#12 経理担当が辞表を出した
朝の空気が妙に重たかった。
「……いないんですけど」
フェリアがポツリと呟いた。総務の執務室、ジュレッタのデスクの前に、ぽつんと丸められた紙の束があった。ぬるっとした跡と、スライム用の専用座布団が冷えている。
辞表だった。
「“すみません この国の税制は物理的に無理です たぶんわたし溶けます さらば”……だって」
トットちゃんが読み上げて、場が静まり返る。社屋である俺も、社員通信用の館内通信を通して状況を確認しながら、スライムの姿を探していた。
「本気で逃げたのか……ジュレッタ……!」
グラント部長が頭を抱える。営業が金貨を稼いでも、それを管理する経理がいなければ意味がない。
「てか、あの子しかこの会社の帳簿見てなかったんだろ?」
「経理システム、すべてジュレッタに依存してた。まさか逃げるなんて……」
「彼女、スライムだから物理的に隙間から逃げられるんだよな」
「社屋さん、内部記録からどこに向かったかわかります?」
フェリアの声に、俺は自動ドア越しに“うっすら粘液反応”のあった窓際通路を思い出す。
「非常用滑り台のほうに、粘液痕がある」
「もう逃走経路確定じゃん……」
そのとき、カルロスが妙に前向きな声を出した。
「でも、帳簿は社屋さんがバックアップ取ってたんですよね? じゃあ、あとは誰かが見るだけ!」
「誰かって、誰が読むんだよ……スライム仕様の数式と、経理術式で暗号化されてるぞ?」
カミラがため息をつくと、全員が一斉に俺を見た。
「……え、俺か?」
「社屋さん、記憶にアクセスできるなら、ジュレッタの帳簿データもたどれるのでは?」
「でもそれ、建物が“帳簿”を読むって話になるよ?」
「もう社屋さんで驚くことなんてないから、大丈夫」
……いや、大丈夫じゃないから。
だが現実は待ってくれない。納税期限は迫っているし、会計処理が止まれば、あらゆる部署が機能不全になる。
(やるしかないのか……?)
俺は意識を集中し、経理室のデータ回線に接続した。ジュレッタの小さな粘液体が残した“記録の記憶”に、そっと触れる。
──パアッ!
目の前に、膨大な数の帳簿データがホログラムのように広がった。税制、売上、支出、魔力変換率、通貨交換……複雑怪奇な数式が脳内に雪崩れ込んでくる。
(わけがわからん……でも……)
その最奥に、スライム文字で書かれた一文が見えた。
『きっと社屋さんなら、わたしの代わりにこの会社を守ってくれると思うのです』
俺は小さくうなずいた。
逃げたスライムの意志を、今だけでも引き継ぐしかない。
*
ジュレッタの辞表が見つかってから数時間後、社内は混乱の渦中にあった。
「この請求書、誰が処理するんですか?」
「経費精算、止まってますけど……」
「給与振込のデータ、どこにあります?」
各部署からの問い合わせが殺到し、総務のフェリアは対応に追われていた。ジュレッタが一手に担っていた経理業務の属人化が、ここにきて露呈したのだった。
「社屋さん、ジュレッタのデータ、何か残ってませんか?」
フェリアの問いに、俺は内部データバンクを検索する。ジュレッタが使用していた経理システムは、彼女独自のカスタマイズが施されており、解読は困難を極めた。
「……彼女の経理術式、複雑すぎる。まるで迷宮だ」
「でも、何とかしないと。納税期限は迫ってるし、社員の給与も……」
その時、技術開発部のカミラが提案を持ちかけてきた。
「社屋さん、ジュレッタの術式を解析して、簡略化できませんか?」
「簡略化?」
「ええ。彼女の術式をベースに、新たな経理システムを構築するんです。そうすれば、他の社員でも運用可能になるかと」
「なるほど……やってみる価値はあるな」
俺はジュレッタの術式を解析し始めた。彼女の経理術式は、スライム族特有の流動的な構造を持ち、数式が常に変化していた。しかし、その中に一定のパターンを見出すことができた。
「……見えてきた。彼女の術式、感情の変化に応じて数式が変動してる」
「感情で数式が変わるんですか?」
「スライム族特有の特性かもしれない。だが、これを数式のテンプレートとして固定化すれば、他の種族でも扱えるはずだ」
カミラと協力し、俺はジュレッタの術式を解析・簡略化し、新たな経理システムを構築した。これにより、他の社員でも経理業務を遂行できるようになった。
「これで、何とかなる……」
しかし、問題はこれだけではなかった。ジュレッタの辞表には、彼女が社内のある秘密に気づいたことが記されていた。その秘密とは、社長の隠し資産の存在だった。
「……社長の隠し資産?」
俺はジュレッタの残したデータをさらに解析し、社長の隠し資産の存在を確認した。それは、社内の地下深くに隠された金庫に保管されていた。
「これがあれば、納税問題も解決できるかもしれない」
だが、その金庫を開けるには、社長の認証が必要だった。行方不明の社長に代わり、俺が社長の認証を模倣する必要があった。
「社屋さん、できますか?」
「やるしかないだろう」
俺は社長の認証データを解析し、模倣することに成功した。金庫を開けると、そこには大量の金貨と高位魔石が保管されていた。
「これで、納税も社員の給与も問題ない」
社内は安堵の空気に包まれた。ジュレッタの辞表は、社内の問題を浮き彫りにし、改善のきっかけとなったのだった。
*
金庫が開いたのは、夕暮れの光が差し込む頃だった。
地下保管室。倉庫の奥、封印のように立ちはだかる鉄扉には、重厚な魔術刻印が走っている。俺――三田啓司、社屋そのものである俺の“自己署名”と、フェリアが持つ「社長印の模造印章」が揃ってはじめて、それは開いた。
きぃ……という軋みと共に開かれた扉の向こうは、金の輝きに満ちていた。
「うわ……」
フェリアが声を漏らす。金貨の山。魔石の塊。古代通貨、精霊鉱、魔術触媒。価値の分からない高価そうな品々が、整然と棚に収められていた。
「……ざっと見積もって、四十万金貨分はありますね」
「納税どころか、新社屋建てて余るぞ」
カミラが呟く。だが、俺たちの顔は晴れない。
この資産、社の帳簿には一切記載されていない。
「つまり、これ……裏金ってことだよね」
「正規の会計処理からは完全に外れてる。経理ファイルに痕跡もなし」
フェリアのタブレットに映る数字は、表向きの帳簿と一切一致していない。
「ジュレッタが……知ってた?」
「多分な。辞表データの末尾に、未承認ログインの記録があった。財務ファイルへのアクセスが、何度か失敗してる」
「つまり、これを見た。でも――」
「黙って、逃げた」
カミラの言葉に、場が静まり返る。
そのとき、ぽつりと声がした。
「……社長に、消されたくなかったんじゃない?」
誰の声ともつかない、けれど、重みのある冗談。
笑えなかった。
「社長、今どこにいるんだ……?」
その問いに、誰も答えなかった。
この建物に宿る“俺”が、法人としてのタナトス社が、何者かの意志によって造られた結果なのだとしたら――その根幹が、少しずつ崩れている気がしていた。
*
翌朝、社内に届いたのは一通の手紙。
“ごめんなさい。私は、もう戻れません”
文字は整い、インクのにじみもない。ただ一カ所、角の部分に残されたスライムの粘液痕が、彼女の“涙”を物語っていた。
「この金……使うべきかどうか、判断が難しいな」
グラント部長が呟く。
「法的にはグレー。だけど、他に方法は?」
フェリアが言う。
「“借入”として扱い、後に帳簿に返済として記録すれば……」
「いけなくはないけど、限りなく黒に近いグレー」
そのとき、俺が言った。
「俺が責任を取る。建物ごと、罪を背負う」
沈黙。
「やっぱ……人間の言葉みたいだよな、社屋さん」
カミラの言葉が、妙に刺さる。
その夜。金庫の片隅、残された経理端末が、かすかに光った。
それは、ジュレッタが戻ってくる道が、まだ途絶えていないという、かすかな希望のようだった――。
*
ジュレッタが姿を消して、三日が経った。
経理室の一角、ぽつんと空いたスライム専用チェア。背もたれの下には、ほんのわずかな粘液の痕跡が残っていた。照明の角度で、うっすらと虹色に光るその跡だけが、ここに彼女がいた証だった。
誰もその椅子に近づこうとしない。否、近づけないのだ。
代役として営業のカルロスとフェリアが臨時の経理チームを組んだが、ジュレッタの術式と管理方法は、彼女本人の“感覚”で最適化された完全オーダーメイド。帳簿は自動転記と暗号術式が絡み合い、注釈にはスライム語の独自略記。おまけに、口頭で教わった覚えも、引継ぎ資料もない。
「……すごいですよね、ある意味」
フェリアが呆れたように笑った。
「すごすぎて、もう“経理”というか、“錬金術師の実験記録”って感じ」
「むしろ、魔道犯罪の隠し財産だろ、これ」
カルロスの冗談に、カミラがモニターを睨みながら呟いた。
「独立した端末に、帳簿らしき別データ。これ、明らかに“裏会計”だわ」
タナトス社社屋──三田──の感覚を通じて、建物内の微弱な魔力反応を辿った結果、地下金庫に繋がる線の奥に、別のデータセットが存在していた。
──ジュレッタが、社内に秘密裏に構築していた“もうひとつの帳簿”。
正式なシステムには接続されておらず、紙媒体すら残っていない完全ローカルデータ。そこには“非常時運用用”というタグと共に、正規口座とは別の予備資産が詳細に記されていた。
・金貨:400,000枚以上
・竜の涙:13滴
・高位魔石:40個超
これが、タナトス社の“隠された本当の体力”──。
「なんで、こんな……」
フェリアの呟きに、グラント部長が言う。
「……社長の命令、だったんだろう。もしものときの備えとして」
「でも、それを今、勝手に使ったら……」
「“脱税目的の隠蔽資産”として処罰される可能性がある」
カミラの声が冷静だった。
「ジュレッタの承認と帳簿術式がない今、これを表に出す手段はない。使えば、“不正会計”だと判断される可能性が高い」
会議室に沈黙が走る。
そこへ、三田──社屋が口を開いた。
「……俺が責任を取る。これは“社長個人の貸与”として、正式帳簿に仮記載してくれ」
「……本気か?」
グラント部長が眉をひそめる。
「その処理が通れば一時的に納税はできるが、“法人格ごと潰れる”リスクもあるぞ」
「わかってる。でも、もう猶予はない。国に見つかれば、没収どころか──存在自体、消されるかもしれない」
一同、言葉を失った。
タナトス社は、異世界国家に法人登録された“事業体”であると同時に、“意思を持つ建造物”という前例のない存在でもある。国家にとって都合が悪くなれば、その存在を“例外処理”される可能性は大いにあった。
──誰かが責任をかぶらなければ、この社は潰れる。
その重さを、誰よりも三田自身が感じていた。
「だったら、せめて……俺たちも、やれることはやるよ」
グラント部長が立ち上がる。
「ジュレッタの帳簿術式、俺が解析してみる。マクロ構造だけでも掴めれば、形式上の正規化も可能かもしれん」
「私も手伝います。……面白そうですし」
フェリアが頷いた。
「……やれやれ、あたしまで巻き込まれるとはね。まぁ、好き勝手やってくれたあのスライムに、少しでも追いつきたいし」
カミラも端末を立ち上げた。
夜の経理室、誰も座らない椅子の横で、かつての同僚たちがそれぞれの“覚悟”を決めていた。
ほんの少しだけ、机の端に残った粘液痕がきらめいたように見えたのは──照明のせいではなかったかもしれない。
──こうして、タナトス社は再び動き出す。
その背後には、いまだ戻らぬスライム経理の“背中”が、確かにあった。




