1、お仕事は自由に残業
王宮敷地内の端の端にはひっそりと王立第三研究所がある。
「お〜い、エスメラルダ。朝会始まるぞ。隣のも起こしてやりな」
「ぅえ?」
ゆさゆさと体を揺り起こされて、エスメラルダは意識を取り戻した。明るい室内。起こしてくれたやれやれ顔のガノさんを見上げて、瞬時に状況を理解した。
昨日ユランが取り組んでいる新薬開発に付き合って残業し、盛り上がりすぎて職場で夜を明かして風呂にも入らず、机で寝落ちしたという散々な朝である。
「ユラン、起きて」
エスメラルダは隣の席で伏せているユランも同じようにゆさゆさと起こす。ユランのいつもボサボサの黒髪が今日は一段とボサボサしていた。
「うう…。うそだろ、朝かよ…」
「本当にね」
ユランは低いうめき声を上げながらなんとか顔を上げ、伸びをする。目の下のくまは相変わらず濃い。
「昨日、実験が成功してからの記憶がないな」
「私もだよ。記録はギリギリしてるみたい。あと試験数回でなんとかいけるんじゃない」
「数値良かったよなぁ〜」
エスメラルダが下敷きにしてしわしわになった実験の記録用紙をユランが覗き込む。起きてすぐ研究の話をする二人を見て、ガノは呆れ半分と心配半分で口を開く。
「お前ら、流石に家のベッドで寝ないと疲れ取れないぞ。若いからってあんまり無理するなよ」
「ガノさんは十五歳で結婚してからかわいい奥さんが家で待ってくれてるからですよ」
「そーだそーだ。俺らは二十三にもなってまだ独り身なんすよ。家帰っても寂しさで風邪ひきます」
「あ!もうすぐ結婚二十年の記念日じゃないですか?お祝いしましょうよ」
祝い事が好きなエスメラルダはこういう細かいことまでよく覚えていた。楽しいことはいっぱいあった方が良い。最近やっと仕事がひと段落し始めたところだし、慰労も兼ねてちょうど良いのではないか。
「嬉しいけど、なんでお前らから祝われなきゃならんのだ。しなくてよし」
ガノは結婚祝いにかこつけて楽しもうとするエスメラルダの思惑はお見通しだった。彼女は、ちぇと唇を尖らせる。ユランは俺も奥さん欲しいなぁ〜〜とエスメラルダの肩に頭をぐりぐりと押し付ける。
そんな時、部屋のドアがガチャリと開き、背が低く、白髪と立派な髭を蓄えた品の良い初老の男性が入ってきた。
「皆さん、おはよう」
「所長、おはようございます」
「お二人さんは徹夜かな?ずいぶんな格好だね」
現国王の二番目の弟であるアルガス所長は、明らかにくたびれたエスメラルダとユランを見て穏やかに笑った。
「元気です」
「今日も頑張ります」
ボロボロの二人は適当に返事をする。
「それはよろしい。ではそんな二人に今日は定例会への出席をお願いするよ」
ユランはびっくりして椅子から立ち上がった。馴染みない人達が集まるところに行きたくないのだ。
「俺、ここから出たくありません!エメだけ出席させてください!」
「ユランも一緒に行こうよ。たまには他の部署の人と会ったほうが良いって」
エスメラルダはユランの白衣を引っ張り椅子へ座らせようとする。
気の利かない大雑把な性格と天才肌が嫌に噛み合わさったせいで人付き合いが苦手なユランは人と会うことは出来る限り避けたいものだった。それに比べて、侯爵家の末っ子であるエスメラルダは社交は平気でむしろ得意である。
「もう何回か行ったことあるだろう。ただの会議さ。今日は大した議題もないし、ちょうど良い。いつまでも私やガノ君に頼ってばかりじゃいけないよ」
「え〜でもでも、他の部署はみんな上長がきてるじゃないですかぁ」
「君はいつも駄々をこねるねぇ…」
所長はふむと髭をなでつける。
「君たちもこの研究所に来てもう五年だ。そろそろお待ちかねのアレがくるよ」
「「アレ?」」
同時に首を傾げた二人をみて所長がにこりとする。アレとはなんだろう。良いものか悪いものか。
「後輩さ」
パァッと顔を輝かせた二人をみてガノは笑い声を上げた。好きなおやつを見つけた時の娘と反応が全く一緒だった。
「俺らについに後輩が!?」
「先輩風を吹かせるときがやっときたわ!」
「嬉しすぎていじめちゃいそうだ!」
「男の子ですか?女の子ですか?」
二人は手を取り合ってくるくると周り、キラキラと所長を見上げる。
「十六歳の男の子だよ。次の入所式ではいってくるからね」
所長のその一言にまた二人は盛り上がる。入所式はまだ先のことだが二人はなんてことなかった。
「十六だってさ!俺らが入所した歳より若いぜ!天才かよ!」
「むかつくわね!調子に乗らないように初手が大事だわ」
「やっぱり最初に心はへし折るべきだよな。現実の厳しさを教えてやんないと」
「二人ともこっちに戻ってこい」
パンパンとガノが手を叩き、二人は席につく。興奮冷めやらず、ソワソワとしている。
「そんなわけだから、二人には定例会にも慣れてもらって、後輩に教えられることを増やさないとね」
「「はいっ」」
「それじゃあ会議まであまり時間もないし、シャワー浴びて身支度しておいで」
「「はいっ」」
どちらが先に入るかぎゃいぎゃいと言い争いながら、シャワー室へ向かう二人をみて、所長は笑みを浮かべる。
「楽で良いねぇ」
「所長の扱いが上手いからですよ」
順番は決まらず、もうどうでも良いだろうとシャワーは二人で入ることになった。いつものことである。
シャワーを浴び、身支度を整えた二人は王宮の廊下を早歩きで進んでいた。ユランはエスメラルダを盾にするように後ろをコソコソ歩いている。
「エメ、歩くの速い」
「みんな揃ってる状態の部屋に入るのイヤなの。早めに行ってゆっくりしておく方が良いでしょ」
「エメの髪、良い匂いする」
「あなたと一緒よ」
やっぱり髪が長いと香りが強く残るんだろうな〜とユランはエスメラルダのさらさらのプラチナブロンドを手に取り、顔に近づける。これが二人の距離感で、周りを気にしない二人にとって日常だった。
「二人とも、あんまり引っ付いてるとまた小言を言われるぞ」
後ろから声をかけられ、エスメラルダは振り返る。第二騎士団長のロイドがそこにはいた。遠征が多い第二騎士団らしい年季の入った騎士服を大柄にまとっている。熟練の騎士たる風格があった。がさつで豪快な性格が玉にキズだが。
「ロイド団長、お久しぶりです。遠征が長引いたそうですね。お疲れさまでした」
エスメラルダはニコニコと話しかける。ユランは挨拶もせず、エメの髪をいじっている。ユランのそんな態度を気にせず、ロイドはエスメラルダの隣を上機嫌に歩く。
「いやあ、今回は任務は簡単だったが、天候が不安定でなかなか帰れなかったんだ」
「バルテミア地方でしたっけ?」
「そう。あの辺境伯からの依頼でちょっとな」
厳しい天候と土地であるバルテミア地方を治める辺境伯について、社交界ではちょくちょく噂になるのでエスメラルダは知っていた。二年前に先代が亡くなってから、その時十八歳の麗しい息子が後を継いだとか。領地経営に精を出しているらしく、社交界では見ない幻のような存在になっている。
「遠征で珍しいもの見つけたんだ。会議が終わったら、俺の部屋においで」
ロイド団長の赤茶色の瞳がゆるりと細められる。エスメラルダはその瞳を見上げて色々溜まっているんだなと思った。
ロイド団長にはもちろん妻子がいる。でも、エスメラルダとはたまにそういう行為をするような関係だった。始まりは些細なきっかけで、一夫多妻が認められている王都では複数人と関係を持つことは普通のことである。現国王でも第三夫人までおり、後継問題がある貴族社会では当たり前のことだった。それは愛人との不貞さえ見逃されるほどに。夫人同士の序列がハッキリしており、愛人はその下の扱いなので問題にならないのだ。
末妹だが侯爵令嬢として貴族社会で生きてきたエスメラルダにとって、関係を持つことは些細なことであり、研究者らしく好奇心が強いため、そういったことにも貪欲であり淡白だった。立場上誰とでもだなんてできないけれど。
いいですよと返事をしようと口を開けると、肩にユランの腕が重くのしかかった。
「おい、おっさん。エメは会議の後、俺と薬の試験やるから貸せません」
ユランは後ろからエスメラルダを捕らえてロイドから少し離す。おもちゃを盗られないようにする子供のようだった。
「ユランはいっつもこんな可愛いエスメラルダと一緒にいるから良いだろ」
「そりゃ同僚ですからねぇ。仕事終わってから夜にしろ、夜に」
「夜は予定があるんだ。じゃあ残念だけどまた今度に」
わかりやすく項垂れるロイド団長にエスメラルダは思わず笑ってしまう。
そうしているうちに会議室に到着し、決められた席に着く。お隣は王室第二研究所の所長であるクロードがもう座っていた。エスメラルダはこの権威主義の冷たい眼鏡の男が苦手である。そんなことはおくびにも出さず、礼儀として挨拶はいつもしていた。
「ごきげんよう、クロード所長。お隣失礼します」
「貴様らか。アルガスはどうした」
「今日、気分じゃないんですって」
「相変わらずふざけてるな。半人前の若造に出席させるなんて」
「半人前だから二人いるじゃないですか〜〜」
意地悪な言葉も相変わらずで、エスメラルダはいつも通りに明るく返事をする。
「あ、クロード所長がこっちに回してきた新薬の開発、ぼちぼち試薬ができますからね。ユランがかなり頑張りました」
隣でもうテーブルに伏せているユランのくせ毛をぐしぐしと撫でる。
「早いな。さすが暇人どもめ」
「ちゃんと褒めてくれません?本来、第三研究所は特殊生物担当ですからね!アルガス所長の人脈とガノさんが博識な超人だから、手広くやれてるだけです!」
「開発分の予算はしっかりやっただろうが」
「それは当たり前です〜。私達の予算が少ないの知ってるくせに!その分商売して利益出すのが許可されてるけど、大変なんですから」
エスメラルダはここぞとばかりに愚痴を言う。嫌なこと言ってくるのだから、こちらも愚痴くらい聞いてもらわないと。クロードはもう話をする気はないとそっぽを向いた。幼稚な男め、とエスメラルダは心の中で悪態をつく。
「ユラン、会議の資料読んだ?」
「もう覚えた」
「そう」
エスメラルダは会議資料に目を落とし、内容を完璧に頭に叩き込んで会議に挑んだ。