。俺が勝手に、怯えてただけだ。……社内恋愛って、リスクがあるだろ? 俺は部長で、お前は新人で……いざって時に、お前を守りきれる自信がなかった」
「じゃあ、わたしの気持ちは?」
「……大切だった。今でも」
沈黙。空調がまた、静かに息をつく。
フェリアの目から、一滴、涙が落ちた。
それと同時に、窓ガラスが──パリ、と音を立てて、涙のように曇りを拭い始める。
(……感情の嵐が、晴れた)
俺は建物として、明確に“空気の変化”を感じ取った。
湿気が減り、温度が整い、照明の光が落ち着きを取り戻す。
ふたりの言葉は、もう俺の干渉なしに、自然と続いた。
「私、まだ……あなたが好きです」
「……ありがとな」
グラントは手を差し出した。
「でも、今すぐまた戻るとは言えない。俺は部長としての立場があるし、総務にも迷惑が──」
「だから、わたしも今は“業務上の関係”でいいんです」
フェリアはその手を握り返す。
「ただ、“逃げないで”くれたら。それだけで、十分です」
……いい落としどころじゃないか。
俺は密かに安堵しながら、会議室の天井を少し開けた。
そこから自然光が差し込む。ふたりの上に、きれいな陽の光。
曇っていた“俺の窓”は、もう、泣いていなかった。
*
午後三時すぎ。
応接室での“感情の解凍”が終わると、俺の中に広がっていた謎の“もや”が、ふっと霧散した。
──ギィィ……
エントランスの自動ドアが、いつになく滑らかに開く。
「あれ? ドア、直ってますよ」
カルロスがぽつりとつぶやいた。
「ほんとだ……午前中まで、わたしの後だけやたら閉まりかけてたのに」
フェリアが不思議そうに振り返る。
(……やっぱり、そういうことか)
俺の“身体”であるこの社屋は、気づかぬうちに感情に共鳴していたらしい。
特に、強く抑圧されたままの想い──未解決の感情エネルギー──が、照明のちらつきやドアの誤作動、空調の気温乱れとして現れていた。
もともと“俺”は、人間の三田啓司だった。
転生の過程でこの建物と同化したとはいえ、根本の“感受性”が残っていたのだろう。
それが、どうやら“設備”にも転移し、作用していたわけだ。
……言ってみれば、社屋の情緒不安定化現象。
名づけて、「感情同期型・無意識系ハードウェア反応」。
(って、めちゃくちゃヤバくね……?)
だが同時に、この現象にはひとつの“利点”があると気づく。
もし俺が社内の“空気”を、この身体全体で読み取れるのなら──
社員たちのストレス、葛藤、対立、未練……
そういった感情の兆候を、誰よりも早く察知できるはずだ。
(ただの不具合じゃない。これって、もしかして……俺の“役割”かもしれない)
*
夕方。
清掃を終えたフェリアが、帰りがけにふと足を止めた。
「……三田さん。今日は、ありがとうございました」
もちろん、彼女の言葉は“空間”に向けてのものだ。
だがその声には、確かな実感が宿っていた。
グラントは、さりげなくその後ろを歩いている。
何も言わないが、目に浮かぶ空気は穏やかで、どこか晴れやかだ。
(ふたりとも、少しずつ……いい顔になってきたな)
窓から差し込む夕陽が、ロビーの床に伸びていく。
その光の中を、ふたりの背中が、並んで歩いていく。
──スゥ……
自動ドアが、音もなく開いた。
一切の乱れも、異音も、なし。
(……うん。もう“泣いて”ない)
俺は、ゆるやかに染まっていくオレンジの空を感じながら、ほんのわずかだけ、社屋全体を“微笑ませた”。
ほんの少しだけ、空調を暖かくする。
春の気配を、社内のどこかに滲ませるように。
この会社には、まだまだ“人間関係”がある。
葛藤がある、誤解がある、感情がある。
でも──
(俺は、それを見ていられる。感じていられる。だから、守れるかもしれない)
今日も俺は、社屋として生きている。
ただの設備じゃない。社員たちの“気配”に寄り添い、そして……彼らが一歩を踏み出すための、場所でありたい。
窓のガラスは、静かに光を反射する。
その奥にあるのは、社員たちの──
未来だ。




