16.王太子殿下
避けるべきだと分かっていたが咄嗟に体が動かない。ドレスが汚れてしまうのもお化粧が落ちてしまうのも嫌だ。せっかくオリス様と一緒に夜会に出られたのに――。
急に目の前に大きな背中が現れて視界が閉ざされる。パッシャっという小さな音が聞こえた。彼が私を庇ってくれた。背中はすぐにくるりと向きを変え私の顔を焦った顔で覗き込む。
「オリス様! ワインが――」
オリス様の胸元にワインがかかってしまっている。黒のジャケットについたワインはそれほど目立たないが、中に着ている白いシャツにははっきりと赤ワインの色がついてしまっている。シミになってしまう。とにかく着替えをと言おうとしたがオリス様の声に遮られる。
「そんなことはどうでもいい。エルシャは大丈夫なのか? 怪我は? 側にいなくてすまない」
私は首をフルフルと振った。オリス様は悪くない。私がもっとうまく立ち回れれば良かったのだ。
「私は大丈夫です」
「まあ、オリス様! 私を助けに来て下さったのですね!!」
二人の会話にマイヤー子爵令嬢が割り込んでくる。オリス様にワインをかけておきながらおかしなことを言い出す。オリス様は私を背に庇うようにマイヤー子爵令嬢に対峙した。
「マイヤー子爵令嬢、私の婚約者に無礼な真似をしないで頂きたい。それと私の名前を気安く呼ぶのもやめて下さい。迷惑です」
オリス様はきっぱりと突き放す。
「そ、そんな。オリス様はその女に騙されているのです。その女はうちの商会が宰相補佐室に出入りできないようにしたのです。きっと汚い手を使ったんです。オリス様、助けて下さい」
「あなたは何か勘違いをしている。マイヤー商会の出入りを止めたのは私です。注文した品を何度も間違えて届けるなど信用問題だ。一度くらいなら仕方がないと大目に見ることが出来ますが、何度もでは許容することは出来ません。このことは私が進言しましたが補佐室全員の総意であり宰相様も承知していることです。商会に問題がなければこのような処置はしませんでした」
オリス様は冷ややかに言い放った。私がオリス様からの贈り物が変だと打ち明けたので手を回して下さったのだろう。商会が変更になったと聞いてそう思ったが、衆人環視のこの場でそのことを言ってしまえばマイヤー商会の評判はガタ落ちになる。それを避けることが出来ればと思っていたが、オリス様は腹に据えかねたようで言ってしまった。
「オリス様がどうして? もしかしてあの女への贈り物のことなら間違えではありませんわ。オリス様が選んだものではあの女に勿体ないと思って、私があの女に相応しいものを選んで届けたのです。だから間違いなどではありませんわ」
「…………」
「…………」
マイヤー子爵令嬢は胸を張ってとんでもないことを言い出した。どうやら彼女はオリス様が私のプレゼントを選んだことが許せず、違うものをわざと送っていたのだ。唖然として返す言葉も見つからない。商人が私情を挟んだ行動を取れば信用を失う。成り立たなくなってしまう。オリス様も呆れて二の句が継げないようだ。
「マイヤー子爵令嬢。いい加減に私の婚約者をあの女呼ばわりしないでくれ。不愉快だ。爵位を考えてもあなたの態度はエルシャに対して失礼だ。それと注文品について勝手に変更したことはマイヤー子爵も知っているのか?」
オリス様の口調が厳しくなっていく。手を見れば固く拳を握っていた。女性相手だから感情を抑えているようだ。
「ええ。もちろんお父様は協力してくれたわ。オリス様が選んだ品々は私のところにあります!」
満面の笑みを見せる姿に罪悪感はないのだろう。自分は正しいと信じている。マイヤー子爵令嬢は年齢より幼いのかもしれない。大事に育てられたのが窺える。品物を変えたことを堂々と言い切ってしまったが、これでは今後商会の運営に差し障るだろう。
「オリス。何事だ?」
後ろからの声に振り向けば、こちらに向かってくるのは王太子殿下だった。慌てて周りを見渡せば、かなりの騒ぎになっていたようで皆がこちらに注目している。私たちは慌てて王太子殿下に礼をする。
「これは殿下。お騒がせしてしまい申し訳ございません」
金髪に琥珀色の瞳を持つ我が国の王太子殿下、マティアス様だ。マティアス様は二十三歳になられたがまだ婚約者はいらっしゃらない。麗しい顔立ちに優雅な雰囲気を纏う、堂々とした姿が凛々しい方だ。マティアス様はオリス様に視線を向けると怪訝そうに眉を寄せた。
「オリス。ワインが?」
「ええ、手を滑らせてしまいまして」
さすがにマイヤー子爵令嬢も俯いて震えている。王太子殿下までが来てしまうような大きな騒ぎになったことに動揺しているのだろう。それもきっと自分の思惑と違う方向の騒ぎになってしまったのだから。オリス様は穏便に収めるようだ。やはり優しい人だ。
「せっかくの陛下の生誕祭だ。水を差すような真似はしてくれるな。オリス。着替えくらい補佐室にあるだろう? 着替えてこい」
マティアス様はオリス様が手を滑らしたわけではないことに気付いているが、事を終わらせるために合わせてくれた。着替えを促されたオリス様は心配げな視線を私に向ける。再び一人にしてしまうことを心配して下さっているのだ。私は大丈夫だと安心させるために笑みを浮かべ頷いた。
「エルシャ。すぐに戻ります。待っていてください」
「はい」
私はこんな騒ぎになってしまったのに、不謹慎にも頬が緩んでしまっている。どうやらオリス様は無自覚に私を呼ぶとき呼び捨てになっていたのだ。なんだか二人の距離が近づいたような気がして嬉しくなってしまった。
オリス様は近くにいる従者に何かを告げ、マイヤー子爵令嬢を預ける。父親のマイヤー子爵に渡すのだろう。マイヤー子爵令嬢は悔しそうに唇を噛んでいるが抵抗は諦めたようだ。さすがに王族の前で騒がないだけの分別はあったようだ。
すぐに立ち去ると思った王太子殿下は私をじっと見る。
「久しぶりだな。ボンノ伯爵令嬢」
私は礼を取って挨拶を返す。
「お久しぶりでございます。王太子殿下」
マティアス様は私の返事に不愉快そうに片眉を上げた。そんな顔をされる筋合いはないのだが。すると私に向かって手をそっと差し出す。私はそれを目を丸くして見つめた。
「場が白けている。一曲付き合ってくれ」
「はい。私でよければ」
仮にも王太子殿下のお誘いなのだ。本当は壁の花となってオリス様を待っていたかったが断るわけにもいかない。私はマティアス様の手に自分の手を預け一緒にダンスホールの中央へと向かう。そしてマティアス様が視線で楽隊に合図を送り、流れてきた音楽に合わせて踊り出した。私たちが踊り出すと他の貴族たちもダンスホールに入り踊り始める。オリス様がいつ戻ってくるかと気もそぞろだった。申し訳ないが王太子殿下だからといって緊張はしていない。
「エルシャ。オリスとは上手くいっているのか?」
「はい。お気遣いありがとうございます。王太子殿下」
「チッ」
女性に舌打ちをするなんてと私が顔を上げるとマティアス様は拗ねた顔をしていた。
「今くらい名前で呼んでくれ。昔みたいに」
昔と言っても彼を名前で呼んだ期間は短い。催促するような視線に心で溜息を吐き躊躇いながら呼んだ。
「……マティアス様」
「違う……」
「マティ?」
マティアス様はよくできましたと満足そうに頷く。彼と話すのは久しぶりだが不思議とあまり距離感はなかった。
「それでエルシャ。本当にオリスでいいのか? ラモンが無理やり結んだ婚約なんだろう? 今ならまだ撤回できる。もし……望むなら私はお前に女性として至宝の地位を与えてやれるがどうする」
女性としての至宝の地位というのはマティアス様の婚約者ということだろうか。失礼ながら絶対に嫌だ、面倒極まりない。それでもきっと彼なりに私の二度の婚約解消を案じてくれての言葉だろう。気遣いの方向性が間違っている気はするが。それにしても何故オリス様とのことを疑うのか分からないが、心配して下さっているようなので正直に答える。
「この婚約は無理矢理ではありませんでしたし、私はオリス様をお慕いしています。彼がいいのです」
マティアス様は不機嫌な声になる。
「あいつは朴念仁で気の利いたことも出来ないだろう?」
「私はマティの言う至宝の地位に興味はありません。それにオリス様は私に意地悪をしたりしませんから」
「っ、まだ……あのことを根に持っているのか?」
私はツンと顔の向きを変え返事をしなかった。マティアス様は眉を下げ口をへの字にした。その顔がおかしくて私も昔のような口調で彼に話しかけた。
「そうよ! マティが私の大切なことりさんを虐めたことは忘れていないの。その罪はとっても重いのよ」
私はマティアス様の顔を見ながらおどけてそう言った。




