18、王子様の手のひらの上
次の日。
エスメラルダは急いで植物園へと向かっていた。午前中の用事が少し長引いたのである。
元々の予定としては、エスメラルダは久しぶりに朝から第三研究所へ出勤するはずだったのだが、レイが昨日のパーティで知り合った紡績業を営むカルヴァン伯爵から招待を受けたので、エスメラルダもそれにひっついて顔を売りに行ったのだ。
エスメラルダは早速、社交の成果を上げるレイに有望だと関心した。
伯爵の元へ訪問した装いのまま、王宮へ立ち入り、第三研究所を目指す。女子寮の部屋に置いたままの白衣とシャツとスラックスに着替える時間が無くなってしまった。
ドレスはここだと重たく感じる。
先に植物園へ行き、アッシュとデニーの様子を見てから研究所の皆んなへ会いに行こうとエスメラルダは足を進めた。
「はぁ、ふぅ…」
エスメラルダは少し上がってしまった息を整えてから、植物園の扉へ鍵をさして回す。まだアルバート殿下は来ていないらしい。
カチャリと音が鳴り、扉を開く。
開けた扉の間へ一歩踏み出した、その瞬間。
エスメラルダのその足元をビュンっとすり抜けた白い毛玉。
「アッシュ!?待って!!」
植物園からアッシュが逃げた。
エスメラルダは慌てて扉を閉め、アッシュを追いかける。どうしてドレスの時にこんなことになるなんて。
(アッシュってあんなに早く走れるの!?)
「アッシュ!止まって!」
ビュンビュンと走る白毛玉のアッシュはどこを目指しているのか、研究所の壁沿いを迷いなく走っていく。
重たいドレスですでにヘロヘロのエスメラルダは、アッシュを捕まえられなかったときの始末書に思いを馳せて涙を浮かべながら追いかける。
アルガス所長からの淡々としたお叱りと面倒な書類作業。すぐに柵をつけて対策するから、書類は勘弁して欲しい。始末書なんて何も楽しく無い無駄な仕事第一位である。
甘やかされて平均以上にぷくぷくと太ったお姫様気質のアッシュが脱走を図るだなんて、野生の本能は無くならないものだとエスメラルダは現実逃避した。
アッシュが建物の角を曲がり、エスメラルダの視界から消えると、絶望が襲ってきた。それと涙も。
「アッシュ〜〜!お願い!止まって〜!」
エスメラルダは必死に捕まえようとしている感を出す方向へシフトする。お叱りを減らすためである。
ひいひいと泣きながらエスメラルダも角を曲がると、何かに激突した。
甘い香りにふわりと包まれる。
「うわあ!」
「おっと。大丈夫?」
「すみませんっ」
人の胸元に追突したと瞬時に分かったエスメラルダは慌てて飛び退き、目の前の光景に目を見開く。
それは隣国のザウール王太子と、王太子の足に甘えてゴロゴロと体を擦りつけるアッシュだった。
ザウール王太子と目が合うと、神秘的な榛色をしていることに気づく。がっしりとした体格は小麦色の肌がよく似合っており、はっきりとした彫りの深い顔立ちが好青年というにぴったりである。
その後ろにはケラケラと笑うアルバート殿下がいた。エスメラルダは居るなら助けなさいよ!と彼に視線を送る。
「アッシュ!申し訳ありません。ザウール様になんてことを!今離しますので!あっ!こら!」
アッシュはウニャウニャ言いながらご機嫌にザウールの体をよじ登り始める。
なんとも手が出しづらい。エスメラルダは手の行き場がなくあわあわとする。
「これは貴方の飼い猫ですか?かわいいですね」
ザウールは動じることなく登ってきたアッシュを抱え込み、腹を撫で始める。
気を悪くさせては無いようでエスメラルダは胸を撫で下ろす。これで始末書は回避した。一安心である。あとはこの状況をどうしようか。
アッシュは最大のゴロゴロ音を出しご機嫌最高潮である。アルバートもアッシュの顎下を撫でている。
「ザウール、さっき話していたエスメラルダ嬢と雪猫のアッシュだよ。脱走してきたの?」
「…扉を開けた瞬間にやられましたわ」
「それは大変でしたね。雪猫にしては大きくて立派だ」
「…ただ太ってるだけです」
エスメラルダはこのお転婆娘めとチクリとさす。
こんなことは初めてだ。アッシュがまるで発情しているように甘えている。
そしてなぜここにザウール王太子がいるのか。
「ザウールに植物園と君のことを話したら興味あるようだったから、連れてきたんだよ」
アルバートはニコニコといつも通りである。
それがまだ少し混乱しているエスメラルダには鼻についた。
「左様ですか。なんにせよアッシュを捕まえていただきありがとうございました。ご挨拶が遅れましたが、エスメラルダ・レヴィン・バルテミアと申します。ご無礼をお許しくださいませ」
「覚えていますよ。バルテミア辺境伯夫人ですね」
目を細めて柔和に笑うザウールにエスメラルダはなんだか違和感を感じた。あの一回の挨拶で覚えているなんて。
「光栄ですわ。隣国と近いですし、今度ぜひいらして下さい。ご案内したいですわ」
「素敵なお誘いだ。それなら早速ですが、帰りにバルテミアに寄っても良いですか?行ってみたかったのです」
「まぁ、本当ですか!こんな嬉しいことはありません。歓迎いたしますわ」
エスメラルダはまさかの展開に冷や汗をかきながらも、こんな機会を逃す手はないと気を引き締めた。
アッシュはずっとゴロゴロ言っている。
「後で手紙を出しますね。そろそろ護衛が迎えに来るので戻らないと」
「あぁ、アッシュが大変失礼しました」
ザウールはアッシュを抱っこしてエスメラルダに近づく。
「楽しみにしてますね」
そう囁くように言いってアッシュを受け渡したザウールにエスメラルダはゾワリとする。榛の瞳が絡みついてくる気がした。
アッシュを抱きかかえる腕にほんのり力がこもる。
「ではまた。アルバートもほどほどにな」
去っていくザウールを見届けて、それまで空気のように気配を消していたアルバートの肩をエスメラルダは叩いた。
「どういうこと」
「バルテミアと隣国が仲良くなって欲しいなって思って」
「それは良いけど、レイ様との仲を繋いでくれればいいのに。なんで私なのよ」
「君が適任だと思っただけだよ。それにアッシュとも仲良くなれると思ったから」
「どうしてアッシュが仲良くなれるって?」
アッシュの好みなんてまだ私も把握していないのに。首を傾げたエスメラルダの頬をアルバートはするりと撫でる。
「気づかなかった?ザウールの香水にマタタビの香りが混ざってたの」
「…それどころじゃなかったわ」
そういうことだったのか。アッシュのあのデレデレ具合も納得がいく。きっとマタタビの香りを察知して脱走したんだろう。
「アッシュが逃げて本当に焦ったんだから。それならそうと前もって教えてください!」
「はは。汗かいてるね」
「走ったからよ!」
「ごめんね」
アルバートは撫でている頬の手をそのままに、エスメラルダに口付けを落とした。




